「背景」という真実

聞いた話しですが…、若輩者の魚と年寄りの魚が海の中で会話しているのですが、若い魚が、「どこかにとてつもなく広い海というものがあると聞いたのですが、それは本当ですか?」。

それに対して年寄りの魚が言うには、「わしも聞いたことがあるが、その海とやらは果てしなく広大だが、目には見えないそうじゃ」。

実際のところ、どんな魚であろうと海を見ることはできません。あまりにも近すぎて、あまりにも常にそれに囲まれているために、決して気づくことがないのです。

この逸話は私のお気に入りです。なぜなら、私たちも上の魚たちと同じような立場にいるからです。真実はあまりにも身近で、常に私たちの周りに在り続けているのに、気づくことができないでいるからです。

生まれてからずっと、何がどうあれ常に変わらずに在り続けている目には見えない「何か」に想いを馳せてみると…、どうでしょう?

私の場合、敢えて言葉で表現すると、あらゆるものの「背景」という感覚です。この宇宙、この世界の「背景」は常に在り続けているし、目にも見えない。

「背景」を全体性と呼んでもいいし、神と呼んでもいいし。はたまた、純粋な意識という表現もありますね。本当はどれもしっくりこないのは、所詮言葉だからです。

魚が漁師に釣り上げられたなら、息絶える瞬間に海を見るかもしれません。私たちも同様に、「私」という思いが息絶える瞬間、「背景」しかなかったと気づくのかもしれませんね。

「そんなの知ってる」は危険

私たちのエゴは、物事を知らないよりも知っている方が気持ちがいいのです。知らないということは不安だし、否定的に見られる危険もあるからです。

だからエゴは、知っていることで安心できるのです。そして、知っているということは、もうこれ以上それについて教えを乞う必要はないと判断するのです。

分からないし、知らないから教えて欲しいと願うのは、場合によってはエゴは屈辱的な気持ちになることもあるかもしれません。

けれども、知っているとひとたび思ってしまえば、聞く耳を持つことも難しくなってしまうのです。もう自分は知っているので、それについては聞きたくないと…。

こうなると、非常に気づきの少ない人生になってしまう可能性大ですね。一般常識的な知識、あるいは標準的な社会通念のようなものを妄信して、人生を終えることになるのです。

知っているということの上にあぐらをかいて生きている人には、どんな成長も見込むことができないのです。その一方で、自分は少しは知っているけど、もっと深く知りたい。

あるいは、知っているつもりになっているけれど、本当のところはどうか分からないので、自分の知識を脇に置いたうえで、話しを聴きたい。

こうした態度で聞く耳を持っている人だけが、いつでも新しい気づきを得るチャンスを与えられるのです。それを、謙虚というのかどうかは定かではないですが…。

本当は何も知らないというのが真実です。人生という物語から抜けた瞬間、あらゆる知識はまったく使い物にならなくなるのです。知らないということは、何と清々しく素晴らしいことなんでしょう!

罪悪感と正面から向き合う

クライアントさんとしてセッションを受けにいらして下さる方々のほとんどが、敏感タイプ、繊細で感受性の高い内面を持っていると言って間違いありません。

そして、そういう人たちに概ね共通して言えることは、罪悪感から逃げるという防衛を続けているのです。たとえばその一つに自己表現が苦手というのがあります。

しっかりと自己表現をするためには、相手の気持ちよりも自分の気持ちを優先する勇気がどうしても必要なのです。勿論、人を人とも思っていないような人は例外ですが…。

自分を優先しようとすれば、必ず相手に対して罪悪感を感じてしまうのです。自分の言動によって、相手を不快な気持ちにさせたり、傷つけてしまうと感じることもあるからです。

そうなると、人一倍繊細な人たちは殊更強く罪悪感に苛まれることになるのです。それが辛くて、自由な自己表現、自分を優先した自己表現を抑えるようになってしまうのです。

そのようなタイプの人たちが、罪悪感の奴隷にならないようにするためには、とにもかくにも罪悪感を恐れることなく、自己表現(「ノー」を言う)の練習をすることです。

これを言ったらきっと相手は悲しむに違いないと分かっていても、自分の正直な気持ちとしてそれを言いたいのであれば、罪悪感がやってくることを見越して、自己表現するのです。

罪悪感は間違いなくやってきますね。その時に、慌てずひるまず、落ち着いてその罪悪感と共にいるようにするのです。罪悪感で死ぬことはないのですから。

徹底的に罪悪感を感じるのです。そうすると、ある時不思議なことに起きてることは何も変わっていないのに、罪悪感に対する感覚に変化がやってきます。

罪悪感は決して悪いものではないと気づくのです。罪悪感が悪いのではなく、それから逃げ続けることこそが大問題だと気付けるようになるはずです。

そうなったらしめたものです。そうやって、やってきた罪悪感を一つずつ丹念に感じ尽すことができたなら、もう逃げずに好きなだけ自己表現ができるようになるのです。

印象を持ち歩かない その2

昨日のブログのつづきです。

何ということもない、「ピザ」という単語を10回言っただけで、それが印象に残ってしまい、そしてその印象が知覚を歪ませてしまうということを書きました。

記憶の中に残された印象というものは、厳密に言えばその瞬間にだけ通用するものなのです。それなのに、私たちはその印象をその後の知覚と共に利用してしまうのです。

それが知覚の歪みを起こすということです。幼い頃に歩いた道に、何十年ぶりに戻ってみたときに、あれこんなに細い道だったっけ?と感じた経験をした人は多くいるはずです。

過去のその瞬間の印象はその時のものなので、それを流用してしまえばそのような違和感となって顕われて来るのは当然のことですね。

印象とは、それを体験してしまえば、すぐに過去のものとなってしまうのです。つまり、印象とは過去だと言えるわけです。だから、印象を持ち歩くということは常に過去の影響化に置かれた人生を生きることになるのです。

それが自我のまさにやっていることなのです。自我は自己防衛をするために、あらゆる印象をいつまでも持ち歩くのです。だからいつも古臭い毎日を送るのです。

その一方で、防衛を小さくしていくと、あらゆる印象はその瞬間瞬間に成仏していくのです。執着が小さければ、印象も消えて行きやすくなるのです。

だから常に新しい新鮮な毎日を送れるようになるということです。最初の内、パートナーは輝いて見えていたものが、そのうち古臭く感じてしまうとしたら、それは印象を持ち歩いている証拠です。

印象をドブに流してしまえば、いつもあなたのパートナーは生き生きとした新しい印象の人物となって見えて来るはずですね。

印象を持ち歩かない

かつて、ひっかけクイズの定番となっていたものの中に、相手に「ピザ」と10回言わせた後で、ではこれは?と言って肘を指さすと、相手は「ヒザ」と言ってしまうというのがありましたね。

大抵の人は一度はやられて引っかかった経験があると思います。つい先ほど見たテレビ番組の中で、生まれて初めてそのひっかけクイズを出されたら、必ず引っかかってしまうという検証をしていたのです。

バラエティ番組ですから、笑いながら見ていればいいのですが、ちょっとドキッとさせられてしまったのです。最初にそのクイズの経験がない外国の人に対して検証すると、確かにみんな引っかかるのです。

同様にして、そのクイズを知らないご老人も全く同じようにして引っかかるのですが、なんと幼稚園児に対してやってみたところ、誰も引っかかる子供はいなかったのです。

当然、幼稚園児ですからまだ一度もそのクイズを経験したことはないにも関わらず、幼い口調で「ピザ」を繰り返したあと、冷静に「ひじ」と言えたのです。

番組ではその検証がまったくできなかったことがやり玉にあげられるだけで、なぜ幼児は我々大人のように引っかからないのかを疑問視していませんでした。

これは、幼い子供のうちはまだ思考に振り回される度合いが小さいということの証しなのですね。自我が未発達な分だけ、思考もまだ緩慢のです。

だから、彼らは起きていることだけに集中して、それが終わった瞬間に捨てることができるということです。何かの印象を持ち歩くのは、思考による防衛の結果なのです。

無防備な幼い子供だから、瞬間瞬間をまさに生きているために、「ではここは?」と問われたときに、それまでのことがしっかりクリアされて、邪魔されることなく「ひじ」と言えたのです。

瞬間瞬間の印象を捨てていく注意深さを身につける練習をすれば、幼稚園児のように正確に返事ができるだけでなく、思考を小さくして意識的に生きることができるようになるということですね。

神のおちょくり?

望んでも望んでもタイミングが合わずに、逃してしまったものがあって、しばらくはそのショックの尾を引っ張っていて、もういいやと思えるようになった途端にまたそれを見つけるという経験があるでしょうか?

 

こういうのを皮肉な体験と言うのでしょうね。昨年、あるものを気に入っていて手に入れたいと思っていて、本気になったときに他人にス~ッと横から奪われた経験があるのです。

勿論、不法なことではなかったので、どうすることもできずに、それへの執着を残しながらも、別のそれに準じるものを見つけ、それで手を打ったのです。

ところが、最近その最初のものに肉薄するようなものを見つけてしまい、今度はそれを求めてもうすぐ手に入るかもという状況で、突然最初のものをまた見つけてしまったのです。

何という皮肉でしょうか?もしも神がいるのなら、「あんまり、人をおちょくるんじゃないぞ~!」と言いたくなるのです。

こういう何とも言えないような、絶妙にうまくできている物語は嫌いじゃないです。というより、結構好きかもしれません。

神のおちょくりにまんまと引っかかって右往左往している自分が、おかしくてちょっとかわいくて、やっぱり人間て物語が大好きなんですね。

以前、神に言いたいことがあったのですが、それは、「勝手にこんなところに置き去りにしやがって、この世界望んでないぞ!早く元の場所に戻してくれ~~」だったのです。

けれども最近は、「神さ~ん、あんた冗談がお上手だね~~!」に変わりました。所詮は、冗談、すべてはジョークだということが分かってきたからです。

そうなると、もう何があっても深刻にはなれない。みなさんも、深刻さゼロ宣言しましょう!

本当の不満に気づく

どんな人であれ、まったく不満を抱えていないということはありません。不満を持たなければ、それだけ幸せな気分でいられると知っていても、やはり不満は消えないのです。

それは勿論困ったことではあるのですが、もっと困った事態というのがあるのですが、それは、本当は不満があるのにそれに気づかないでいることです。

なぜそれが最も問題となるかと言うと、本人が気づこうとしない不満が蓄積すると、その不満自体がその存在を知らしめようとして、何等かの形で表舞台に出て来るからです。

それは思ってもみなかったあらゆる形となって、本人を翻弄することになるのです。ところが、本人はその原因が隠している不満感からやってくることには、決して気づけないのです。

そうなると、その表面化した問題を解決する手段がなくなってしまうのです。だから、まず初めに大切なことは、どんな不満があろうとそれを隠さずにいるということ。

そもそもなぜ、不満を隠そうとしてしまうのかというと、その不満に気づいた状態のままでいると、自分がとても惨めな存在だと感じてしまうからなのです。

それは特に幼い子供にとっては絶えられないほどの苦痛なのです。だからこそ、本人もそれとは知らずに本当の不満、本音を抑圧してしまうわけです。

本当の不満を心の奥底に抑圧しつつ毎日を生きれば、何となくスッキリしないというのが常態化しても、人生なんてそんなものだろうと思って自分を慣らしてしまうことにもなるのです。

したがって、本当の不満に気づくこと、それこそが癒しの第一歩であると同時に、それができたなら癒しの半分くらいは進んだも同然なのです。

あとは、自分の惨めさから一切逃げることなく、その惨めさの下に隠された怒りや悲しみ、孤独感を徹底的に味わうことで、表面化した問題はおのずと小さくなっていくはずです。

特別な「私」という存在は不可能

私たちは、自分が知覚することが可能な範囲のスケールに反応するのです。けれども、考えてみればそれはかなり勝手な歪んだ見方をしているということに気づけます。

例えば、科学は今や物質というのも実はエネルギーの一つの形態でしかないということを突き止めています。量子のレベルでみれば、すべてはエネルギーなのです。

物質的な側面では粒子として、またエネルギー的な側面では波動としての顔を同時に持つ、それが量子です。つまり、この宇宙のあらゆるものは一つのエネルギーが様々な形態として顕われたものに過ぎないということ。

地球上のすべての生物は、我々人間も含めて太陽の光と熱によって生かされています。太陽が冷えてしまえば一瞬にして、私たちの生命は消えてしまうのです。

それは太陽と我々が非常に有機的に結びついているということを物語っています。自分の身体の中にある細胞と細胞も同じように互いに有機的に結びついています。

距離が近いために、それらの細胞のすべてを自分自身だと認識しているだけで、遠く離れた太陽も自分自身だと捉えてもいいはずです。太陽は日常の私たちの見ているスケールと違うだけなのです。

肉体という一つの身体の中に納まっている自分があって、それ以外は自分ではないという知覚が、思考による間違いだったと見抜く必要があるのです。

この宇宙のすべては、一つのエネルギーの多面的な表現であり、それらは当然のことながら有機的に結びついて分離することはできません。

その中に、特別な「私」などという存在は不可能なことですね。

思考が完全に止まる時

結論から言えば、思考が完全に停止しない限り、真理と出会うことはできないのです。思考は、私たちの五感という知覚と結びついて、あるがままを見ることを妨げるのです。

以前、純粋な意識とは鏡のようなものだということを書いたことがあります。意識という鏡は、完璧にあるがままを映し出す理想の鏡なのです。

そこに思考がかぶさることによって、見かけ上その鏡を見事に歪ませてしまうのです。ただ歪むだけではなく、一枚の綺麗な鏡に細かなヒビを入れたようにしてしまうのです。

そのため、誰もが真理からはかけ離れた現実の姿を見せられていながら、そのことには気づかずにいるということです。ひとたび、思考が完全に停止したなら、意識という鏡はあるがままの真実を丸ごと映すことになるはずです。

その時に初めて、真理がその姿を顕すことになるのですが、残念ながらその時には思考で作られた個としての「私」は思考と共に消えてしまっているのです。

けれども、一度でも真実の姿を見ることができたなら、もう二度と思考に騙されることはなくなるのです。思考によって、真理を歪ませられることもありません。

なぜなら、真理の姿を見間違うはずはなくなるからですね。私自身の自分がいなくなる体験は、まだほんの少しの思考が残っていたのでしょう。

だから、思考が戻ってきたときには、もう何もかもが元通りになってしまったのです。真理のフレーバーは24時間ももちませんでした。

何が何でも思考が止まるように準備をしなければならないのです。思考自体が思考を完全に止めることは不可能なので、できる準備だけを万端整えてあとは待つのです!

何であれ徹底的にやる!

セッションでもいつもお伝えしているのですが、抑圧することで私たちのマインドが作られるのです。抑圧が内面を分裂させてしまうのです。その分裂した内面をマインドと呼ぶのです。

だからマインドを持っている人間であれば、誰であろうと何等かの抑圧をしてきたということですね。自由な個としての存在が、エゴが作った社会の中で生きていこうとすれば、抑圧は必須だからです。

といって社会を丸ごと否定しているだけではどうしようもありません。社会から脱出するのも、ただの逃走になってしまうので、あくまでも社会の中にいる必要があるのです。

その上で、できる限り自分がやりたいことは何であれ、それこそ徹底的にやり尽すのです。もういい!と感じるまでやってしまえば、執着やしがみつきはおのずと消えて行くはずなのです。

お金がかかるから、世間の常識に反するからとか、親に反対されるからなどを理由にして、中途半端にやってみたり、我慢してやらないでいたらどうなるでしょう?

その抑圧されたエネルギーはいつかあなたにその存在を知らしめるために、表面化することになるのです。それは決して消えることはないのですから。

あなたが何事からも自由でいるためには、何であれ徹底的にやり尽すことしかありません。そうすれば、過去を後悔することも、未来を不安に思うヒマもありません。

使い尽くされたエネルギーは消えて行くのです。つまり、成仏していってくれるということです。過去のエネルギーがきれいに消えて行けば、未来も消えてしまいます。

なぜなら、未来とは過去の思い残しを解決しようとする場所だからです。徹底的に、全一にやり倒せば、過去も未来も消えて、ただ在ることになるのです。