セラピーとはエゴの癒し

昨年極々少人数で二度ほど講座をやったのですが、今年はもう少し人数を増やして、実習にもなるべく時間を取るようにして開講しようと思っています。

今回は、この数年の間にセッションにいらしたクライアントさんだけを対象に行う予定で、本日一斉送信をさせていただきました。

メールを送信させていただいて気づくのですが、結構多くの方々においてメールが届かなくなっているということです。これは、都合でメールアドレスを変更されたということかもしれませんね。

今回からは、若干ですが瞑想も取り入れる予定でいますし、心理セラピストの養成講座とは言え、できる限り自己探求、真理への探究の部分も含めたいともくろんでいます。

セラピストという枠に捉われてしまうと、どうしても真理を見逃してしまうことになるからです。あくまでもセラピーというのは、エゴの癒しに過ぎないということ。

そのことと、エゴの住処である物語から抜けるという究極にも目を向けて行けたらいいなと思っています。受講生の方々が混乱しないように気をつけながら…。

そんな感じで、私がやりたいようにやらせていただくつもりです。個人セッションもいいのですが、講座の良さはグループワーク的な側面があること。

他人の言動によって、より多くの気づきを得ることができるし、また参加者全員が同じエネルギーの方向を向くことでその力が増幅され、より強烈に癒しが進む可能性もあるのです。

ちょっと面倒ですが、やっぱり楽しみのほうが圧倒的に勝っています。なるべく多くの方に参加していただけたら嬉しいです。

他人という名の鏡の使い道

先日のブログで、鏡についてのことを書きました。言いたかったことは、鏡に映った自己像を自分の存在としては見ないということです。

鏡が映し出すあなたの姿とは、他人から見えるあなたの表層でしかないからです。本当のあなたとは、誰からも見ることのできないあなたの内面深くにこそあるからです。

実は私たちは、他人を鏡として使っているのです。その用途は、二つあります。一つは、自己イメージの蓄積です。これは特に幼い頃に行うのですが、大人になっても細々と続いていくものでもあるのです。

私たちは、自分に対する相手の態度、相手のしぐさ、相手の表情、相手の目の奥にあるものなどをゲットして、それを自己イメージとして使うのです。

相手は必ずエゴを持っているため、その鏡は非常に歪んでいて、相手が見たものをそのまま映して返すことは決してないにもかかわらず、一生懸命返された印象を自己イメージの一つとして積むのです。

だから自己イメージはすべてが虚構から成り立っているのです。これは本当に驚くべきことなのです。それなのに、私たちは自己イメージを固く信じて生きているのです。

そして他人という名の鏡のもう一つの用途ですが、それは自分自身をその鏡に映し込んで見るのです。これを投影などと呼びますね。

相手を見ているつもりなのに、実は自分の姿をその鏡に映してしまっているのです。言ってみれば、あなたが見ている世界は、あなたを中心とした鏡の世界だと思えばいいのです。

無数の鏡が、あらゆる角度からあなたを反射してあなたに見せつけているのです。何のことはない、あなたはただこの世界に自分の姿を見ているというわけです。

鏡の世界から抜け出して、真にリアルな世界を生きるためには、あなたが持っている自己イメージをすべてゴミ箱に捨てて、あなた自身が完璧な鏡として世界をあるがままに映すようになることですね。

沈黙の勧め

独りだけの空間で静かにして、何もせずにじっと内面を見つめていると、エゴが不活発になるのを感じることができます。

なぜなら、エゴとは人と人との関係性の中に存在するものだからです。たった独りで何も考えることをしないでいられるなら、エゴの使い道がないのです。

エゴはそのスイッチをオフにさせられてしまうのです。エゴが見当たらないと、人はとても気持ちがリラックスしてゆったりとくつろぐことができます。

けれども、ひとたび誰かがその空間に入ってきた途端、それが親しい人であろうと見ず知らずの他人であろうと、エゴは瞬時に電源オンになるのです。

勿論、エゴの活性化の度合いは親しさの深さと反比例します。つまり、気を使う必要のない親しい相手であればエゴは最低レベルとなり、逆に親しくない他人の場合には強くなるのです。

私たちは社会的な存在であるため、どうしても人と関わらざるを得ないのです。その時に、できる限りエゴが活躍しないようにしたいものです。

なぜなら、エゴとは自己防衛の塊りであり、その原動力は恐怖なのです。そこには純粋な愛はありません。だからエゴと共にいて満ち足りるということは原理的にはあり得ないのです。

そこで、社会の中にあってエゴを活躍させないようにするにはどうすればいいかと考えるわけです。一つは、なるべく沈黙していること。

沈黙すると、自動的に思考が緩み、人との関わりも緩慢になるのです。社会の中で沈黙していたら生きていけないと言うみなさんの声が聞こえてくる気がします。

確かにそうですね、人とのコミュニケーションは通常言葉を使うからです。それでも、よくよく自分を観察していると気づくのですが、不必要な時でも言葉を使っていることが多いのです。

話しをする必要は特にないときでも、何か言葉を発生しないと場がもたない気がするとか、相手に失礼な感じがするなどで、不要な言葉を発してしまうのです。

そんなときに、勇気を持って沈黙してみるのです。そして、可能であれば目を閉じることができればもっと効果的です。近くに誰かがいても練習次第でできるようになるはずです。

試しに、明日はいつもよりも沈黙している時間を増やしてみようとチャレンジしてみて下さい。きっと何等かのよい影響があなたの内面にやってくるはずです。

鏡を見るのをやめる?

私たち人間は、自分のことをどうやって知るのでしょうか?例えば、鏡に映った自分の姿を見て、自分は今こんな外見をしていると知ることができますね。

けれども、それはあくまで鏡の中の像としての自分です。像ということは、イメージです。本当の自分ではなくて、イメージに過ぎません。

私自身は、歳を重ねるごとに、そして最近はもう本当に鏡の中の自分に対して、非常に違和感を感じるようになっています。

あれ、こんなに年取っていたっけ?これが本音なのですが、それ以外にも普段は自分に顔があることを忘れているので、たまに鏡で自分の顔を見ると不思議な感じがしてしまうのです。

若い頃でしたら、しょっちゅう鏡で顔やヘアスタイルなどを確認していたのでそんなことはなかったはずなのですが、今では自分に顔があることが不思議なのです。

鏡が映してくれる自分とは、他人から見た自分の外見でしかありません。自分の内面を映し出してくれる鏡などないのですから。

だから、私からの提案なのですが、今日から鏡を見るのをやめませんか?といっても、鏡をまったく覗き込まない生活をしろと言っているのではありません。

鏡を見るときには、自分という存在を見るというのではなく、ヘアスタイルを整えるため、あるいは女性であれば化粧をするためだけに見るということです。

つまり、目的を絞って見るのです。そこに映し出された像を自分だと信じることをやめるという意味なのです。

そうすることで、内側へと見る方向を変えて行くことができるのです。その方法でしか、自分のことを知ることはできないのですから。

自己表現や怒りを抑える三つの要素

クライアントさんとのセッションの中で、もう数えきれないほど何度もお伝えしていることがあるのですが、それは、自己表現や怒りを抑える三つの要素についてです。

ストレートに言いたいことが言えない人、怒りの感情を表現できなくなってしまっている人が沢山いるのです。その原因はいろいろあるのでしょうけれど、以下の三つが主だった要因なのです。

その⒈

相手のことが怖い場合。恐怖を感じてしまうと、自分を守ろうとして自己表現は抑えられてしまいます。そして、怒りも恐怖が蓋をして感じなくなってしまうのです。親に叱られた幼い子供は大抵恐怖から無邪気な表現をやめてしまいます。

その2.

相手が大変そうだったり、余裕がなさそうで可哀想に感じていると、そんな人に追い打ちをかけるように言いたいことを言ったり、相手に怒りをぶつけることができなくなるのです。なぜなら、可哀想な人を更に辛い思いをさせたと思えば、罪悪感に潰されそうになるからです。

その3.

何等かの理由で自己嫌悪を感じていると、人は自分が悪いのだから仕方ないとして、言いたいことを抑えてしまうし、怒りもしぼんでしまうのです。

幼い時に、この三つの要素の一つでもあれば、そして同時に二つあるいは三つとも思い当たるなら、自由な自己表現と感情表現(特に怒り)は徹底的に抑圧されてしまうということです。

そうした抑圧は自分を守るための方法として、私たちの生き方の中に定着してしまうことになるのです。そうなったら、それを修正していくのは大変なことです。

そうした生き方を作り込んでしまった過去まで遡って、その時の恐怖や罪悪感、自己嫌悪、怒りなどを味わうことで、少しずつ変えて行くことができるのです。

欲望は大損をする

芸能の分野であれ、スポーツの分野であれ、何であれ熱狂的なファンというのがいますね。私自身は、昔から誰かを熱狂的に応援するということはあまりありませんでした。

それでもたまには、真剣に応援するようなこともあって、その時には例えばスポーツの試合であれば、楽しむというよりもドキドキしてしまうのです。

勝っても負けてもいいじゃないなんていう悠長な気持ちではなくなってしまうのです。そうなると、勝たせてあげたいという欲望が出て来るために、選手が失敗したらどうしようとビクビクしながらの観戦になったりするのです。

もうそうなったら、自分の子供が試合をやっているような応援の仕方になって、オーバーに言えば楽しむどころかとても見ていられないというところまできます。

こういうことで分かるのですが、欲望が強くなればなるほど、人は楽しむことから遠ざけられてしまうということですね。一番大切な遊び心が消えてしまうのです。

勿論プロの選手自身は、真剣そのものであるのは当然なのですが、なぜか見ている私の方が若干深刻さが混ざってくるのです。

応援している選手が勝ったらホッとして、負けたら無念な気持ちになり、どっちにしてもその瞬間を楽しむことができなくなっているのですから、大損ですね。

欲望というのは、所詮そのようなものだということです。欲望が小さければそれだけ結果にこだわることがなくなり、瞬間瞬間を楽しむことができるのです。

欲望は時間を無駄遣いしてしまうということですね。

無目的になる!

私たちは、幼い頃から何か目的を持って生きていくべきだということを教え込まれます。目的がなければ、その日暮らしの怠惰な人生になると想像できるからですね。

何か明確な目標を掲げて、それに向かって一歩一歩前進して、たゆまぬ努力を実らせてゴールに至るのが理想的な生き方のように感じています。

そしてめでたく一つの目標をクリアしたなら、次なる更に大きな目標を設定して、継続して邁進することで人生が推移していくということです。

それには終わりがありませんが、そのようにして絶えず前を向いて今よりも明日、明日よりもその先の未来によりよき人生、より素晴らしい自分を築いていこうとするのです。

このようなことがたとえ実践できていないにしても、正しい生き方のように感じている人は沢山いるのでしょうね。実は、私の中にもそうした部分がないわけではありません。

けれども、そのよさげな生き方について、その根本に一つの疑問、問いかけが浮かんでくるのです。それは、なぜ目標、目的がなければダメになってしまうと感じるのかということです。

それはきっと思考の仕業なのです。思考というのは、絶えず過去を題材にして現在や未来と比べたがるのです。比べれば、より良く、より高く、より上手に、より賢く、となるのです。

それがあたかも素晴らしいことのように感じるのですが、ひとたび思考を落としたなら、その比較や判断が消えることで、より○○というものもなくなってしまいます。

すると、意識が突然今この瞬間にのみ固定されるのです。元々意識には過去や未来というものがないのです。それは思考の中にのみあるものだから。

私たちが信じてきた素晴らしい人生、素晴らしい自分を未来に求めるのは、ただの思考の中での話しだったと気づけばいいのです。

私たちは思考ではありません。思考がなければ、どんな目的も目標も消えてしまいます。そのときに初めて、今この瞬間を静かに満喫しきることができるのですね。

占いが当たらない人!?

セッションにいらっしゃるクライアントさんの中には、占いが大好きな人が結構いらっしゃいます。特に女性の場合が多いかもしれません。

占いとは確かに不思議なものなので、私もそれなりには興味がないではないのですが、何で当たるのか考えたことはありますか?

実際に、相当の確率で当たることは周知の事実のようですね。勿論偽物の占い師も沢山いるでしょうから、そういうのは別として…。

占いが当たる一つの理由として考えられるのが、私たちのマインドは予想がつくというのがあります。マインドとは思考の塊りであって、思考そのものは常に古いものだからです。

思考は過去から成り立っているために、全く新しいものを生み出すことはできないのです。だからマインドの行動を予知することは意外と可能なのです。

単純な人の行動パターンはすぐに見破られるのですが、そうでなくても所詮はマインドなのです。だからこそ、予想が的中してしまうのです。

ということは、マインドが落ちてしまった覚者、光明を得た人を占うことは難しいのです。実際、かつて仏陀のところに有能な占い師が会いにいったという逸話が残っています。

その占い師は、自分の技術をフルに動員して仏陀を見抜こうとしたのですが、そうすればするほど、皆目占うことが不可能だという結果が出てしまったのです。

それで困ってその占い師は仏陀にどうしたことかを問うたところ、仏陀が言うには、自分のすぐ未来のことも分からない。まったく予想できないので、占うことができなくて当然だと言ったそうです。

予想がつかない人って魅惑的ですね。占いが当たらない存在になりたいものです!

天国はどこにある?

旅行が好きな人が多いですね。いつも生活している慣れた場所とは別の、どこか違う土地、違う国に行ったら新鮮な気持ちにもなれるからかもしれません。

そんな人に対して、私は密かに「人間、どこへ行っても同じだよ」と言っているのです。旅に行く人たちの気持ちもよく分かるのですが、自分の内側ではどこでもいいという声がいつもしています。

人はどこか別の場所、ここではないもっと違うところに夢を抱いているのかもしれないですね。そこへ行けば何かが変り、もっと素敵なことがあるかもしれないと。

実はあなたの環境がどのようなものであれ、それはあなたの内面を映し出しているに過ぎないのです。天国はどこにあるかを探す必要はありません。

あなたの内面が天国であれば、あなたが今いる場所が天国になるということ。天国を探すということ自体が、あなたの内面が天国ではないことを露わにしているのです。

逆に、もしもあなたの内面が辛く苦しい状態、つまり地獄であれば、あなたがどこへ行こうとそこが地獄になってしまうのです。

その一方で、あなたが変わろうとしている時、何だかもう今いる場所にはいたくないと感じ出すかもしれません。それは、あなたの内面と外側のエネルギーがそぐわなくなってきているからです。

そんな時は、あまり考えずに行動することです。気の進まない場所に長居は無用とばかりに、どこか別の場所に移ることをお勧めします。

なぜなら、無理に居づらいところにいつまでもいれば、せっかく変わろうとしていた内面が、元のところに引き戻される可能性があるからです。