真の感謝とは

感謝できない奴はダメだ!という言葉を聞いたことがあります。それはきっと私だけではないはずです。ここだけの話し、この言葉はとても苦手でした。

というのも、自分の心のどこをどう探しても、感謝のかの字も見つからなかったからです。小学生のころから、クラスの女の子が授業中に感謝について先生と討論しているのを聞いて、ピンときませんでした。

大人になっても、まったく感謝とは縁遠い毎日でしたので、本当に冒頭の言葉は自分を暗くさせる響きを持っていたのです。

サラリーマンを辞めて、今の仕事をするようになったときに初めて、セッションに来て下さるクライアントさんに感謝のような気持ちが芽生えたのが嬉しかったのを憶えています。

この仕事でやっていけなかったら、自分の未来はどうなってしまうのだろうと思っていた時でしたので、それはとてもありがたかったのですね。

けれども、私が本当に感謝の気持ちと一つになれたのは、それまでの感謝とはかなり違った体験だったのです。それは、何も理由のない感謝だったからです。

普通は、~してもらったから感謝というように、感謝には明らかな理由があるものですね。ところが、その時の体験は、どんな理由も何もない状態での感謝だったのです。ただただ感謝!

それは自分でも相当に驚いたのですが、でもこれが感謝という言葉以外に表現しようがないとその時にはっきり分かったのです。

その体験以来、同じような体験はなかなか来なくなってしまったのですが、それでも理由のある感謝に対する味方が大分変化してしまったのです。

真の感謝には、何の理由も必要ないということ。一度でも体験したことのある人なら、きっと分かるのだろうと思うのです。感謝は愛の一つの形態だということも。

個人という幻想

梅雨が明けて、日中は猛烈な暑さがやってきましたが、夜ともなるとやさしい夜風が肌に気持ちがいいですね。ただ子供の頃に、夜風は身体に悪いと教え込まれているので、どこかで気が引けるのです。

けれども、そんな気持ちを脇に置いて、夜にバルコニーで寝っ転がりながら、双眼鏡で星を見ていると、夜空には無限の星々があると気づきます。

星の数も無限だけれど、夜空の広さも無限、その無限に意識を向けていると、マインドが降参する感覚がやってくるのですが、それでも続けているとあることが起きます。

それは、どれほどの広大無辺であろうとも、自分の本質はそれを超えているという感覚。本当は超えているというよりも、その受け皿のような感覚です。

大きさに圧倒されるのも好きだけれど、こっちの感覚はもっとお気に入り。それはきっと、広さや大きさのない、どんな言葉でも決して表現され得ない、何かのことなのですね。

星々は自分の内側に在るというのは、ウソではありません!目を閉じて深く瞑想すれば、そのことにはっきりと気づくことができるのです。

自分という個人がどれほど矮小な存在であろうと、それにさえ気づいていればすべてがOKになるのです。どんな問題であれ、個人が創り出した幻想に過ぎないのですから。

「思考は現実を作る」ってホント?

「思考は現実を作る」ということをよく聞きますが、さてそれは本当なのでしょうか?私自身の経験から言えば、100%ではないにせよ、相当な影響力があるというのは確かなようです。

子供の頃、父親の姿を見ていて、お金を稼ぐというのはそれなりに大変なことなんだ!という思い込みを作ってしまったようなのです。

その結果、いざ社会人になってやってきたのは、残業地獄だったりとか、身体の具合が悪くても決して仕事を休めないなどの現実でした。

それが行くところまで行った暁に、最後は癌に侵されるというところまでになったのです。これは間違いなく、環境のせいだけではなくて、自分の思い込みがそういう現実を作ったのだと感じます。

限界まで行ったときに、ふと気が付いたのです。お金を稼ぐことは大変なことだなんて、一体誰が決めたんだ?そんなありもしないルールなど、きれいさっぱり捨ててしまおう!

その決意の結果、今は楽しみながら仕事をすることができるようになったのです。クライアントさんによっては、人生がそんなにうまく行くはずがないと、思い込んでいる人もいます。

そのような決めつけがマインドの中にあるなら、仮にうまく行き出したとしても、そんなはずはないとして確実に元に戻してしまうはずですね。

うまく行くはずがないという思考は、多くの人のマインドに棲みついているのを知っています。その理由は様々ですが、共通しているのは自己防衛のためなのです。

最悪のケースを想定して、悪化したときのショックをなくそうとする目的や、不成功防衛という問題行動によって、心のバランスをとろうとしたり。

無理やり思考を肯定的なものに変えようとするよりも、決めつけている思考をただ観ることによって、そこから距離をとることの方をお勧めします。

「~してあげたい」は欲望

人に何かをしてあげたい、という気持ちになったことがない人はきっといないはずです。助けてあげたい、安心させてあげたい、笑顔にしてあげたい等々。

人に対する優しい気持ち、温かい気持ちがそうさせるのかもしれませんね。けれども、それを純粋な愛と勘違いしてしまうと、いつかはこんなはずじゃなかったという事態になる可能性もあるのです。

そのような気持ちの原動力は、一口に言えば「欲」なのです。欲望が悪いということではないのですが、愛ではないということに気づいている必要はあるのです。

してあげている方の勘違いだけでなく、された方の勘違いも同時に起きてしまうと、それは愛ではなく欲望だったと気づいたときには、一方あるいは双方ともに傷つくことになるのです。

愛は具体的な何かをしたいとは思わないものです。愛は相手の存在に向かうものであって、それは助けようとかもっとよくしてあげようという欲とは無縁なのです。

愛のターゲットである存在は、助ける必要も改善する必要もないものだからです。愛はただ、その存在を受け容れることでしかありません。

勿論、溺れている人をそのままに見守るのが愛だということではありません。愛は思考を飛び越えて、反射的に何等かの行動を起こすことになるはずです。

「○○したい」という思いは、それがどんなことであれ欲望だという単純なことに気づけばいいのです。これって、分かるようでいて、なかなか分かりづらいものかもしれませんね。

憲法を見直す

昨日、悲惨な事件にまつわる個人的な気持ちを書いたついでに、今日は普段触れないような憲法のことについて少しだけ書いてみたいと思います。

長い間、日本の憲法を平和憲法として、世界に類を見ない素晴らしいものだと信じて生きてきました。けれども今では、それがあまりにも不勉強と子供じみた理想主義だったと分かるのです。

私はどんなイデオロギーも好みではありません。なぜなら、それこそがエゴの一番大好物だと分かっているからです。イデオロギーと率直な気持ちとは違うはずですね。

自分の大切な人が誘拐されそうになったり、誰かに傷つけられそうになったら、当然相手と闘ってでも守ろうとするはずですが、それは決して特定のイデオロギーなどではないですね。

それと同じように、日本人の誰かが北朝鮮という国から拉致されたと分かっていながら、それを取り戻しに行くことのできない憲法が、本当に平和憲法などと言っていられるのかということ。

そう言うと、国家と個人とは違うという声が聞こえてきそうです。そこにどんな違いがあるのでしょうか?自分の家族であろうと、知り合いの家族であろうと、見ず知らずの日本人の家族であろうと、救おうとする気持ちに違いはないはずです。

憲法を変えたら、徴兵制が復活するかもしれないなどと考える人がいるなら、あまりにも無知過ぎます。今は戦争の形態も大分変わってきているのです。

武器はハイテクになっていて、ずぶの素人が数年間の徴兵によって、操れるような代物ではなくなっているのです。特殊な訓練を受けたプロだけが、武器を使えるのです。

現在の憲法のままでは、絶対に拉致被害者を取り戻しに行くことは不可能です。話し合いによって解決するという道もほとんど絶望的です。

自分の一番大切な人を守りたいという、その気持ちを普遍的なレベルに持っていくならば、戦争を抑止したいと強く思うなら、勇気を持って憲法を見直してみるという態度が必要でしょうね。

勿論、これも思考がこしらえた物語には違いないのですが…。

事件を観て気づくこと

障害者の方々をターゲットにした、他に類を見ない凄惨な事件が起きてしまいましたね。朝テレビをつけたら、どの局にチャンネルを変えても同じニュースばかり…。

生まれついての精神異常というものはないと考えると、容疑者の中に本人も気づかぬうちにどれほどの怒りを抱え込んでしまったのか、想像を絶するものがあると思います。

一般的に想定されることは、本人が幼い頃から異常ともいえるほどに、本音を抑圧してきた可能性が高いということです。笑顔もその一つのカモフラージュなのかもしれません。

そして、自分のことを価値のない存在、役に立たない存在と思い込んだのでしょう。身近な人間に認めてもらえない激しい怒りとともに、強い自己否定感を隠し持っていたとも思うのです。

そのダメな自分を直視することができずに、役に立たない代表として、障害者の方々に自分の無価値観を投影したのだろうと想像できます。

そうやって、家族への怒りと自分への怒りをひた隠す術として、障害者の方々への怒りを募らせていったものと思われます。

だから、その怒りは激しい殺意となって、理性の一部を味方にしてしまうことができたのです。勿論、詳細を知らずに決めつけるつもりはありません。

ただ、こうした惨たらしい事件が起きるたびに、知ったかぶりのコメンテーターの人たちが、考えられない事件ですと言っているのを聴くと、なんだかなあという気持ちになるのです。

人の行動には必ず原因となるものがあるのです。そこに気づこうとする努力がなければ、多くの方々の命が奪われたことが全くの無駄になってしまうことになると感じるのです。

外的世界と内的世界

私たちは、自分の世界を二つに分類することができます。一つは、外的世界であり、もう一つは内的世界。どちらに重きを置いて生きるのかによって、生き方に大きな違いが生まれます。

外的世界というのは、みんなで共通に認識できる世界の事です。たとえば、社会というのは当然この外的世界に含まれるわけです。

この世界でどのようなことが起こったか、人類の歴史はどうかなど。したがって、外的世界を中心に生きる人は、誰がどのように活躍していて、それと比べて自分はこのレベルだろうということなどが大事になるのです。

外的世界では、その中心となるものは物理的な出来事です。だからこそ、みんなで認識をシェアすることができるのです。そこに主眼を置いている人は、そこが自分の生きる場所だと思っています。

自分は何をしてきたのか、何ができるのか、社会での自分の位置づけはどのようになっているのか、そのようなことが大切な観点となるはずです。

その一方で、内的世界で生きている人は、物理的な出来事そのものにはさほど興味を示しません。常に、自分の内面の方に目を向けているからです。

その目線は、他人の内面に対しても同じように向けられるため、相手がどのような気持ちでいるのかとか、他人がどう感じているのかということに、気を遣うようになってしまいがちです。

したがって、内的世界で生きる人の方が、外的世界で生きる人に比べて、生きていることのストレスが多くなる傾向にあるのは仕方のないことです。

そして、その両者は互いに相容れることができません。そのため、例えば親が外的世界で生きる人であって、子供が内的世界で生きるなら、子供は親と同じようにできない自分を責め、苦しむことになるのです。

それに加えて、外的世界で生きる人は、社会への順応という観点ではより優れているはずです。興味の対象が社会的な範疇にあるからです。

そうなると、そういう親の元で育てられた内的世界で生きる子供は、決して分かってもらえない内面の苦しみを抱えて、親との距離感を引きずりながら生きることになるのです。

そもそも、外的世界で生きる人は、このような内容の文章にもあまり興味を示すことはないかもしれません。なぜなら、この内容自体が内的世界の範疇に入るものだからです。

このブログを読んでいるあなたも、私と同様にきっと内的世界で生きているはずです。そのことに気づき、どうもしっくりこないと感じる相手は、外的世界で生きている人なのではないかと疑ってみることです。

そのことに気づいたなら、長年のモヤモヤが一気に解消するかもしれませんね!

いつか探究が終わる時

自分を徹底的に見ようとすると、シンプルに自分をどこにも見つけることができないということに気づいてしまいます。それなのに、そのことにびっくり仰天する人はほとんどいないのです。

何か辻褄の合わないことが起きると、それをうやむやにしてしまうクセが人間には備わっているようです。そして、意味のないことにエネルギーを費やしても仕方がないとばかりに、忘れてしまうのです。

それでも、ごく少数の物好きな人がどこにでも必ずいて、そういう人はなぜ自分を発見することができないのかを探究し始めたりするのです。

その探究の課程で、様々な気づきがやってきたり、何か途方もない恐怖に飲み込まれそうになったり、絶望感がやってきたりするかもしれません。

けれども、そうした体験には大きな価値があると思うのです。人生を安全で確実なものにしたいというエゴの欲望を脇に置いて、ひたすら探究へと入っていくこと。

不安を何とかして安心に変えようとするいかなる努力もやめて、自分へ自分へと深く入っていくのです。その時に、人は完全に孤独であることに気づきます。

それを誰かと一緒にやっていくことはできないと悟るからです。まったくもって自分独りだけの内面的な作業が続くのですね。

そして探究が終わる時、それはいつかきっとやってくるのでしょう。それは、探究している自分がどこにもいないという気づきと共に終わりを迎えるのです。

「観ること」それが究極の状態

「観ること」、本当はそれ以外のどんなアドバイスも不要なのです。けれども、昨日のブログで書いたように、エゴど真ん中に立っている人にそれは通用しません。

だから、癒して行くための様々な方策をお伝えするのですが、それでも真に必要なことは、「ただ自分を観ること」。それだけであり、それ以外のどんなアドバイスも余計なのです。

なぜ余計かと言うと、それ以外のいかなるアドバイスもエゴを活性化する可能性が高いからです。エゴは、こうしたらいいと言われれば、喜んでそれをするのです。

エゴにとっての一番の苦痛は、何もしないこと。問題に対してどんな対処もせずに、ただ観ることだからです。それだけが、エゴを希薄にさせるからです。

特別何もせずに、ただ自分を観ていると、エゴは意識をなくして無意識状態へと逃げ込もうとします。つまり、思考を停止するや否や、自分を動物のようにさせるのです。

幼い子供のようにボーっとさせるのです。つまり、エゴは思考で自分を乗っ取るか、それができなければいきなり無意識にさせて、眠らせたりするのです。

そのどちらでもない状態、それがただ観ることです。ここまで読んできて、何だかいやな感じがするなら、それはあなたのエゴが危機を感じているということかもしれません。

エゴがどのように反応するかを、常に「観ていること」です。それは、エゴとの間にすき間を作ることになり、本当の自己は決してエゴではないと気づくことにもなるはずです。

得意分野を利用する

今あなたがどこかへ行きたいと思ったとします。その行き先がどこであろうと、あなたが今いる場所から歩きださなければなりませんね。

今立っている場所を無視して、違う場所から歩き出すなどということは不可能なことです。ある部屋の中にいて、その部屋にいるのがとても嫌になったとします。

それでも、その部屋から出ようとしたら、その部屋の中を歩いてドアのところまで行かなければなりません。その部屋がどれほどイヤでも、その部屋の床を歩く必要があるということです。

つまり、そのイヤな部屋の空間を利用する必要があるのです。内面の癒しにもこれと似たようなことが言えるのです。もしもあなたが、癒しを妨害するようなことを信じているのなら、それを無視して癒しを進めることはできません。

癒しの究極の目的は、エゴが消えて行くようにしていくことですが、そのエゴのど真ん中にいる限りは、そのエゴを最大限利用するしか、方法はないのです。

エゴを徹底的に利用することから癒しを始めるのは、そうした理由があるということです。たとえば、人生と闘ってきた人には、その闘う能力を利用して、癒しを進めていくのです。

その人の得意分野をうまく利用することができるなら、癒しは最初のフェーズではきっと成功するはずです。なぜなら、クライアントさんはその道の達人だからです。

そうやって、癒しを進めて行きながら、少しずつ不得意分野についても受け容れていけるようにと促すのです。その時に初めて、それまでとは全く異なる真の癒しへと路線を変えて行くことになるのです。

そのような移行がスムーズにできるようにと、手助けするのもセラピストの仕事の一つだと思っています。なぜなら、その時に大きな抵抗がクライアントさんの深いところからやってくるからです。