不安も安心もなくただ在る

未来のことを思い悩んで、不安の中に入ってしまうということは、程度の差こそあるものの誰でも少なからず経験していることですね。

その不安を安心に変えたいという強い欲望のために、大切な現在を破壊してしまうということに、もっとはっきりと気づく必要があるのです。

現在というのは、唯一の生が在る場所なのですが、思考の中にしか存在しない未来へとエネルギーを費やしてしまうのですから、どれだけ損をしていることか。

その思考は大抵が堂々巡りを続けるだけで、どこへも導いてはくれないのです。そうやって、貴重な現在という奇跡を見失ってしまうということです。

感覚を繊細な状態のままに保つことができれば、肉体と感覚を持って、この生を生きているというのは本当に奇跡的なことだと感じるはず。

その時思考は緩慢になっていて、過去も未来もマインドに入って来る余地がないのです。その奇跡の中で思う存分、生の面白さを味わえばいいのです。

ところが、未来への思考に翻弄されてしまえば、神の恵みである現在を台無しにしてしまうことになるのです。清々しい現在があるからこそ、それがいずれは未来にももたらされるのです。

未来への安心のために、現在を犠牲にしているという自覚があるなら、人生を棒に振ってしまうことになる可能性大です。

生とは根本的には不確定なものであり、それに対して安心を求めるのなら、決して不安から脱出することはできません。不安は不安のままにしておく勇気を持つこと。

不安から逃げずに、さりとてそれと闘わずにいることができれば、それまで気づけなかった現在という奇跡が周りに充満していたことを悟るのです。

不安も安心もないところにただ在る自己を発見できるはず!

義務感か愛か

人の行為というのは、それがしたいことだからするのか、義務としてするのか大きく二通りがあると思います。

もしもあなたが、義務として何かをするのなら、必ずその代償を求めることになるということに気づくことです。

逆に、そうしたいからするというなら、どんな見返りも求めるはずがないのです。見返りを求めるのなら、それは取り引き、そこには愛はないと気づくことです。

もしもあなたが、親に義務感から育てられたとしたら、必ず怒りを溜めることになるはずです。なぜなら、そこには愛がないと分かってしまうからです。

義務感で子供を育ててしまうと、これだけのことをしてあげたのだからという親になってしまうのです。

子供の側からすれば、そんなことはどうでもいいことです。自分はただ分かって欲しいだけだったのにと思うはずなのです。

人は、義務で生きるのをやめねばなりません。義務ではなく、愛で行動を起こすことです。愛はどんな見返りも求めないからです。だからこそ、結果がどうであれ不満になることがないのです。

自分が義務から行動しているのか、愛からなのか、いつも気づいていることが大切なことですね。

人間の可能性は無限

私たち人間というのは、本当に素晴らしい可能性を秘めているのです。その可能性は、無限に広がっていると言っても過言ではありません。

たとえば、猫はどこまでいっても猫でしかありません。賢い猫、それほど賢くない猫という違いはあるかもしれませんが、猫がサルになったり、人間へと変化することはありません。

ところが、人間だけが場合によっては動物以下の存在に成り下がることもあり得るし、神になることもあるのです。それほどの可能性の幅があるということ。

その昔、大人たちが自分たちの子供らを、みんなの見ている前で、神への生贄として火あぶりにしたこともありました。

こんな酷いことができるのは、人間だけです。どんな動物にもそれほどの酷い仕打ちなどできるはずもありませんね。歴史上ずっと、戦争をし続けているのも人間だけです。

地獄に落ちる可能性は、他の動物には決してないのです。我々人間だけが地獄へ行ける切符を持っていると言えるでしょうね。

一方で、仏陀やキリスト、あるいは多くの覚った禅僧などのように、真実と一つになってしまった、つまり神の領域へと行ってしまった人たちもいるのです。

これほどの幅をもった生き物は、人間以外にいるはずもありません。そういう意味で、人間というのは何と素晴らしい存在なのだろうと思うのです。

神へと進化するのか、動物以下になるのか、それは私たち一人ひとりの生き方に依るのです。そこには、無限とも言えるポテンシャルがあるのですね。

親へのわだかまりから解放される

私たちが本当に癒されるとき、それは幼い時の自分の親から解放されるときなのです。え?、親のことなどもうとっくの昔にどうでもよくなってしまっているよ、という人もいますね。

けれども、そこにはひょっとすると分かりずらい落とし穴があるかもしれません。というのも、本当に親に対してのあらゆるわだかまりが消えてしまうことは、なかなかないからです。

私たちは、表面意識では親を卒業したと感じているものです。たしかに親がいないと生きていけないと感じている大人は少ないでしょう。

ところが、あなたの心の中にはインナーチャイルドがいます。誰の心にもいます。その子の本当の気持ちを全部分かって生活している人がどれだけいることか。

実は多くの人は、インナーチャイルドがいることすら感知していません。知っていたとしても、その子の本心を知っていて、受け止めてあげられている人は本当に少ないのです。

たとえば、「ずいぶん前から私は親については完全に諦めてしまっていて、どんな期待ももう持ってはいません。」という人がいます。

でもその気持ちが100%であれば、人生が生き辛く感じることはないはずなのです。その人のインナーチャイルドの隠された本心では、まだまだ決してあきらめてなどいないのです。

そのことを知ってあげることが癒しの第一ステップと言ってもいいかもしれません。その上で、その気持ちがなぜ残っているのかを見てあげるのです。

そして理想的には、その子の悲しみ、怒り、不安、淋しさなどを大人の自分が全力で味わってあげること。それが出来て初めて、すべてのわだかまりから解放されるのです。

そうなってようやく、親への抵抗感が消えて、あるがままの自分を出して生きていくことができるようになるのです。それが癒しの道ですね。

瞑想プラクティス #3

1.まずは、何もせずに静かに坐ること数分

2.マインドにやってくる思考をただ見る

3.思考を見ている主体を見る

その主体こそが「私」というエゴなのです。

その「私」にじっと意識を向け続けていると、いずれはそれが空虚なモノだと気づく。

以上

比較することで思考は生きる

私たちの思考というのは、あるものとあるものを分けることによって、成り立っているのです。

そして、その分けることのベースにあるのが、比較するということ。つまり、思考とは世の中にあるあらゆるものを分割し、それぞれを比較することによって生き続けることができるというわけです。

だから、思考の中にあって比較をせずにいるということは、ほとんど不可能なことだということです。そのくせ、私たちは比較をすれば、必ずそこには苦悩があるということも経験上知っています。

なにごとも比較せずにいられるなら、一体どれほど気持ちを穏やかな状態のままにしていられることか。残念ながら、比較は思考の中にいる人にとっての宿命のようなものだということですね。

他人に比較されて気持ちいいということもないし、自分でも誰かと自分を比較して、暗い気持ちになっている人は沢山いるはずです。

残る道は、何とかして思考を停止させて、比較から逃れるしかありませんが、瞑想が苦手な人にとっては、それはそれで難しいことですね。

ではどうしたらいいのか?残る道はただ一つ、それはどうしても比較を止められないでいる自分を、そのあるがままを見守ってあげることです。

そんな自分を受け入れてあげることができたときに、逆説的ですが、自然と比較が落ちていくのです。

持つことから在ることへ

私たちは、知らず知らずのうちに、家族や社会からさまざまな方向付け、条件付けをされてきたのです。それは、たとえば人よりも多くを手にする事、人よりもより価値のあるものを手にする事。

そうすれば、必ず幸せになれるんだと、そう教えられてきました。そうやって、持つということに焦点を向け続けてきてしまったのです。

外側から手に入れられるものは、単にモノだけではなくて、家族だったり仕事だったりも含まれるのです。そして、人からの評価や能力なども、物質ではない手に入れるものの中に入っています。

思考というのは、持つことに興味があるのであって、ただ在るということを理解することができないのです。在ることは、マインドではなくハートの範疇だからですね。

もしもあなたが、在ることには関心がなく、もっぱら持つことにのみ価値を見い出すのであれば、本質的なことから遠ざかってしまっていることになるのです。

愛は逆に、持つことには全く関心がなく、在ることへと向かうのです。ただ在ること、それだけに焦点を変えて行くことができるなら、その副次効果として不安が安心へと変わっていくはずです。

思考の雑音が静まっていった先にあるのは…、ただ在ること。

自分への深い謝罪

20年以上もごく普通の会社員だった自分が、どうした拍子なのか気がついたらセラピストになっていたのですが、そのきっかけとなったのは、自分への深い謝罪の気持ちでした。

他人に謝るというのは、ごく当たり前のこととして誰もが経験しているはずですが、自分自身に対して心から申し訳ないと感じることは、あまりないのではないでしょうか?

ある日それはやってきたのです。それには、どんな努力も必要とするわけではなく、ただただ唐突に向うからやってきたとしか言いようがありませんでした。

けれども、結果としてその深い謝罪の気持ちは、自分の人生を大きく変えるだけの凄い力を持っていたということなのでしょうね。

それまで一度たりとも経験したことのない何かがやってくると、人はただ驚くだけで他に何もできずに、かえってそれが自分に真正直な状態を作り出すのですね。

もうどんなことがあっても、自分に不正直になることだけはよそう、もっと自分を労わってあげよう、そういう密かな決意がその時に訪れたと思います。

そうなると、人は何か見えない不思議な力によって、ドンドンと運び流されて行くのです。本当に気がついたら、事務所を借りているし、あれ、目の前にセッションにいらして下さった見ず知らずの方がいる…。

自分でも内心驚きながらセッションをしていた記憶がはっきりと残っています。この仕事を始めて、16年目に入った今でも、その不思議な感覚はたまにやってくることがあります。

自分が人生のかじ取り役だと思っていたのに、本当はそうではなかったということを、体験上知ることができたことは幸運だったと思います。

人生何が起きてもいいし、流されていく自分を見守ってあげることができるなら、人生はそんなに悪いものではないと分かるかもしれませんよ。

癒しはとてもシンプル

心を癒して行くために、様々な方法が考案されていますね。フロイトやユングの時代から始まった精神分析に代表される心理療法や、最近ではチャネリングやヒーリングなど、それこそ無数の手法があります。

私がセッションで行っている催眠療法も、その中の一つに過ぎませんが、数ある手法の中から最も自分に適したものを選ぶことができれば一番いいのですが、なかなか難しいかもしれません。

けれども、私のセラピストとしての経験からすると、クライアントさんがどんな手法を選ぼうと、本質的にはご本人が癒しについてどれだけ真剣かということが、一番大きいのです。

何か特定の問題が解決すればいいと考えているような場合には、癒しが進むことはまずないと思っていいのです。というのも、その問題が表面的に解決したとしても、内側深くに潜在する大元の原因が残るからです。

結局、問題を見るのではなく、自分という存在と深く関わろうとする意志、そのことへの興味、あるいは強い渇望があることがとても大切なのです。

癒しを一過性のものにするのではなく、生涯関わっていく非常に本質的な事柄なのだという自覚が必要だということです。自分と深く関われば関わるほど、そのことの意味に気づくようになるはずです。

そして、癒しの根本はどんな手法とも関係ありません。それは、何か新しいことを学ぶということでもなく、逆にこれまで培ってきた自分の常識、考え方、正しさ、そういったものをできるだけ捨てていくことなのです。

つまり、癒しとはとってもシンプルなのです。ただし、シンプルなことだから簡単とは限りません。なぜなら、一度自分の財産にしてしまったもの、自分を安心させてくれるものを投げ捨てるのは、相当の勇気がいるからです。

究極的には、あなたという存在は夢の中の住人に過ぎないということに気づくこと。そのことに気づくのは、今のあなたではなく、あなたという思考が落ちたときに復活するあなたの本質ですけどね。

超お手軽覚醒プラクティス #1

普段の生活の中で、この世界、この現実は夢なんだということを思い続けるようにする。

できるだけ、どんな時にも忘れないようにする。ただこれだけ。

それがマインドの深くにまで浸透してくると、睡眠中の夢の中でも、これは夢なのだという気づきがやってくるようになり、その結果夢から醒めるという体験をする。

その夢から醒める感覚を繰り返すことで、この現実という夢からの覚醒が起こる…、かもしれない!

このプラクティスは、瞑想と併用すると効果があるような…、気がする!

仮に、覚醒できないとしても、実はこの習慣をつけることで、起きていることに巻き込まれることなく、ただ見るという態度が養われるのです。

それだけでも、とても大切な意識革命です。

興味があったら、是非試してみて下さい。