深く沈黙すれば見えてくる

私たちが現実と言っているものは、実はあるがままのこの世界ではなくて、物語のことを意味しているのです。地球上に誰もいなければ、それを現実とは表現しないはずですから。

だから現実とは、何がしかの物語のことを指すのです。現実は無数の物語で溢れかえっていますが、どの物語も夢の成分と同じもので出来ているのです。

それは思考です。思考が現実という物語と夢をでっち上げている張本人なのです。思考がなくなれば、夢を見ることはなくなるし、我々の現実も消えてしまうはず。

このことは以前から知っていたのですが、今日そんなことをボーっと見ていたら、びっくり仰天するような気づきに見舞われました。

気づいたといっても、気づいたことは以前から知っていたことなのに、より深く理解することでそれは驚きとなるのですね。そして、物凄く楽にもなったのです。

気楽になるのは本当にいいことです。まず腹が立たなくなりますね。それから、困ってもそれを何とかしようという危機感が消えてしまいます。

その気づきから半日経って、少し当り前になってきてしまったのですが、それでもじっくり感じてみようとすれば、それはまたやってきてくれます。

そう、あなたもあなたの人生も夢と同じもので出来ている。残念ながら実在しないものです。もしもあなたが、今このブログを読んでいるとしても、それは実在しないのです。

ただそれが起きている。それを言葉にしてしまえば、そこから物語が紡ぎ出されてしまうのです。深く沈黙したときに、このことがおのずと理解されるはずなのです。

osho の本を味わう

私は毎朝、osho の本を読むのが日課となっています。とは言うものの、義務で読んでいるわけではないので、勿論読まない日もあります。

ただ好きで読んでいるだけですから、同じことを誰かに勧めようとは殊更思っていません。個人的には、読んでいて楽しいし、嬉しいし、愉快だし、とても気持ちいいのです。

新しい何かを学ぶということでは毛頭ないし、彼の流れるような言い回しをちょっとうざい(笑)と感じるときもあるけれど、それも含めて読んでいるだけで意識が明確になるのです。

osho の本を読んでいて、もっとも大切だと感じることは、彼が何を言っているかではなくて、何を言わんとしているかを聴くようにしているということ。

この二つのことは、似ているようでいて全く違うことです。発せられた言葉をそのまま理解しようとせずに、行間を味わうということです。

論理的な理解の仕方をしようとすれば、必ず彼を疑う羽目になるでしょうね。彼に論理は通用しません。なぜなら、彼そのものが真理であるからです。

真理とは、我々の思考ごときが取り扱う論理を遥かに超越しているのです。だから、真理(存在)はどこまでも神秘なのですね。

そしてどうにもこうにも、他の誰かの本を読むことがとても難しくなってしまいました。単に読む気がしないというだけでなく、頭が回らないのです。読んでいてもすぐに疲れてしまう。

osho の本は、きっと読んでいるのではなく、ただ彼を味わっているだけなのかもしれません。

夢から醒める

久しぶりにちょっと嫌な夢を見ました。夢の中の自分は、子供の部分と大人の部分が同居している感じで、なぜかみんなの前でヴァイオリンを弾かなければならないのです。

実際に小学生の頃にヴァイオリンを習っていたことがあるのですが、大人の自分はもう何十年も弾いたことがないし、弾けるはずもないのです。

そんな状態で、演奏する当日がやってきてしまって、心の底から練習していなかったことを激しく後悔するのですが、もうどうしようもない後戻りできない状態になったのです。

演奏会場への道を歩いている間に、隣にいる友人にうまく弾けないはずといった言い訳をしているのですが、もうすべてが万事休す。

そしてこのままだと、自分が恥をかくだけでは済まない、大勢の人たちに大変な迷惑をかけてしまう、断崖絶壁に追い詰められたと思ったのです。

その時、あることがひらめいたのです。「そうだ、これは夢だったと!!」夢であって欲しいではなくて、夢だということを思い出したという感じです。

それであっけなく、本当に夢から醒めたのです。朝6時くらいだったのですが、ああこれだと!とうとうできたという感慨がありましたね。

これ、実はいつかできるようになりたいと願っていたものだったのです。目覚めているこの現実の中にいて、常にこの現実、この物語は夢なのだと自覚してきたことが、とうとう潜在意識にまで浸透してくれたと。

本当にそうなら嬉しいのですが、実際はまだ分かりません。それでも、これからも常に常に自分が置かれている状態が、思考の中の物語の一部に過ぎない、つまりは夢と違わないということを意識し続けるということ。

いつかは、この現実という夢からも醒める日がやってくることを祈って…。

もしも思考がなくなったら?

もしもあなたのマインドに巣食っている大量の思考がなくなったとしたら、一体この世界はどのようになるのかということを類推してみたいと思います。

あくまでも類推しかできないのは、完全に思考がなくなった状態が続いた経験が私にはないからです。それでも分かっていることを繋ぎあわせれば、ある程度の予測はつくはず。

思考が消えると同時に、思考がでっち上げているすべての物語が消失してしまうはずです。その物語には、あなたの人生と言う物語も勿論含まれています。

そして、その人生と言う物語の主人公として活躍している個人としての自分も消えてしまうのです。この私がここにいるという感覚は、とてもリアルです。

けれども、どれだけリアルであってもそれは思考の産物なのです。それは経験上知っています。夢の中であっても、相当にリアルな感覚があることは、誰でも知っていることですね。

リアルに感じるということと、真にリアルであるということはとてつもない開きがあるということです。思考が消え、物語が消え、自分が消えると、同時に時間も消えます。

それも経験上知っています。不思議ですが、思考が落ちると、時間というものがないということをアリアリと分かっている、そんな状態におかれるのです。

で結果、この世界はどのように見えるのか、個というものが消えるのですべてが繋がって一つものであるということが明白になるのでしょう。

どれもこれもが全体の一部としてただ在るということ。一枚の絵のように、その絵の中に何が描かれていようと一枚のキャンパスとして在るということです。

自分がいないのですから、自分を守って安心しようとする力も消えてしまうでしょう。つまり、精神的に無防備な状態になるということです。

あらゆる心理的な投影がなくなって、この世界をただあるがままに体験し続けるということになって、言葉にできないキラキラしたエネルギーに満たされる感覚になるかもしれませんね。

無思考、無心、無選択

久しぶりに、osho の講話から…

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マインドとは外的世界で活動するための機能だ。だから、ずっと後方にある自己の中心には到達できない。マインドは後ろ向きに進めない。

バックギアがないのだ。だから前にしか進めない。マインドというものは、山であれ、星であれ、どこへでも持っていけるが、自己の存在には持っていけない。

もし自己の存在に赴きたければ、マインドを去ることだ。そして一人で進むことだ。静かに、何の想念もなく、内に入ることだ。

無心の出現によって、自分の内側に、自由、歓喜、永遠が爆発する。一度でもそれを知れば、あなたに春が到来する。

永遠なる花々が何千も咲き乱れる。<存在>の神秘の扉をすべて開け放つマスターキーは、今からあなたの手中にある。

だがそれはマインドや思考とは何の関係もない。無思考、無心、無選択ーーただひたすら静かに、自分自身に根づき、喜び楽しむ。

めくるめく体験に歓喜し、大いなる祝福とともに、宇宙全体へと広がっていく。これこそ私の知っている唯一の宗教だ。それ以外の宗教はすべてまやかしだ。
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「私」を探すこと

人は誰でも不安を抱えて生きています。なぜなら、生そのものが不確定要素から成り立っていると言ってもいいからです。

明日どんな不都合が降ってくるか、分かったものではありません。生にはどんな保証もないのです。そんな未来を考えて、不安がやってこないはずはないのです。

だから、何とかして安心を手に入れようとするのですが、それ自体が間違いだと気づくこと。安定、安心を求めることこそが、不安を増幅することなのです。

けれども、そんな言葉に耳を傾けることもせずに、○○を手に入れたらきっと安心できると信じて、飽くなき闘いを繰り返してしまいます。

お金、評価、パートナー、家族、仕事、どれほど頑張って何を手に入れてもダメだと気づいた人は、今度は目に見えないもの、精神性へと希望を向けるのです。

誰もが欲しがっている世俗的なものから離れて、何かもっと崇高な精神性を手に入れたらと考えるわけです。それは勿論、対象が変わっただけで安心を求めるその生き方は何も変わっちゃいないのです。

精神性あるいは神性を求める、探究するのが「いわゆる」宗教なのかもしれません。この世でうまくいかなければ、今度はあの世で幸せになれるようにと思って、一心不乱に祈るのです。

私に言わせれば、世俗のものが神へとすり替わっただけで、本人は一切変わってはいないし、決して安心を得ることもできません。

神性を探してはいけないのです。その代りに、「私」を探すこと。神のことを何も知らずにどうやって探すつもりなのでしょう?それは不可能なことです。

最も身近な「私」を内側深く深く探しに行くこと、そのことに人生のすべてをかけてもいいと思えるなら、いつか「私」が消えたその先に神性が顕わになるのでしょうね。

ハートセンターを活性化させる

私たちの存在のセンターは、ちょうどお臍の辺りに位置しています。胎児は、臍で母親と繋がっており、そこから生のエネルギーをもらっていたのです。

赤ちゃんが生まれると、存在のセンターからハートセンターに向かってエネルギーが流れるようになります。ハートを開いて、感じることができるようにするためです。

赤ちゃんの無邪気さはハートセンターからやってきます。ところが、自我が目覚めだして自分を守る必要があると感じ出すと、ハートからマインドセンターへとエネルギーが移り出すのです。

どうやって自分を守るかということを考える必要があると同時に、辛く苦しい感覚を麻痺させて分からないようにするためにも、ハートセンターを閉じ気味にするのです。

つまり、マインドが優位になって逆にハートが閉じるようになっていくということ。これが現代人に起きている平均的なエネルギーの状態です。

ハートセンターが閉じ気味でいると、ネガティブな感覚や感情をあまり感じずに済むため、本人にとっては一面では都合がいいのですが、そのつけがジワジワとやってくることになるのです。

それは、感動や喜びのような素晴らしい感覚も分からなくなっていくのです。こうなると、もう生を楽しむことはできなくなってしまいます。

マインドセンターに傾いてしまったエネルギーを、もう一度ハートセンターへと戻すためには、例えば音楽とかダンス、あるいは絵画その他なんでもいいので芸術に触れること。

あるいは、大自然の中でそのエネルギーを全身で感じてみるとか、五感をフル活用するような体験を自分にさせてあげることです。

ハートが優位になってくると、自動的にマインドが静かになってくるのです。そうなったら、なるべく瞑想をするようにして、マインドが再び優位にならないように気を付けることです。

ハートセンターが活性化されたなら、すぐにでも存在のセンターも活動を再開してくれるはず。そうなれば、自然と自分の本質に気づくチャンスがやってくるのでしょうね。

どんな物語も実在しない

物語というと、日本昔話のような童話や平家物語、あるいはテレビドラマや映画のように何となく架空のストーリーをイメージさせる感じがしますね。

けれども、大きくとらえれば、宇宙の歴史、地球の歴史、人類の歴史だって物語とも言えるわけです。私たち一人ひとりの人生にしても、正真正銘の物語なのです。

そのようにして、この世界はすべて物語で出来上がっているとも言えるのです。さて、その溢れかえる物語のどれもが、実在しないものだとしたらどうでしょう?

実はどんな物語であろうと、それは決して実在するものではありません。私たちの思考の中に繰り広げられているに過ぎないからです。

ひとたび思考から脱するなら、そこにはどんな物語も見出すことは不可能なことなのです。このことの気づきは、とても大切だと思います。

今日、あなたは職場に行って仕事をして、夜に友達と夕食を共にしてから帰宅したとします。こうした記憶に残っている一連の流れのことを、物語と呼ぶのですから実在すると感じます。

ところが、思考を使って過去の記憶にアクセスすることをストップし、たった今この瞬間に強烈に意識を向けることができるなら、そこにはどんな物語も存在しないと気づくはずなのです。

私たちが「事実」と呼んでいるものと、実在とは残念ながら一致しないということです。実在は時間との関わりが全くありません。それは瞬間であり、同時に永遠だから。

どんな物語性も排除してこの世界を見ることができるとき、騒音でごった返していた我々のマインドは、静寂そのものとなるのでしょうね。

やっぱり鍵は勇気かな?

世の中には、物凄く怖がりの人もいるし、その反対に人から命知らずと言われるようなことを平気でする人もいますね。人によって、恐怖感の大きさにはそれほどに違いがあるのです。

私は間違いなく怖がりの部類に入るのですが…。生というものは、本来危険なものですね。明日はどうなるのか、何の保証もないままに生きていかねばならないのですから。

恐怖からできる限り遠のいて生きていこうとすれば、活躍の幅は小さくなってしまうのは当然のこと。安心できることにしか、触手が動かないのですから。

その一方で、勇気のある人は恐怖を感じながらも、そこから逃げずに向かっていくことができるのです。それは決して恐怖をあまり感じないということではないはず。

恐怖を感じつつ、それでも安心を求めずに勇敢に向かって行くということです。だからといって、無謀なことをわざわざするという意味では勿論ありません。

勇気が必要なのは、この社会で生きていくためだけではなく、セッションでやっているような心の癒しについても同じことが言えるのです。

癒しには、どうしても勇気が必要です。なぜなら、自分が最も見たくない、逃げ続けてきた都合の悪い自分と対峙しなければならないからです。

「惨めな自分」をできるだけ真正面から受け止めることができるなら、その勇気を持ってマインドの奥底に光を当てるなら、必ずや身体も気持ちも軽やかになるのです。

なぜなら、隠し続けねばならなかった重荷、自分を騙し続けてきた疲労から解放されてしまうのですから。日頃勇気をどれだけ使っているのか、一度自分を点検してみるのもいいかもしれませんね。

どちらでもないが究極

何かを買いに行って、どちらにするかなかなか決められない時って誰にでもあることですね。一緒に付き合ってくれた人に、優柔不断だなと嫌味を言われたりして。

けれども、実は優柔不断というよりも、選んでいるものに対してのこだわりが強いために、なかなか決断ができないという現象が起きるとも言えるのです。

逆にこだわりがなくて、どちらでもいいという場合には、スッと決断できるのです。どちらにしても、それほどの違いを感じられないからですね。この、どちらでもいいという心の状態は、人生を清々しくしてくれるのです。

私たちは、大抵自分自身に独自の考え、独自の主義主張を持ちなさいという教育を受けてきたはずです。それが、社会で生き抜くためには有利に働くと思えるからですね。

そういうところからも自分のアイデンティティが確立されていくように考えられているのも事実です。こだわりを持っている方が、何となく人生をしっかり生きているという印象を与えるのも事実ですね。

けれども、こだわればこだわるほど、それだけ苦しみが増えるということにも気づく必要があるのです。こだわった結果が、望むものとなればそれだけ喜びも大きいのですが、その反面、望まない結果がやってきたときには苦しむことにもなるのです。

信じるものは救われるという言葉がありますが、信じれば必ず信じないが一緒についてきて、いつかは信じないが表面化して裏切られたような気がするのです。初めからどちらでもない状態であれば、結果に対して無頓着でいられるのです。

真に中道を生きる人とは、どちらでもない状態にあるということです。自分は自由でも不自由でもない、自分に対してそういった観念がないということです。

こだわりを減らして、どちらでもないを増やしていくことができれば、それこそが究極の生きる極意を体得していくことなのだと思うのです。