悪戦苦闘を好む自分

一般的な常識として、自分の内面の状態と、外側にどんなことが起きるかということとは、何の関連もないと考えられていると思います。

けれども、マインドがゆったりとして、のんびりモードのときには、外側でもあまり緊急の事態がやってくるということはないかもしれません。

あるいはその逆に、マインドがセカセカとしていて、あれもこれもやらねばならないと思っていると、それに被せるように更なる事態が起きて来たりするのです。

まるで、マインドの状態と外側で起きる事象とが同期しているかのように…。理性ではまさかと思うものの、多くの人が何かしら似たような体験をされているのではないでしょうか。

思考が現実を生むと言われるように、思考によって起きて来る内面的な気分や気持ちなども、現実を作ることに一役買っているのかもしれません。

だとしたら、何が起ころうと、ゆったりと構えて、敢えてその事態を見守るようにすることができるなら、必要以上の悪戦苦闘を作り出すこともなくなるはずです。

実際に試してみると、確かにマインドが静かであれば、周囲の状況も何となく静かな感じになってくるのです。そして、それまでは身体のどこかに力が入っていたことや、呼吸が浅くなっていたことなどにも気づくことができます。

ただし、そこでまた別のことに気づいてしまうのですが、それはある種の悪戦苦闘?を好んでいる自分もいるということです。そういう自分のことも、優しく見守ってあげることができるといいですね!

相手の反応に惑わされない

人とのコミュニケーションにおいて、繊細な人、あるいは不安を強く持っている人、そしてその両方に該当するような人の場合ほど、自分の発言よりも相手の反応に重点を置いているのです。

つまり、バランスの悪い人ということになりますね。コミュニケーションには、主体としての自分からの発言と、それに対する客体、つまり相手からの反応とがあります。

一般的には、自分の発言と相手の反応が50対50であることがいいとされていますが、私は個人的には80対20くらいでちょうどいいと思っているのです。

つまり、自分の発言に重点を置いて、相手からの反応にはあまり頓着しなくていいということです。このように書くと、何だか自分勝手な空気読めない奴のようになれ、と言われている気がするかもしれません。

けれども、こう言うにはそれなりの理由があるのです。それは、相手からの反応というのは、自分には無関係だからなのです。

私たちは、普通自分の発言が原因となって、それに対して結果として相手の反応があるのだと思い込んでいますが、本当はそうではありません。

相手の反応というのは、相手自身のそれまでの人生の総決算として独自の反応を返してきているのであって、自分の発言は単なるきっかけに過ぎないということです。

繰り返しますが、自分の発言は相手の反応を起こすきっかけに過ぎず、相手がどのように反応するかは、相手の過去の中にこそ原因が潜んでいるということです。

だから、相手がどのように反応しようと、自分には本当のところどんな責任もないということです。もしも、あなたが本当に伝えたいことを相手に言って、その結果として相手が憤慨したとしても、あなたにはどんな責任もないということです。

繊細で、大きな不安を抱えている人ほど、相手に否定されたくない、嫌われるのが怖いと思っているために、相手の反応にばかり神経を使うことになってしまうのですが、それはとんでもないお門違いなことだと気づくこと。

相手の反応に一喜一憂する面倒な人生から卒業して、気持ちよく無防備に言いたいことを発信できる人生へと転換できるといいですね。

親子という人間関係を見直す

世の中には、いろいろな人間関係というものがあるのですが、親子の関係であってもそれも一つの人間関係なのですね。特殊ではありますが…。

何が特殊かというと、子供の側の人生経験が極端に少ないことです。子供は親に比べて大きなハンデキャップを持っているので、親がその部分をカバーしてあげる必要があるのです。

子供の不安が少しでも安心に変わるようにとケアが必要ということです。けれども、親の側も理想通りにはいかないのです。それは、親自身の中にいるインナーチャイルドが病んでいるからです。

そうなると、子供は親と一緒にいながらも、絶えず不安を抱えて生きていくことになるのです。たとえば、お母さんに嫌われるんじゃないかという恐れを抱いていたり。

母親というものは、異性である男の子の方をより可愛がる傾向があったりするため、弟が生まれた後の長女は自分よりも弟に母親の愛情が行ってしまったと感じたりするのです。

母親との関係性が良好であれば、そうした不満はいつの間にか解消していくのですが、そうでない場合には、しこりとなって残るのです。

その結果、親に対して自由な自己表現ができなくなったり、感情を知らず知らずのうちに抑圧するようになったりする場合もあります。

そのような親子の関係性が、その後の人生のあらゆる場面においての人間関係の基礎となってしまうため、いつまでも本音を言えない人生を続けてしまうこともあるかもしれません。

もしも心当たりがあると言う場合には、立ち止まって自分の幼い頃の親子の関係について、じっくりと見直してみることですね。独りではうまくできないなら、プロの力を借りるということもありだと思います。

セッションの録音を活用する

近頃、セッションの内容を録音されるクライアントさんが増えましたね。ホームページ上にも、録音はOKですと記載したこともあるのかも知れません。

ところが、多くの方が言うには、せっかく録音したものを、あらためて聴くかというと、どうも聴かないことが多いらしいのです。

何となく分かるような気がします。というのも、セッションではさすがにセラピストの言葉を面と向かって無視することはできないですが、本当は聴きたくないという部分もあるからです。

しかも、セッションの流れの中で、思わず出てしまった自分の本音とか、隠してきた感情が表面化した場面などがあれば、聴きたくないというのも頷けます。

そんな中でも、一生懸命に録音を聴くという方もいらっしゃるのです。ご本人によると、セッションの録音を聴くと、自分が如何に逃げようとしているかに気づくことができるのだとか。

その瞬間には、自分の防衛方法は巧みなので、ほとんど気づかずにいることが多いのですが、録音を聴き直してみて、それにはっきりと気づくということです。

私たちは他人のことはよく分析できますが、それは見る側には自己防衛をする必要がないからなのですね。そのように、自分の録音を客観的に聴くことは本当に助けになるのです。

また、催眠療法の誘導部分も録音してしまえば、それを使って独りで催眠療法のようなことをすることもできるはずです。

セッションにいらしたら、是非録音されることをお勧めすると同時に、それを聴いてみることを強くお勧めします。きっと大きな気づきを期待できると思います。

孤独という恐怖

同じ怖い体験をしても、普通の人の何倍も怖いという感覚になってしまう人がいますね。敏感体質というのか、繊細過ぎる感性を持っているということなのでしょう。

そういう人は、なかなかどうして生きることがとても厄介になってしまうはずですね。なぜなら、過剰防衛することになってしまうからです。

ところで、過剰防衛する要因というのは、そういった生まれながらの体質以外にもあるのです。それは、生まれ育った環境によるものです。

もしも、幼い子供の頃に、親に安心させてもらうことができなければ、不安や恐怖が蓄積されることになってしまうために、より過度の恐怖を感じるようになるのです。

ちなみにそれがどんな環境かというと、例えば:

・親に本音を言ってはいけない
・親に助けてはもらえない
・親は100%正しくて自分は間違っている
・親は自分に興味がない

こういった場合には、子供は孤独という恐怖を持ってしまうと同時に、自分の存在がそもそも間違っているといったとんでもない思い込みを作ってしまうかもしれません。

そうなれば、ただ生きていることが恐怖になってしまうのです。そのような場合には、子供の頃の間違った信念を、少しずつでも変えて行くことが大切なのですね。

そのためには、内側に潜む当時の幼い自分の気持ちに耳を傾けて、そのすべてをただ受け止めてあげることです。

「静」と「動」の対極を使う

瞑想が何となく心身にとって良いらしいというのは、全世界的に広まりつつあるようですね。けれども、やっぱりただ静かにしているというのは苦手という人も多いのです。

そんな現代人のために、osho が様々な瞑想法を考案してくれたのです。その中の一つにダイナミック瞑想と名付けられたものがあります。

ただ静かに坐るのではなく、その逆にできる限りの力を振り絞って、早く激しい呼吸をしてみたり、ありうる限りの感情を吐き出してみたり…。

そうやって、「静」にいきなり入る代わりに、極端な「動」から始めるのです。だから、苦手も得意もありません。誰にでもできる方法なのです。

持っている力を出し惜しみすることなく最大限使って、「動」を続けたその後で、突然まったくの「静」へとひっくり返るのです。その対極への移行によって、人はたやすく「静」の中へも入っていけるのです。

うまく考えられた方法だと思います。私たちは、自然とこうした方法を経験したことがあるはずなのです。それは、例えばスポーツなどで思い切り身体を動かした後は、頭がスッキリして静かにしていられたりするのです。

つまり対極を利用するということですね。落ち着きのない子供を静かにさせようとして、いくら叱ったところで効き目はありません。

その場合にも、その子に思い切り走り回ることをさせてあげて、クタクタにしてしまえば自然と静かにするようになるはずなのです。

瞑想をただ「静」というイメージで捉える必要はないということです。「静」のためには、「動」を利用するのです。そして、「動」のためにも「静」を利用できるのですね。

「神性」への梯子

人間とは緊張です。自然界で、ずっと緊張している生物など、人間の他にはありません。人間だけが、緊張の中で延々と人生を続けているのです。

動物も一瞬であれば、勿論緊張することはあるのですが、その瞬間が過ぎ去れば、またあっという間にリラックスの中へと戻っていけるのです。

ではなぜ人間だけが緊張し続けるのかと言うと、人間は「自然」と「神性」のちょうど間に位置しているからです。間というのは、言葉を変えて言えば中途半端だということ。

「自然」とは他の動物や植物があるところ。人間の最も最下層の部分はそれと同じ「自然」に属しているのです。その「自然」の中で生を授かり、そこから人生がスタートしたのです。

ただし、そこは単なる出発点であって、2~3歳くらいになれば完全な無意識から意識的な部分が芽生え始めるのです。意識的であるということは、それだけ「神性」に向かっているということ。

残念ながら、意識的な部分は全体の1割程度だと言われているので、残りの9割は動物と同じ「自然」のレベルにまだいるということです。

それでもいくらかは、「神性」に向かって進んではいるのです。その途中にいるために、宙ぶらりんな状態で生きているとも言えるのです。

それが、緊張を生む原因となっているのです。一気に意識的な部分が増えて行くことができるなら、それだけ「神性」に近づくことができるのですが…。

そして意識が100%となったとき、「自然」で始まった梯子の最上段である「神性」へと昇り詰めることになり、そこで自我は消滅して二度と戻れなくなるのです。

その時には、「私」が消えて、その代わりに神が顕われるということですね。

一滴のしずく

私たち一人ひとりが、自分の本質に気づき、自分の本質と出会うとき、つまり光明を得たときには、それまで探究していた私は消え去っていくのですね、残念ですが…。

それはまるで、一滴のしずくが大海の中へと落ちて、その中へと消えて影も形もなくなってしまうことに似ています。それはそういう運命にあるのです。

それはただ自然であって、そこにはどんな問題もあるはずもないのですが、一滴のしずくのような「私」という自我が出来てしまったために、大海の中へと消え去ることに恐怖を感じるのです。

インドには、その昔ごく普通の機織り職人でありかつ詩人でもあったカビールという人がいたのですが、彼は光明を得た人でした。

その彼が、光明を得ることは一滴のしずくが大海の中へと入っていくようなものと詩の中で言ったことを、後で訂正したのです。

その訂正とは、実は光明を得るということは、大海が一滴のしずくの中へと入って来ることだと言ったのです。わざわざこのような訂正をしたということは、そこには何か大きな意図があるのでしょうね。

つまりは、私たちの準備ができるなら、真実の方から私たちの中へと飛び込んでくるということです。真実はいつだってその瞬間を待っているのです。

いつも使っている言葉で言えば、全体性はそのチャンスを狙っているのです。そして、それが起きるときには、私たちの中へと全体性が流れ込んでくるのです。

思考が落ちて、真っ平な鏡のような内面になるなら、それはいつかやってきてくれるのでしょうね。

「見る」ことで同化をなくせる

このブログでも何度も書いていることなのですが、「見る」ということが如何に大切なことかということについて、今日も少し触れてみたいと思います。

「見る」というのは、単に肉眼を使って外側の世界にある何かを見るということではなく、その対象物に意識を向けるということを意味しています。

肉眼で何かを見るにしても、そこに意識を向けずにいるなら、実際には見ていることにはならないはずです。一点を凝視したとしても、他の何かに意識がいってるなら、見ていないのと同じなのです。

だから、「見る」とは意識を向けるということ。そして、意識を向けられた対象というのは、意識を向けた主体から離れていくのです。

というより、離れていなければ見ることはできないということでもあるのです。だから、私たちが常日頃ずっと自覚のないままにしている、自己同化に気づくためには、この「見る」ということが絶対的に必要なのです。

もしも身体に意識を向けているなら、その身体の箇所は自分から離れたものだということが分かるのです。もしもあなたがマインドの中に渦巻いている思考を見ることができるなら、そのときには自分は思考ではないと気づくのです。

そしてもしも、私たちが自分のマインドに意識を向け続けることができたなら、マインドとの自己同化を外すことがきっとできるのでしょうね。

無思考は非二元

人との関わり合いの中で、自分のエゴが一番使われない時というのはどういう時かと考えてみると、それはやはり相手を受け止めているときだと気づきます。

思考を使わずに、その時の相手のありのままを受け止めるのなら、エゴは小さくなってしまうのです。勿論一時的なものではあるのですが…。

エゴが活躍するためには、思考が活動していることが前提なのです。だから、相手に対して賛成や反対、肯定や否定、そのための判断も裁きもしないでいるなら、それは思考が使われないときなので、エゴは停止するのです。

相手の言っていることに賛同するなら、賛同している自分の意見がそこにはあることになるので、受け止めるのとは全く違うと分かります。

たとえ相手を肯定しているとしても、同じようにしてそこには思考が働いているのです。だから、肯定と言う思考はいつでも否定にひっくり返るチャンスを狙ってもいるのです。

だからこそ、相手を褒めることも受け止めることとは全く違うのです。人に褒められて喜ぶ人は、けなされるという危険を見抜けない人なのです。

何かを褒めてくれた人は、いつけなす側に回るは分からない人だと思って間違いありません。褒めるための判断基準が変わってしまえば、いつでもけなすことも可能だからです。

結局、思考は常に二元性の世界にいるので、表があれば裏がくっついてくるということ。だから、肯定も賛成も褒めることも不必要なのです。

それに対して、あるがままを受け止めるときだけ、対極がないのです。つまり非二元ということなのです。思考がなければ、私たちは常に非二元の世界にいることができるのですね。