川とともにくつろぐ

闘う必要なんかない

泳ぐことすらも必要じゃない

流れといっしょに漂うのだ

川はそれ自身でひとりでに流れている

あらゆるものが必ず究極の大洋に至る

あなたはただどんな妨害もしないことだ

川といっしょに行くというそのこと

川とともに漂うこと

川とともにくつろぐこと

by osho

 

深く瞑想をして、身も心も微動だにしない状態でいるとき、完全に流れと一致したという感覚がやってくることがあります。

流れと調和しているという感覚。ということは、マインドという精神活動はそれが何であれ、流れから離れてジタバタしているということです。

マインドは自動的に独自の物語を生み出して、流れの中でもがき苦しむのです。そもそも流れを感じ取ることができなくなってしまうとも言えますね。

流れと完全に一つになるとき、流れそのものも消えてしまい、ただそこに浮かんでいるだけになることで、川とともにくつろぐことになるわけです。

言うは易しですね。身体を動かすだけで、マインドもそれにつられて動いてしまうくらいですから。1日1回でもいいので、ただじっとして流れを感じてみるのはいいことです。

その瞬間、人生は消えて、社会も消えて、社会の中で頑張っている自分も一緒に消えていくとき、真実を垣間見ることができるのですね。

自己改善プログラムの放棄

改善?!

何を改善したところで

あなたはいつまでも不安と不幸から逃れられまい

なぜならば

改善しようというまさにその努力自体

あなたをあらぬ道に導いているのだから

それが<未来>に意味を持たせ

<理想>に意味を持たせる

そうして、あなたの心は欲望と化す

欲望して、あなたは道を誤る

by osho

 

人は誰でも大なり小なり、自己改善プログラムを抱えています。一般的には、人格を磨いてより優れた人物になるというのがあります。

ちょっとしたことで怒ってしまう狭量な自分を嘆いて、もっと穏やかで人から好感を持ってもらうような人間になろうとしたりするのです。

嫉妬心の多い自分、すぐにひねくれたり、誰かを嫌ったり憎んだり。何だか愛のない自分を何とかしようとします。

社会に出れば、もっと素晴らしい成果を出して、人並み以上に活躍したいと願うのです。一つ金メダルを取れたら、4年後もと狙うのです。

私たちは、こうしたものを向上心と呼んで、それがないようでは立派な人物には決してなれないと教え込まれるのです。

こうした自己改善プログラムは、終わることがありません。無駄な努力をやめて、もうそろそろ自分は自分のままでOKだと分かってあげることですね。

それこそが、真理への鍵だとoshoは伝えてくれているのです。

マインドは「今とここ」が苦手

私はあなた方に言っておこう

行くところなんかどこにもない、とね

ここがすべてだ

全存在はこの瞬間において絶頂に達しているのだ

それはこの瞬間の一点に集中しているのだ

全存在はすでに

この瞬間の中に流れ込みつつあるのだ

在るところのすべてはこの瞬間に流れ込んでいるのだ

いまとここ

by osho

 

私たちは、つい 「いずれ…」とか、「いつかは…」、「そのうち…」、「いまに…」のように未来への期待を込めて言ってしまいます。

あるいは、過去を顧みて、「あの頃は…」、「かつては…」、「当時は…」のように、過去を懐かしんだりしますね。

こうした日常的な態度は、残念ながら↑の「この瞬間に絶頂に達している」ということが分からないということを物語っています。

あの頃はよかったけれど今は◯◯、もしくは今は◯◯だけどいずれは…のように、どうも今への不満を過去と未来を使ってやりくりしようとするのです。

今この瞬間とは、時間ではなく、したがって物語もそこにはありません。だからそれは想定している満足、不満足の範疇ではないということ。

私自身も、このことをどこかで分かっているようにも感じるのですが、マインドは「今」と「ここ」がどうも苦手のようです。

くつろぎの中へ…

くつろぎとは何だろうか?

それはあなたのエネルギーが

未来へも過去へもどこへも動かないひとつの<境地>のことだ

エネルギーはただあなたとともにある

自分自身のエネルギーの静寂の淵の中に

その暖かみの中にあなたは包まれる

その瞬間こそすべて

ほかにはどんな瞬間もない

時が止まる

by osho

 

時間というのは思考の中で作り上げられたもの、つまり幻想です。逆に言えば、今この瞬間に在るときには考えることができないということです。

人生という物語も、実在するものではなく、思考が作り出した幻想です。実在は非常にシンプルで、ただ在るもの。どんな理由も目的もなしに。

これさえ腑に落ちたなら、時間の中で思う存分遊ぶのも良し、そして思考から離れてつまりくつろぎの中に入るのも良し。

どっちでもいいってことですね。緊張したければ、思考(物語)が適切だし、くつろぎたければ思考から離れればいい。

思考から離れれば、「時が止まるんだ」と思考してはいけないですよ 笑。

体験があるだけで体験者はいない

私は以前、数時間程度の短い時間でしたが、完全にこれまでこれが自分だと思っていた自分が不在になったことがありました。

戻ってきたときに、私(というエゴ)は、自分はすごい体験をした!と思ったのです。でもしばらくして、不在であった自分が体験しているわけはないと気づいたのです。

つまり、体験は記憶として残っているのですが、それをエゴは私が体験したというようにすり替えてしまうということに気づいたのです。

そしてそうしたすり替えは、生きている限り日常的に続けているのですね。目を覚ました私、食事している私、歩いている私、怒っている私、旅行に行った私等々。

そうやってエゴは肥大してきたというわけです。けれども、冷静に見つめてみれば分かることですが、私が体験したというのは事実ではなく、思考だということです。

思考によって思い込むことはできるのですが、いないものが体験者となるということは不可能なことですね。エゴにとってはとても受け入れがたいことですが…。

ブッダが2500年も前に言っていたとされる、「行為はあるが行為者はいない」というのは、まさにこのことだったのですね。

私からあらゆる体験を引き算したとき、後に残るのは一体何でしょうか?それが私たちの本性ということだと思うのです。

あらゆる興味が失せたとき

若い頃から自分は他の人と違うと感じていたことがあるのですが、それは何に対してもそれほど興味を持つことが出来ないということでした。

それは何となくですが、生きづらさだったり人生への絶望感だったり、そういう悩みに繋がっていたように思います。

大人になると、そういう自分のままではいけないと思い、わざわざ時間とお金と労力を使って、いろいろ試してみたりしたのです。

それこそ陸海空、軍隊みたいですが、陸はモータースポーツ、海はスキューバーダイビング、空はパラグライダー等々。

勿論やっているときには、ものすごく刺激的で我を忘れて楽しむことができたのですが、それでもずっとはやらないだろうと察知してしまうのです。

手軽にできないということも手伝って、あっという間に興味が失せていくのです。それで、ああまただと思って終わるわけです。

唯一長く続いたのが水泳だけかもしれません。きっと手軽だし、泳いでいることがまるで瞑想しているような感覚があったから。

それと今の仕事。一日のうちの大半を彩ってくれる仕事が趣味の代わりになってくれたと思って、それはとてもありがたかったのです。

そして最後にやってきたのが覚醒への思いです。人生でこれ以上に強く惹かれたことはありませんでした。これまでの人生のすべてがひっくり返るという魅力。

その結果今分かったことは、この最後の興味すら消えていかなければ、真実は見えては来ないということです。

人生物語のすべてに興味を完全に失ったとき、きっと光が射して来てくれるのでしょうね。

本が出版されました

ようやく本が出版されました!といっても、書店では入手できませんのでご注意下さい。
Amazon からの注文のみとなっていますので、ご興味のある方は以下よりアクセスして下さいね。

https://www.amazon.co.jp/gp/product/4866281421/ref=as_li_qf_sp_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=sccrglx-22&camp=247&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4866281421&linkId=538911973e385e47150fa740871261d6

「なか見!検索↓」というのをやると、始めの20ページくらいが読めるようですね。
と思ったのですが、ケータイの画面からはできないみたいです。pc のみのようです。

瞑想に一切の期待をしない

少しずつですが、瞑想というキーワードを発しても、それほど違和感を感じないでいられる人が増えてきているように思います。

瞑想が身体や精神にとてもいい効果があるということが広く理解される時代になってきたということでしょうね。

ちょっと瞑想しただけで、身体の血の巡りが良くなるため、毛細血管が活性化するのです。そのために、瞑想後は指先などがピリピリするかもしれません。

要するに、温泉にのんびり浸かったようなものですね。身体がポカポカして、緩んでくるのが分かります。と同時に、呼吸も静かになっていくはずです。

一生のうちにする呼吸の回数は決まっているというまことしやかな話しもあって、呼吸が少なくなるとそれだけ長生きするというわけです。

本当かどうかは知りませんが、瞑想によって身体の免疫力が上がって、健康増進につながるというのは私自身も感じます。

ところで、そうした瞑想の効果を知りつつも、いずれはどんな期待もせずに瞑想するようになるのが理想なのです。

だから瞑想を誰かに教える側の人、瞑想伝授?などの役目を負っている人は、瞑想にいっさいの期待をしないという態度こそが最も望ましいということを、伝える必要がありますね。

期待がなくなれば至福がくる

人は決して満たされることがありません。一過性の喜びや、一時的な満足感ならいくらでも味わうことができますが…。

外側にある何かによって、真に満たされるということはないのです。それが、快適な暮らしであったり、欲しいと思っていた何かであったり、恋人や家族であっても同じなのです。

物質的なものであろうと、非物質的なものであろうと、どんなものでもそれを手にすることで永遠の満足を得ることは不可能なこと。

だから、お金持ちはそうでない人よりも絶望が近いし、恋人がいる人はいない人よりも絶望しやすいのです。けれども、どれほどこんな情報を耳にしたところで、実際に体験してみないことには納得できない。

お金が10億円転がり込んできたら、きっと幸福になれるに違いないし、もしなれないとしても一度でも経験しなければ本当のことは分からないと思っているのです。

確かに体験は重要なのですが、一度きりの人生で一体どれほどのことを体験できるでしょうか?仮に生まれ変わったところで、すべてを忘れてしまえばまた同じことの繰り返しです。

小さな体験であっても、それを十全に味わうことができれば、きっとそれをベースにして類推できるはずなのです。

これまでの人生の中で、一つや二つ願いが叶った経験をしてきているはずですが、それで満足したかどうかを思い出してみることです。

気づきたくないのかもしれませんが、何を手に入れても満たされないということは、もう自明ではないでしょうか?

このことに早く気づいた人は幸運です。人生に対する期待が小さくなればなるほど、至福がやってくることが増えるからです。

自分自身への執着

初めに、自分自身を批判するのを止めることだ。

批判する代わりに、あなたの不完全さ、あらゆる弱さ、

あらゆる誤り、あらゆる失敗を持つあなた自身を受け入れることから始めてごらん。

完全であることを自分自身に求めてはいけない。

それは不可能な何かを求めているだけだ。

所詮あなたは人間なのだ。

by osho

 

これ、生きる上での、そしてもちろん癒しにとっての基本中の基本でありがなら、なかなかやめることができないのが実情なのです。

セッションの中でクライアントさんに、どんな自分を駄目だと思うのかをお聞きすると、卑怯な考え方をする自分が許せないと言います。

そんなとき、人間はみんな卑怯者の一面を持っているものですとお伝えしても、それは伝わることはないようですね。

人を憎んでしまう自分も駄目だと思うし、元々生まれてくることを望まれてなかったのに生まれてきてしまったのだから、そんな自分は嫌いという場合もあります。

そうやってあらゆる理由を見つけては、自分自身を批判し、裁き、否定し続けてしまうのです。私に言わせれば、よく何十年も一人の人間を否定し続けられるなと。

飽きてしまってもよさそうなものなのに…。決して飽きることがないのは、きっと幼い自分がやっているからなのでしょうね。子供はなかなか飽きないものです。

そして今度は、どうしても自分を裁いてしまうことをやめられない自分を罰するのです。こうなるともう無限ループです。

自分への興味が半端ないということですね。自分自身への執着が大きいのです。執着がなくなったら、否定も肯定もなくなり、どうでもいいことになるはずです。