プラクティス #6

先日、ゲシュタルトを変えるというプラクティスを書きましたが、それと同じ効果を期待できるプラクティスです。

部屋に独り坐っていて、その部屋の空間を見るように言われたら、その空間を見ることができるでしょうか?実際には、壁とか床、天井や窓を見てしまいますよね?

なぜなら空間は見ることができないからです。それでもめげずに、その空間を見るような感覚でいると、どこにも焦点を合わすことなく虚空を見つめることができるようになります。

その時、どんなゲシュタルトも使わずにいることになるのです。目をパッチリ開けたまま、何も見ずにいるということができるようになると、その瞬間何かが変化するのを感じます。

それが全体性を感じている瞬間であり、すべての物語から抜け出ている瞬間なのかもしれません。そのとき、自動的に思考も緩むので、瞑想が苦手な人にもお勧めのプラクティスです。

よかったら、是非試してみて下さい!

簡単瞑想プラクティス #5

自分のマインドに意識を向けて、やって来る思考に無関心でいる。それがどうであれ、そのようにさせておく。

決してその思考の中身を見ようとせず、自分はどんな思考とも同化しないでいる、その一点に注意を向け続ける。

きっとそのうち、思考とそれを見る側の自分との間にちょっとした隙間があることに気づくはず。

よかったら試してみて下さい。

理解は深まる

人は何かを理解することが好きですね。分からずにいるよりも、分かってしまったらスッキリした気持ちになれるからかもしれません。

理解とは単純なことのように捉えられがちです。それは、分かるか分からないかのどちらかだろうと思えるからですが、実は理解には深さというものがあるのです。

何故そんなことがあり得るのかというと、人のマインドが一枚岩でできてないからです。表面的に理解したつもりであっても、マインドのもっと奥では理解していないということが起きるのです。

そして、理解できるかできないかという観点から見ると、難解なものほど理解が難しくなるのは当り前なのですが、客観的にみてたとえ難しくなくても、理解しづらいということもあるのです。

それは、純粋な理解ということよりも、認めにくさという要素が入ってくるからです。本人が認めたくないと感じることは、たとえそれが安易なことであろうと理解はしづらくなってしまうのです。

セッションにおいて、クライアントさんにお伝えするようなことは、決して複雑なことでも難しいことでもないはずなのですが、理解にはそれなりの時間が必要となることが多いのです。

一度分かったつもりになっていたことでも、繰り返しそれを聞いたときに、それまでの理解が浅かったと実感できるなら、その時には理解がより深まったということなのでしょう。

私自身、最近 osho の本を読んでいて、理解していなかったと思うことはほとんどないのですが、理解が深くなったと実感することが増えました。

理解が腹の底まで伝わったという感覚ですね。同じ内容でも何度でも味わうことで、その理解がマインド全体へと広がることがあるということですね。

あるがままを見るプラクティス #4

ゲシュタルトを変える練習:

<形を見る代わりに背景を見るようにする>

私たちの知覚(特に視覚や聴覚)は、一瞬にして個を見分けるために、それぞれのゲシュタルトを作っています。それを用いることで、個の一つひとつのパーツを見ずに個を認識するのです。

そのゲシュタルトによって、目に映るあらゆる形の個体をそれ以外のものと区別して見分けることができるようになっているのです。

けれども、それが原因でこの世界の真の姿、個の集合としての全体ではなく、一つの連続体としての全体を見ることができなくなってしまったのです。

あるがままの世界を見るために、ゲシュタルトを変えるのです。一つ一つの個の形を見る代わりに、全体としての背景を見るようにするのです。

背景に意識を向けることができるようになると、全体性を実感できるようになるはずです。よかったら、練習してみて下さい。

何か今までとは異質なものを感じられるかもしれません。きっと、マインドは戸惑いを感じるでしょうね。

意識の本質は鏡のようなもの

osho の講話から

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意識の本質はただ鏡であることだ。鏡自身にはどんな選択もない。何であれ、前に来たものが映される。善いものも、悪いものも、美しいものも、醜いものも、どんなものでもだ。

鏡に好き嫌いはない。それは判断しない。それは非難をしない。意識の本質は、その源においては、まさに鏡に似ている。

意識が分断され、鏡のようではなくなった時、それは思考(マインド)になる。思考(マインド)とは割れた鏡だ。根元では、思考(マインド)とは意識だ。

人が分け隔てするのをやめたら、二つに分割するのをやめたらーーあれに反対し、これを選んだり、これが好きで、あれが嫌いだったりーーもし人がこれらの分割から抜け出したら、思考(マインド)は再び一枚の鏡に、純粋な意識になる。

だから求道者にとっての努力のすべては、どうやって意見を、哲学を、好みを、判断を、選択を落とすかにある。しかも、それ自体がひとつの選択になるようではいけない。それが問題なのだ。

では、なされるべきことは何か。単純だ。理解が必要なのだ。何ひとつなされるべきではない。究極は努力によってではなく、理解によって達せられる。

どんな努力も人をそこに導くことはない。なぜなら、努力とは常にこの二元的思考から来ているからだ。ただすべての状況に対して、油断なく覚めているしかないのだ。

もし、油断なく覚めていたら、一瞬の啓示のもとに、思考(マインド)は落ちる。突然、あなたは鏡のような意識とひとつになっている。
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思考でも感覚でもなく…

私たちの思考というのは、「○○について」なのです。どんな思考であっても、何かについて考えていたり、イメージしたりするだけで、すべてが間接的な働きでしかあり得ないということです。

ということは、思考すればするほど、実在から離れて行ってしまうということです。絶えず思考の中でグルグルしている人は、最も実在から遠ざかってしまっている人だということです。

実在から離れて、どうやって生きていくつもりなのでしょうか?結局自分にとって都合のいい作り物の世界で生きていることになるのです。

辛い現実よりも、たとえ夢の中であっても束の間の幸せを感じられるというわけですね。それに比べて、○○を直接感じて、味わうということは実在に相当に近いと言えますね。

○○について感じるのではなく、○○を直接感じるのですから、思考と比べれば格段に実在に近づいています。

但し、それが実在そのものではないことは明らかです。思考することも、感じることもターゲットが必要だからです。

実在はただ実在しているのです。真理は、思考でもなく感覚でもありません。実在をターゲットにすることはできません。

ただ実在とともに在るということ。自分でも何となくそのことを知っている気がするのは、単なるエゴトリップなのでしょうか?

瞬間瞬間を全一に味わう

私たちの身体のあらゆる場所から、絶えず様々な感覚がやってきているわけですが、それが痛みだったり暑さ寒さだったり、痒みや快感などもありますね。

そういった身体からの感覚を感じているのが自分なのであって、その感覚自体が自分だと思っている人はいないはずです。

それなのに、不思議なことにあまりに強い痛みや不快感が身体や内臓からやってくると、自分がその痛みそのものであるかのようになってしまいます。

なぜ、痛みその他の不快感と自分をはっきりと分離することができないのでしょうか?どのような場合でも、自分とやってくる感覚を分離することができるなら、ただその感覚を見ていることができるはず。

絶えることなくやってくる思考に巻き込まれているのが自分であって、自分自身は思考ではないと知っているはずですね。

それなら、どんな思考がやってきているのかを見ることができるはずです。ただ見ることができるなら、思考に巻き込まれることはなくなるのです。

感覚でもなく、思考でもないとすると、自分とは一体何なのでしょう?自分には気持ちがあるし、感情もやってくるし、あるいは気分というのもありますね。

それらすべてが自分ではないことも明確であり、やってきては去っていくそれらをじっと見ててあげることができるはずです。

そうやって、いつも自分にやってきては去っていく様々な感覚、思考、感情、気持ち、気分、こういったものをただただ見る、という練習をすることによって、より意識的な状態でいられるようになるのです。

そして、そのどれでもない自分とは何か?をとことん追求していくこと。その結果、身体の外にも内にも誰もいなかったと気づくことになるのでしょうね。

それなら、人生なんてものもないということになります。それなら、人生を殊更深刻に受け止める必要もなくなって、やってくる瞬間瞬間を全一に味わうだけでいいんじゃないの?となるのです。

意識的であるというチャレンジ

自分にとって、最も難しいと同時にチャレンジし甲斐のあることは、普段から思考に費やしてきたエネルギーを、意識的であることに向けるということです。

不安や孤独感から自分を守って、是が非でも安心しようとすると、必ずと言っていいほど思考過多に陥ることになるのです。そうなると、思考を止めることはできなくなってしまいます。

常に堂々巡りの思考に乗っ取られて、それはまるで思考の奴隷状態のようです。分かってはいるけれど、そこから抜け出せずにいる人を沢山見てきました。

私自身も時として、そのような状態になってしまう経験を幾度となくしています。だからこそ、瞑想が大事であるとしてお勧めしてきたのです。

ただし、その気になって瞑想をして、その時には思考を緩めることができるようになったとしても、意識も同時に希薄になっていくのでは、元も子もありません。

本当に大切なことは、思考を止めることではなく、意識的であるということだからです。思考が止まればいいのでしたら、赤ちゃんや動物に戻ればいいだけです。

けれども、それでは一番大切な意識を失ってしまうことになってしまいます。誰だって幼い無邪気な頃は、それほど思考過多ではなかったはず。

子供の無邪気さは何とも愛しいものですが、ただそれだけであって、そこには明確な意識がないのです。自らの意識に気づいていること。

そうなれば、瞑想をして思考を止めようとせずとも、自然に思考をツールとして見れるようになるのです。意識的であるというチャレンジが、自分のライフワークとなって久しいのですが、なかなか思うような結果が出ていないのが本音です(汗)。

意志の力は邪魔になる

私たちのマインドは、何かをすることが得意であって、何もしないでいるということがとても苦手です。○○して下さいと言われたら、何とかしようとするものの、何もしないで下さいと言われたら、途方にくれるのです。

それがマインドの特徴ですね。今日もまたマインドの話しなのですが、なぜマインドのことばかり書くのかというと、マインドと自分の同化を見抜くためです。

マインドのことを深く深く理解することができれば、自己をマインドと同化しているということに気づかされるはずだからです。

マインドは、意志の力を使って何かをするようにできていますが、残念ながら本当に大切なことは意志の力ではどうにもならないのです。

そればかりか、意思の力はかえって逆効果になるのです。意志の力で寝ようと強く思えば思うほど、寝付けなくなるということは、誰もが何度となく経験していることですね。

リラックスするということ、あるいは今のままの自分にくつろぐということも、意志の力ではどうにもなりません。反対に、その力を抜くことでしか実現しないことです。

女性が赤ちゃんを出産する時間帯の9割は、夜とか明け方だという話しを聴いたことがあります。それは母体が比較的リラックスしている時間帯だからなのでしょう。

日中は、子供を産むということに思考が向くため、知らず知らずのうちに意志の力を使おうとしてしまうのです。そうすると、かえって赤ちゃんが出て来る道を狭くしてしまうのです。

意志力というものがとても大事だという教育を受けてきた私たちにとって、こうした事実は何となく腑に落ちない気持ちになるかもしれません。

けれども、意志力はマインドのものです。マインドが静かになって、意志を使わずに向うからやってくる大切なものを受け容れる準備ができれば、それこそが存在の赴く方向へと進ませてくれるのです。

物語を排除してこの世界を眺める

私たち人間は、物語が大好きなのだということは、以前から幾度となく繰り返してこのブログでも書いてきました。

だから、お金を払ってでも映画を観に行ったり、テレビでドラマを観たりするわけです。けれども、本当はただ好き、などというものではないのです。

物語がなければ生きては行けないということです。私たちの身体は空気がなければすぐに死んでしまうのに、普段は空気の中で暮らしているということも忘れてしまいます。

それと同じように、私たちのマインドにとっては物語は絶対に必要不可欠なものなのです。マインドは物語の住人なのです。

そのくせ、常に物語の中で暮らしていることにも気づかずにいるのです。自分の人生を単なる物語だと感じている人は少ないはず。

夢の中の登場人物は、夢から覚めれば消えてしまうのと同じように、物語の住人であるマインドも物語が消えるなら、マインド自身も消えてしまうということです。

自分の人生も、人類の歴史も、すべてが物語なのです。それもマインドがでっち上げたものです。実在してはいません。マインドの中、思考の中にしか存在しないものです。

すべての物語を排除した上で、この世界を眺めてみたら、一体どのように見えるのでしょうか?その時初めて、あるがままの世界の姿を目にすることになるのですね。