マインドも二元性の世界の一部

この二元性の世界で生きるためには、その特徴というものをしっかり押さえておく必要があるのです。そのことに気づかずにいれば、苦悩は増大してしまうのです。

世界が二元性で出来ているのに対して、私たちのマインドは一度にそのどちらか一方のみを見ることしかできないという特性があるのです。

たとえば、ある人のことを信用するというとき、マインドは信用できる様々な理由を持っているのですが、その同じマインドの奥にはその人を信じていない部分があることに気づけないのです。

つまり、マインドとは信じていて信じていないという非論理を受け付けられないということです。ある人をすごく好きというそのマインドの別の部分には、嫌いが隠されているのですが、それにも気づけないでいます。

好きであってかつ嫌いというのが理解不能なわけです。だから、あれほど好きだったはずの人のことを、急に嫌いになってしまったときに、一番驚いているのは本人自身なのです。

信用していたその人のことを、何故かあるときから不信の目で見るようになってしまえば、それも最も驚いているのは当の本人なのです。

こうしたことは、本当はマインドの性質と二元性の世界を理解していれば、当然のこととして受け止めることができるのです。

マインドが自分を守ろうとして、いやなことを頑張り続けてしまえば、いずれは破たんしてその真逆のマインドが表出することになるのです。

けれども、ここでもやはりマインド自身が自らの一部しか感知することができないために、突然やってくる悲劇に耐えられないのです。

マインドを観照する訓練をすることで、マインド自身も二元性の世界の産物だということにしっかり気づけるようになるのです。そうなったら、何が起きてもダメージは小さくなってしまうでしょうね。

求めれば逃してしまう

私たちは、現状に100%満足するということはないのかもしれませんね。良くても、そこそこいいんじゃないかとか、結構いけてるかもしれない、という感覚なのでしょう。

金メダルを取得して、今日が生涯で最高の日です!と言ったとしても、その次の日はもうその感動は下り坂になっていくものです。

あるいはその逆に、今日はとんでもなくついてない一日だったとか、最近低迷していて気分がすぐれないと感じることもあるでしょう。

病気がちであれば、尚更落ち込んでしまうかもしれません。そのようにして、私たちは日々上がったり下がったりを繰り返しているわけです。

それでもいつかきっと今よりも、もっともっといいことが待っているという、淡い期待というのか、希望のようなものを持っていない人もいないのでしょうね。

完全にあきらめきって、未来にどんな希望も持つことができなくなってしまったとしたら、人はどうなってしまうでしょう?生きる意欲がなくなってしまうかもしれません。

だから私たちにとって、未来は非常に大事なものなのです。現状に満たされない不満感を、未来に期待をかけることで何とかやり過ごすことができるのですから。

けれども、長く生きて来ればそれだけ、何があってもどんなものが手に入ったところで、自分が期待するような完璧な、そして永続的な満足を手にすることは不可能だと気づくことになります。

それを深く深く理解することによって、未来へと向かっていた思考が静かになり、意識が優位になっていくのです。人は本当に諦めがついたとき、ようやく今この瞬間の中へ入っていくことができるのです。

それこそが、求めても求めても手に入れることのできなかった平穏な内面なのです。

宙ぶらりんにしておくアート その2

昨日のブログの続きです。

宙ぶらりんにしておくということで大切なことは、主に内面的なことに関してのことだということです。そのことについて、少し補足したいと思います。

マインドの中には、「何とかして~」という部分が必ずあるのです。常に問題を探し出しては、それを何とかしてもっとよくしたい、それをできる限り解決したい、そう思っているのです。

仕事の手順を改善するなどの具体的なことについて言っているのではないということ。目には見えない内側の部分についてのことです。

多くの人たちが日夜続けている、不安を安心に変えるなどはその典型例だと言えます。何としても自分を安心させたいと願うなら、決して安心を得ることはできません。

その逆に、気がつけばいつも不安の中にい続けることになるのです。そうした罠にはまらずに、その不安をそのままに、宙ぶらりんの状態にしておくのです。

それに対して、どんな手出しもせずに、その不安を徹底的に見てあげるのです。手出しすればするほど、相手の力を強化することになってしまうからです。

宙ぶらりんにされたものは、いずれはそのエネルギーを骨抜きにされるのです。そうなれば、不安は自然と小さくなっていくのです。

だからアートと呼びたくなるくらい、それは生きる極意と言っても過言ではないのです。

宙ぶらりんにしておくアート

私たちのマインドというのは、何かの問題を解決したい、あるいは回答を見い出したいという傾向を色濃く持っているということができます。

たとえば、身近なところでいうと、クロスワードパズルというのがありますが、あの空欄を全部埋めることができると、とてもいい気持ちになれるのです。

仕事をテキパキとこなしていく社会人は生き生きとしていて、とても好感を持つことができますね。何かがうまく処理されたら、マインドは快感を味わえるのです。

だからこそ、これで終わりというわけにはいかないのです。何かが解決されたら、すかさず次なる問題が起きるように仕向けるわけです。

つまり、こうしたマインドの特質が在り続けるなら、どうしても問題が必要不可欠だということです。場合によっては、その問題が人を苦しめることになったとしても…。

もしも本当に問題から解放されたいと願うなら、こうした問題-解決のループをどこかで破らなければなりません。そのためには、問題をそのままにしておくということ。

何とかして対処しようとする内面の努力から手を引いて、その問題を宙ぶらりんの状態のままにしておくのです。それには、勇気が必要かもしれません。

解決したときの、慣れ親しんだ気持ちよさや安心を得ようとすることをただ見守ることで、その問題に対して内面的なエネルギーを与えずにいるということです。

そうすると、解決しようとするマインドに餌を与えずにいることができるため、次第にマインドは力を失っていくことになるのです。それが結局は、新たな問題を生み出す力を小さくすることに繋がるのです。

このアートを身につけることは、常に瞑想状態にあることと同じなのですね。

相棒との別離

丸三年とちょっと、毎日欠かさず足代わりに使ってきたクルマを、明日手放すことになりました。主に、お年寄りと小さな子供に人気があった可愛いクルマでした。

これまで乗り継いだクルマは、概ね次のクルマの話題が出たり、もうそろそろ売り飛ばされると言う頃になると、急に調子が良くなったり、あるいはその逆ですねたような具合の悪さを出したりしていたのです。

これは、人に言えば大抵は笑われてしまうのですが、本当の事なのです。それで、今回も次のクルマはどうしようかというのが持ち上がってきたときに、それとなくクルマの反応を見ていたのです。

ところが、まったくこれまでのクルマたちとは違って、完全な無反応なのです。とはいうものの、そのうちにはきっとなんだかんだと言ってくるに違いないと高を括っていたのです。

けれども、今日にいたるまで全く彼は文句一つ言うでもなく、本当に淡々と己の仕事をこなすのみでした。それで、今日仕事が終わって自宅に帰るまでの時間、ずっと彼に言い続けていたのです。

「君はすごいね!」って。身体は小さいのに、何だかとてもしっかりしていて、人に媚びを売って来たり、問題行動を起こして人の気を引こうということもしない。

「人のことを考えない」という、非常に困難なことを彼はいとも簡単にやってのけているのです。ただ自分のすべきことを実直に続けることで人生を生きていく。

まさに彼のような存在に自分もなりたいと思ったのでした。

今この瞬間にすべてが在る

毎日を忙しく過ごしている人は、きっといつもこう思っているのではないでしょうか?さっさとこれを終えて、次のことに取り掛からないとな、と。

そして次のことが終われば、またすぐにその次に控えていることに取り掛かるわけです。それがずっと続いているのが人生なのですね。

それでもときに、今すぐにやらねばならないことが特にないという状態がくると、何だか急にぽっかりと空きができたようで、手持無沙汰になったりするのです。

そうやって、「何もせずにいる」というただただ当り前のことが、何だか違和感があっていたたまれなくなってしまうのです。落ち着いてこの状態を見れば、すぐに変だと気づくはずです。

私たちは、今この瞬間に在ることを非常に恐れているとも言えるのかもしれません。本当は、今この瞬間の中に、あらゆるすべてが在るのです。

それなのに、私たちのマインドは思考を使って今この瞬間だけを見ずにいるのです。過去や未来へと想いを飛ばして、幻想の広がりの中で夢を見ることが好きなのです。

一日のうちのほんの少しの時間だけでいいので、何もせずにいる瞬間を意識的に作ってみるといいと思います。自分を取り囲んでいる今という瞬間は、この世界のほんの一部に過ぎないと思っていたことが間違いだと気づくかもしれません。

思考さえ落ちてくれたら、今この瞬間がすべてだと理解することができるのです。それは時間の流れの奥深くに広がる無限を垣間見せてくれるのです。

でも、ほんの少しでも思考が動き出すと、何でこんなことやってるんだろうがやってきて、すぐに普段の物語の中へと没入していってしまうのです。

物語が悪いのではなく、物語の当事者になってしまうことで、人間に固有の苦悩がやってくるということです。今この瞬間には、どんな物語も入りこむ余地はありません。

そしてそこにはすべてが在るのですから、これ以外に満たされる方法はないのでしょうね。

経験者ではなく目撃者でいる

osho の言葉に次のようなものがあります。

『あなたの日々のすべての活動や働きの中で、目撃者でいなさい、経験者でいてはいけない。』

osho のことを知っている人であれば、きっと何度も出会っている言葉だろうと思うのですが、これがまた本当に難しいのです。

私たちは映画館で映画を楽しむとき、スクリーンに映し出されている物語と自分の現実の人生とを完全に分けているのは当然ですね。

けれども、実は私たちは映画の中に入りこんで、一緒に泣いたり怒ったり、感動したりしたいのです。その物語があたかも本物であるかのようになることで、楽しむことができるのですから。

あくまでも自分は映画の鑑賞者なんだと何度も思い出しながら観るのなら、その映画を思い切り楽しむことはできなくなってしまうでしょうね。

それが私たちの好みなのです。つまり、わざわざ物語の中に入りこむことで、様々な感情をある意味安全な場所から味わって楽しむということが好きなのです。

それと同じことを、この現実という世界の中でやり続けているのです。人生という物語を作り上げて、その物語の当事者として生きる。

あまりに深く入りこんでしまっているために、目撃者でいることは非常に難しく感じるのです。あなたのマインドは経験者としてしか生きることができないからです。

けれども何としても、目撃者であることを訓練しなければ、マインドとの自己同化を壊すことができないのです。見ることによってのみ、対象との距離を持つことができるからです。

目撃者とは、物語を経験しているマインドと身体をただ見ているもののこと。マインドの経験するあらゆる痛み、苦しみ、思考、感情、気分、それらをただ見ることは、私たちを別次元へと連れて行くはずです。

osho のことを知っている人であれば、きっと何度も出会っている言葉だろうと思うのですが、これがまた本当に難しいのです。

私たちは映画館で映画を楽しむとき、スクリーンに映し出されている物語と自分の現実の人生とを完全に分けているのは当然ですね。

けれども、実は私たちは映画の中に入りこんで、一緒に泣いたり怒ったり、感動したりしたいのです。その物語があたかも本物であるかのようになることで、楽しむことができるのですから。

あくまでも自分は映画の鑑賞者なんだと何度も思い出しながら観るのなら、その映画を思い切り楽しむことはできなくなってしまうでしょうね。

それが私たちの好みなのです。つまり、わざわざ物語の中に入りこむことで、様々な感情をある意味安全な場所から味わって楽しむということが好きなのです。

それと同じことを、この現実という世界の中でやり続けているのです。人生という物語を作り上げて、その物語の当事者として生きる。

あまりに深く入りこんでしまっているために、目撃者でいることは非常に難しく感じるのです。あなたのマインドは経験者としてしか生きることができないからです。

けれども何としても、目撃者であることを訓練しなければ、マインドとの自己同化を壊すことができないのです。見ることによってのみ、対象との距離を持つことができるからです。

目撃者とは、物語を経験しているマインドと身体をただ見ているもののこと。マインドの経験するあらゆる痛み、苦しみ、思考、感情、気分、それらをただ見ることは、私たちを別次元へと連れて行くはずです。

今この瞬間の中へ深く入る

私たち人間のマインドの9割は無意識だと言われています。地球上のあらゆる鉱物、植物、そして動物はみな100%無意識の状態であることを見れば、人間が9割無意識でも納得できます。

ただ、人間だけが1割くらい意識的なマインドを持っているのです。その意識的な部分だけが、今この瞬間の中に深く入っていけるのです。

無意識の部分では無理なのです。だから人は、いつも過去と未来の中へと想いを広げて、その妄想の中で生きているわけです。

そんな無意識のマインドに対して、今この瞬間など取るに足りない退屈なものにしか見えないのは当然のことなのかもしれません。

過去と未来は無限に広がっているのに対して、今この瞬間など目に留まらないくらい小さなモノ。そこには、大切な夢も希望も何もない。

私たちが大好きな思い出や後悔はすべて過去にあるし、人生のゴールは勿論未来にしかないのですから、過去と未来だけが生きる支えなのです。

ではなぜ、人は今この瞬間に在りなさいというのでしょうか?それは私たちの本性が意識だからです。充分に意識的であるなら、思考はやってこれないのです。

思考がなければ、常に今この瞬間だけが真実だということを見抜くことができるのです。思考にとって興味の対象にはなれない今この瞬間こそが、無限の広がりを持っているのです。

そして純粋な意識と今この瞬間は、同じものなのですね。

「恥ずかしさ」が生き辛さを招く

小さな時から人一倍感覚が鋭かったりすると、いろいろな不具合や生き辛さのようなものを感じることになるのです。

たとえば、物凄く「恥ずかしさ」の感覚を強く持ってしまうと、あっという間に大切な無邪気さを失うことになってしまうのです。

これを言ったら恥ずかしい、こう思ったら恥ずかしい、こんな感じで何をするにも恥ずかしさが付きまとってしまうために、大抵は自己表現が抑えられてしまいます。

恥ずかしさは、子供なのに大人のような振る舞いをさせてしまうかもしれません。親は、道理をわきまえたいい子だと思うので、問題とは思わないのです。

学校でイジメにあったとしても、お母さんには決してそのことを言わずにいて、全部その子の小さな胸の中にしまいこんでしまうのです。

誰かに助けてもらいたい、誰かに抱きしめて安心させてもらいたい、そういう素直な気持ちも丸ごと恥ずかしさのために隠すことになってしまうのです。

甘えることも恥ずかしい、駄々をこねたりする子供っぽい自分を出すのも恥ずかしい。こうなってくると、大人になっていずれそのツケが回ってきます。

つまり、自分のあるがままをひた隠しにしてきたために、それが逆襲してくることになるのです。そこに子供らしい無邪気さも加算されるので、本人としてはひどく困ることになるのです。

自分の人生を顧みて、ずっと恥ずかしさがあったなという自覚があるのでしたら、今からでもその恥ずかしさから逃げない練習をすることです。

恥ずかしさとは、自分を否定されることの恐怖なのです。実際には、誰も否定などしないということを理解すれば、クセのように逃げ回ってきた恥ずかしさを正面から見ることができるはずです。

実践していくうちに、恥ずかしさとはある種の幻想、作り物だったと気づくことができるはずなのです。試してみて下さい。

自分自身を笑う日

私は子供の頃からお笑い番組が大好きで、笑いすぎて呼吸がうまくできずに窒息しそうになって、苦しくてそれでも笑っていたこともあったくらいです。

親などは、何がそれほど面白いのか分からないと言っていたのですが、この面白さを理解できないなんて、人生損してるんじゃないかくらいに思っていたものです。

人は他人のことを笑うのは得意なのですね。誰かがドッキリカメラに騙されている姿などを見ていると、思わず大笑いしてしまうのです。

けれども、いざ自分がそのように笑われる立場になったとしたら、誰かのことを笑っていたときのように、気持ちよく一緒になって笑えないかもしれません。

そう、自分のことでそれほどの大笑いをするということは普通ないのです。逆に笑われていやな気分になってみたり、酷く侮辱されたような気持ちになったりもするのです。

みなさんは、自分自身のことで笑うことができるでしょうか?自分が自分の100%当事者として生きていると、自分を笑うことは難しくなるのです。

逆に、自分をしっかり観照していることができるなら、自分のことを愛らしく、ユーモアを持って見てあげることができるようになるのです。

そうなったら罪悪感も何のその、どんな自分であってもイイも悪いもなくなり、盛大に笑ってあげることができるようになるのです。

そのとき、すごく身も心も軽~く感じるようになるはずです。