マインドのウソを暴く

人間のマインドのもっとも優れた特技は、自分自身を欺くことができるという才能です。自分にウソをついて、その状態でいつまでも騙し続けるのですから、非凡な能力と言わざるを得ません。

騙すのもマインドであり、騙されるのもマインドなのですから、不思議な感じがしませんか?その騙すテクニックは相当に優れているようで、一生涯それに気づくことがないのです。

私たちが人生で真っ先に騙されたこと、それが「自分という個人がここにいる」ということ。その思い込みたるや、どれほど真実を見ようとしても見させてはもらえません。

だって自分はこうしてここにいるじゃないか!、という感覚が圧倒的過ぎて、騙されているなどとは微塵も感じられないのです。どうしても嘘を見抜けない。

もう一つの絶大な騙しとは、それは自分が「人生を生きている」という思い。まず、初めに自分を存在させて、その後に人生という物語をでっち上げる。

そして自分をその主人公に仕立て上げてしまったのです。そのすべてが完璧すぎて、疑う余地など全く残されていないかのような見事な腕前。

でもね、完全犯罪というのはやっぱりないのかもしれません。なぜなら、いたって平凡な私のような人間が、こうしてマインドを疑ってかかっているのですから。ドッキリじゃないのか?って。

どうもおかしい、騙されているに違いないという直感が働くのです。マインドが使う騙しのテクニックのベースは、信じるという機能。深く信じてしまえば、騙されていることに気づくことができなくなるのです。

この深く信じること、これこそが信念です。だから、信念とはとても危険なものだと認識する必要があるのです。あらゆる信念を一度白紙に戻すことです。

信じることをすべてやめることにしましょう。そうして、最初の最初からやり直すのです。信じることも信じないこともやめたとき、自分は何も知らなかったと気づくはず。

本当に知っていることは信じることができないのですから。何も信じなければ、もうマインドは自分を欺く能力を失ったも同然なのです。

そして、ウソが暴かれたとき、マインドはもたないでしょう。なぜなら、そのウソ自体がマインドそのものの正体なのですから。

執着が落ちた後の爽快感

私は、30歳になろうとするときに、それまでずっと吸い続けてきたタバコを止めた経験があります。10年喫い続けたチェーンスモーカーでした。

今では考えられないのですが、社会人になって初めて務めた会社は、いつでも自由に仕事中タバコを喫うことができる職場だったのです。

職場の空間がいつも、タバコの煙でモーモーとしていたのを覚えています。よくもまあ、誰からも文句の声が挙がらなかったと不思議なくらいです。

そして人生で初の転職を前にして、ちょうどいいタイミングだからと禁煙に挑戦したのです。次の会社は外資系だったため、タバコは厳禁だったからです。

今日からタバコを喫わないと決めた日、それまでいつも自分と共にいてくれたタバコを失うということが、何だかとても不安だったのを憶えています。

けれども、一週間、二週間とタバコ抜きの生活ができたときには、全く違う気持ちがやってきたのです。それは、タバコに頼らずに生きられるという自信。

その何とも言えない清々しさは、今でもはっきりと覚えています。タバコへの依存でもそのくらい大変なのですから、もしも誰かにしがみついているのなら、それを失うとしたらどれほどの恐怖を感じるのか想像に難くありません。

しがみつきは、それが無ければ生きてはいけないと感じるくらいのとても大きな執着心なのですから、失う恐怖が大きいのは当然ですね。

たとえそうであっても、<存在>はいつまでもその執着の中に人を置いておくはずはありません。いずれは、勝手に本人の手から滑り落ちていくことになるのです。

時期が来れば、必ず執着は終焉を迎えることになるので、たとえ大きなしがみつきがあるとしても、焦らずに待つことです。誰であれ、執着が取れた後のあの爽快感を味わうことができるのですから。

自分の二つの世界

最近ようやく、自分には二つの世界があるということに気づくようになってきました。言わば、これまで慣れ親しんできた表の世界と、もう一つはその奥に隠されていた世界。

表の世界では、人生を含めてすべてが物語として推移していて、自分はそこの住人なのです。あらゆるものが変化し続ける、いわゆる諸行無常の世界ですね。

この表の世界には、自分の肉体とマインドが属しているのです。そして、あなたもここに属している、人類の歴史も、宇宙の歴史もその未来もすべてはこの表の世界のもの。

そしてもう一つの世界、それは自分の奥へ奥へと入っていった先にのみ、その世界があると気づくようになるのですが、それは世界というよりも、本当はどんな名前もつけようがない。

それは表の世界を現象化している根源のようなもの。表の世界のどんなものでも、そこから表出して、いずれはそこへと消失していくのです。

だからその隠された世界とは表現できない何かで満ち満ちているのかもしれません。そして、それこそが私たち誰にとっても自分の本質なのです。

あなたが死ぬとき、それは表の世界でのあなた、つまり単にあなたの身体とマインドが死ぬのです。もう一つのあなたの隠された実在に変化はありません。

そこは何かがあるというわけではないので、変化できる可能性はないからです。表の世界だけで人生を生きてるつもりになっていると、もう一つの世界のことを感じることはできないままになってしまうのです。

それを知るためには、瞑想が必要です。それも、のべつまくなしに、奥へ奥へと意識を向け続けることが必要なのです。忘れたらまた思い出せばいいのです。

このもう一つの世界のことは、知識だけではまったく役に立ちません。体験がすべてだと言って間違いありません。私自身、現在進行形のことなので、まだこの程度のことしか言えないのです。

ただし、もう一つの世界のことを、間違ってもあの世のことだと思わないで下さいね!

戦争を根絶させるためには…

聞いた話ですが、人間はこの三千年の間に、実に一万五千もの戦争をしてきたらしいです。どう考えても尋常ではないですね。

でもそれが人類の偽らざる姿だということです。なぜ戦争が続くのか、その理由を一番根元のところまで堀り下げていくと、それは死ぬことの恐怖があるからだと分かります。

私たちは、生まれてからずっと死ぬことを恐れているのです。その恐怖を何とか誤魔化そうとして、心理的な自己防衛が始まるのです。

何としても自分を守って安心したい、そうすれば死の恐怖が遠のくとどこかで思っているのです。自分が生き延びるためには、他人を犠牲にしても仕方がないと思わすくらいに、死の恐怖は絶大なのです。

ところで、数千年の間にあちこちで顕われた神秘家と言われる人たちは、異口同音に我々の本質に死はないと伝えてくれています。

その真実を体験することができたなら、つまり自分の本質は死なないし、他人の本質も同様に死ぬことはないと真に気づくなら、人類はどうなるのか?

それは勿論、恐怖の根源が消滅してしまうのですから、各自がずっとやり続けてきた自己防衛が不要となって、誰もが無防備な生き方をするようになるということです。

自分が死ぬと信じているからこそ、相手を殺すということが意味を持つのですから、当然の結果として死なない相手と闘う意味がなくなってしまうのです。

そうなったときに初めて、人類から戦争というあさましい出来事が消えて行くのでしょうね。それ以外のどんな手立ても、これまでのところ戦争をやめさせることに失敗してきたのですから。

経済の動向も気がかりではありますが、一人ひとりが真実に気づくようになること以上に大切なことなど、一つもないのだろうと思うのです。

この先、人類が救われるためには、それ以外の手立てはないのかもしれませんね。

プラクティス #8

身体との分離を感じるためのプラクティスです。

一般的に、私たちは食事のときには、食べ物の方を見ていると思います。その代わりに、意識して自分のお箸を持つ手、指、茶碗を持つ腕などを見るのです。

両手、両腕の動きをただ淡々と眺めているだけにするのです。そうすると、次第に自分とは分離した手が自動的に動いている感覚がやってくるのです。

ちなみに、私がやっているのは、毎朝、起きてすぐにヨーグルトを食べるのがここのところ習慣になっているのですが、その時にスプーンを持つ右手をじっと見続けるのです。

スプーンでヨーグルトをすくう手、そのまま口まで運んでくる手、それを繰り返している手を見ていると、段々その手が自分ではないということが分かるようになります。

いろいろ工夫をして、試してみて下さい。ボーっとしている朝が、最もやりやすいかもしれません。

眠りから醒めるためには?

私が子供の頃にはあまり気づかなったと思うのですが、いつの頃からか「ゾンビ」というのが映画などの世界で広く知られるようになりましたね。

みなさんもご存じのあの「ゾンビ」というのは、人間の腐った死体が動き回る、気持ちの悪い例の奴らです。本当は、もっと昔からあったらしいですけどね…。

そのゾンビはどういうわけか、生きた人間に襲いかかってくるのですから相当に怖いのですが、ゾンビにやられた人もゾンビになってしまうところがミソなわけです。

で、いつも思うのですが、ゾンビに追いかけまわされて、そんなに怖いのなら、いっそのことゾンビにやられてしまって、自分もゾンビになった方が楽だろうと。

一度ゾンビになってしまえば、ゾンビのことなど全く怖くなくなるのですから。ゾンビは周りに沢山のゾンビがいても平気なわけです。

それと同じように、私たちの誰もが実はぐっすりと眠りこけているとしても、気づかないとしたら、それは自分も同じようにぐっすり眠っているからなのです。

本当に目覚めた人だけが、みんなが眠っていることに気づくことができるのです。なぜ、光明を得た人を覚醒したというかといえば、その人からみれば誰もが眠っていると分かるからなのでしょう。

昔から悟りを達成することを覚醒するというのは、そういう意味があったということ。ならば、どうやったら自分が眠っていることに気づけるのか?

それは勿論、眠っている自分を探すために、内側の奥深くへと入っていくしかないのです。そして、矛盾するようですが、その探究している自分が消えて行くことで、内奥の自己は目覚めることができるのですね。

人の事を考えるな!

グルジェフの言葉に、次のようなものがあります。

「人の事を考えるな。さもなければ、あなたは決して成長しない。」

長年、セラピストという仕事を続けてきて本当に実感するのですが、苦しんでいる人、人生がうまく行ってない、生き辛いと言う人、こういう人の大多数が人の事ばかり気にしているのです。

誰でも人にどう思われるだろうかということが気になるものですね。けれども、それを気にするあまり、一番大切な自分はどうしたいのかということを犠牲にしてしまうのです。

離婚したら母はどう思うだろうか?がっかりさせてしまうのではないか?とか、今自分が会社を辞めたいと言ったら、周りにどれくらい迷惑がられるだろうか?など。

嫌われるのが怖くて、いつもいい人のフリをしていたり、否定されるのがイヤで頼まれごとは大抵OKしてしまう。こうなると、他人の奴隷のような人生になってしまいます。

何となく思い当たるふしがあるなというあなたに、心底伝えたいことがあります。あなたの人生をどうするかは、あなたに一任されているのです。

あなたの人生は、他の誰かのものではありません。地獄にするも天国にするも、あなた次第だということです。何をするにも、どうすべきかということよりも、どうしたいのかを優先すること。

人の事を考えずに生きたなら、人でなしになってしまうと思っていませんか?そんなことはありません。誰もが自分の人生に手いっぱいで、あなたの人生に興味を持つ暇はないのです。

あなたがあなたらしく生きるためには、人の事を考えていてはいけないのです。そんな余裕はないはずだからです。トータルに生きるなら、人の事は目に入らなくなるのです。

真の慈悲とは、十全に生きたその先にやってくるものでしかないのです。人のことにかまけてる場合ではないということを、繰り返し思い出すことですね。

常識は恐れから作られる

 

私たちは、知らず知らずのうちに、無数の常識という海の中で、それこそモミクシャになって泳ぎながら生きているようなものです。

常識的な振る舞いをしなければならない、常識的な考え方、常識的な生き方、常識的な格好、何から何までが常識的か、非常識なのかを判断されるのです。

そして大多数の人たちから常識的なことが分かる人だと認められることで、安心することができるのです。常識的であれば無難だし、およそ間違いはないとされるからです。

常識とは社会が作ったものであり、それは社会というものが反逆者を嫌うため、社会にとって都合の悪い人物を排除するための枠組みだと考えることができるのです。

社会に従う人を作るために、人間の中にある恐れを使って、常識と呼ばれる社会規範から逸脱したら、社会からつまはじきにされると思わせるのです。

私たちは誰もが独りぼっちになりたくないという恐怖や不安を持っているために、仕方なく常識に従うように慣らされてしまったのです。

それは自分が自分らしく生きるということとは相反することなので、必ず何らかの仕返しがマインドの奥深くからやってくることになるでしょうね。

常識という概念がなければ、非常識というものも消えていきます。常識非常識を超越して、そのどちらでもない生き方ができればいいのです。

社会にいて、社会には染まらない生き方とはそういうことなのだろうと思います。それはとても勇気のいることだけれど、十全に生きるためには、必要なことなのかもしれませんね。

明日への期待が落ちてきた!

人生って長いようでいて、意外に短いものなのですね。この年齢になって、ようやくそのことが実感と共に迫ってきたように感じています。

若い頃は、誰かが亡くなってもそれが自分に起こるとは思っていなかった。けれども、もうそんな悠長なことは言ってられないという心境なのです。

思い返してみると、自分の生き方ってほとんど変化していないということに気づかされます。メインとなるものは、明日には何かいいことがあるかもしれない!です。

今日までは大したことはなかった、でも明日かその次にはきっと何か今までとは違うことがやってくるかもしれない、そういう期待を常に持って生きてきたのです。

その期待は相当にしぶとくて、とても落とすことは難しいのですね。言ってみれば、明日への期待があったからこそ、そこそこ明るくめげずに生きて来れたのかも。

ところが、もうすでに今まで生きてきた時間よりも、残された時間の方が圧倒的に少なくなったことで、明日への期待というものを持ち続けることが難しくなったのです。

若い頃はその期待をやめることはほとんど不可能なことだったものが、今ではその期待のことを考えるとただ虚しいだけになってきたということです。

これはいいことなのか、悪いことなのか?自分としてはいいことだと感じています。期待がなくなれば、未来は自動的に落ちて行くしかないからです。

すると自然と今日の自分がどうあるかということにこそ、意識が向かうようになるのです。これは利用価値がありそうです。

歳を重ねてきて、成り行きとして手に入った大いなる気づきなのかもしれません。本当に期待がなくなれば、欲望もなくなって、それだけマインドは活力を失うはずです。

マインドが静かになれば、静寂こそが自己の本質だと気づくことができるのでしょうね。

エゴを活躍させない方法

大抵は夜11時くらいになると、こうしてパソコンの前に座り、今日のブログには何を書くのかな?と思って、しばしジィ~ッとしているのです。

昼間の時間帯に、そうだ今日はこのことをブログに書こうと思い立って憶えておいて、実際にそのネタを思い出して書くこともたまにはあるのですが、多くはこの瞬間が勝負なのです。

といっても、どこからともなく浮かんでくるものをただじっとして待っているだけなのですが、実はその時間が自分にとっては特別なものなのです。

なぜかというと、この「ただ待つ」というマインドの状態が自動的にある種の瞑想状態を作ってくれるような感覚があるからです。

勿論、やってくるものを待っている間、ああでもないこうでもないと考え出してしまえば、全く意味のない時間になってしまうのですが…。

そうしないように注意して、ただ期待せずに待っていると、いつものエゴの縛りから解放されるのです。その時、エゴは活躍することができずに困ってしまうのです。

私のエゴは、ただ待つということがとても苦手のようです。それは自分の力を発揮する場所がなくなってしまうからなのでしょうね。

他にもいくつか、自分のエゴを大人しくさせるやり方があるのですが、きっとその方法は個人個人違いがあるものなのだろうと思います。

是非その方法を見つけ出して、試してみて下さい。簡単に深い瞑想へと誘われますよ。