アンコウのオスは凄すぎる

みなさんは、アンコウという魚をご存知ですよね?チョウチンアンコウとか、種類はいろいろあるようですが、あのグロテスク?な姿をした魚です。

深海魚だかららしいですが、オスがメスを探すのがとても大変なので、一度メスを見つけたらこの機会を逃してはならないとばかりに、オスはメスの身体に食いつくそうです。

そしてもう一生離してはならないと思うからなのか、歯とは別のロック機構が働いて、完全にメスの身体に固定されるらしいです。

そうすると、次第にオスの目は退化してゆき、そのうち完全に失明してしまうそうです。さらに、オスの内臓も退化してしまい、残るのは精巣だけとなるのです。

その頃には、血管が新たに作られてメスの身体とオスの身体は、血管レベルで密に結合されて、最後はメスの身体の一部になってしまうようです。

自分が消えてかけがえのない異性の身体の一部になってしまうなんて…、考えただけでも気持ち悪いのか、素敵と思うのかは人によりけりでしょう。

ただ残念なのは、一匹のオスがメスに食いついている間にも、別のオスがメスの違う部分に食いつくこともあるようで、場合によっては何匹ものオスが一匹のメスの身体と繋がることもあるようで…。

いずれにしても、人間の男性がアンコウのオスのような生理を持っているとしたら、この世界から殺し合いは根絶されてしまうでしょうね。

「あるがまま」が一番難しい

醒めていなさい!

そして聴きなさい!

まさにあるがままのあなたで…

まさにあるがままのあなたで、と私はくり返す…

あなたはブッダなのだ。

あなたにつけ加えなければならないものなど何もない。

あなたから取り去らなければならないものなど何もない。

by osho

 

もう何度となく耳にした言葉、あるがままのあなたでいなさい…と。理性では分かり過ぎるくらいに分かっているはずなのに、これが一番難しい。

あるがままって、一体なんだろうか?飾らない自分でいること?日頃着けている仮面を外して素の顔を晒すことだろうか?

1つ確実に言えることは、あるがままでいようと思うことでは決してないということ。osho も言っているように、醒めていること。

意識的であることによって、いずれはあるがままの自分がやってくることになるのでしょう。

意識はどちらでもない

私たちは、二つの言葉としての愛と憎しみを落とすべきだ。

私たちは「愛憎」というひとつの言葉を創るべきだ。

私たちは、二つの言葉としての昼と夜を落とすべきだ。

私たちは「昼夜」、「生死」というひとつの言葉を創るべきだ。

そのほうがより真実で、より現実に近い。私たちの分割は偽りだ。

by osho

 

通常私たちは、愛と憎しみを互いに対局にある全く別のものだと見なしているのですが、それはコインの表と裏の関係だということです。

善と悪のように、対比してみてしまうのですが、それらはペアなのです。つまり、片方だけで単独に存在することはできないということ。

エゴはそのことを知らないのです。他人から褒めて欲しいと願っている人は、褒められたらその裏側にけなされるがもれなく付いて来ることに気づかないのです。

だから幸福を求めている人は、幸福が手に入った瞬間に、不幸も手に入れているということに気づくことができないのです。

いつも表裏一体だということに気づいていられるなら、歓喜したり絶望することから解放されるのです。誰かを信じるとき、同時に信じないも合わせ持っているのです。

だから信じることからも信じないことからも遠ざかっていて欲しいのです。善でも悪でもなく、正でも不正でもなく、幸不幸でもない、ちょうどその中間にあるものが意識なのですね。

いつも変わらず在るもの

この仕事を始めたころ、人間の意識というものがどこからやってくるのかということにとても興味がありました。

いや、思い返せばもっとずっと前から気になっていたことだとわかります。ただ、この仕事を始めてから、よりそこを探究したくなったと言った方がいいのです。

あの頃、ペンローズという科学者が書いた本を読んだことがあって、何か脳の中の量子力学的なある事象によって、意識がうまれるのではないかという仮説が書いてありました。

もうとっくに詳しいことは忘れてしまいましたが、あの頃の自分にとってはとても興味深い内容だったように記憶しています。

それが今となっては、真逆であったことを知ったのです。つまり、人間の脳の機能が意識を作り出しているのではなく、まずは意識だけがあるということ。

意識こそがすべてであって、そこからこの現象界が起きて来るのです。その現象の中の1つとして、脳があるということ。

脳は、現象の1つとしての様々なエネルギーを受け取る受信機のようなものと考えられます。この世界も人間もすべては意識という土台の上に顕れているもの。

初めのうちは、こうしたことを理性で捉えていたのかもしれませんが、少しずつですが自分の感覚として腑に落ちる方はこちらだと気づいたのです。

さらに思考が止まる体験をしたとき、個人としての自己はいなくても真の自己は全く揺るがずただ在ることを知ったのです。

それこそが意識ということです。何十年生きても、どんなときであろうと少しも変わらずにずっとあり続けているもの、それが意識であり、それこそが本当の自分だったわけです。

だからたまに鏡を見て、自分の肉体の変化に驚いたとしても内面の一番奥にある意識に意識を向けさえすれば、時間を超えて実在する唯一のものを感じることができるのです。

満ち足りたら存在できない

マインドは満ち足りると存在できない。

それは飢えていなければ存在できない。

マインドは飢餓状態でなければ存在できない。

あなたが、すっかり満たされ、

渇望も飢えもなく満足していたら、

マインドは朝日のなかの露のように消える…

あなたは二度とマインドを見出すことがない。

by osho

 

私たちは、このパラドックスをよくよく理解することが肝要ですね。誰もが満ち足りたいと願っているくせに、満ち足りたらマインド(私)は消えるのですから。

こんな皮肉が他にあるでしょうか?セッションの中で、クライアントさんに対して、エゴはあなたが苦しんでいれば左うちわですよ、とお話ししたり。

エゴは罪悪感を利用して、あなたが自由になることを阻止しようとするのです。あの手この手で癒しを妨害しているのは、あなたの中のエゴなのです。

こういったお話しをするとき、ではなぜエゴ(マインド)はそんなことをするのですか?と大きな疑問が湧いてくるのも当然ですね。

けれども、説明はいたって簡単。”満ち足りたらマインド(あなた)は消える”からです。誰もが消えたくない、死にたくないと思っているので、闘って苦悩することを選択してしまうのです。

誰かを恨んで呪っていれば、マインドは安泰。理不尽さの中でもがき苦しんでいれば、マインドは安全なのです。人類から戦争がなくならない唯一の理由はこれなのです。

私たちが常に安心を求めてしまうのも、このカラクリが分かれば腑に落ちるはず。安心を求める限りは不安が付きまとい、マインドは活力を失うことがないのですから。

情報を切り取らないこと

会社を辞めてからすぐに、新聞を取ることをやめてしまったので、もうかれこれ20年近く新聞を読まない生活を送っています。

その代わりに、テレビあるいは主にネットからニュース情報を得るようになったのです。それで分かったことは、新聞の情報が正しいという信じ込みが自分の中にあったということ。

ネット上の情報は新聞やテレビ以上に様々な意見が書き込まれていて、より公平に情報を得ることができると感じたのです。もちろん、一切の信じ込みをなくして。

そしていつも思うのですが、情報というのはいずれにしても切り取られている、伝える側のマインド色で彩られてしまうということ。

これは人間が伝えるのですから、当たり前のことなのですね。ただし、それ以上に情報操作的な面も感じざるを得ないことがあるのです。

誰かの発した言葉を切り取って持ち帰るのか、それともその言葉の裏にある何を伝えようとしているのかという真意を持ち帰るのか。

防衛が強ければ、前者になってしまう傾向が強くなるのは避けられません。物事は流れの中で動いている生き物です。

だから決して切り取らないこと。切り取ったら、その情報はその瞬間に死んでしまうからです。私のホームページで、セッションの録音をお勧めしているのはそのためです。

あとで何度も聞いて、セッション中に受け取り損なったことを再度確認して、より理解を深めることができるからです。

人間の記憶は曖昧なものです。感情的になれば、記憶の改竄も当たり前に起きることです。これは催眠のセッションで毎日目の当たりにしています。

それが悪いことではなくて、そのように感じている内面を見つめることによって、静かな気づきがやってくるようになるのです。

自然なものに関心を向ける

思考のメカニズムは頭のなかにあり、

覚醒のメカニズムはハートにある。

ハートはいつも目覚めている。

あなたがハートから何かをするとき、

いつもそこに美しさが、超越的な美しさ、

優美さがあるのはそのためだ。

それには聖なるものの何かがある。

その仕草のなかに神が顕れている。

by osho

 

物事の善悪、正不正、このようなものは思考のものです。思考だけが、論理的にそうしたものを判断によって生み出すのです。

一方、自然はハートのものです。ハートは物事が自然か不自然かを自動的に感じ取ることができるのです。そこに思考はいりません。

だから私はいつも、物事の何に関心を寄せるかが大切だと思うのです。抑圧や、複雑さなどの不自然さは思考からやってきます。

それがハートを閉ざしてしまうのです。一般的な癒しというのは、思考から始めてハートに風穴をあけるようにすることです。

そしてその先は、内側へと向かって積極的にハートを開くようにしていくのです。それが瞑想ということですね。

物語を物語と見抜くこと

あなたの思考すべてが、あなたとあなたの生を創りだしていることがわかる。

それらがあなたの地獄を創りだし、あなたの天国を創りだす。

それらがあなたの惨めさを創りだし、あなたの喜びを創りだす。

いずれも幻想だ–苦痛と快楽、甘美な夢と悪夢、いずれも幻想だ。

by osho

 

↑これを一言で言えば、いつもここでお伝えしている「人生は物語」ということになるのですね。私たちは、あるがままの現実の世界に生きていると思い込んでいます。

けれども、それは一人ひとりのマインド(思考)が作り出した物語だということです。天国だろうが地獄だろうが、すべてはマインドが生みの親なのです。

人生の土台としてこの世界があると信じているのですが、私たちが見ている世界そのものが物語の一部だということです。

究極を言ってしまえば、目の前に気に入らない奴がいるということは物語の中ではあり得ますが、真実ではないということです。

真実としては起きている「何か」があるということはないのです。「何か」とは思考の産物だからですね。これは思考で理解するというよりも静寂の中で意識的に分かるのです。

思考のエネルギーを幻想と呼ばなくてもいいのですが、その思考の中身である「目の前に嫌いな奴がいる」は幻想そのものなのです。

幻想や夢は決して悪くありません。ただそれを真実と見誤らずに、作り物だと見抜くことができれば、天国からも地獄からも抜けることができるのです。

知識と知ることを見分ける

ほんとうに真実を知りたいと思う人に求められる第一の誠実さは、

”自分自身で知っているもの”と”ただ受け売りで知っているもの”をはっきり見分けることだ。

そして借りものは何であれ投げ捨てるのだ!

それはすべてがらくただ。

他の誰かの体験に知識の上でよく通じるよりも自ら無知であるほうがよい。

by osho

 

クライアントさんとのセッションで、いつも基本に置いてもらいたいことは、誰の言葉もそのままに信じてはいけないということです。

信じることと信じないことは1つものです。どちらも全く自己検証していくという態度を放棄してしまうことになるのです。

それはまったくもって楽な道ではあるのですが、それではどんな気づきもやってきてはくれなくなってしまうはずです。

肯定も否定もせずに、じっくりと確かめていくということです。そして、実はもっと問題なことは、単に信じていることを知っていることと混同してしまうこと。

もともと知識とは信じている情報のことを指すのです。だから知識が豊富であるということは、真実から遠ざかってしまうことになりやすいのです。

真実への最短の道は、自分は何も知らないという事実に気づいていることです。瞑想中に、記憶へのアクセスをしなくなったときに、そのことを知ることになるはずです。

「癒しから覚醒へ」がまもなく出版されます

何をおいても大事なのは、自分自身になるということだ。
それが可能になるのは、まずセラピーによって社会から押し付
けられたゴミをすべて掃除すること、そして瞑想によって内側
におもむき、もはや経典に手引きを求めなくなることが必要だ。
経典はあなたの内側にある。

by osho

↑この osho の言葉をモチーフとした本を書きました。きっともうすぐに出版されると思います。ただ、購入はアマゾンからということになります。そのときには、またここでご紹介させていただきます。

セラピストの仕事をスタートさせて何年か経ったときに、セラピーの仕事に一種の絶望を感じたのです。それは、癒しても癒してもキリがないと分かってしまったからです。

逆に癒せば癒すほど、実存の不満、欠乏感に気づいてしまうというジレンマがあったのです。困った末に自己探求へと突き動かされた結果、自己の不在を垣間見ました。

そのときから、セラピーは内側へと入っていくための準備としての位置付けへと変化したのです。もちろんそのことをセッションの中でお伝えするとは限りません。

お伝えしてもいいと感じたクライアントさんには、自然とそうした内容になっていくようです。そういう意識に変わったときに、このブログのタイトルを「癒しから覚醒へ」に変えたのです。

なので、本の題名もそれにしました。不思議ですね、本を出版するなんてまったく思ってもみなかったことだったので。

ただただ思いつくままに、こうして毎日ブログを書いていただけなのに…。
気が向いたら、読んでみて下さいね。