不可視のエネルギー

私たちは、普段目には見えないエネルギーの洪水の中で暮らしているのです。けれども、自分は目に見えないものは信用しないのだという人もいるかもしれませんね。

電波も音波も人間の目には見えませんが、この地球上の空間には無数といっていいくらいのそうした波が飛び交っているのです。

テレビやエアコンのリモコンは音波を使っているし、テレビやラジオの番組は電波によって伝わってくるものを、キャッチしているのですね。

それと同じようにして、私たちはまだ解明されていない何等かの知覚を使って、場のエネルギー、人から発せられる思考や感情のエネルギーなどを感じ取っているのです。

だから、たとえば怒りを膨大に蓄積している人と一緒にいると、その人がたとえ笑顔で接してくれたとしても、何となく怖いというか居心地が悪く感じたりするのです。

セミナーなどで、多くの人たちが一斉に同じ方向を目指していると、そのエネルギーが増幅されて、個人でいるときとは比べ物にならないくらいに大きな効果を生むのです。

残念ながら、科学の現状ではまだそれが一体何なのかは解明されてはいませんが、誰もが自然とそうした感覚をどこかで感じながら生きているのも事実です。

実際、相手の思考の内容を読み取る能力のある人もいるようですね。訓練によってそうなったのか、生まれついてのものなのかは分かりませんが。

いずれにしても、エネルギーが目には見えないものでよかったという点もありますね。だって、それが見えてしまったらそれこそおちおち街を歩いていられなくなってしまいます。

エネルギーは外の空間を飛び交っているばかりでなく、私たちの内面にもまた別のエネルギーがあります。というよりも、そのエネルギーによって私たちは生かされているとも言えるのです。

そして、究極的にはたった一つのエネルギーだけが実在するのですが、それこそが私たちの本質なのですね。

誰もが常に新鮮な存在

輪廻の考え方からすると、私たちが死と呼んでいるものは、一生を通じて使い倒した身体、さび付いてもうまともに機能しなくなった身体を、新品のものと交換することです。

それと同じようにして、一日活躍して疲労が蓄積した身体を休ませて、また新しい活気溢れる身体に戻すのが睡眠というわけです。

そう考えると、死も睡眠も死んでは再生するということを繰り返しているということです。そして、その死ー再生の最も短いサイクルが他にあるのです。

何だと思いますか?それは私たちの呼吸です。息を吸って酸素を取り込むことは生きることであり、二酸化炭素を吐き出すことは死ぬことに相当するのです。

つまり、私たちは毎日ずっと生ー死のサイクルを延々繰り返しているということ。そのことに気づくと、一息ごとにまったく新しい自分に生まれ変わっていると感じることができるのです。

残念ながら、マインドは思考をフル活動させて記憶にアクセスするため、過去から今に至るまでずっと連続して同じ自分がいると感じているのです。

けれども、本当は一呼吸ごとに誰もが生まれては死ぬのです。そしてまた新たな自分が再生するのです。自分も相手も誰もが、常に新鮮な存在だということです。

だから呼吸とは何と大切な、そして本質的なものかということですね。呼吸こそ、私たちの本質と身体を繋ぎ止めておいてくれる大切なメカニズムだということです。

全身全霊で…

子供の頃から、何でも全力でやりなさい!ということを教わってきた記憶があるのですが、私の場合には右の耳から左の耳へと通り過ぎていったようです。

そればかりか、どんなことでも70%くらいの力でやるというのがクセになってしまっています。だから、全力でとか、全身全霊でというのを、きっと経験したことがないのでしょう。

今になって、それが非常に問題ありだということが分かってきたのです。生ぬるいやりかた、あまり傷つかずに済むようなやりかたが板についてしまったのです。

実は人の能力というのは、その1割とか2割くらいしか使ってないと言うのを聞いたことがあるでしょうか?火事場の馬鹿力というのがありますね。

思考が停止するような緊急事態においては、思わぬ力が出るということです。普段はそういう力は出せないように身体がコントロールしているということも聴いたことがあります。

それは身体自体を壊さないためだそうです。けれども、自分が知らない自分の本当の能力や知らない知覚などに目覚めようとするなら、普段使わないでいる力を使うくらいに全力になる必要があるのです。

そのためには、あくまでも力を出し切ってクタクタになる必要があるということ。身体がクタクタになれば、私たちは自分が疲れたと感じるのですが、本当は身体が疲労しているだけなのです。

だから、クタクタになったときほど、本当の自分と身体は違うものだということに気づく大チャンスでもあるのです。身体だけでなく、全力を上げて意識的でいるというのも大切なことです。

もう二度とこのチャンスはやってこないというくらいの気構えで、意識的であることに全精力をあげられるようにしたいと思う今日この頃です。

対等な関係性は難しい

人と人が互いに対等な関係性を持つというのは、簡単なようでいて実はなかなか難しいことなのです。私たちは誰でも理性では、誰もが本来対等だということを理解しています。

けれども、幼い頃に親からコントロールされたり、親は絶対と思わされたりして、ある意味見下さた感じで育てられてしまうと、対等に付き合うということを知らぬままに成長してしまうのです。

そうなると、交友関係が増えて行っても、結局は人に対して見上げてしまう関係性を作るようになってしまうのです。それは、相手をして自分を見下すように強いるということにまで発展するのです。

そんな人のそばに行くと、多くの人がその人を馬鹿にしたい気持ちにさせられてしまったり、対等に付き合いたいと思っていたとしても、自然とその人を軽く扱うように仕向けられるのです。

そして、そういう人がひとたび自分よりも劣っている、自分よりも弱いと感じるような人に出会うと、一転して今度は相手を見下すようになってしまうのです。

つまり、見上げることと見下すことは真逆ではあるものの、対等ではないという点で一致しているのです。だから、あっという間にそれはひっくり返ることができるのです。

ある特定の人を見下しておきながら、それ以外の人に対しては見上げるという関係を作るのです。どうしても、対等な関係が分からないまま生きることになるのです。

もしもそのような自覚があるのでしたら、対等な関係性とはどんなものなのかを体験できるようにしていかなければなりません。

その一つの方法としては、相手を常に無条件で受け止めるということをするのです。あなたが相手を受け止めた分だけ、きっと相手もあなたのことを受け止めてくれるのです。

その時に、対等な関係性というものを肌で感じることができるようになるはずです。

無防備の励行

 

端的に言えば、人は不安や孤独から逃れて、何とか安心を手に入れようとして、毎日の人生を励んでいるのです。つまり、自己防衛の日々というわけです。

そのことに気づいて、そのことを潔く認めることができて初めて、人生を変えるスタート地点に立つことになるのです。自己防衛を支えているのは愛ではなく、勿論恐怖や不安です。

だから、そうした否定的な原動力によって生きるのなら、人生が不自由で辛く苦しいものになってしまっても当然のことなのです。

だから作戦は、徹底的に無防備になるように自分を仕向けるということ。傷つくことを恐れて、罪悪感から逃げ惑って、自己表現を抑えることから卒業すること。

表面的には人を優先しているようにして、相手の意向に合わせて自分を安心させようとする生き方から脱却すること。そうした地道な努力が必要なのです。

そうして、人のことを考えている時間をドンドン減らしていくのです。自分はどうしたいのか、自分の気持ちはどうなのか、そのことに全力で取り組むのです。

そうしたら、人のことを考えている余地はありません。無防備になっても、死にはしないということを深く深く理解することです。

そして実は、防衛ガッツリの人よりも、無防備に近い人の方が好かれるのです。当り前ですね、一緒にいて、気持ちがいいからです。

今日から、自分を精神的に守ることをやめましょう!傷ついて、痛!と言って生きればいいのです。その方が生きてる感じがもっとはっきりするはずです。

防衛が小さくなり、無防備になればなるほど、あなたをコントロールしていたエゴは衰えて、生き絶え絶えになってしぼんでいくでしょうね。

そうしたら、あなたの中で眠っていた愛が発動するのです。

目覚めは時代を越える

どうでもいいと言えばどうでもいい話しなのですが、先日めちゃくちゃ UFO っぽい UFO を目撃してしまいました。

夜お風呂に入って、そこそこ暑かったので、涼もうと思ってバルコニーで椅子に座ってまったりと西の空を見ていたのです。

その時、少し明るめの星のような光が、不思議な動きをしているのを発見したのです。なんだ、UFO じゃないかと思っているうちに、雲の中に消えてしまいました。

ああ、残念、もっとじっくりと見ていたかったのにと思ったその時、それはまた顕われてくれたのです。今度は少し長めに、そしてやはり不思議な動きをしているのです。

誰が見ても、典型的なそれこそ教科書通りの、これぞ UFO と言える飛び方で私の目を楽しませてくれた後、最後はやはり雲の中へと消えて行きました。

若干の興奮冷めやらぬ中、UFO を開発するくらいの科学が発達したとしても、きっとあれを操縦している宇宙人は、光明を得てはいないのだろうなと。

人間の真の成長と、文明の進化とは何の関係もないということ。なぜなら、2500年以上も前にブッダが光明を得たのに、今の我々はその頃と何も変わっていないのですから。

文明や科学の進歩というのは、あくまでも外側で起きていることであって、それはある種夢の中での話しなのです。

真に目覚めるためには、それはどうでもいいこと。ただ内側深くへと突き進むこと。これは時代を越えて通用することなのですね。

身体の中に生きる想像上の「私」

いつ頃からのことなのか、気が付くと自分はこの身体の中に住んでいるということになっていたのですね。そして、それは自分だけではなく、家族も友人もみんな同じようにその身体の中に住んでいる。

身体だけが自分だとは決して感じてはいないものの、あまりにもずっと身体と一緒の生活をしているために、身体がまるで自分の一部のようになってしまったのです。

それでもじっくり感じてみれば、自分は身体の中にいるという感覚は動かし難い。けれども、いざ身体の中のどこにいるのだろうと突き詰めれば、どこにもいないことは明々白々ですね。

ただ、この身体の中に住んでいるという感覚を無視することはできません。だから、それはそのように感じているのだとして、一旦脇へ置くことにするのです。

そうして、きょう一日の自分の生活を振り返ってみると、決意が自分からやってきたというのは間違いで、それはどこからともなくやってきたものだと気づくのです。

きょうの生活で、自分が身体の中にいるという証明にはならないと気づくことになるのです。身体の中だろうが、そのほかのどこにも決して見つけることができない自分。

だとしたら、一番素直なのは、自分はどこにもいないということ。身体の中にいるという思考、妄想、想像があまりにも頑なために、それが真実だと思っているだけなのですね。

そしてもっともいいのは、いるとかいないということの思考を持たないことです。

悲しみは根源的な感情

私たち人間には、様々なネガティブな感情がありますね。怒り、恐怖、孤独、不安、そういったものの背後には、悲しみというものがあるように思うのです。

突出した感情の背後には、悲しみが隠されているのです。激怒していた人が、しばらくすると悲しみの涙を流したりするのはそのためです。

実は悲しみとはとても奥深い感情であり、一概にネガティブなものと言い切れないのです。実際、深い悲しみを味わったことがない人は、とても薄っぺらい人生を生きることになるのです。

逆に、深い悲しみの中にどこまでも入っていくのであれば、その人のマインドはある種とても深い味わいのようなものを持つことになるのです。

なぜなら、悲しみというのは自らの本質を忘れたままでいることからやってくるものであって、つまり全体から分離したと思い込んでいる人間としての根源的な感情だからです。

だから、悲しみがやってきたらそのことを悪く思わないことです。悲しみは、この地球上にいるすべての人々の内面深くに必ず隠されているものだからです。

それに気づかずに人生を終えるのではなく、真実を思い出したいという強い渇望こそが悲しみという感情を生み出すものだと気づき、逃げることなく悲しみとともにいることです。

悲しみをたくさん味わった人は、何かどしっとした落ち着きがあり、それだけ真実に近づくことができた人なのではないかと思うのです。

「私」という思考を作ったのは誰?

前置きなしで始めますが、「私がここにいる」というのは、真実でも事実でもなく、単なる思いなのです。思いということは、思考だということです。

そして分かりづらいのは、100歩譲って、「私がここにいる」というのが思考だとしても、そう思うためには「私」がいなければならないと感じるのです。

けれども、自我が生まれるときのことをよく見つめてみると、「私」という思いが作られるときに、「私」はいませんでした。いなかったからこそ、作られたのですから。

最初の最初から、つまりオギャーと産まれたときから「私」がいるのなら、「私がいる」という思いを作り出す必要はなかったはずなのです。

結論として、「私がいる」という思考を生み出すのに、「私」は必要なかったということです。つまり、「私」はいなかったのです。そして、それは今も変わりません。

「私」という思いが作られたからといって、「私」という実在も作られるということではないからです。まわりくどい表現になってしまいましたね。

言いたかったことは、あなたの中にどんな考えが生まれたとしても、そこにあなたという存在は不要だということです。つまり、あなたはいないということ。

思考はエネルギーの一つの顕われた形に過ぎません。私たちの本質は、思考とは何の関係もないということが腑に落ちれば、自然と思考との自己同化は薄れていくはずです。

インドが唯一行けない場所

私たちは年齢と共に、その行動範囲が広がりますね。幼児の頃は、家の中かせいぜい家の近所の公園まで行ければいい方でした。

それが、小学生くらいになって自転車に乗れるようになって、歩いてはなかなか行けないような距離のところまでも行けるようになります。ちょっと冒険だった気もしますが…。

そして、バスや電車に乗れるようになることで、思春期には立派に一人旅に出かけることだって、できるようになるのです。そして、留学でもすれば一気に地球規模の移動が可能となるのです。

今人類は、深海や密林などのごく一部の場所を除けば、地球上のあらゆるところに行くことができるのです。勿論、月に到達してからすでに40年以上経っています。

いずれは火星やその他の惑星へも行動範囲は広がるはずですね。その行動範囲のどこへでも、あなたのマインドを連れていけるのです。

ところが、そのマインドが未だに行けてないところがあるのですが、どこだか分かりますか?どこの職場であろうと、どこの国であろうと、どんな危険なジャングルであろうと、あなたはマインドを連れて行くことができます。

けれども、マインドと共には決して行きつくことができない場所がたった一つだけあるのです。それは、あなたのマインドのもっと奥にある、あなたの本質と出会う場所。

そこへだけは、マインドを持ったままは行くことができません。なぜなら、あなたの本質とあなたのマインドが共存することはあり得ないからです。

本質は真実であり、マインドは虚偽そのものだからですね。