愛着は滞りを起こす

誰でも長く使っているものというのは、単なるモノであるだけでなく、それなりの思い入れのようなものがあって、手放すときには少々感傷的な気持ちにもなるものですね。

それは愛情と言うよりも、愛着と呼んだ方が近いのかもしれません。あるいは、もう少し否定的な言葉を使えば、それにしがみついているとも言えますね。

人は馴染み深いもの、よく自分と馴染んだモノに対しては一様にしがみつく傾向を持っているということです。それがまるで自分の一部のように感じられるからかもしれません。

そして、面白いことに、そうした愛着、しがみつきというのは、普通は好みのモノに対してのみあると思われがちですが、実はそうではないのです。

本人にとって決して好ましくないようなモノでさえ、しがみつく傾向というのは作用するのです。たとえば、同じ病気を長く患っていると、それとの生活が当り前のものになっていくのです。

そうすると、いざその病気が治ろうとすると、マインドのどこかに不思議な寂しさや物足りなさのようなものを感じるということもあり得るのです。

私は若い頃から胃腸が弱くて、胃がもたれることが日常的にあったのですが、たまに胃の調子がすこぶるいい感じの時があるのです。

そうすると、気が付くと食べ過ぎていつもの胃もたれを起こさせるようなことをしていた自覚があったのです。その時は、不思議だなと思っていたくらいでしたが、きっとこれも胃もたれを馴染みにしていたということですね。

人は幸せになりたいと表面では思っているものの、長い間同じ苦しみの中にいたり、辛い状態が継続してしまうと、そこから抜け出たくないという「しがみつき」を起こすことになるのです。

愛着やしがみつきが強いと、どうみても自然の流れに乗れてない状況を生み出すことになり、存在に逆らって生きることになるので、非常に生き辛くなるはずです。

去っていったもの、そして、やってきたものは、ただあるがままに受け入れること。これがすべての滞りから抜け出す最も優れた生き方なのだと思うのです。

真の成長とは

私たちは、物心がついたころにはもうすでに、嘘で固められた毎日を生きるようになっているのです。どんな正直者であったとしても、嘘は日常茶飯事なのです。

言いたいことを何でも言える人など、決していないのは自明のことですね。この社会の中で生きていくということは、そういうことなのだと知らず知らずのうちに了承していたのです。

けれども、言いたいことを言わなかったり、したいことをしないでいると、そのエネルギーはマインドの奥へと追いやられていくのです。本人が気づいていようといまいと…。

そしてその言いたいエネルギーは、明日になったら言ってもいい?明後日は?とずっと出番を待ち続けているのです。そうやって出番待ちの状態のエネルギーは、仕方なく夢の中へと出番を見つけることになるのです。

あなたが親や社会と約束した契約を忘れて寝ている間を狙って、何とか出現するのです。夢とはそういうもののことだと思って間違いありません。

夢の中とは言え、現れることができたときには、幾分かは満足することができるのですが、それでも現実の世界に出てくるのと比べたら、ほんの少しの満足に過ぎません。だから繰り返し夢を利用するのです。

生きてる限り夢を見続けてしまうのは、私たちがそのような嘘を生きて、不満足のエネルギーを蓄積してきた結果だということです。

夢だけでは間に合わずに、目覚めている間にも似たようなことをしている人が沢山います。それは、物思いにふけっていたり、ぐるぐると考え事をしていたりということ。

こうしたことは、夢を見ているのと本質的には何の違いもないのです。目覚めていようと、寝ていようと、どちらにしても無意識の状態だからです。

無意識は動物や赤ちゃんと同じで責任がないので楽なのです。けれども、せっかく自覚ある人間として生きているのですから、できる限り意識的であり続けること。

徹底的に意識的であろうとするそのときに初めて、人間が神へと向かう真の成長が起きるのですね。

意識に道を譲る

人間である私たちの深いところには、必ず真実を知りたいという欲求があるのだと思います。はっきりと気づいていないにしても、それは間違いなくあるはずです。

人生が夢のような物であろうと何であろうと、そんなことよりそこで面白おかしく愉快に生きていければいいじゃないと思っているとしても、その表層の皮を一枚剥いでしまえば、きっと真理へと向いているのだろうと思うのです。

ところが残念ながら、「私」がいる限りは真実を知ることは不可能なことです。なぜなら、虚偽である「私」が真実を見るなんてことはありうるはずがないからです。

結局、本当に真理への渇望があるのなら、私は死んで真理への道を潔く開けてあげるしかないのですね。けれども、私と言うエゴが私自身を亡き者にすることは、これまた不可能なこと。

いわゆる自殺というのは、私というエゴが私の肉体を殺すことなので、私が私を殺すこととは違うのです。マインドがマインドを落とすことはできないということです。

「私」が唯一の邪魔者だなんて、なんだか寂しい感じがしないでもありません。けれども、この世界をどう見たところで、壮大なドラマのようにしか見ることができないのですから、この「私」は身勝手なものです。

そしていつかは確実に「私」と肉体は死ぬ運命にあるのです。ホント、「私」って救われないのですね。しかも、「私」が幻想だったということを見抜くのは、「私」ではないわけで…。

唯一この「私」にできることと言えば、できる限り気づきの邪魔をしないようにすることだけですね。なるべく活躍せずに、つまり思考を回転させずにいて、意識がそのまま露出できるようにしてあげること。

意識さんが出たがっているのだから、この生を譲る決意ができるといいのですが…、ね。

人の事を考えるな! その2

グルジェフのこの言葉、「人の事を考えるな!」について、つい先日このブログで人の事を考えるな! その2たばかりなのですが、もう少し補足したいと思います。

私たちは、なぜ人のことをいつも考えてばかりいるのでしょうか?その理由が分からなければ、この言葉の真の意味を理解することが難しいはずです。

実は、その人のことが好きでも嫌いであっても、興味があろうがなかろうが、他人に何等かのエネルギーを向けて考えたり、気にしてしまうのは、概ね自分を守るためなのです。

私たちのエゴは、自分を守りたくて仕方ないのです。不安であれば、何としても安心したいし、孤独であればその苦しみを癒してもらうべく狙っているのです。

人の事を考えるのは、その人が自分のことをどう思っているのか、否定されてはいないか、嫌われているのではないかとビクビクしているのです。

人の評価を気にしているからこそ、その人のことを考えてしまうのです。つまりは、自己防衛のためにその人たちのことを考えずにいられないのです。

そんなことはない、自分は相手のことを思って手を差し伸べようとしているだけなのだとか、可哀想だから相手をケアしたいだけなのだと思い込んでいるかもしれません。

けれども、それも相手の気持ちを感じて、自分の内面が苦しくなるのを嫌うからこそ、つまり自分を平安な状態に置いておきたくて、相手のことを考えるのです。

結局はそれも自己防衛が目的だったということです。そのことに、しっかりと気づくことですね。グルジェフは自己防衛をやめろと言っていたのです。

人の事を考えずに、自己防衛することはほとんど不可能だからです。防衛はすればするほどエゴを強化し、愛の代わりに恐怖を原動力に生きることになってしまうのです。

代用品では満足しない

私たちは気が付くと、友達を欲しがるようになり、成長すると恋人を欲しがるようになり、そして家族を欲しがるようになるのです。

学校に所属して、会社に所属して、それ以外でもどこかの組織に所属したくなるのです。とにかく単独で生きようとはしないのです。

独りではとても人生を生きるには辛すぎる。誰かと、何かと繋がっていなければ不安に苛まれてしまうということを知っているのです。

こうした繋がりたい欲求の正体とは一体何なのでしょうか?このことを突き詰めていくと、誰もがエゴをでっち上げたことで全体と分離してしまったと感じていることが原因だと言えるのです。

つまり、エゴによって一人前の個人になれた(つもりでいる)ものの、その結果は残念なことにとてもじゃないけど恐怖と不満で絶望的になってしまったのです。

仕方なく、個人でいることはそのままにして、再度全体と繋がりたいという強烈な願望の代用品として、誰かと、何かと繋がっていたいという欲望が起きてきたと言うわけです。

私たちの世界でいうところの愛とは、所詮そのような代用品を求める偽りの愛だったということです。だからこそ、愛し合っていたもの同士が、憎しみ合うことになったりするのです。

このようなことに気づき、この世界の中に代わりを求めて人生を浪費することをやめるという決断をする必要があるのではないかと思うのです。

私たちが本当に求めてやまないもの、それは全体性との繋がりであり、実はその繋がりは決して切れてはいなかったというありがたい真実に気づくこと。

逆にエゴの方こそが幻想だったという、これまたありがたい真実についても見抜けるようにしたいものですね。

エゴの悪循環から抜ける

いっそのこと死んでしまいたい、そう思っている人が実は、人一倍死を恐れているという事実を知っていますか?矛盾しているようですが、本当のことです。

クライアントさんの中には、死にたいという願望をマインドの中に持ちながら、生きている人が時々いらっしゃいます。そういう人は、自分は死ぬことは別に怖くないと言うのです。

死ぬことよりも、生きねばならないことの方がよほど辛いのだと。けれども、よく考えてみれば分かることですが、その生き辛さの原因は何処から来るのでしょうか?

それこそが、死を恐れるマインドからやってくるのです。死を恐れるあまりに、あらゆる自己防衛を続けることで、そこから自己犠牲が発生して生き辛くなるのです。

正確ではないとしても、おおよそ以下のような順番でマインドが進んで行くのです。

エゴができる→死を恐れる→防衛によって苦悩する→生きることを恐れる→死にたくなる

上のように一直線に進んで終わりになるのではなく、それを何度も繰り返すことになるのです。たとえば、エゴは防衛することでより強化され、その結果より強く死を恐れるようになるのです。

その連鎖によって、また防衛も強くなり、更に生き辛さを増していくわけです。このようなことが、人生の中で繰り返されて、いずれは破たんするはずです。

そして、どうにもこうにもならなくなったとき、この連鎖に歯止めがかかるのです。それが自然の摂理というものです。自動的に恐れから逃げなくなるのです。

けれども、そんな自然の癒しに至るまで生き続けるのは、どんなにしんどいことでしょう。それよりも、勇気を出して余力があるうちに自分を癒すことを考える方が、賢い選択だと思いますね。

集中と瞑想の違い

みなさんも経験があると思うのですが、子供の頃ってすごく集中力があったように憶えているのです。きっと、純粋に自分がやりたいことをやっているだけの単純さがよかったのでしょうね。

大人になると、いろいろな要因によって行動する分だけ複雑になってしまって、それだけ集中力が欠如するようになってしまったのだろうと思うのです。

いやいやながら仕事をしていて、集中することなど到底無理というものです。早く終わりにして、彼氏、彼女とデートに行きたいと思っていたら、浮足立って注意散漫になっても仕方ありません。

それでも、人間って追い詰められて、必死になっていたりすると、それなりに集中力が戻って来たりすることもありますね。切羽詰まったときのあの集中力は、ネガティブかもしれないけれどたまにはいいものです。

ところで、その集中力を養うことで、それが瞑想にも役立つと思っている人がいるかもしれませんが、それは実は全くの勘違いなのです。

どういうことがというと、集中するということはある一点に注意を絞り込むことであって、逆に言えばその一点以外のところに対しては意識のレベルが低下してしまうのです。

つまり、集中とは焦点が当たったところだけにピンポイントに意識が当たり、それ以外のところは無意識状態になってしまうということです。子供がゲームに集中してると、お母さんの声が全く聞こえなくなるあの状態です。

瞑想というのは、全方位に対してできる限り意識的になることですので、集中は瞑想の妨害になってしまうのです。集中には焦点となるターゲットがあるのですが、瞑想はターゲットが不在になることです。

その違いを理解していないと、瞑想中に気づくと集中してしまっているということが起きるかもしれません。集中は緊張を生む可能性がありますが、瞑想には決して緊張は起きないのです。

子供は集中力があって超能力とかを発揮することも多々あるようですが、その集中力がかえって邪魔をしてしまうために、彼らには深い瞑想は難しいのかもしれません。

瞑想とはマインドから離れる方法

最近では、クライアントさんとのセッションのときに、瞑想について触れることが増えてきました。そもそも瞑想って何なのですか?と聞かれることもあります。

自分で話しを振っておいて、きちんと答えられないのもいけないのですが、いざこれこれしかじかなものですと説明するのはやはり難しいのです。

この時点で、私が言えることは少ないのですが、それでも敢えて書いてみたいと思います。まず瞑想と言えば、誰でも連想すると思うのですが、リラックスした状態をイメージしますね。

確かにリラックスした状態でなければ、とても瞑想状態に近づくことはできそうにありません。けれども、瞑想=リラックスというわけでもないのです。

簡単に言えば、瞑想状態へ移行するためには、まずリラックスする必要があるというだけのことです。そしてもう一つ、一般的に知られていることは、瞑想によってマインドに平安をもたらすということ。

実はこれも本当のことではありません。マインドを静かにすることは、瞑想に頼らなくても可能です。気持ちのいい静かな音楽を聴いたり、方法はいくらでもあるはずです。

実は最も端的に表現すれば、瞑想というのは自分のマインドから離れていくための手法だということです。マインドをどうこうしようという発想そのものが、マインド自身のものなのです。

瞑想はそういったマインドから遠ざかるための作戦なのです。そうやって、マインドに送っていたエネルギーを遮断するのです。

結果として、マインドは活力を失って次第に落ちて行くことになるのですが、それはあくまでも結果としてということであって、マインドへのどんな働きかけもしないのです。

そのためには、つまりマインドから離れていくためには、マインドをずっと見続けていることが必要とされるのです。勿論思考抜きで、ただ見るのです。

見ることができるなら、マインドとの間にすき間ができるはず。これが私なりに今言える瞑想の目的なのです。

心身共に非活動でいる

みなさんは、一日のうちに何もしない時間というものを設けていますか?何もしないというのは、身体を動かすこともせず、そして内面的などんな活動もしないということ。

独りで過ごす時間には、テレビも消して、音楽も聞かず、そして瞑想すらせずにただじっとしているのです。すぐに、マインドはその落ち着きのなさを露呈し出します。

私の場合だと、右足首を使って得意の貧乏ゆすりを始めたり、マインドのどこかでずっと何かのメロディを口ずさむということをやらかしてくれます。

そして最近よく分かったことですが、そういう時には自分のマインドは物凄く陰気臭い、あるいは辛気臭い感じがするのです。

少しも落ち込んでいるとか、気分がすぐれないということはないはずなのに、なぜかただじっとして内側に意識を向けているだけで、こいつ陰気な奴だなあと分かるのです。

だからこそ余計に、私のマインドはそれを隠そうとして落ち着きを失くすのだろうと思うのです。何もしないでいるだけで、このような自分の素の部分が見えて来るのですね。

外側に意識を向けている間には、決して気づくことのできなかったことです。私はどうも意地悪なところがあるらしく、こうした時間をもっともっと増やして、自分がこれまで隠してきた都合の悪さを暴いていこうと思うのです。

そしてこの何もせずにいるということの最大の効用は、心身共に非活動的でいることで肉体とマインドの両方から、距離を置いたところに行ける気がする事。

この肉体、このマインドというようにある種他人事のように見ることができるのです。このやり方で、陰気なこのマインドの正体を見つけてみるゲームを、もっと楽しもうと思うのです。

感情の正しい味わい方

セッションを通して私なりに気づいたことなのですが、多くの人たちは感情を味わうという人間として最も根本的なことを本当には知らずにいるということです。

それじゃあいつまで経っても、生き辛さがなくならないはず。なぜなら、過去に無数に溜め込んできた感情のエネルギーが現在のあなたの生活を邪魔してしまうからです。

あなたの周りで起きることや、他人が何やらやらかしてくれるあらゆるものは、単に自分の奥深くに隠された感情を表面化してくれる状況に過ぎないということ。

それは単なる誘い水だったと気づく必要があるのです。あいつにこんなひどいことを言われたから激しい怒りが湧いてきてしまったと考えたいところですが、本当はそうではないのです。

もしもあなたが、すでにこのブログを読めるくらいの年齢であれば、必ずや過去の感情がすでに蓄積されていて、いつでも表面化するチャンスを狙っているということです。

顕われた感情はあいつにひどいことを言われなくても、いつかは表舞台へと出て来るはずのものだということ。その気づきが絶対的に必要なのです。

そしてこれまで、感情を表現するか抑圧するかのどちらかしかやってこなかったということを知ること。表に出しても、抑圧してもダメなのです。それでは、感情はどこへも行かないまま残るのです。

周りの状況や誰かの言動を自分の周辺へ置いておき、自分はみずからの中心へ独りで赴いて、その感情と一つになるということ、それが感情を味わう正しい方法なのです。

それがうまく行けば、必ずやその感情があなたを悩ませることはなくなっていくはずです。ネガティブな感情はより小さくなり、ポジティブな感情はより大きくあなたを包むことになるでしょうね。