二種類の夢

夢には二種類のものがあるのです。その一つは、目を閉じてみる夢であり、もう一つは目を開けてみる夢。前者の方は誰でも知っている眠っている時に見る夢のことです。

後者の方は、朝起きてから寝るまでの活動中にみている夢のこと。つまり、私たちがこれが現実だと思って固く信じているもの、これも夢なのです。

この二種類の夢には勿論共通することがあります。一つは、どちらも思考という素材によって出来ているということ。思考が両方の夢を紡いでいるのです。

そしてもう一つの共通点は、どちらも夢であるということの認識を持てないまま、その夢の中にいるということ。

寝ている間に見る夢の中で、それを夢だと認識することは通常ありませんね。ごく稀に、気づくこともあるのですが、その時はすぐに目覚めてしまうはずです。

なぜなら、夢とは無意識の中にしか存在できないからです。気づくということは、意識的であるということなので、夢は消えてしまうのです。

それと同じことが、現実という夢についても言えるのです。私たちは目覚めて活動している間は意識があると思っていますが、その意識の約10倍は無意識なのです。

そんな状態でいるからこそ、夢を見続けてしまっていて、しかもそのことに気づくことができないでいるのです。

あるがままの現実が夢だと言っているのではなく、私たちが認識しているこの現実、物語に満ちているこの人生こそが、夢だと言っているのです。

私たちの無意識がすべて意識になって初めて、本当にあるがままの現実を目撃することになるのでしょうね。それが夢から醒める、覚醒ということなのです。

失って気づくこと

私たちは何かを失うと、悲しくなったり途方に暮れたりします。それが大切なものであればあるほど、ショックが大きくて受け入れがたいのです。

幼い子供が親を失った場合などは、その小さな心ではその事実を受け容れることができないために、どこかで親が生きていると思うようになったりするのです。

その一方で、これを失ったらとてつもなく辛いだろうと思っていたものが、実際にはそうでもなかったということも多々あるのです。

私の場合ですが、10年の間、セッションルーム兼住居として使っていたとても快適なマンションから出なければならなくなったときがあったのです。

その直前までどうなることだろうかと思っていたのですが、いざ失ってみると意外にさっぱりしたというか、単に元に戻ったというだけでした。

人は不便になった程度ではどうということもないのですね。逆に、いいこともあって、今度はただ快適なだけでなく一点豪華主義というか、目的を絞って自分のスペースを手にするという視点ができたのです。

失うという体験には、とてつもなく大きな気づきのチャンスがあると思っています。勿論ダメージを受けたり、心が傷つくこともあるのですが、それでも、いやそうであればあるほど、それだけ大きな気づきがいつかやってきます。

もしもあなたが、今ちょうど何かを失ったことで気持ちが落ちているのでしたら、そこから逃げようとせずにその気持ちを充分に支持してあげることです。

それがうまく行けば、それを逆手にとって大きな大きな意義ある気づきのチャンスが到来したことにも気づくようになれるはずなのです。

自己想起をライフワークにする

私にとって、最も難しくてかつ最も人生そのものになっていること、それが自己想起です。グルジェフが言っていた自己想起とは、自分に気づいている状態のことです。

実践したことがなければ、それがそんなに難しいことだとは気づけないはずです。朝目覚めてから夜眠りに就くまで、できるだけ自分自身に気づいているようにすることは、とても難しいことなのです。

なぜなら、私たちは自分の周囲に起きている様々な出来事に気を取られて生活しているからです。気を取られてもいいのですが、それが100%になってしまうのです。

もしもそれが90%だったり80%であるなら、残りの少しだけでも自己想起に使えるはずなのですが、そうはなかなかいかないのが実情です。

周りで何が起きているかということに意識が向くこともあるし、自分が直接体験していることに意識が向くこともあるのですが、自己想起とはその体験者に意識を向けることなのです。

自己想起の素晴らしいところは、自己改善というエゴの欲望から離れて行くことになるからなのです。自分を変えようとするその自分に気づいていること。

また、自己想起が特に難しいと感じるのは、何等かの苦痛がやってきたときです。クセですぐに自己想起し続けようとするのですが、苦しさが大きければそれだけ自己想起は明らかに邪魔されます。

そういった余裕がなくなった時にこそ、自己想起の練習をするチャンスなのだと分かってはいるのですが、自己想起されてる側の自分だけになってしまうのが分かるのです。

人生何をしていいか分からないという人、何をしたいのかも分からずに苦しんでいるなら、この自己想起をお勧めします。なぜなら、いついかなるときにでも、お金も時間も労力も必要とせずに練習できるからです。

そして、その練習によって、意識的に生きることができるようになれば、最期のときに意識的なままでいられるようになり、その場合には次の人生が最後となるはずです。

身体という牢獄?

私たちは、肉体に閉じ込められています。自分の身体という牢獄の中に入りこんで、そこから抜け出すことができなくなっているのです。

それなのに、そのように感じながら生きている人は少ないのではないでしょうか?なぜなら、私たちは自分が行きたいところに、身体が連れて行ってくれるからです。

もしも、身体の一部が例えば家の柱にでも結び付けられていたなら、その場合には閉じ込められてる感が起きてくるはずなのです。

身体ごと移動することができるからこそ、身体を牢獄のようには感じないということなのです。そしてもう一つは、身体と自己同化してしまっているということ。

自分が身体の内部にいるというよりも、身体自体が自分の一部のように思っているからこそ、やはりそれを牢獄とはみなさないわけですね。

身体との同化を見抜いたとしても、やはり身体の外へは通常出れないのですから、そこはとても不自由なのです。その不自由さを感じてみて下さい。

と言っても、身体は決して悪者ではありません。それどころか、身体という神秘を体験させてもらっているということに驚くことができるなら、そこには感謝しか残りません。

結局、その不自由さは身体からやってくるのではなく、自我からくるものだと気づけばいいのです。自我、つまりマインドとの自己同化こそが本質的な不自由さの張本人だということ。

身体を牢獄と感じるところまできて、初めてそれがマインドによるものだと気づいたときに、やっぱりどうしてもこの現実という夢から目覚めたいと、今日もそう思うのでした。流れとしては、

身体が牢獄とは感じない → 身体との同化をはずす → 身体が牢獄と感じる → マインドとの同化をはずす → きっと自由と不自由が消滅する…

夢と現実は同じ その2

昨日のブログで、夢と現実は本質的に違いはないということを書きました。そのことをつくづく感じていると、やっぱりこの現実から目覚めたいという気持ちが強くなるのです。

朝目が醒めたときに、ああこんな夢を見たな、あんな夢を見たなと思い返すことが多々あるのですが、ずっとその夢の中にい続けたいなどと思ったことはありません。

それはきっと誰にとっても言えることなのではないでしょうか?すごくいい夢であったとしても、また悪夢であればなおのこと、夢からいずれは醒めてくれないと困るのです。

どんな夢であろうと、朝がくれば自然に目が醒めると信じているので、夢から醒めることができなかったらどうしようなどと考える人はいないのです。

でも本当に延々と夢の中を堂々巡りすることになったら、それは絶望的な気持ちになるはずです。勿論夢の中では、それが夢だと気づいていないので大丈夫なのですが…。

この現実でも同じことが言えるのです。これが夢と同じだと気づいていないからこそ、この現実の中で何とかして幸せになろうと頑張るわけです。

けれども、これは現実という名の夢なのだと理解すれば、やっぱりここから目覚めたいという気持ちが強くなるはずなのです。

この夢から真に目覚めるためには、夢を見ている自分のことを思い出す必要があるのです。そのためには、物語(外側)にばかり向かっていた意識をできる限り内側へと向けること。

その最奥に在って、目覚めている自己と出会う瞬間に、私たちは消えて行くのです。なぜなら、私たち自身が現実という夢の住人に他ならないから。

真に目覚めている自己、それこそが全体性なのですね。

夢と現実は同じ

私たちが睡眠中に見る夢と、目覚めているときの現実は真逆だと誰もが思っています。夢の方は、仮想のものであり、現実は事実だからですね。

けれども、どちらも全く同じ素材でできていると知ることは、とても意義あることなのです。だって、互いに対極にあるもの同士をひとくくりにできるのですから。

実はどちらも思考という素材で作られているのです。眠っている間にも、思考が物凄く働いて、夢を紡ぎ出していることは周知の事実です。

一方私たちが現実だと思っているこの世界での出来事も、実は思考を通して解釈された結果なのです。現実がないわけではないのですが、思考を通して現実を見ているということ。

夢の中でも、私たちはこの現実と全く同じように、深刻になったり、もがき苦しんだりします。夢は目が醒めたら全てなくなるのですが、現実も同じなのです。

私たちが真に目覚めたなら、この現実を形作っているすべての物語がなくなるのです。地球上には自分も含めて誰もいなかったことに気づくことになるのです。

いやいや、夢の中で誰かに殺されたとしても、目覚めれば自分が無傷であることに気づくだけだけど、この現実で死んだらもう終わりだろうと考えるのが普通ですね。

けれども、これについても同じことが言えるのです。この現実という物語の中で死ぬと、私たちが自分だと思っていた身体と自我は消滅するのですが、本当の自己は永遠の実在として在り続けるのです。

夢と現実は本質的には違いがないということに気づかされると、深刻さがどこかへ行ってしまうはずです。そしてもっと気楽に、悠々と生を楽しむことができるはずですね。

死なないし…

人は、追い詰められて、切羽詰まって、テンパって、非常に視界が狭くなって、考えが膠着してしまうようなことってありますよね。

そんな時、大抵は何度も同じことをグルグル考え続けてみたりして、そのくせ何も解決せず、一向に晴れやかな気分にはなれなくなってしまうものです。

そういうときに私なりの打開策があるのですが、それは「どうせ死なないし…」と自分に言ってあげるのです。死ぬわけじゃないだろう、そう思うだけで気分が楽になるのです。

クライアントさんとのセッションの時にも、気が付くとよくそれを使っている自分に気づくことがあります。セラピストは往々にして、クライアントさんに癒しを実践してもらおうとして、追い詰めてしまうこともあるのです。

そして困ってしまったクライアントさんに対して、結果どうなったところで死なないでしょ?と言って突き放すのです。若干冷たい感じもしますが、それでも大丈夫。

所詮は、死ぬわけではないのですから。何がどうなったところで、死なないし…。そうやって、深刻になって玉結びみたく固くなったマインドをほぐしてあげるのです。

そうすると、ふっと楽になって、突き詰めていた考えが沈静化してくるのです。その方がかえって名案が浮かんだりして、よい結果が出る可能性もあるのですね。

例えば、明日職場で上司に言いづらいことを伝えなければならない、気が重いし、できるかなあと考えながら寝る代わりに、何であれそんなことでは死なないし…をやるだけで、寝やすくなるはずです。

よかったら、みなさんも是非試してみて下さい。

心が消耗するとき

人が疲労を感じるとき、通常は肉体的な疲労と精神的な疲労が入り混じっているのです。そして、肉体的な疲労だけの場合には、一晩寝れば概ね回復してしまいます。

ところが、精神的な疲労は寝ても休んでいても、なかなか癒えるということがありません。心が消耗してしまった場合、回復には時間がかかるのです。

なぜ心が消耗するかというと、実はあらゆるネガティブな感情はエネルギーを必要とするからです。悲しみの中にいれば、他に何もせずともエネルギーが奪われていくのです。

気が進まないこと、やりたくない仕事を無理やりし続けたりすると、意識下では盛んにネガティブな感情を発生させて、それをやめさせようとするのです。

その感情がエネルギーを必要とするために、本人は消耗して疲れ果ててしまうのです。逆に、ポジティブな感情はエネルギーを発電することができるのです。

だからこそ、大好きなことをいくら頑張っても、やればやるだけエネルギーが充電されて、疲れ知らずな状態に自然となってしまうというわけです。

つまり内面の消耗度というのは、ある種のリトマス試験紙のような役割を果たすことができるのです。人は自分を騙すことが得意です。

もしも自分を欺いて、気に入らないことをやりたいことだとして自分に強いた場合には、自動的に消耗が激しくなってしまうということです。

訳の分からない疲労感やなぜか消耗しているなと感じる場合には、心を静かにして自分の本音に耳を傾けてみて下さい。びっくりするくらいに我慢させていたことに気づくことになるかもしれません。

「どちらでもない」が最強

最近、「どちらでもない」という感覚が自分の中で定着してきたように思っています。自分の仕事は好きですか?と聞かれたら、好きでも嫌いでもどちらでもないと答えます。

先日、あるクライアントさんに神を信じますか?と唐突に聞かれて、信じてるわけでも信じてないわけでも、どちらでもないと答えたと思います。

あなたは今幸せですか?と聞かれたら、間違いなく幸せでも不幸でもどちらでもないと答えるはずです。このどちらでもないという態度は、一般常識的にはアウトかもしれませんね。

私たちは幼い頃からずっと、しっかりとした自分の意見を持つようにと教わってきたからです。何食べたい?と聞かれて何でもいいよと言ったら、大抵は若干嫌われるでしょうね。

どこに行きたい?と聞かれても、どこでもいいし、どこにも行かなくてもいいというのが本音なのですが、こういうのは優柔不断なダメな奴と判断されるのです。

けれども、本当は最強なのです。どちらでもないという真の意味は、その両方を含み、超越しているということだからです。どちらかに決められない優柔不断というのとは根本的に違うのです。

私は実はずっとそのような自分をあまり良しとしてきませんでした。自分は絶対これ!という決断というか、思い入れの強さのようなものが欠如しているからです。

それがようやくこれでいいんだということが分かってきたのです。人には嫌われるかもしれませんが、仏陀が中道と呼んだ生き方に近い感じがするからです。

人は自分に対する評価というものが、いつか変わっていくものなのですね。

幸不幸は思考が作り出す

かつての思い出に浸って、あの頃はよかったなあという人がいれば、いや今が一番いいという人もいるでしょう。何だか幸せ過ぎて怖いという人がいれば、不幸の真っただ中と思っている人もいます。

ところで、瞑想中に自分は幸せなのか不幸なのかを見ようとしたらどうなるでしょうか?実は瞑想が深ければそれだけ幸不幸から離れてしまうのです。

つまり、幸福でも不幸でもないという状態になるということ。どうしてかというと、幸福感も不幸な感覚も、どちらも思考と共にしかあり得ないからです。

もしもあなたが、不幸を感じているとしたら、不幸を作り出す思考が動いているということです。思考が過去を思い出して、自分の望みとは真反対の体験をしたことを考えているかもしれません。

あるいは、思考を使って未来に起きそうな不都合なことをグルグルと考えているかもしれません。過去も未来も思考の中にしか存在しない架空のものです。

その架空の中でしか不幸というものはないのです。勿論幸福も同様です。だからこそ、瞑想の中に入って思考から離れることになると、幸不幸が消えてしまうのです。

今この瞬間に不幸な人というのは絶対にいません。なぜなら、今この瞬間の中では思考は動くことができないからです。ほんの少しの過去と未来もなければ、思考は停止するしかありません。

自分は不幸だと断言できるなら、思考を止めてからもう一度確かめてみることです。その不幸な感覚が幻想に過ぎなかったと気づくはずです。

思考を止めることが難しいなら、練習をすることです。それも難しいのでしたら、まずは癒しを進めて行って感情を解放することができたら、自然と瞑想の中へと入っていくことができるようになります。