期待が消えて行くと…

世の中には、引き寄せの法則と呼ばれるものがあって、いろいろ話題になったりしますね。その詳細は知らないですが、自分では願うと叶うということを知っています。

私の個人的な経験で言えば、強く願うというよりもリアリティを持って願うということ。それも継続的に願い続けることで、願望が実現するのです。

これは私の場合のことなので、どれだけ普遍性があるのかどうかは分かりません。人によって、ただ強く願う方がより効果があると言う場合もあるのでしょうね。

ただし、これだけは間違いなく言えるのですが、どんな願望が叶ったとしても、その結果自分が以前よりも満たされるということはないということです。

勿論その瞬間は嬉しいし、新しい体験は快適なものかもしれません。それでも、それはただそうなだけで、自分の内側深くにまでそれが届くわけではないのです。

何をしても、どこへ行っても、何を手に入れても、誰と一緒にいても、深くまでそれが侵入できるわけではないということです。それだけは明らかなこと。

快適でない暮らしよりも、快適な暮らしの方を望むのは当然ですし、好みの仕事や好みの人たちと一緒の方が嬉しいのは当り前です。

けれども、それはただそれだけで私の実存を揺らすような事柄では決してないということは確かなことなのです。そのことに身を持って気づくことができれば、人生への過度な期待は消えて行くはずです。

そしてあらゆる期待が消滅していくなら、その時にはあるがままで完全に満たされている自己に気づくことになるのです。

所有と実存

 

昨日のブログで、防衛か無防備かという二つの生き方について書きました。osho は、そのことを違う言い方で表現しています。それは、所有と実存です。

防衛の中の多くは所有によってなされようとするために、所有に焦点を絞った言い方となったのだと思います。

私たちは、不安感や不足感、寂しさや不満を外側の何かを所有することで、何とかごまかそうとするのです。それはお金だったり、家だったり、パートナーだったり、家族だったり、仕事だったり。

けれども、よく見つめてみれば理解できることですが、そういう外側のものを所有するということは不可能なことなのです。私たちが真に所有できるのは、自分自身でしかありえません。

偽物の所有だからこそ、どれだけ所有したところで満たされることは決してないのです。そのことに気づけた人だけが、虚しい所有から離れていくのです。

その人は、自分自身の実存へと意識が向くようになっていくのです。所有という虚しい防衛から離れて、実存へと向くとき、それは同時に無防備な自己へと変化するのです。

あなたの内側深くに在る実存こそ、完全なる無防備な状態だということです。そこで初めてすべての苦しみから解放されるのです。

防衛か無防備か

あなたはどんな時に、楽しい気持ちになったり嬉しくなったりするでしょうか?どんなことがあったら喜び溢れることになるでしょうか?

それはきっと人それぞれに違うのかもしれませんね。けれども、実はそうした何か本人にとって特別なことがあったから嬉しい気持ちになるのでは本当はないのです。

起きたことは実はきっかけに過ぎないのです。何のきっかけかというと、無防備になるためのきっかけだったのです。ここが今日お伝えしたい部分なのです。

つまり、あなたの気持ちが素晴らしい状態になるのは、きっかけはともかくとして、無防備な状態になったからこそだということです。

他人から見て、それがどんなに羨ましいことであったとしても、当の本人が無防備なマインドの状態になることがなければ、喜び溢れることはできないのです。

逆に、大したことが起きたわけでもないはずなのに、物凄く気持ちのいい心の状態になれたのなら、それは無防備な状態がやってきたからだということ。

逆に、何が起ころうとも、防衛に凝り固まっているなら、残念ながら喜び溢れる状態になることは決してないのです。そのことに、深く気づくことです。

もしもあなたが素晴らしい気分になりたいと願っているなら、どんなきっかけがなくとも、自分のマインドを無防備な状態へと持っていくことができるなら、その願いは実現するのです。

最大の無防備とは、自分のことをすっかり忘れてしまっているとき。もっと言えば、守るべき自分がいないと感じるときなのです。

その状態に持っていく練習をすることができます。それが瞑想を積み重ねることですね。

三種類の無知

無知には三種類あるという話しです。

最も初歩的で無垢な無知とは、真実を知らずにいて、知らないでいるということに気づいていない状態です。動物や人間の赤ちゃんがこれに当たります。

私たちの誰もが生まれてしばらくは、この最初の無知から始まるのです。それから、徐々に知恵がついてきて、自分で知識を身につけるようになっていくのです。

これが二番目の無知なのです。つまり、真実を知らずにいて、そのくせ自分は多くのことを知っていると思い込んでしまっている状態です。

最初の無知の状態から、二番目の無知へと進んで行くのはほぼ自動的と言っていいのです。ほとんど誰もがこうした推移をするのです。

そしてその先には、三番目の無知の状態というものがあります。それは、真実を知らずして、自分は何も知らない無知そのものだということに気づいている状態。

これが無知の中で最上級のものなのですが、二番目の無知から三番目の無知へと進む人は、もしかしたら稀なのかもしれません。

多くの人々は、二番目の無知の状態で停まってしまうのです。沢山の知識を身につけた人ほど、その傾向が高くなるかもしれません。

なぜなら、自分の無知さには気づかぬままに、この世界で成功者となることもあるからです。どれほど知識を蓄えたとしても、それが何にもならなかったと気づいた人だけが、その先へ進むチャンスがあるのです。

そして幸運にも三番目の無知の状態へと移行できた人だけが、ごくごく稀に真実と触れ合う奇跡がやって来る可能性があるということです。

それは、無知なマインドが退いて、自己の本質が真理として顕われること。それが覚醒なのですね。

すべては出来事で成り立っている!

私たちは通常、何かの出来事が自分や周りの誰かの身に起きると思っています。あなたの人生は、まさにあなたの身に起きた出来事の歴史から成っているわけです。

けれども、仏陀はかつてこう言ったのです。「生は物で成り立っているわけではない、出来事から成り立っている。」この真意は一体何なのでしょう?

つまり、この世界はただ出来事が起きることだけが続いているということ。何かが起きつつあるだけであって、それを体験するナニモノもないということです。

私たちの感性では、例えば何事も起きなくても、自分という個人はただここにこうしていると思い込んでいるのですが、それは間違いだということです。

私たちという主体が存在するという感覚は間違いで、それすらただ出来事の一部として起きていると言いたいのだと思うのです。

だとすると、私もあなたも特別な存在ではなく、川が流れたり風が吹いたりするのと同じように、ただ出来事として起きていることに過ぎないということなのです。

言わんとしていることが分かるでしょうか?あなたが歩くことも、何かを決意することも、単なる出来事の一つだということです。

このことを深く理解するならば、どんなことがあろうと深刻に受け止めることがなくなるはずです。間違いも不正も罪深さも、全部まとめてただの出来事なのですね。

生を気楽に楽しむために

一般的に言えば、私たちの誰もが恐れているのは、死ぬということです。死に対する恐怖が根っこにあって、それから逃れるために自己防衛をしてきたのです。

けれども、実は死について知っている人もいないわけで、本当に全く知らないことに対して恐怖を覚えることはできないはずなのです。

未知のものへの不安というのは理解できますが、激しい恐怖というものはそこには感じることはできないのです。それなら、一体全体死への恐怖の正体とは何なのか?

いくつか考えられるのですが、死から連想することの一つとして、病気になって苦しみ抜くというものがあるはずです。つまり、病気や怪我による苦しみに対する恐怖ですね。

これはかなり根深いものがあるはずです。なぜなら、自分以外の誰かが死に行く時に、そうした姿というものを繰り返し見せられてきた歴史があるからです。

つまり、社会的な経験です。そうした人類レベルの無数の経験が、私たちの記憶の奥深くに刻まれて残っているということなのでしょうね。

そしてもう一つは、死によってこれまであったものをすべて失うという、いわゆる喪失に対する恐怖というものがあるのでしょう。

まがりなりにも生きてきた自分の生を奪われてしまうという恐れ。辛くても馴染のあるものを 取り上げられてしまうことへの恐怖があるのだと思われます。

ただし、よくよく考えてみればその喪失感を味わう自分自身が消えていなくなるのですから、本来何の問題もないわけですね。

そうなると、未知のものだから怖いということもない、喪失を怖がる自己がいないのだから、それも問題なし。となると、やはり苦しみへの恐怖が一番大きいのかもしれません。

そんな苦しみも、一過性のものであって、寄せては返す波のようなものに過ぎないのですから、それほど恐れる必要もないのだろうと。

結果として、死にまつわるどんな恐怖も、実は大したことはないということに気づけば、もっともっと気楽に生を楽しむことができるようになるはずですね。

真に知るとは?

内面に沢山不安を抱えている人ほど、何とかして安心しようと頑張る傾向があります。そして、安心を求める人は、探究するよりも答えを探す傾向も強くなるのです。

なぜなら、探究することは骨の折れる仕事だからですね。一方、誰かからそれなりの答えをもらうなら、非常に安易に安心を手に入れられると感じるのです。

本を読んで知識を増やすことや、誰か権威のある人の言葉を真に受けて、それをただ取り込むことは、すべて信じる作業に他なりません。

手っ取り早く答えを求める人は、大抵が信じるか信じないかのどちらかになるのです。信じてしまえば、これ幸いとばかりに答えが手に入って、表層レベルの安心感を得るのです。

その反対に、疑い深くもなるために、信じないということも多くなるはずです。○○教の信者というのは、そのような人たちの集団だと言えます。

ただ言われたことをむやみに信じ込んで、それ以外のものはすべて信じようとせず排除するのです。どれほどそれを続けたとしても、安心を手にする事はできません。

信じることと信じないことは、同じ一つの防衛の表と裏の関係にあるのです。人から聞いたことや、得た知識に頼ろうとせず、常に問いかける状態にあること。

その問いかけこそが、信じることでも信じないことでも、そのどちらでもない純粋な探究に繋がるのです。子供が無心に問いかけるのは、そこに否定的な疑いというものがないからです。

答えを求めることを慎み、代わりに労を惜しまず自ら体験すること。そのような態度でいることでしか、真に知ることはできないということです。

神の采配

セッションでは、できるだけ丁寧にクライアントさんのお話に耳を傾けるのですが、初回であればなおのこと、よりじっっくりとクライアントさんの人生の土台の部分をリアルな感覚を持ってお聴きするわけです。

その時に、どうやっても自分の許容範囲を超えてしまうような内容のこともごくたまにはあるのです。どうやって、クライアントさんがその過酷な環境で生き抜いてこられたのかを想うと、ただ驚嘆してしまうのです。

クライアントさんの幼い頃のエピソードを聴きながら、その瞬間瞬間をどんな気持ちでやり過ごして来たのかを想うと、私自身が耐え難くなってしまうこともあるのです。

そういう時に限って、意外にクライアントさん自身はしっかりされているというのか、淡々と過酷な過去のお話をされるのです。内容の割には、ご本人の心のダメージは小さいのかもしれないということです。

それで分かったことですが、とてつもなく理不尽過ぎる親に育てられると、比較的早い時期に相手の方がおかしいということを子供の側が見抜くことができることで、その分だけ傷が軽くなるということ。

逆に世間的にはごく普通に見える親であっても、コントロールされて、ペットのように飼育されてしまえば、気づかぬうちに多大な洗脳の中に入り込んでしまうことになり、そのような場合の方が圧倒的に深く病んでしまうということなのです。

よく親がだらしないと、子供がしっかりするというようなことを言われることがありますが、それと似たようなことなのかもしれませんね。

とは言うものの、やはり過酷過ぎる環境でよくぞ生き抜いて来られたと想うと、感動すらすることもあるのです。きっと、クライアントさんが勇気を持って癒しを進めていった暁には、神の采配に気づくことができるのだろうと思うのです。

意識だけが自分を変える

人は絶えず自分を変えたいと思っているものです。より優れた人物になろうとしたり、もっと素晴らしい生き方ができるようにと願っているのです。

ところが、それを願っている張本人はエゴなのです。エゴがエゴを改善しようと努力するわけですから、相当におかしな話しだということに気づく必要があるのです。

自分を変えようと思って、真に変わった人はいないと思って間違いありません。せいぜい表面的なちょっとしたことの変化程度しか成し得ないのです。

自分を変えられるのは、エゴではなく、意識なのです。意識だけが、自分を本当に変えて行くことが可能なのです。意識は、自分を変えようとは思いません。

なぜなら、意識は思考ではないからです。ではなぜ、意識だけが自分を真に変化させ得るのかというと、意識は自分に働きかけることをしないのです。

そうなると、自分というエゴはエネルギーを失っていくしかないのです。意識が自分に対して何もせずに、ただ見守り続けることで、エゴは餌をもらえずにいることになるのです。

その時に限って、本当の変化が起き出すのです。つまり、真の変化とはエゴの衰退によってのみ起きうるということです。

その真逆が、自分が頑張って自分を変えようとしている状態なのです。この違いをよく見分けておくことです。それだけで、日々の力みが小さくなるはずです。

癒しのいらない自己

心理セラピストを生業としている私が言うのもおかしな話しですが、いわゆる心理療法というのは、あくまでも人生という物語の中においての癒しの作業なのです。

こうした一般的な癒しというのは、そのすべてがエゴによるエゴのための癒しのことを言うのです。エゴがエゴを癒そうというのですから、本当は眉唾ものなのです。

エゴとは、自分という個人がいるという間違った信念を土台として作られた幻想の自己のことなのですから、それをどう癒そうと本質的にはどうにもならないのです。

苦しい夢が、少しは楽な夢に変化するくらいはあるのですが、エゴそのものが影のような実体のないものなので、それを癒すということも幻想でしかないのです。

エゴは狡猾なので、癒し始めると本人にとって急に楽になったような気分にさせることもできるし、実際暗いばかりの人生だったものに光が射してくる感じはあるでしょう。

けれども、それもある程度までに限られてしまうのです。エゴの頑張りを癒しに向き直しただけで、その生き方というのは変わらないのですから。

究極の癒しとは、人生という物語から抜け出すことなのです。物語の中には、喜び、悲しみ、希望、絶望など、あらゆるものがごったがえしていて、通常はそれらに飲み込まれてしまっているのです。

それらをただ見守ること、思考を落として静寂の中でただ在ること。そうしてエゴは実在しないと見抜くことができるなら、その時こそ癒しがいらない真の自己と出会うのですね。