自前で受け止める練習

もしもですね、あなたの隣にある人がいてくれて、その人があなたがどんなことを言っても、何をしても、必ず心から受け止めてくれるとしたら…、どんな気持ちになるでしょうか?

しっかりとリアルに想像して欲しいのです。完全に無条件で、分かってもらえるということが保証されているとしたら、どれほど楽な気持ちになれるか、感じて欲しいのです。

こんなことを言ったら、さすがにしかめっ面されてしまうかもとか、ここまでやったら否定されてしまうに違いないと思うのが当然ですね。

けれども、そうした心配が全くないとしたら、人は心の底から安心させられるのです。誰もがそういう人がいてくれたらと心の奥では求めているのです。

だとしたら、なぜそれを自分自身でやってあげないのでしょうか?自分以外の誰かを100%あてにするということはほとんど実生活では不可能なことです。

だから自前でやればいいのです。自分の内側にあるどんな心の声であろうとも、それをあるがままに完全に受け止めてあげればいいのです。

どんな思考も挟まずに、純粋な意識だけの状態になってその瞬間のありのままの自分を丸ごと受け容れてあげることに徹するのです。

他のどんなことよりも、そのことを優先して毎日を生きてみるのです。どれほど否定的な考えであろうと、どんなに意地の悪い自分であろうと、そのままを受け容れるのです。

賛成するわけでもなく、反対でもなく、同意するのでもなく、肯定も否定もなにもせずに、勿論どんな判断も使わずに、そのままの自分をただ見てあげるのです。

それをたった一ヶ月続けることができたなら、あなたのエネルギーはまったく異なるものへと変化していくはずです。実践あるのみですね。

仕返しの人生から足を洗う

もしもあなたが、過去自分を辛い目に遭わせた誰かを見返してやろうと思ったり、いつか仕返ししてやろうという思いが原動力となって生きているなら、いずれ人生が破壊されることになるはずです。

確かに、ナニクソという気持ち、絶対負けない!という思いで闘うなら、ときには思い通りの結果が出て、相手に復讐することができるかもしれません。

また、どうやって仕返ししてやろうかと思うことで、歪んだ快感を味わうこともできるかもしれません。けれどもこうなると、相手への執着は非常に強力なものになってしまうのです。

それはもう、純粋な怒りではなくて、それを歪ませた憎しみとなってしまうため、それを繰り返し味わってもなくならなくなってしまうのです。

憎しみとは、怒りと言う感情とその怒りを生み出した思考をブレンドして出来上がったものであって、そこには必ず執着心が宿ることになるのです。

このようにして人生を仕返しの場にしてしまうと、必ず闘う相手が必要となってくるのですが、それが敵というわけです。つまり、敵ばかりの人生が作られるのです。

闘っても闘っても、満たされることはなく、そればかりか仕返しに費やしたエネルギーが無駄になって、人生が荒廃していくことにもなるのです。

このような人生においては、エゴは活躍し放題、完全にエゴに人生を乗っ取られた状態になってしまうのです。正常に戻す唯一の方法、それは自分の内側に意識を向けるということ。

外を見るからそこに敵がいて、仕返しを続けてしまうのです。できるだけ内面に意識を向ける練習をすることです。それを続けていけば、いずれは人のことを考えずに生きることができるようになるはずです。

マインドはおしゃべりの連続

映画を観ていて、たまに次のようなシーンを経験をしたことがないでしょうか?映像だけが流れていて、音が完全にない無音状態のシーン。

そのときに、ちょっと不思議な感覚になったかもしれません。それは、場内がシーンと静まり返っているときに、自分のマインドもそれにつられて静かになるからです。

ということは、マインドはいつもざわついているのです。はっきり言えば、マインドとは絶え間のないおしゃべりなのです。まさかと思うかもしれません。

けれども、じっとマインドに対して耳を澄ましてみていると、常に内側で誰かがおしゃべりしていることに気づくはずです。それは止まることを知らないようです。

そのくらい、私たちのマインドは騒々しいのですね。その理由は簡単です。マインドの中身は互いに分裂した思考でできているからです。

マインドが発達して2,3歳ともなれば、言葉を覚えるようになるのですが、その言葉がすべて思考なのです。そして今度は、その言葉によって思考は高度に発達することになったのです。

だからこそ、マインドの中は常に誰か彼かが何かをずっとおしゃべりし続けているのです。これは、たとえ睡眠中であっても変わることがありません。

もしも、マインドの中のおしゃべりを一つも逃さずにキャッチして、スピーカーで聴くことができたなら、自分は気が狂ってしまったかもしれないと思うはずです。

だから、時々はあの映画の無音のシーンを思い出して、その時のあの静寂さを深いところでも感じるようにしてみるといいと思います。

すべてはマインドの成せるワザ

瞑想をするようになった人が、陥りやすい罠があるのです。それをエゴトリップといってもいいかもしれません。つまりは、マインドが引き起こすことなのです。

瞑想中に起きることが、すべてまやかしだと言っているのではありません。実際に、たとえば身体が浮くような感覚になる人もいるかもしれません。

あるいは、性的に抑圧されてきた人は、セックスセンターが開いてある種の性的な興奮を感じることもあるかもしれません。それなりにすべては理由があるのです。

キリスト教徒の人がイエスの存在を間近に感じたり、マリア様の姿を見てしまったりということも起きることもあるかもしれません。

仏教徒の人が瞑想中にブッダに遭うことがあっても不思議ではありません。こうしたことは、すべて意識下での思考が一時的に表面化したものです。

つまり、何であれ自分のマインドの働きによって起きてくるものだと気づけばいいのです。そうすれば、間違った認識や期待をせずに済むのです。

瞑想中の体験を特別視することで、エゴは当然のことながら強化されてしまいます。自分に起きたことをそのままに受け止めておけばいいだけです。

何も特別なことはないということ。マインドはどんなすき間にも入り込んで、エゴの餌になるネタを作ろうとするので、そのことに気づいておくだけでいいのです。

瞑想中の体験をただ独りで楽しみ、それをそのままにしておくこと。それを期待することなく、ただ見ているだけになればいいのですね。

エゴを強化するか、弱体化するか

人の生き方、言動、考え方などを大きく二つに分けるとすると、次のような分け方があってもいいように思います。それは、とても重要な観点だと思います。

一つは、エゴを強化するもの、もう一つは、エゴを弱体化するもの。その両方が混ざっているものもあるかもしれませんが、たとえば次のようなものです。

-強化するもの

人生と闘う
過去を後悔する
未来を憂う
自分を責める
他人を責める
感情から逃げる
深刻になる
考え続ける
執着する
自分を改善しようとする

 

-弱体化するもの

こちらは、簡単です。要は上で書いたことの反対です。

闘わない
後悔しない
未来を見ない
自他を責めない
感情を味わう
気楽になる
思考を使わない
執着しない
自己改善を考えない

どうですか?できる限り、下側を多く実践するように心がける必要があるということですね。

子供の問題行動

先日、久しぶりに小さなお子さんのセッションをしたのですが、子供の無邪気さというのは、本当に見ていて気持ちのいいものですね。

そんな無邪気で無垢なマインドに、一体何があるというのだろうと見ていると、それは微妙に隠されているのですが、幼いながらも、大人のような気遣いの部分があるのです。

もちろん大人とは違うものですが、本人は全く気づかぬうちにその子なりの防衛が始まっているということです。これは環境の問題だけでなく、本人の繊細な感覚が最も大きな要因となっていると分かります。

あまり甘えてこない子、思い切り泣かない子、両親を名前で呼ぶ子、このような子供の内面には、周囲からは気づくことのできない抑圧があると思って間違いありません。

そうした抑圧が続けば、当然の結果として怒りの爆発や、何らかの問題行動が起きてくるのです。親にとっては、その結果の方ばかりが目立ってしまうために、その原因となる部分には気づかないでいることが多いです。

そんな時には、とにかく細かいことを気にするのを脇に置いて、子供の言葉を一つづつ丁寧に受け止め続けることです。

それを1年続けることができたなら、怒りの爆発や問題行動は、少しずつ影を潜めていくことになると思います。

未来の自分への期待をなくす

自分はまだ、この人生で本当にやるべきことをやってない、そう感じていることはないでしょうか?もしも心当たりがあるとしたら、それはエゴの計略に嵌っているのです。

エゴは、自分には今はまだできてないことが、いずれはできると思いながら生きているのです。そのようにして、未来の自分に期待を持ちつつ生活しているのです。

自分にはまだまだ可能性があって、将来はそういったものが開花して、より充実した人生になるはずだと思いたいのです。

そうやって、今の自分への不満をごまかそうとしているのです。けれども、残念ながらというか本当に気づかなければならないことは、今の自分をそのままに受け容れてないなら、それは未来永劫そのままだということ。

このくらいのレベルの自分になれた暁には、自分を認めることができるというのでしたら、そのレベルをクリアできたとしても、そこでまた不満が再びやってくるはずです。

そうして、いつになっても現在の自分ではまだダメだとして、未来に向けて希望を持ち続けて生きることになるのです。未来への希望はとても肯定的で素晴らしいことだと感じるなら、それはエゴが作った社会の洗脳です。

未来への期待や希望がなくなってしまったら、エゴはそのエネルギー源を断たれてしまうので、未来への期待を持ち続けることは、生命線なのです。

今の自分を100%受け容れるなら、今この瞬間に満たされることになるでしょう。そのとき、今までの自分も未来の自分も消えてしまうでしょうね。

どんな気持ちや気分でも、間違いではない

人の行動には間違いがつきものですね。いつも正しい行いができるという人がいたら、お目にかかりたいと思ってしまうほど、人は間違いを犯すものです。

けれども、その一方で間違った気持ちとか、間違った気分、間違った感情というものは決してないのです。それはなぜでしょうか?

たとえば、親は自分を生んでくれて、ここまで育ててくれたのだから、その親に対して感謝の気持ちになるなら分かるけど、その親に否定的な気持ちを持つとしたら、それは間違ってるよというわけです。

私が言いたいのは、感謝はしようと思ってできるものではないし、否定的な気持ちが間違っているからといって、それを抑圧したところで、それがなくなることもありません。

結局、その否定的な気持ちというものは、間違ってるということも間違ってないということもないということです。その気持ちはごく自然なものです。

それについて、いいとか悪いというのはあくまでも思考の世界でのことです。気持ちを思考で判断すること自体が間違った見当違いのことだと気づけばいいのです。

行動について、それが間違っていたと気づいたなら、それを修正するようにすればいいのです。ただし、気持ちや気分、感情などを修正しようとしてはいけないということ。

思考以外のそうした内面の感覚というのは、常に自然なものであって、思考で裁くべきものではないということです。それなのに、多くの人がそれを正そうとしてしまうのです。

そこから、抑圧が起きてくるのであって、それが結果として人生を不快で辛いものにしてしまうのです。あなたが今どんな気持ちで、どんな気分であれ、それをそのままに感じ尽せばいいのです。

気持ちや気分、そして感情に対してどんな思考も介入させないようにすることですね。

不満をしっかり感じること

幼い頃のことを思い出してもらったときに、自分は親に対してまったく不満を感じたことがなかったと言う人がいますが、これは問題大ありです。

なぜでしょう?不満がないということは、それだけ満たされていたということだから、問題があるどころか、とてもいい環境で過ごしていたということではないかと思うかもしれません。

実は、どんな親子の関係であったとしても、親の方も子供の方も必ず何等かの不満を持っているに違いないのです。その理由は簡単です。

親が住んでるワールドと、子供が住んでるワールドが違うものだからですね。勿論互いに重なりあっている部分だってあるのですが、すべてではないのです。

ですから、自分の本音に正直に生きているなら、確実に不満を抱くはずなのです。だからこそ、親に対して不満を感じたことがないという自覚が、抑圧を意味すると分かるのです。

子供の頃に本音を抑圧してしまえば、本人は不満を感じることなく生活できるので、それなりに楽なのですが、そのつけはいずれ遠からず、何等かの形となって本人のところにやってきます。

不満のない人生にしたいのなら、まずはどんなことも抑圧せずにしっかりと不満を感じることができるようにすることです。その先にこそ、不満のない人生への道が開けて来るのです。

内側に意識を向ける

エゴというのは、外側からの刺激に対して、対処するということを繰り返すことで生き続けているのです。だから、まずエゴは知覚を常に必要とするのです。

その次にエゴが必要とするのは、他人です。エゴは、他人と自分との関わりを通して活躍するものだからです。だから、離れ小島で独りの生活を続ければ、エゴは衰弱していくはずです。

つまり、エゴは自分の外側に広がっているこの世界の中で、誰かとともに生きているという物語の住人であるということです。

だから、例えば高齢になって外出ができなくなったり、人と話すということが極端に減ってしまったり、ということが続くと、エゴは疲弊していくのです。

そうなると、エゴは物語を求めてそれをどこかに探そうとするのです。そして、最後に行きつくのは自分の夢の中ということになるのです。

世間との関わりが少なくなって、人のために何かをすることもできなくなり、役に立つこともなくなってしまえば、エゴはそれを夢の中で実現しようとするのです。

結局、この現実から刺激を得ることができなくなれば、夢を利用するしかなくなるのですね。それは何も老人に限ったことではなく、若者であっても起きる可能性はあるのです。

常日頃から、外に対して生きる代わりに、内側へと意識を向ける訓練を続けていくことで、外部からの刺激に頼らずとも、他人との関係に依存しなくても、充分に生きていくことはできるはずなのです。

大切なことは、自分のことをどれだけ見守っていられるかということに尽きるのですね。