ただ在ることが目的

子供のころに、自分は何で生まれたのだろう?とか、そもそも何で生きているんだろう?自分が生まれた本当の理由は何なのだろうか?などと考えたことがない人はいないかもしれません。

日常の中で、ふと我に返ったときにそのような疑問が湧いてきても決して不思議ではありません。けれども、よくその状況を見てみる必要はあるのです。

つまり、物凄く何かに熱中していたり、全一に物事に取り組んでいたり、大喜びしていたりといった時には、そんなことを考えることはまずないからです。

何かしら辛いことが起きていたり、寂しかったり悲しかったり、自分は惨めだと感じたり、そうした自分にとって不都合なことがあるときに限って、人生への疑問が湧いてくるのです。

セッションにいらっしゃるクライアントさんの中にも、今世の人生の目的、自分は何をするためにここにやってきたのかを知りたいという人が現れるのです。

何かしなければならない目的があるとするなら、それはあなたのマインドの中の思考が作り上げたものだということの理解を深める必要があります。

目的や意味、意義や価値など、そういった一連の観念は思考が作るだけで、実在するものではないからです。そんなものに踊らされて、それを信じて一生を終えるのはあまりにも無知だと言わざるを得ないのです。

敢えて言うなら、あなたはただここに在るということだけが、唯一の目的です。それ以外の目的を求めようとするなら、それは個人だという思いの副作用としての欠乏感の成せるワザなのです。

こうしてこのままいるなら、自分には何かが足りない。もっとどうにかして満ち足りた感覚を持ちたいと望むからこそ、今のままでは何かが間違っていると思い込むのです。

そうして、何とかして人の役に立ちたい、世界に貢献できる人物になりたい、人に認められる成果を出したいとして、奮闘努力の連続で、疲れ果てるのです。

そうではなく、あなたの今この瞬間には、どんな間違いもありません。唯一気づく必要があるのは、本当のあなたはあなたが信じているようなあなたではないということ。

思考が落ちたときに、どんな目的もそれに付随するどんなするべきこともないと分かるはず。その時に、ようやく肩の重荷がとれ、力が緩んでただ在ることにくつろぐことができるのです。

所有が人を苦しめる

人が普通に持っている欲望の中で、ごく一般的なものの一つとして所有欲というのがありますね。今日はその所有について書いてみます。

単刀直入に言えば、所有とは実在するものではまったくなく、ただ私たちのマインド(思考)によって作られた概念、観念、つまり幻想なのです。

所有は確かに、この社会ではとても便利に機能する概念なのですが、それがただの概念であることを忘れてしまっているところに問題があるのです。

そんなことはない、自分はマイホームもマイカーも持っているし、お金だって人並み以上に所有していると言う人もいるでしょうね。

ただし、それでも所有は幻想だということ。たとえば、あなたが死ぬまでずっと独り無人島で暮らすとします。その生活の中で、何かを所有するということがあり得るでしょうか?

木の実をどれだけ取れたとしても、海に潜って魚を仕留めたとしても、それをわざわざ自分のものだと宣言する必要もありませんね。

つまり所有とは、自分と他人との間での取り決めなのです。これは私の所有物、あれはあなたの所有物と言う具合に、いわゆる仕分けをしているに過ぎません。

単なるルールです。あなたがこれは私の家だと主張するとき、他人がその通りだと認めることによってのみ、それがあなたの所有物だとなるだけなのです。

それがなければ、所有にはどんな意味も見出すことができないはず。結局、所有とは思考の中の単なる決め事以外の何ものでもないということ。

本質的には所有とは存在しないということです。それなのに、私たちは自分の所有物をできるだけ増やそうと日夜努力しているのです。

そして、人よりも所有できずにいると、それが自分を傷つけることになるのです。実際、あなたがどんなものを所有できたとしても、あなたが真に満たされることは決してないのです。

なぜなら所有にはどんな実体もないからです。このことを何度も深く理解することができるなら、所有への渇望は次第に影を潜めていくはず。

所有に興味がなくなれば、私たちの苦悩の多くが消えてしまうでしょうね!

投資の元を取ろうとしない

セッションの中で、クライアントさんの様々なお話しを聴かせていただきながらいつも思うのですが、その辛い物語から本当は抜けたくないと思っているのではないだろうか、ということです。

勿論誰だって癒されてより清々しい人生へと変えて行きたいと思ってわざわざセッションに来るはずなのに、それを疑いたくなるほどに、なぜかその物語にしがみついているのです。

その執着はどこから来るのだろうか?そう考えたときに、一番納得できる理由としては、その物語にこれまで多大な投資をしてきたと思っているからだろうと。

人は投資した分だけ、その元を取りたいと思うものですね。学生の頃、毎日のようにパチンコに行っていたのですが、あの時のことを思い出すと、そのことがよく分かるのです。

もう少しで玉が出だすと感じて、もう一回もう一回とつい沢山つぎ込んでしまったときに限って、諦めがつかないというか、結局最後は一文無しになるまでやってしまう。

それと似ているのではないかと思うのです。例は悪いですが、沢山投資すればそれだけの見返りを求めて、どこまでもやり続けてしまうという人間のマインドの特徴なのかもしれません。

だから辛い人生という物語からそう易々と降りることができなくても、不思議ではないということなのですね。本当は、その物語を良くしようとする努力の代わりに、物語から降りる方向へと意識を変えることが大切なのです。

あるいは、物語から降りるという大それたことの前に、物語をもっとシンプルにしていくことは可能なのです。もしもなかなか抜け出せないという自覚があるのでしたら、自分がしてきた投資について潔くそれをドブに捨てる気になれたなら、思いの外癒しは早く進むはずだということです。

内側と外側は一つもの

今この瞬間、感じていることをとりとめなく書くと、外側の何かを見るときに自動的に思考を伴っているということ。その思考が、見ているものを客体として判断しているのです。

その思考によって、見ている主体としての自分と、見られている客体としてのモノを分離させているということに、どうやらなっているらしいです。

もしも思考を排除した状態で同じように外側の何かを見ると、見えているものがターゲットとしてのニュアンスが微妙になってくるのを感じます。

結局、主体と客体の違いが分からなくなるってことなんでしょうね。分からないのではなく、元々そうした違いは実在していないということなのでしょう。

そうなってくると、自分の内側と外側という区別が崩壊していくのが分かります。内側と外側は連続であり、一つものだということ。

我が消えるのと同時に、汝も消えてしまう…。

短い間だけど、すべての物語性も消えて、至福だけになる。書けば書くほど、表現しようとすればそれだけ遠ざかるってこのことなんですね。

自己想起について

私がセッションで行っていること、催眠療法などを含めたいわゆる心理療法とは、クライアントさんが感じている不自由さの根っこを探って行き、原因となっている過去の歪みを正すこと。

そのマインドの歪みというのは、無理な我慢や度を超えた頑張りなど、あるいは自己表現や感情表現を抑圧することで、多くのマイナスの感情を溜めてしまうことです。

そうした感情から目を背けてきたことに気づいて、正面からそれを味わうことによって、必ずある程度の癒しは進んで行くものです。

止まることのなかった思考は、ほどほどになって行き、凝り固まった自分をダメにする多くの信念も緩んでくるのです。癒しによって、心身ともにリラックスすることができるようになるのです。

けれども、そうした過去のマインドの分析をベースとした癒しには、終わりというものがありません。いくらでもやり続けることができてしまうということも知っておいて欲しいのです。

そして、ある程度の癒しの先にあるものに、いずれは目を向ける必要があるのです。それは、心理療法がやっていること自体が、私たちのマインドが作った物語の一部に過ぎないからなのです。

人生が、あまりに辛く苦しい物語であるのなら、少しでもそれを和らげて、気持ちのいい物語へと変えて行くことは大切なことなのです。

ただし、それだけではいつまでたってもマインドが作った物語の登場人物であり続けてしまうのです。本当の私たちは、決してマインドでも、それがこしらえた物語の登場人物でもありません。

それを体験として見抜くことができなければ、心理療法で助走してきた意味も全部が無駄になってしまうでしょうね。本番は癒しの先に待っています。

そこでは、自分が常に物語の目撃者である必要があるのです。目撃者で在り続けることができたなら、マインドの物語から抜けて、真の自己がその姿を顕すことになるはず。

目撃者であるとは、意識的であるということ。仏教の言葉で言えば、物語とその登場人物である自分を「観照」するということ。これは地道な作業だし、とてもシンプルですが継続はすごく難しい。

グルジェフの言葉を借りれば、自己想起(self-remembering) ということです。常に憶えていて、自分に意識を向け続けるということ。

私自身、この自己想起に関しては、ずっと挫折し続けてきているので、マインド(エゴ)がそれを阻む力は半端ないことを知っています。これは、瞑想よりも継続することが難しいのです。

目撃者であること、観照すること、意識的であること、自己想起すること、どんな言葉でもいいので、できる限り継続させること。挫折しても挫折しても構わない。

自然との調和

あなたは、自分の生き方をどのような基準で選択するでしょうか?一番いいのは、そうしたいかどうかということをまず優先的に見るということです。

それが正しいことなのかどうかとか、常識的にみてどうなのかとか、人により認めてもらいやすいかどうか、あるいは価値があるかどうか等々…。

こういったことを気にして生きるのであれば、いつかはそのつけがやってくるはずです。言葉の誤解を恐れずに表現すれば、真の正しさとは自然かどうかということなのです。

自分がそうしたいかどうかは自然なことですね。誰かに強制されたわけでもないし、自分の内側から自然発生的に起きて来るものだからです。

自然であること、これはほとんどエネルギーを使わずに済むのです。不自然なことほど、それを維持するためには相当なエネルギーを浪費してしまいます。

不自然さは、自然に逆らっているために、その状態をエネルギーによって強引に堅持しなければならないからです。もしも、あなたの内面が疲労しているのなら、不自然な生き方をしているという証拠です。

自然でいれば、おのずとリラックスするはずですね。なぜ不自然な生き方になってしまうのかというと、自然のまま、自分自身のままでいいということが分からないからです。

自然のままでいたら、自分は沈没してしまうと信じているのです。だから、不自然とも言える無理な方法を使ってでも、不安を安心に変えようとするのです。

人間のマインドに不安があるのはごく自然なこと。孤独感も同様に自然なことです。なにせ、人間だけが自分は個人だと思い込んでしまったのですから。

それこそが、私たちが不自然になってしまったたった一つの究極の理由です。自然であることと闘わずにいて、自然の芳香を味わってみるのです。

どれだけ不自然に生きてきてしまったかに気づくことになるかもしれません。そうなったらチャンス到来です。自然の流れに気づいて、ただそれを見ていることができるなら、もう自然と調和したということです。

自分のマインドを信じるな!

私たちのマインドというのは、真に新しいものをとにかく拒絶したがるのです。見知らぬものに対して、必ず批判的になってしまうのです。

なぜなら、元々思考というのは決して新しいものを取り扱うことができないからです。思考は、過去すでに知っているものによって、判断し、場合によっては批判するのです。

マインドの中にある、それまでの基準、常識、正しさ、こういったものを総動員して、その枠から逸脱しているものに対しては否定するのです。マインドを信じてしまっているからです。

このことに気づくことができなければ、その人は何十年生きようと新たな気づきを得ることはできないでしょうね。古いルールに縛られているのですから。

そこにいれば、自分は安心、安全でいられると信じているからこそ、それをやめることができなくなるのです。マインドの思考をフル回転して自己防衛に嵌るとは、そういうことです。

人が気づくためには、自分の中にはなかった新たなものに対して、開いている必要があるのです。それはとても勇気のいることです。

なぜなら、それまでの自分の考え方や正しさを否定されてしまうかもしれないのですから。けれども、その恐怖に負けて安心を求めるなら、何世に渡って人生を生きても、すべてが無駄になってしまうでしょう。

自分のワールドにはない何かを見聞きした時に、それに興味を持つことが先決なのです。そして、それをすぐに一刀両断してしまう代わりに、そこにはどんな気づきの種があるのかを見ようとすること。

人間が潜在的に求めている真理とは、元来あなたのマインドにとって決して納得できるものではないのです。それは、思考を超えたところにあるので、矛盾に満ちた非論理だと捉えられてしまうからです。

ブログの事

2009年の3月からこのブログを書き始めたので、8年目に入ったのですが、ほとんど毎日更新してこれたのは、自分としてもちょっと驚きなのです。

何かを始めてそれが続いた試しがないものだから、きっと私の人生で初のことだと思っています。

続けてこれた理由の一つは、何としても続けて行こうというような野望?のようなものが自分にはこれっぽっちもなかったということ。

あともう一つは、きっと誰の為でもなく自分に向けた内容ばかりを書いてきたということだと思うのです。

誰かに賛同してもらおうとか、誰かの役に立とうとか、そんな大それた願望も持っていなかったからなのだろうと思っています。

とにかく、自分に対して大切だと感じることだけを書いてきたのです。あらゆる常識を無視して…。

だから当然のごとく、内容に違和感を感じたり、とても受け入れがたいと感じる人が出てきても不思議ではないのです。

そういう人はきっと沢山いるはずでしょうね。興味深いと思って下さる方にのみ、読みに来てもらえたら一番嬉しいのにと思うばかりです。

内容についてネット上で議論するつもりは毛頭ありませんし、正しさを訴えたいとも思わないのです。その逆に、できる限り思考を使わないような読みかたがもしできるなら、理想なのです。

如何なる、主義主張もそれが思考である以上、たかが知れているからです。

いつまで続くか全くわからないし、ある日突然やめてしまうかもしれないブログですが、興味を持っていただける方とだけ、どこかで繋がっているという感覚が持てたら嬉しいですね。

マインドの自作自演 その2

少しだけ、昨日の補足をしたいと思います。昨日は、マインドが問題とその対処の製作者だということを書きました。そのことをもっと明確にしたいのです。

この世界では常に何かが起きています。ですが、そこにはどんな問題も存在しません。なぜなら、問題というのは思考が介在して初めてあり得ることだからですね。

あなたにマインドがなければ、この世界に何が起ころうとも、そこに問題を見い出すことは不可能なことなのです。マインド(思考)がなければ、理不尽さも惨めさも何もありません。

このことを深く理解することです。誰もが知ってる有名なヒット曲がありますが、それでもそれはマインドの中にしか存在しないということです。

私たちが知覚を使ってこの世界を認識するとき、純粋な外からの情報を取得した後、「必ず」マインドがそこに独自の解釈をしてしまうのです。

その解釈が済んだ後にようやく、本人にその情報が通達されるというわけです。その時に、ヒット曲であることの認識や、自分が理不尽なことを言われたとか、惨めな目に遭ったとか、問題が発見されるのです。

外からの情報をただ取得しただけで、どんなマインドの後処理もなければ、そこにはどんな問題もあるはずもなく、そしてその時に初めて私たちはあるがままのこの世界を見ることができるのです。

起きてる状況の中に問題はないということ、何があろうとです。あなたのマインドが存続するためだけに、あなたに自己防衛をそそのかす、それが問題と対処の連鎖なのです。

そうしたマインドの罠から抜け出すためには、外側を見る代わりに、自分の内側にあるマインドを見続けること。マインドの働きに注意を向け続ければ、マインドはしっぽをつかまれて居心地が悪くなるのです。

問題があっても内面的な対処をせずにいることができるなら、マインドは力を失うことになるはずです。

マインドの自作自演

私たちのマインドというのは、一つのことにかかりっきりになっているのです。そのマインドの仕事とは、自ら問題を創っては、それを対処するということ。

問題をどう作るかというと、現実という物語をせっせと紡ぎ、その中に探せば無限にころがっている問題を見つけ出すという寸法です。

だからこそ、マインドは物語の住人であって、物語なしでは存続できないと言ったのです。物語そのものがいい悪いではなく、そこに無数の問題を見つけ出すことこそが本当の目的なのです。

そうやって、見繕った問題への対処法には、大きく分けて二種類のものがあるのです。一つ目は、問題と向き合って闘うこと。姿は勇ましいのですが、決して何も解決できません。

そしてもう一つは、その問題から目を背けて逃げること。どちらの対処法であったとしても、所詮は自己防衛であることに違いはありません。

マインドは、寝ている間にも問題を生み出すプロです。寝ている間の思考を夢と呼び、起きている間の思考を現実と呼ぶのです。

夢であれ、現実であれ、どちらの物語からも必要となる問題を創り出しては、対処する。これこそが、マインドの生存をかけて日夜続けていることなのです。

所詮は、マインドの自作自演だったということに、深く深く理解することです。そして、次に必要なことはどんな対処も放棄することです。

闘いもせず、さりとて逃げもせず。ただ問題だと思い込んでいることと一緒にいること。それについて、何もしないでいることができるなら、問題⇔対処のループから抜けることができます。

そうやって餌を与えないようにして、マインドを弱らせておいて、物語を外側から見れるように訓練するのです。それで一丁上がり。マインドの自作自演は終わりを迎えるはず。