まったく学習しない本当の理由

私たちは、何度も何度も繰り返し同じことをしても、それについて本当には学習することがありません。だからこそ、何度でも輪廻を続けてしまうのです。

この人と結ばれたら絶対に幸せになれる、そう信じてそれが実現しても、いずれはその人は自分の理想とは違う部分が沢山あったと気づき、別れることになるのです。

そうして、また次のターゲットを見つけては、今度の人は絶対大丈夫。前のようなことにはならないはず、そう信じて結ばれたはずなのに、しばらくするとまた同じことになってしまう。

そうやって、今度こそ、今度こそと同じことの繰り返しを続けて行ってしまうのです。学習しないとはそういうことです。そのターゲットが人であれモノであれ、同じこと。

あれさえ手に入れることができたら、絶対幸せになれると思うのです。いざ手に入っても、嬉しいのは一時だけで、すぐに不満な気持ちがやってきます。

そして別の何かをゴールにして頑張り始めるのですが、運よくそのゴールを達成することができたとしても、やっぱり一時の悦びも束の間、また慣れ親しんだ不満はやってくるのです。

なんでこんなに学習できないのだろうか?一回の人生においては、さすがに終わりに近づくにつれて、ある程度は学習することになるはずなのです。

ところが、死に行くときに、肉体の死という衝撃に耐えきれずに、意識をなくしてしまうのです。つまり、危篤状態になるということですね。

そのために、次の肉体へと移るときに記憶を失くしてしまうのです。だからこそ、またゼロから人生をスタートさせることになってしまうのです。

何万年繰り返しても、一向に学習しないのはそのようなからくりがあったということですね。無駄な人生を繰り返したくないなら、是非とも意識を持ったまま死に行く必要があるのですね。

アイデンティティなどいらない

この社会において、誰からも認められる存在となるためには、自分のアイデンティティをしっかりと確立することが大切なことだと思われています。

確かにそうですね。例えばアメリカに行って、何か質問されたときに、「I have no idea.」って答えたら、ちょっとダメな人というレッテルを貼られてしまいそうです。

かつてはどうだったか分かりませんが、今では日本においても、同じようにして個人としての確固とした意見や他人と差別化できるような何かを持っていた方がいいとされるのです。

私自身、会社員だった頃は自分のアイデンティティは「これこれだ!」というものを持っていたように思います。それが、会社を辞めて今の仕事をするようになってから、変わってしまいました。

はっきりとした記憶もあるのですが、ある時明確に自分はこれまで生きてきた大澤富士夫とは断絶してしまったと感じた瞬間があったのです。

何か特別なことがあったわけではないのでしょうし、記憶がなくなったわけでもないのに…。自分の歴史にどんな価値も見出さなくなってしまったということなのかもしれません。

自分のアイデンティティについて考えることも全くなくなってしまいました。そんなものはどうでもいいという感覚。アイデンティティは、自分そのものではありません。

それを持っていると、維持しようとして何等かの重荷を感じてしまうはずです。大切だと思っていた自分のアイデンティティをドブに捨ててしまえば、人生は気楽で軽快なものへと変わるのです。

自分は誰でもないと分かればそれだけ、より自分の個性が際立ってくるのですから面白いものですね。

アイコンタクトは気持ちいい!

毎日、自宅と事務所の往復のときに、自分のクルマを運転しているのですが、運転中に他のクルマの人や自転車、そして歩いている沢山の人とのちょっとした触れ合いがあるのです。

先日、駐車場に通じる狭い一方通行の道を走っているとき、前方に手押し車を杖替わりにしてゆっくりと歩いている高齢のおばあさんがいたのです。

狭い道なので、当然道の端に寄ってもらわないと通れないので、仕方なくクラクションをちょっとだけ鳴らしてみたところ、そのおばあさんは一生懸命道の端へと寄ってくれたのです。

ただ、数日前に降った雪が道の端の部分に融けずに残っていて、そのおばあさんは歩けなくなって立ち止まってしまったのです。

その脇をゆっくりと通り過ぎるときに、寄ってもらったお礼をしようとおばあさんの顔を見たときに、二人の目と目が合ってどちらともなく両者が笑顔になって、心が通じ合ったのです。

道を譲ってもらえたことも勿論嬉しいのですが、その何倍もアイコンタクトによって無言のコミュニケーションができたことの方が嬉しいものですね。

逆に自分が歩いているときに、クルマを運転してる人に道を譲ってもらう場合などにも、お礼の気持ちを込めてアイコンタクトするようにしています。

そうするだけで、何だかとても気持ちが清々しい感じになることができます。若いときはそうでもなかったのですが、これも年齢を重ねてきた結果なんですかね?

でも清々しい気分になるのは本当です。嘘だと思うなら、是非試してみて下さいね!

何もしなければエゴは腐敗する

人はいつも何かしないではいられない生き物です。忙し過ぎる生活を続ければ、のんびりと何もしないでいられたらいいのにと思うのも束の間、またすぐに何かをやり出したくなってしまいます。

あるクライアントさんが、あまりにも成果を出そうとして頑張り過ぎて、何をしても楽しめないということでしたので、じゃあとりあえずしばらく何もしないでいてみて下さい、そう伝えたのです。

すると、「なにもしないでいたら、私廃人になってしまいます。」と言うのです。気持ちは分かるのですが、それで廃人になることは決してないのです。

廃人というのは、実は欲望があるにもかかわらず、それをセメント詰めにして心の奥深くにしまい込んで、それを封印してしまったような人なのです。

本当に、心の底から徹底的に諦めて、どんな欲望も消えてしまったら、その時には廃人になる代わりに覚醒してしまうはずだからです。

何もしないでいたら、それこそ腐ってしまうと感じてる人もいるでしょうね。それならそれで、思い切り腐敗させてあげてみて下さい、できるものなら。

そうなったら、初めてあなたの奥深くに隠されていたあなたの本当の顔(本顔)が顕われることになるのです。だからこそ、何もせずにいることが、これほどまでに難しいのです。

子供の頃、近所の神社の境内に行って、銀杏を沢山取ってきたことがありました。それを土の中に埋めて一週間くらい待つと、外側の部分がいい具合に腐って、中からピカピカの銀杏が出て来るのです。

それをブロックで作った手製かまどで焼いて食べると、もう最高に美味しかったのを憶えています。それと同じように、何もせずにいることで、あなたの表層にあるエゴを腐敗させるのです。

 

どうせいずれは覚醒しちゃう!

人は大抵何等かの口癖のようなものを持っていますね。その中でも、「どうせ○○だよ」というような言い回しを時々耳にすることがあると思います。

そして、「どうせ」の後には、概ね否定的なニュアンスの言葉が続くのです。たとえば、宝くじ買ったって、どうせ当たるわけないよ、とかね。

どうせ受からない、どうせ嫌われる、どうせ失敗する、のように多くは否定のための枕詞のような感じになっています。けれども、「どうせ」というのは、単にどのようにせよ、とかいずれにしても、のような意味なのです。

だから決して否定のためにばかりある言葉ではないのです。どうやったって結果が見えているという意味ですから、腕相撲したら、どうせ自分が勝っちゃうよ、のようにも使えるわけです。

それなら、どうせ、「どうせ」を使うなら、せっかくですから全部肯定的な物言いにしてしまえばいいのです。どうせ受かるよ、どうせ好かれる、どうせ成功する、のように…。

私たちは、知らず知らずのうちに同じ言葉を繰り返すうちに、その自分がつぶやいた言葉に洗脳されていくのです。ですから、普段使う言葉は人生に重大な影響を与えることになるのです。

だから、「どうせ」を使うときには、常に肯定的に使うようにすることです。どうせ愛される、どうせお金持ちになる、どうせ認められる、どうせ欲しいものは手に入る、等々。

作ったクセは、作り直せるということ。これまでどれほど否定的な言葉を自分に対して言ってきたとしても、それもどうせ直すことができるということです。

死を恐れるのは無駄なこと、どうせ死なないのだから。これ真実です!

雪降って思うこと

東京の交通網というのは、5cmの積雪であのように麻痺状態になってしまうのですね。私の知っている限り、ずっと以前からそれは改善されてきてないようです。

で、そんなことは大抵誰もが知ってることなのですが、なぜそんな中、人々は果敢にも出かけて行くのでしょうか?テレビのニュースを見ていて、不思議に思ったのは私だけかな?

勿論、誰かと会う約束があったり、どうしても休むことのできない立場の人がいるのは分かりますし、どんなことをしても行かなければならない状態って、確かにあるでしょう。

けれども、出かけた人の全員が本当にそのような状況にあるとは、到底思えないのです。駅で2時間以上も足止めを食ってる人がテレビのインタビューに答えて、「とりあえず出社しないと…」と言ってました。

それ、行かなくもそこそこ大丈夫ってことなんじゃないの?そういう人が、外出を控えてくれたら、どうしても行かなければならない人は、もっとスムーズに電車に乗れるはず。

あれって、互いに迷惑をかけあっているとも言えるのかなと思うのです。日本人の真面目な気質が、とりあえず行くという選択をさせるのでしょうか?

私は会社員の頃、支障がない限りは、雪が降って通勤のクルマが危ないと思ったら、会社を休んでいました。会社を休むことに、取り立てて罪悪感がなかったからかもしれません。

日本人の生真面目さよりも、雪が降ったから休むというのでは、何となく体面が悪い、そうやって人の目を気にしているということが、裏にあるのではないかと感じてしまいます。

それって単なる自己防衛なんですよね。出かけなくて済む人は、勇気を持って休むということを実践できるようになるといいなと思うのです。

ファンタジーのような本当の話し

今日はちょっと不思議なファンタジーのような、でも本当のお話しです。

1988年の年末、しばらく姿を見せていなかった osho が、久しぶりに1万人の弟子の前に現れたと思ったら、とんでもないことを言い出したのです。

それは、誰もが知っているあの仏陀のエネルギーが、osho の身体の中へ入ってきたということでした。仏陀は死ぬ間際に、2500年後にこの世界に戻って来ることを周りにいる弟子たちに告げていたらしいのです。

ただし、光明を得た人は二度と女性の子宮の中から生まれて来ることはできないので、誰かの肉体の中に入ることになる、ということを意味していたのです。

その仏陀の約束が、osho の肉体を使って果たされたということなのです。osho 自身はずっと仏陀を心から愛していたので、そのことを非常に悦んでいたのです。

けれども、結果から言うと、何とたった4日しか osho の身体を分かち合うことはできなかったのです。それも、すごく分かりやすい単純な理由で…。

彼の説明によると、20世紀を生きている osho にとって、2500年前に生きた仏陀とは日常的な様々なことで違いがあり過ぎたということ。

たとえば、仏陀は枕のような当時のぜいたく品を使わずに、腕を枕に寝る習慣があって、しかも常に身体の右側を下にするクセがあったのだそうです。

一方、osho は枕がなければ寝れないし、また掛布団の中にもぐって寝る(可愛らしい)習慣があったりして。光明を得た二人がそんなことで??と思うのですが、肉体を共有するとはそのような不具合が出るということですね。

で、早々に osho は仏陀を追い出してしまったらしいのです。でも、私が思う本当の理由は、仏陀よりも osho の方があらゆる豊かさについて受け容れる人だったということ。

仏陀は、ボロボロの布をまとって7年にわたる苦行を行った人だけれど、osho は物質的にも内面的にも豊かさを大切にする人だったのですね。

それが二人の間での大きな違いだったのではないかと思うのです。私は、仏陀も勿論好きだけれど、やはり断然 osho が好きです。それが、ゾルバ・ザ・ブッダの生き方です。

マインドこそ二元性

誰だって大好きな異性とは、ぺったりとできるだけくっついていたい、離れたくない、自分一人のものにして他の誰にもとられたくない、などと思うものですね、特に若い頃は。

めでたく恋愛の関係になったり、結婚することができれば、100%ではないにせよ、ある程度はそのような希望を叶えることが可能になるわけです。

ただしそうなったとしても、勿論相手は自分ではないので、いつ心変わりするか分からないという不安も依然としてあるわけです。そして、時が経てば相手は自分の理想とは違っていたという部分も見えて来るのです。

けれども、理想の異性が自分の内側にいるとしたらどうでしょう?それはもう夢のような話しですよね?だって死ぬまで常に一緒だし、決して自分を裏切るようなこともないのですから。しかも距離ゼロで。

それこそ歓喜の絶頂がやってくるかもしれません。え、何のことを言っているの?と思ったはずですが、実はこれは紛れもない事実なのです。

もしもあなたが女性であれば、あなたの奥底に理想の男性が住んでいるし、あなたが男性であれば、あなたの内面に女性の部分が潜んでいるということ。

外側に追い求めていた理想の異性は、何とあなたの内側にいた!のです。これは、マインドの二元性に基づく事実です。

今すぐにでも、その存在を感じてみることです。ただし、私の経験では日頃から瞑想に馴染んでいるなどして、自分の内奥と繋がりやすくなっていないと、難しいかもしれません。

隠されていた異性とあなたが一つになることができたなら、その時には性別が消え、人物が消え、何者でもなくなって、ただの虚空(それを至福という)だけが在る状態になるのでしょうね。

寛いだ注意深さ

クライアントさんとのセッションの時に、瞑想のことについてお話しすることがあるのですが、その時に瞑想について間違ったイメージを持っている方が時々いらっしゃいます。

何となく心を静かにして、ただ何も考えないでいるような状態ということを想像して、ボーっとしていることのように思われている場合があるのです。

確かに、ボーっとしているときにも思考は緩んでいるのですが、それだとただ子供がよくやっているあれと同じになってしまいます。

勿論ボーっとするのは、決して悪いことではないですし、普段頭を使いすぎている現代人にとっては、必要なことかもしれません。

ただ、瞑想はそれとはまったく違うのです。実は、人間はリラックスするとボーっとしてしまうし、反対に一点に集中して緊張すれば、注意深くいることになるのです。

そして、瞑想とは実はこの両方のいいところを同時に実現することを指すのです。つまり、くつろいでリラックスしていながらも、非常に注意深くいるということ。

この寛いだ注意深さこそが、瞑想の神髄というわけです。深く瞑想していると、周りのほんの小さな物音に対して、とても敏感になっていることに気づくことがあります。

まずは、寛いでできるだけリラックスした状態を練習します。それとは別に、できる限り注意深く、意識的な状態を保つ練習もするのです。

そして、両方ができるようになってきたところで、その二つを同時に満たすようにするということ。難しいですけれど、練習する価値は充分にありますよ。

生は二元性

もしもあなたが、安心を強く望むなら、一時の安心を手に入れることはできても、その後すぐに不安が戻って来るということを知っていますか?

同じようにして、幸福を強く望めば、一時の幸福感を得ることはできるとしても、またしてもいずれは不幸な感覚がやってくることになるのです。

誰かの事を強く愛するなら、その強さの分だけ相手を憎むときがやってくるということです。で、何でそんなことになってしまったのかと驚くとともに、不本意な気持ちになるはずです。

なぜこのようなことが起きるのかというと、それは何かを強く望めば、それを強く選択するなら、その真逆も一緒に選んでいることになるからです。

生は二元性でできているとは、そういうことです。分かりやすく言えば、もしもあなたが一枚のコインを放り投げて、表が出るようにと願っても、二回に一回は裏が出るということです。表しかないコインは、神には作れなかったのです。

表が出て欲しいと強く願えばそれだけ、裏が出たときに落胆が大きくなるはずです。強く選択すると、それだけ苦しみも大きくなるというのは、そういうことです。

何かを信じるなら、信じないも一緒についてきていることに気づくことです。だから、誰かの事を信用していたのに、裏切られたなら、憤慨して、もう信じないという状態へと遷移するのです。

二元性という特徴を持った生を生きるとき、何かを強く選択すれば必ずその反対も同時に選択してしまうということです。それを選択する前から知っていれば、ひっくり返ったときに、驚かずに済みます。

そして一番いいのは、初めから選択しないという生き方をするということです。不安であるなら、不安の中にいることです。そうすれば、いずれは不安も安心もなくなってしまうはず。

嬉しいことがやってきたら、思い切り悦び、辛いことがきたらしっかり悲しむこと。どちらかを選ばずにいれば、生はあなたのお友達になってくれるのです。