ただ自分自身で在ること

この世に生を受けて、しばらくは無邪気でいたはずなのに、いつの頃からか、「この自分のままではダメなんだ!」という間違った思い込みをしてしまったのです。

その独りよがりの思い込みこそが、その後の人生のすべての苦悩の始まりだったわけです。独りよがりとは言え、その時にはそう思い込む以外に道はなかったのですから、仕方ありません。

他の選択肢というのは、後になって考えればあり得たと思えるだけで、その当時としては無理もないことだったのです。だから、誰も間違ってなどいないのです。

けれども、思い込んでしまったことは完全なる過ちでした。「自分のままではダメなんだ!」によって、あらゆる方策を尽くして、ダメじゃない自分になろうと頑張り出すのです。

自分じゃない誰かになろうとして、奮闘努力をしてしまったのです。頑張れば頑張るほど、あるがままの自分を否定して、その存在を心の奥へと隠したのです。

余りに強く隠されると、そのエネルギーはいずれ何等かの形となって表面化することになるのです。それは、感情の爆発だったり、鬱症状だったり、あらゆる種類の問題行動だったり。

そして、そんなダメダメな自分のことを、頑張る自分が大否定してしまうために、さらなる悪循環を起こすことになるのです。こうなったらもう手が付けられません。

こうしたとんでもない生き方を根底から見直して、そもそものあるがままの自分を心の奥から呼び戻し、彼(彼女)に光を当てることができたら、人生は突然軽やかな清々しいものへと変化するでしょう。

なぜなら、自分以外の誰かになろうとして、途方もない重荷を背負ってきたからです。その重荷を降ろして、ただ自分のままで在ることに感謝する日が、一日も早く来ればいいのにと思うのです。

マインドをコントロールしようとしない

誰でも、必死になって寝ようとすればするほど、寝付けなくなるということを経験上知っていますね。一生懸命リラックスしようとすれば、決してリラックスできないのと同じです。

マインドを直接的にコントロールしようとすれば、その反対がやってくるということです。瞑想とは、思考を止めることだと知って、頑張って思考を止めようとするのです。

結果は明らかですね。止めようとコントロールすれば、思考は決して止まりません。止まるどころか、その勢いを増して、あなたを翻弄することになるはずです。

怒ってはいけない、いつも穏やかでいなければならない、そうマインドに命令すれば、必ずや怒りがやってきて、願いとは反対の状態になってしまうのです。

本当かなあ?と思う人に今からある実験をします。よく聞いて下さいね。

「空飛ぶピンクの象」 ………のことをイメージしないで下さい、と言われたらどうでしょう?勿論そんな象は実在しないのですが、それでもイメージするなと言われれば、少なくとも何等かのイメージが湧いてきてしまうはず。

マインドをコントロールしようとすれば、必ず反逆に遭うのです。だから、賢い人は決して自分のマインドをコントロールしないようにしているはずです。

マインドを手なずける最も有効な方法は、コントロールする代わりに見ることなのです。マインドと闘わずにただ見ることで、マインドは力を失っていくのです。

マインドはただ見られることが一番苦手なのです。徹底的に見ることを続けていれば、マインドはいずれは小さくなって取るに足りないモノへと変わり果てるでしょう。

その時、あなたは自分はマインドではなかったということに気づくことになるはずです。

褒められたい症候群

誰だって、他人から否定されたり侮辱されるよりは、肯定されたり褒められる方が気持ちがいいものですね。中には、強く褒めて欲しいと願っている人もいるでしょう。

褒めて欲しいが強ければ強いほど、それだけ侮辱されることを強く恐れてもいるのです。なぜなら、褒められることと侮辱されることは、一つのコインの表と裏の関係にあるからです。

褒められたくて仕方のない人(私はそういう人のことを褒められたい症候群と密かに呼んでいるのですが)に、是非聞いて欲しいことがあるのです。

実は、自分のあるがままをある程度受け容れるマインドの状態にあるなら、とりたてて褒めて欲しいとは思わないはずなのです。

なぜなら、褒められるにはそれなりの理由があるわけで、その理由がなければ決して褒めてはもらえないということが、透けて見えるからです。

100点取って褒められたら、20点取ったらけなされるがくっついてくるのですから。それはコインの表と裏の関係なのです。対極にあるもの同士は、必ずペアとなってやってくるのです。

その片一方だけが、その時に表面化しているに過ぎないということを見抜くことです。幼い頃に充分に受け止めてもらった体験があるなら、その人は褒めてもらうことに無頓着になるのです。

場合によっては、褒めて欲しくないと感じることもあるはず。コインの裏側が見えてしまうからですね。人を褒めるということは、何等かの成果なりに対する評価に過ぎません。

その人の存在を褒めることは不可能なことです。そして比較することも評価することもできない「存在」こそが、この世界で本質的に価値のあるものだということ。

自分の存在に常に目を向けて、それを充分に味わい、そこに肯定も否定も何もないことに気づくなら、褒められたい症候群から脱却することになるはずです。

そのときに、初めて人からの評価に対して、無頓着な状態になることができるのですね。

自分のマインド年齢

ここ数年ずっと感じていることなのですが、風呂上りに髪を乾かすときに鏡を見るのですが、その時に自分の顔って、こんなだったっけ?と不思議な感じになるのです。

というのも、自分の外見をほとんど気にせずに毎日やってきて、内面は少しも変わってないのに、鏡に映った自分の顔形があまりにも年齢とともに変わって来てしまったからです。

まともに鏡を見るのは、一日に一回だけなので、しかも髪を乾かすのが目的なので、それほどじっくりとは自分を見ているわけではないのです。

それで、ふと気が付くと、自分の外側と内側が大きく隔たってしまったことに驚くのです。肉体は自動的に老いていくのですが、内側はどうすればいいのでしょうか?

私のマインドは老いるということを、なぜか知らないようなのです。自分でもはっきりと自覚しているのですが、実年齢とは程遠いマインドの状態なのです。

他の人たちは一体どのようにして、マインドの老いというものを進めて行くのか?是非誰かに聞いてみたいと思ってしまいます。

もしかしたら、誰もが私と同じように感じているのかもしれません。誰も自分が年相応にマインドの老いを感じてなどいないのかも…。

そう考えると、何となく面白くなってきました。この世界には、内面まで老いた人はいないのかもしれない。じゃあ、せいぜい死ぬまで無邪気なままでやってやろうっと!!

自分のマインド年齢、平均するときっと17歳ってとこかな。

ストーカーのような親

ストーカー行為を繰り返す人の気持ちって、何だか気持ち悪いし分からない、と思われるかもしれませんが、実はそれほど複雑でも特殊でもないのです。

要するに現実を受け容れることを嫌って、自分に都合のいいように考えるというマインドの働きに過ぎません。ごく一般的な自己防衛の一つですね。

ただそれが度を越えてしまうと、ストーカーのような行動をするようになるということです。誰だって好きな人から嫌いと言われたくはないわけです。

そんなときに、相手の気持ちを無視して、自分はこれだけ好きなのだからという部分だけを取り上げて、まるで相手には気持ちがないかのように扱うことができるのです。

当然対等な人間関係を築くことはできなくなってしまいます。相手の気持ちを無視するのですから、相手をまるでモノのように扱うということです。

これは最も醜いマインドの状態と言えますね。けれども、実は多くの病んだマインドを持った親が、それと同じようなことを自分の子供に対して繰り返していることは、あまり知られていないかもしれません。

子供を溺愛する、あるいは子供のことが心配過ぎて過保護、過干渉になったりして、我が子をまるで自分の所有物のように扱う親は沢山いるのです。

子供は幼いので、いろいろしてくれる親が自分を愛してくれていると錯覚しますが、いずれはその化けの皮が剥がれることになるはずです。

なぜなら、子供自身の気持ちが全くないがしろにされているということに、気づくことになってしまうからです。そういう親に限って、子供が自分から独立して離れていこうとすると、力づくで妨害してきたりするのです。

結局、あなたのためなんだからという決め台詞を言いつつ、本当は子供の幸せなどこれっぽっちも考えてはいないのです。親自身が安心できればいいのです。

もしも、自分はそのような親に育てられたかもしれないという自覚があるなら、一刻も早く親から離れる必要がありますよ。

あなたは思考ではない

あなたがゆったりと寛いでいる時、温かい湯舟に浸かってのんびりしている、そのような時には、身体の緊張がほぐれて、思考も緩んでいるはずなのです。

それとは逆に、緊張していたり困っていたり、このままじゃダメだとか、何とかしなければといった状態になって、苦悩している時には、思考はフル回転しているはずなのです。

そうなんです、思考はあなたが望むような状態では不必要となり、望まないような状況のときこそ思考が活躍するということなのです。

つまり、満たされたいと願っている割には、そうならないとしたら、思考が邪魔をしているからなのです。思考は、それ自体を存続するために、あなたを望ましくない状態へと連れて行こうとするのです。

思考はあなたが主人としてそれを使う側である限りは、便利なツールなのですが、思考がそれ自体のためにあなたを巻き込むようになったなら、あなたの敵だと考えることです。

そのことに気づいていますか?もしも思考を止めようとしても、思考が主人であるあなたの言うことを聞かずに、すぐにさまざまな雑念を送ってくるようなら、思考は有害な状態です。

あなたは思考の奴隷と化していると気づく必要があるのです。そして、もっとも困った状態は、思考と自分自身の区別がつかなくなってしまうこと。

言葉を変えれば、意識と思考の違いが分からない状態のまま生きているなら、常に思考こそが自分なのだと思い込んでいると言えますね。

思考はあなたではありません。あなたは意識そのもの。思考が雲だとすれば、意識は青空だと思えばいいのです。青空が消滅することはありません。

来たり去ったりする一過性のものは、雲という思考なのです。暗雲が立ち込めて、青空を覆い隠してしまっているなら、自分を思考だと感違いするのも当然かもしれません。

普段から、あなたの内面を占拠している思考に、注意を向けておくことです。その注意を向ける主体が自分だと気づくようになるまで。

我慢は抑圧を生む

今日は、我慢すると必ずそのツケが廻って来るというお話しです。

ひとたび我慢をすると、マインドはほぼ自動的に我慢をさせた側と、我慢をさせられた側とに分裂してしまうのです。

何故なら、我慢をさせた側からすれば、我慢をさせられた側にその苦痛をすべて放り投げてしまって、もろとも抑圧してしまえば、自分は苦しまずに済むからです。

そうやって、その後ももっと自分に我慢をさせることで、うまく自己防衛が出来、それによって自分を安心させたいのです。

これがマインドのからくり。あなたのマインドの中で自動的に行われている抑圧のメカニズムです。だから我慢は抑圧を作り出すのです。

もしもあなたが我慢した結果やってくる苦痛から逃げることなく、全一に感じ尽くすなら抑圧は起きないので、ツケが溜まることもありません。

ただ、全一に感じられる人は、元々理不尽な我慢を自分に強いることもないはずですね。全一に生きるとは、自分に正直に生きることだからです。

我慢させられた側は、抑圧されている間に怒りのエネルギーを着々と溜めてゆき、いずれは何らかの形で反逆に打って出ることになるわけで、これがツケなのです。

もしも人類から抑圧というメカニズムが消え去ったなら、惨たらしい戦争の歴史に終止符を打つことになるでしょうね。

家族制度なんていらない!

家族があって、国があって、そういうものが私たちの人生の基盤となっているのは事実です。基盤だからとても大切なかけがえのないものと感じるのは当然のこと。

けれども、反感を持たれることを覚悟の上で敢えて言うのですが、私は個人的に家族という制度に疑問を持っています。その延長上にある国に対してもです。

子供が親を選んで生まれて来るという話しがあるのは知っていますが、一度そのことを脇に置いて考えてみると、現実にはあまりにも過酷で逃げようのない家庭というものがあるのです。

家族という閉ざされた空間の中で、幼い子供がどのように扱われているのか、その本当のところは決して外側からは見ることができないのです。

だから、子供がどれほどの苦しみの中にいるのかも分かってあげることもできないし、救いの手を差し伸べることも相当に難しいことになってしまうのです。

象は群れを成して生活しているそうですが、その中の一匹が小象を産むと、メスの象が集団で子育てをするそうです。そこに子育ての理想の形を見い出せると感じるのです。

そこに家族というものは存在しません。子供はどれが自分の親なのか、また親もどの象が自分の子なのかは認識しているのですが、そこに家族のような結びつきはないのです。

そもそも、結婚という制度を廃止しなければなりません。結婚は、移ろいやすい人の気持ちに対するリスク回避のシステムのようなもの。

国家という第三者が二人の関係を保証するのですから、おかしな話しではあるのです。二人の関係性はあくまでも二人だけのものであって、それが未来にどうなるのかは分かりません。

結婚は安心を得るための制度であって、それが家族という制度へと繋がっていくということを思えば、結婚とは何と野蛮な制度なんだろうと思うのです。

家族ができると、子供はそこから逃れることができなくなるのです。どんな親であれ、マインドは病んでいます。なぜなら、彼らも同じように病んだ親が作った家族の中で育てられたからです。

親は決して悪者ではありませんが、病んだ親はどうにも始末が悪いのです。家族ではなく、コミュニティの中で子供を共有すれば、子供は偏った親の影響を受けずに済むのです。

暴言と思われても仕方ないのですが、長いこと多くのクライアントさんとのセッションを通して、自然と気が付くとこんなことを感じるようになったのです。

結婚、家族、国、この制度がなくならない限り、人類が愛に溢れて生きることはできないのではないか。抑圧のない自然な生き方ができないなら、人類に未来はないのかもしれません。

自分を信頼できない心の状態

親の言うことが何となく変だなと感じているものの、それでもやっぱりそう感じてしまう自分の方がおかしいのかもしれないと、そうやって自分を疑ってしまうことはありませんか?

子供をコントロールしようとする親に育てられてしまうと、何かと親から押し付けられてしまうのです。人間は本能的に自由を好む性質があるので、押し付けられると不満を感じるのです。

その押し付けは、したくないことをするように言われたり、逆にしたいことをしないように言われたり、あるいは親の正しさを押し付けられたりするのです。

幼いころは、それでも親の言いなりになってしまうのですが、ある程度知恵がついてくると、何だか親の押し付けて来る正しさに違和感を覚えるようになるのです。

けれども、その時にはもうすでに親は正しくて、自分は間違っているという洗脳が進んでしまっているために、冒頭書いたようにやっぱり自分の方が間違っているのかもと思ってしまうというわけです。

親との会話において、自分の方が間違っているのかもと感じることがあるとしたら、それは間違いなく親からの正しさの押し付けを経験してきた結果だと理解することです。

なぜなら、真っ当な親に育てられたなら、彼らはあなたに親の正しさを押し付ける代わりに、あなた自身が自分の正しさはこうだと言えるように仕向けてくれるはずだからです。

その場合には、自分の正しさに自信が持てないということにはならないはずなのです。自分がおかしいのかもと感じるのなら、自分を信頼できてない証拠です。

その状態のままでは、どう頑張ったところで人生を喜びを持って生きることはできなくなってしまうでしょうね。自分を信頼できるように、癒しを進めて行く必要があるということです。

喜びの三つの側面

タントラ曰く…

喜びには三つの側面がある

一つは快感。快感は肉体のもの

二つ目は幸福。幸福はマインドのもの

三つ目は至福。至福は霊的(スピリチュアル)なもの

 

どれも大切ですね。肉体を軽んじる必要はまったくないと思うし、ただ快感は不快感とペアでやってくるということを知っておくことです。

そして幸福も同じようにして、不幸と常に隣り合わせです。肉体とマインドの喜びについては、どちらも二元性の世界だけあって、快不快、幸不幸のように裏表があるのです。

一方で、至福だけは非二元なのです。至福は永遠であり、それは真理の一つの属性なのですね。