慰めは厳禁!

人は基本的には優しい存在です。だから、誰かが落ち込んでいる時や、悲しみにくれているときなどに、心から慰めてあげたいと思うのです。

優しい言葉をかけてもらえたら、少しは元気を回復できるかもしれませんし、励ましてもらえたら、前向きな気持ちになれたりもするでしょう。

それが実感できたら、慰めてもらったことに対して感謝の気持ちも出て来るはずですね。ところが、ここには大きな落とし穴があるのです。

落ち込んでいる時には、とことん落ち込む必要があるのです。悲しみがやってきているときには、とにかくその悲しみを徹底的に味わうこと。

それをせずに、表面的にかわしてしまえば、そのエネルギーは抑圧されてしまうのです。そしていつかは、それが仕返しにやってくることになるのです。

冷たいようですが、何であれ慰めの言葉や態度は十全に味わうことを妨害してしまう危険性があるということに気づくことです。

小さな子供が何かに腹を立てているなら、あやしたりオモチャを与えて気を紛らしたりは決してしないことです。しっかりその怒りを感じさせてあげれば、その子はスッキリと明日を迎えられるのですから。

自分の気持ちを抑圧してきてしまった親に限って、子供が全身で泣いたり叫んだりすることを止めてしまうのです。中途半端は後を引くとも知らずに…。

慰めは愛ではなく同情かもしれません。自分のことも、人のことも、愛を持ってただ見守ることですね!

プラクティス #7

上のIBMという会社のロゴ、みなさんは見たことありますか?実は、これをヒントにある練習ができるのです。それは、この世界のあらゆるものがこのロゴのように横線が入っているとイメージしてみるのです。

自分の前に広がっている世界だけではなくて、自分自身の肉体に対しても同様のイメージを作るのです。勿論、もっともっと微細な線が無数に入っているとイメージする。そうすると不思議なことが起きます。

それまで分離していた個々のものが、すべて連続しているように感じて来るのです。自分の身体も例外ではなく、その連続体の中にあることが分かります。

そしてこれは、実は単なるイメージではなく、本当のことなのです。素粒子のレベルで見れば、この宇宙のどんな部分でも、空間だらけなのです。

そして、素粒子は存在したり存在しなかったりを高速で繰り返している。それが、実在を創っているのですから、驚愕せずにはいられません。

物理学が発見した結果が何であれ、「存在」とは唯一の有機体であって、そこにはどんな不連続もないし、我々自身もその一部だということ。

その感覚を折に触れて体感することで、苦しみの根本原因である分離感を減らしていくことができるのです。よかったら試してみて下さい。

どちらでもない自分発見

もしもあなたが今、何等かの悲しみのようなものを感じているとしたら、そこで注意深くいることで、ある不思議な感覚に気づくかもしれません。

それは、その悲しみから逃げるでもなく、それと闘うわけでもなく、ただその悲しみがあるがままにさせておくことで、悲しくも嬉しくもない自分を発見できるかもしれません。

悲しみを対処しようとして自己防衛に走れば、それ以外の自分がいることなど到底気づくはずもありません。そのことに全力を注いでしまうからです。

けれども、何もせずにただその悲しみをそのままにして注意深くあるなら、それと距離ゼロの場所に、もう一人の自分を発見することができるのです。

それは悲しみとは無縁の自分なのです。この発見は特別なものです。なぜなら、自分がどんな状態であろうと、それとは無縁の自分はいつもその近くにいるのですから。

もしもあなたが、頭痛を感じているなら、同じようにして頭痛とは無縁の自分を発見することができるのです。頭が痛いわけでも痛くないわけでもなく、頭の状態とは無縁な自分。

どんなことからも切り離されている、その自分を発見できたなら、人生を今まで以上に深く見ることができるようになるのです。

食べ過ぎて胃が苦しいとき、空腹で辛い時、常にそのどちらとも無縁の自分は必ず発見することができます。そして気づけば、発見された自分こそが本当の自分なのです。

自分の身体とマインドにぴったりとくっついて、常にひも付けされているのに全く影響を受けない自分がいる。その自分に気づいているなら、あなたの身体が死ぬときに、その自分は決して死なないと気づくことになるはず。

人生という物語から抜ける練習

毎日の生活の中で、私たちはずっと自分の人生を暮らしていると思っています。それはいつも言っているように、自分自身とマインドとを同一視してしまっているからなのです。

マインドは人生という物語の住人であるため、常にその物語の中の登場人物だという感覚があるのですね。

それが昼も夜も継続しているのです。昼は現実の人生を経験して、夜は夢の中の物語を生きているのです。

海の中で暮らしている魚が海のことを知らずにいるのと同じように、私たちも人生があまりにも身近なために、そのことを忘れてしまうのです。

1日のうち、ほんの少しの時間でかまわないので、人生という物語から抜けてみてはどうでしょうか?人生の登場人物としての自分を脱ぎ捨てて、高いところから眺めるのです。

たとえ1分でも10秒でもいいので、人生から抜けていると感じる時間を自分に与えてあげるのです。その時、自分は誰でもない存在となるはず。

それは物凄く気分のいい体験になるはずです。一時的であれ何もかも忘れて、ただくつろぐのです。その時ばかりは、過去のことも未来のことも全て消え失せるのですから。

そして練習を積み重ねていけば、いずれはいつどこでも、すぐにその状態へと持って行くことができるようになるはずです。自分ひとりの密かな楽しみです。

何なら仕事中の10秒間だけでもいいのです。誰でもない状態に馴染むことができるようになれば、マインドとあなたのあいだに隙間ができるようになるはず。

そうなったら、マインドとあなたの主従関係が逆転する日も近いかもしれませんよ。

親自身の問題行動

セッションには、子供の不登校その他の問題を抱えていらっしゃる親御さんも思いの外、数多くいらっしゃるのです。子供がまだ10代だったりすれば、当然のことです。

10代くらいの年代の場合、心の癒しということにそれほど興味を持てないようなのです。何がどう問題なのかも判然としないし、自分の状態を把握できていないのでしょうね。

それで、親御さんが連れて来る場合もあるし、親御さんだけでいらっしゃる場合もあるのです。そんなときに、ご両親にいつも言うことは、まずその問題視をやめて下さいということ。

子供は、直接的に親に対して正直な心のうちを伝えられなくて、その代りに問題行動を起こしているだけなので、それを問題視して否定することをやめる必要があるのです。

親が子供の問題行動の本当の原因を見つけようと努力するなら、そしてその原因が自分たちの接し方にあると認めることができるなら、その問題行動は消えて行くのです。

子供の問題行動は、分かって欲しいのに分かってもらえないという不満が原動力だからです。ところが、それを理解できるような親であれば、元々セッションなどには来ないわけです。

親としては、理由は何であれ、その問題行動さえ終息してくれればいいということなのです。それが子供の側から透けて見えてしまうために、子供の問題行動は継続するのです。

そして更に言えば、子供の問題行動というのは、親自身の問題行動として起きているという言い方もできるのです。もしも、親がこのことを深く理解するなら、家族中で大きな気づきと癒しのチャンスがやってくるはずです。

一日一日を生きて、死ぬ

私たちは、生を何十年も生きて、その後突然のように死がやってくると思っています。けれども、よく考えてみれば分かることですが、生まれたときにはすでに死につつあることが開始されるのです。

生まれたからには死ななければなりません。これが二元性の世界のルールです。生まれた瞬間に、死ぬことが決定してしまうということ。

オーバーに聞こえるかもしれませんが、これは事実です。受胎したときから死がスタートして、この世に生まれ出るときにはすでに、約10ヶ月分は死のイベントへと近づいているのです。

私たちが通常イメージしている死とは、死の最終的なイベントのことであって、死そのもののプロセスは生の初めからずっと継続しているのです。

もっと正確に表現するなら、今生の死のイベントを欲望を持って迎えてしまうなら、その死の瞬間に来世へと生が継続することとなり、来世の死も同時に約束されるというわけです。

こうして見てみると、死は生の中にしっかり組み込まれているということ。最期のイベントが目立っているので、そこばかりにどうしても目が行ってしまいがちですが…。

生は死によって生として在ることができ、また死も生によって在るのであって、互いに相補的な関係にあるのですから、生の方ばかりに注意を向けて生きるのは不自然なのです。

今日を十全に生きれば、それは一日の死がやってくるでしょう。そして、次の日はまた新たな生を生きることができるのです。そうすれば、誰も過去に興味を持たないはず。

一方不十分な生は、それを成仏させることができずに溜まっていくのです。そうすると、終わったはずの過去がいつまでも本人に襲い掛かって、今日という生を台無しにしてしまいます。

一日一日を生きて、死ぬことができれば、最期の死のイベントのときにはどんな欲望も消えてしまい、生と死の輪廻から永遠に抜け出ることになるのでしょうね。

人格を磨いちゃダメ!

いわゆる宗教と呼ばれるものの中には、徳を積むとか、人格を磨くとかってことがさも重要なことであるかのようにして、人を惑わすものが沢山あります。

人は不安で生きているので、彼らの教えることが正しくて、信じてしまえば救われるとつい思い込んで、その教えとやらをひたすら実践するわけです。

ところが、徳を積んで自分はどうなりたいのかということを突き詰めれば、あの世に行ったときに優遇されたいとか、安心して天国に行けるようにだったりするのです。

それがエゴの自己防衛だと気づかないから、教えを守るために家財なども投げ打って、悲惨な人生へと転落してしまうこともあるのかもしれません。

人格を磨いても、どうなるものでもないのです。そもそも、人格とは分裂して病んだマインドを基盤として成長した醜悪なものに過ぎないのです。

私たちは、自分の思うままにさせてよ!と言う無邪気さを持って生まれてきます。ところが、お前のままではダメだ、とてもそのままではこの世界では生きてはいけないと教え込まれるのです。

その結果、こうあるべきだという部分と、自分のままでいたいという部分の二つに分裂してしまうのですが、それこそがマインドの正体なのです。

つまり誰のマインドであれ、大なり小なりそれは精神分裂を起こしているのです。それをマインドと呼ぶのです。マインドとは、正常に病んでいるか、異常に病んでいるかの違いしかありません。

それを積み重ねて作り上げたものこそが人格なのですから、それをいくら磨いたところで分裂が更に激しくなるくらいがおちなのです。

大切なことは、なるべくあなたのオリジナルのままでいさせてあげるということ。そこにいいも悪いもありません。それが自然に逆らわずに生きる極意なのですね。

生と死の円環

生きるということは、誰にとっても同じように不安なことの連続なのです。なぜなら、完全に決定しているようなことがないからです。

未来に向けて何をどう頑張ったところで、自分が望むような安心を永遠のものにすることなどできないのです。生とはそれほどまでに不確定なことばかりです。

だから不安がやってきても仕方のないことですね。そして、更に言えば誰の人生にも唯一確実なものがあるのですが、それが死ぬということ。

いずれは死がやってくることだけが、私たちに共通の決定事項なわけです。そのことをよくよく見つめ直してみると、相当に的外れなことをやっていることに気づくかもしれません。

と言うのも、不確実であることをできるだけ確実なものにしようと頑張る一方で、100%確実な死についてはなるべくそれを見ないようにしているのですから。

これはおかなしなことをしていると言うしかありません。それが人生でしていることだとするなら、ちょうど自然と正反対のことをしていることになってしまいます。

自然に逆らって生きれば、当り前ですが不自然な疲労が心身を襲うことになるはずです。どこかで自然で素直な生き方へとチェンジしなければならないということです。

不確実なことは不確実なこととして、それをそのまま受け容れること。何とかしてそれを安心に変えようとするのをやめてしまうことです。

一方で、絶対的に確実なことである自分の死については、真向から見つめてみることです。逃れられないものから逃れようとすれば、そこに恐怖がやってくるのです。

死を不吉なものとして捉える代わりに、生の一部として見直すこと。生と死は互いにコインの表と裏のような関係にあるからです。

生まれた瞬間に、死に向かって突き進んでいるという事実。死んだ瞬間に、新しい生への第一歩を踏み出すということです。この生と死の円環を見守っているのが、不死である本当のあなただということです。

魂はないが輪廻はある

最近、過去生を見てみたいと言われるクライアントさんが増えてきた感じがします。また、輪廻転生って本当にあるんですか?という質問をぶつけられることも時々あります。

私自身のささやかな体験を思い出すと、転生するような実体としての魂のようなものはないと断言できるのです。あの自分はいないという体験は、非常に明確で疑う余地のないものだったから。

個人というものがないのに、その個別性の核となるような魂のようなものがあるはずがないのです。それなのに、一方では輪廻はあるというしかありません。

それは数多くのクライアントさんとのセッションを通して、動かし難いものであると感じているからです。私自身もかつて、催眠療法の中でいくつかの過去生を見たことがあるのです。

魂はないけれど輪廻というものはある。この一見矛盾することを理解するためには、少し発想を変えてみる必要があるのです。

ドミノ倒しってありますよね、テレビでも時々やっています。タレントさんとかが時間をかけて何万個ものドミノを立てておいて、一気に倒すあれです。

隣り合ったドミノが順番に倒れていくだけなのに、なぜか私たちはそれをみて、何かが進んでいるかのような錯覚を起こすわけです。

あれは、何か実体のあるものが移動しているのではなく、エネルギーの伝搬をドミノを使って視覚化しているということです。輪廻もあれと同じようなもの。

輪廻転生する実体としての魂があるのではなく、惨めさや欲望といった生きていた人々のマインドのエネルギーが伝搬していくということです。

そのエネルギーには思考が集めた記憶情報も含まれているため、そのエネルギーが伝搬した先の受精卵が成長すれば、その人の記憶となって思い出すことがあり得るのです。

それこそがその人が見る過去生というわけです。いずれにしても、個人としての自分はある実体を持った存在だと信じていると、魂のようなものの存在があると都合がいいわけですね。

残念ですが、あなたも魂もどちらも実体はありません。欲望などのマインドのエネルギーそのものが、ただ伝搬するだけなのですね。

疑いと不信の違い

セッションの中で、常々お伝えしていることの一つに、セッションで聞いたことをそのまま信じてはいけないということがあります。

なぜそんなことをいちいち言うのかといえば、人はとりあえず信じたいのです。信じてしまえば、あとがすごく楽だということを知っているからです。

一旦信じてしまうと、マインドの中で決着がついて、安心することができるのです。実際、人はなぜ信じるかと言えば安心したいからに違いありません。

けれども、信じてしまえばその裏側に不信がくっついてくるのです。不信を排除して信じることは、物事の道理からして不可能なことです。

信じることと信じないことは共に一枚のコインの表と裏の関係であり、どちら一方だけというのはこの世にはあり得ないということを理解することです。

神がいると信じることと、神がいるとは信じないこととは同じことなのです。どちらも、神がいる(いない)と信じているからです。

いわゆる宗教の信者とは、その全員がマインドの奥にその宗教への不信を隠し持っているということ。神を信じてしまえば、どんな探究も不要であり、神の不在を信じても結果は同じ。

その手っ取り早さは、あなたをどこにも連れて行ってはくれず、どんな気づきもやってきてはくれません。一方、幼い子供の質問責めを思い出して下さい。

子供たちは何かと疑問に思って、無邪気に質問を繰り返すのですが、あれこそが純粋な「疑う」ということが起きている時なのです。

「疑う」という言葉は、どういうわけか何かネガティブな響きを持って聞こえてくるのですが、本当は疑うことは物凄く健康だし、そこから探究が始まる大切な心の要素なのです。

分かったような大人たちが、物事を疑ってはいけないと子供に諭すなら、その大人は信じることがいいことだと勘違いする無知な状態なのです。

信じることの裏返しである不信と、純粋な「疑う」こととは全くもって異なることです。「疑う」心がなければ、どんな探究も起きないことに気づくことです。

疑うことをきっかけに探究が開始され、そのバックに信頼がやってくるのです。疑うことがなければ、信頼は決してやってきてはくれません。

今日この瞬間から、信じるか信じないかの人生から足を洗いませんか?疑うという宙ぶらりんでいることです。必ずや何等かの探究が起きるはずだからです。その時に信頼も一緒にやってきてくれるのです。