思考+無意識が物語を作る

私たちは、物語の中に入り込めば込むほど、無意識へと移っていくのです。この単純なカラクリに気づいていないことが多いのかもしれません。

けれども、注意深く見てあげれば分かることです。夢の中が最も分かりやすいですね。夢の中では、私たちは意識がありません。

つまり、これが夢だと気づいていないということ。意識とは気づきだからです。これが夢だと気づくことがあれば、瞬時に夢から醒めてしまいます。

夢の中にいる条件は、無意識の状態でいるということなのです。映画を観ているときにも、同じことが言えるのです。あまりにも映画の内容に没頭してしまえば、それが映画だということを瞬間忘れてしまいます。

それもまた無意識の状態なのです。無意識だからこそ、映画の物語の中へ入っていくことが可能なのです。さて、私たちが生きているこの現実ではどうでしょう?

残念ながら、自分の人生という物語の中で生きていると思っているのでしたら、やはりマインドの多くの部分が無意識状態だと言えるのです。

もしも私たちが、一瞬一瞬の自分自身に気づいていられるのなら、それだけ無意識から抜けることができるのです。完全な意識の状態になれば、時間は消えてあらゆる物語も一緒に消えて行くのです。

つまり、目覚めてしまうということです。そこには、どんな物語もありません。在るのは、ただ今この瞬間だけになるのです。過去も未来もあなたも私もすべて、物語を形作っていたすべての部品は消えてしまいます。

それこそが真にリアルな世界なのですね。

真実はシェアできない その2

昨日のブログで、究極の真理、真実は共有することができないということを書きました。だから未だに私たちは思考の中、物語の中で生きて人生を終えて行くことになるのです。

でもなぜ、共有できないかということをもっと突き詰めて見てみたいと思うのです。実は、真理はまったく隠されてはいません。

私たちの目の前にいつもその姿を晒し続けているのです。真理にヴェールがかかっていて、だから見つけられないと思うのは間違いなのです。

もしも真理にヴェールがかけられているのなら、やはり誰かがそのヴェールを剥ぎ取ってくれたなら、相対性理論の発見と同じようにして、みんなで真理を分かち合うことができたはずなのです。

けれども現実はそうなっていません。その理由は、ヴェールをかけられているのは真理ではなく、私たち自身の方だったのです。

だからこそ、仏陀が自らのヴェールを剥ぎ取って真理を見い出せたとしても、それだけでは誰も直接その恩恵を受けることができなかったのです。

仏陀がやったこと、つまり個人的なレベルで自分にかけられたヴェールに気づき、それを剥いでいくという同じことを私たち一人一人が独自にやらねば、真理は見つけられないのです。

もしも身近にいる誰かが覚醒したとしても、その人の真似をしたところで同じことが起きることはほぼないのです。私たちは自分の個性に見合ったやり方で、それぞれに探究するしかありません。

だからこそ、人と共有することができない内面の領域へと、深く深く入っていくしかないのですね。

真実はシェアできない

かつてニュートンが万有引力の法則を発見しましたが、人類はそれをみんなで共有してうまく利用してきました。人類が初めて月へ着陸したのだって、その法則を使って天体の軌道を計算することができたからです。

アインシュタインの相対性理論にしても、素人にはとても難しくてチンプンカンプンではありますが、他の物理学者その他の人たちによって利用され、人類に貢献しているのです。

文明の発展や科学の進歩は、このようにして誰かの発明や発見をみんなでシェアすることができた結果だと言ってもいいのです。

誰か偉大な一人の人間の成果を、みんなで共有することができて初めて、進化を可能なものにするのです。もしもそれができなければ、ニュートンの発見の後も、私たち一人一人が同じ発見をしなければなりません。

それでは、どれだけ時間が経ったとしても、人類の進歩を望むことはできませんね。なぜそんなことをここで言うのかというと、実は私たちが真に求めている真理については、みんなで共有することができないからです。

2500年前に仏陀が光明を得たときに、その成果を共有できたのなら、誰もが労せずして覚醒することになったはずなのです。

けれども結果を見れば明白なように、残念ながら、真理だけはまったく個人的なものなのです。真理は体験であり、理論や理屈で解明することができないものなのです。

思考を超越したものだからこそ、何かの法則や学問のように共有することが不可能なのです。だからこそ、真の宗教は個人的なものなのです。

教典や教義をみんなで読んだり学んだりする組織だったいわゆる宗教では、何万年学んだところで光明を得ることはできないのですね。

思考は常に古く、無思考は新しい

我々の思考は、いつもどんな時でも過去を材料として活動しています。過去のデータを基にして、それらを組み合わせてあたかも新しいものを生み出しているように見せかけるのです。

けれども、それは表面的なことであって、原理上必ずや古いものの焼き直しでしかありません。だから、思考が止まらない人は、『生』に乗り遅れてしまうのです。

『生』は常に全く新鮮だからです。思考だけが、過去を繰り返しているのですから。無思考でいられると、防衛が緩むことによってハートが開くことになるのです。

ハートとは私たちの受容する力のことです。ハートは、いつもまったく新規にやってくる事象をあるがままに受容してくれるため、周りは常に新鮮なもので埋め尽くされていることに気づくのです。

恋人と付き合いだした時には、相手のことがとても新鮮な存在として感じることができたのに、何年か経ってくると、その新鮮さが失われていくという経験を誰もがしているはずですね。

それはあるがままの相手をハートで見る代わりに、思考を使って判断してしまうからなのです。本当は、自分も相手も『生』の一部として常に新しくなっているのです。

昨日と同じ自分、昨日と同じ相手はいないのに、思考は過去を使って相手のことを判断してしまうために、古臭く感じるようになってしまうのです。

外側も内側も沈黙し、耳を澄ました状態で今この瞬間に在れば、思考が止まり、ハートが開いて新鮮な自分、新鮮な相手、新鮮な『生』を満喫できるはずなのです。

『生』の流れに同調する

人間の肉体とマインドというのは、非常に互いに強く結びついて影響しあっているのです。だから、マインドを静かにしただけで、身体も休まるのです。

逆に身体を静かにさせれば、マインドも静止状態になるということです。この性質を利用することで、容易にマインドを静かにさせることができます。

つまり、身体をじっとして全く動かないようにすることで、それにつられてマインドがその活動を控えてくれるのです。だから、一般的な瞑想をするときには基本的に身体を静止させるようにするのです。

そうやってマインドが静止するにつれて、自分の周りに満ち満ちている『生』と同調していくような感覚になれるのです。最初はそのことを理解できないでいました。

時間は刻々と進んで行くのに、自分が静止していてはそこにずれが生ずるはずだと思っていたからです。けれども、それは間違いでした。

時間の進み方というのは、実は物語の流れのことであり、それとは同調しなくて当然だったのです。物語の中の登場人物として忙しく活動すれば、勿論その物語と同調します。

けれども、一方では『生』そのものが時間とは無関係に瞬間瞬間発生しては消滅するということを繰り返しているのです。マインドが静止状態になればなるほど、その『生』のリズムと同調することができるということなのです。

マインドが少しでも動けば、その動いた分だけ『生』との同調がはずれてしまうのです。それが私たちの通常の生き方だと思って間違いありません。

瞑想によって、一度でも『生』と同調できた感覚を体験することができれば、二度とそれを忘れることはできなくなるはずです。

日頃から無理せずにくつろいでいること、そしてまるで身体が死んだかのように静止させて、マインドを見張り続けるのです。呼吸や瞬きも本当は止められるといいのですが…。

うまく行けば、その同調した感覚がやってくるはずです。それが全体性と一つになった感覚とも言えるのでしょうね。

人工知能の進化と人類

今から30年も前のことですが、私が会社員だったころ、その会社では最先端?とも言われる人工知能(AI)について、盛んに研究していました。

と言っても、その頃のAIは名ばかりで、その正体は単なるプログラミング言語だったのです。これでは未来はないなと思ったのを憶えています。

あれから、知らぬうちにAIの分野は飛躍的な進歩を遂げていたのですね。とうとう、囲碁の世界王者を負かすコンピューターが出現してしまったようで…。

長い間、コンピューターがどれほど進化しても、決して人間のような心を持つことも意識を持つこともできるはずがないと思っていました。

ところが、この5~10年くらいのうちに、私自身が持っていた人間についての認識が変化してしまったために、AIについての見方にも変化が起きたのです。

というのも、そもそも人間が特別な存在であるという思い込みがなくなってしまったのです。今や、脳科学の世界では常識ですが、人間には自由意志というものがありません。

ある人が人間のことを、「肉体精神機構」と呼んでいるのを知って、思わずなるほどと感じたものです。その意味は、私たち人間には魂などというものはないということ。

自律的な存在のように見えてはいるのですが、本当は肉体と精神が合体したメカニズムであるということです。つまり、思考と感情と気分を持ったロボットだということ。

先日も書きましたが、人間には意識があるという表現は誤解を生むのです。本当は、肉体精神機構である人間の奥には意識が在るということなのです。

純粋な意識は、どんなものの奥にも在るので、人間が特別ということではないのです。ただ、人間だけが、意識の顕在化が他の動物と比べて顕著だということ。

AIの進化によって、知性という観点から人間を特別視することができなくなるだけでなく、意識がAIを媒介として顕在化する日が来ないと誰が断言できるでしょうか?

外側から内側へ、内側から超越へ

私たちの意識というのは、外側の世界へと向くように条件づけられています。あなたを取り巻いているものに、注意が向くように仕込まれるのです。

私たちの知覚そのものが、外側の世界からの情報を取得するようにできているということもその要因なのです。放っておけば、外に何かを見い出すのです。それはとても容易なことなのです。

その一方で、知覚を使うことなく、自分の内側へと注意を向けることには慣れていないのです。見ることも聴くことも、触れることもできないのですから。

だからこそ多くの人たちは、外側の世界に魅せられ続けるのです。言ってみれば、自分以外のターゲット、つまり客体、モノへの関心です。

そこから人生が始まるのですが、どうやら外側の世界へ期待しているだけでは決して満たされないと気づいた人だけが、第二のステップである内側へと向くようになるのです。

ある人は苦しみ抜いた末に、またある人は絶望して、そして向きを180度変えるということに気づくようになるのです。

ひとたび内側へと向けることができると、そこには思ってもみなかった広がりがあるということに気づくようになるのです。

それまでは、自分なんてこの宇宙からすれば、何と小さなものかと思っていたのですが、実は内側の世界は宇宙と同じかそれ以上に広大だと気づくのです。それが客体から主体への変化です。

客体の世界を生きる人にとっては、行為が極めて重要となるのです。物的世界でやっていくためには、人は行動的でなければならないからです。

一方で、主体の世界を生きる人にとっては、行為は重要ではなく、重要なのは感性なのです。だから、そういう人は非活動的で、眠たげで、ちょっと怠惰な感じがするのです。

客体の世界の代表が科学だとすれば、主体の世界の代表は芸術と言えるかもしれませんね。そして更なるステップアップがあるとするなら、その両方を超越すること。

外側であり、内側でもあって、そのどちらでもない、それが意識なのです。意識に意識を向けるようになることができれば、外と内を超越して、客体でも主体でもない、両方を目撃する純粋な意識としての気づきになるのですね。

幻滅の勧め!

もしもあなたが、大好きな彼氏や彼女、あるいはパートナーから、「あなたに幻滅した!」と言われたら、とても悲しい気持ちになるはずですね。

誰だって好きな人から否定的な評価をもらいたくはないからです。けれども、それは実はとても良いことなのです。なぜだか分かりますか?

幻滅とは、読んで字のごとく、幻想が滅することだからです。つまり、まず初めに幻想があって、それが滅する(消えて行く)ということだからです。

本当のことに気づくことだから、決して悪いことではありません。そもそも、幻想を抱いていたのは相手の勝手なマインドであり、その幻想によって自分を見られ続けるのは心外です。

あるがままの自分を見てもらって、それで判断してもらわなければ、相手の幻想に合わせた自分でいようとなどしたら、それこそ病気になってしまいます。

幻想自体にいい悪いはないのですが、それを信じることから不幸がやってくるのです。あらゆる幻想は、自分の都合に合わせたものであるため、言葉を変えれば現実逃避とも言えるのです。

相手に幻滅して、自分にも幻滅して、人生に幻滅して、この世界に幻滅することです!そうして、初めてあるがままのすべてをそのままに見て、受け容れることができるのです。

徹底的に幻滅することです!

意識の正体

変なことを言うようですが、意識はただ意識であってそれ以外ではないのです。意識には属性もないし、種別などもありません。

意識には年齢もありません。10歳の意識とか、20歳の意識というものはないのです。意識には性別もないし、国籍も当然ありません。

意識には大きさもなく、形も色も何もありません。意識には位置というものもなく、だから移動するということもありません。

結局、私たちにとって最も得体の知れないもの、それが意識なのですね。そのくせ、意識こそが私たちの本質そのものだというのですから、不可思議この上ありません。

意識は、あらゆるものを入れる容器のようなものということもできますが、意識自体を何かの中へ入れるということは不可能です。

意識を見ることもできないし、それを感じることすらできません。なぜなら、意識は客体となることができないからです。

意識は決してターゲットにはなり得ないのです。この二元性の世界を生み出し、それを受容し、また世界はその中へと消えて行く。

結局、意識という実存だけが在るのです。それは気づきであり、全体性であり、神と呼んでもいいのかもしれません。

個人としての自分は地に落ちる

長い間、自分という個人は一つのまとまりとして存在しており、それなりに一貫性を持っているし、泥酔でもしない限りは、ある程度信頼に足る奴だと思ってきました。

それが予想だにしなかったのですが、次第に自分という個人としてのまとまりが曖昧になってきた感覚がするのです。

そればかりか、生きているという感覚さえも曖昧になって、いわゆる現実感というものが激減してしまったように感じているのです。

これがちょっとした病的な症状に過ぎないのか、それともエゴの弱体化によるものなのか、自分ではなかなか判断がつかないのです。

いずれにしても、それで困るということは全くないので問題はないのですが、この先自分がどのような感覚の方へ行くことになるのか不明なのです。

セッションでクライアントさんとお話しすれば、特別何も変わった点はないと思われるはずだし、それは確かにそうなのですが、独りのときには何だか怪しい感じがしています。

何から何までそのままでいいじゃない!というのが増えてきたし、どんな問題も所詮は大したことはないということがはっきりしたのでしょうね。

悲しかったら悲しめばいいし、悔しかったら怒ればいいし、じっとしたければずっとじっとしてるだけ。そうすると、個人としての完成度は地に落ちる。

その一方で、少しずつ本当に少しずつですが、個人が解体していって、自分も他人も誰もいない物語のない実存に気づくようになるのかもしれないですね。