「それもよし!」

この世界には、何一つ否定できるものはない、という感覚を持っていると、もう何があっても大丈夫という気持ちになれます。

大丈夫というよりは、「○○でもよし!」という感覚ですね。勿論、人物としての表層においては、これは好きであれは嫌い、あれはいいけど、これはダメでしょ!というのがあります。

そういう自分がいるということについても、「それもよし!」となっているのですから、これはオールマイティなのです。これは、自己改善とは真反対な生き方なのです。

人物としての自分は、いつまでたってもちょっとしたことに腹を立てるし、下らないことで惨めな気持ちにもなるし、強そうな人がいれば怖いし、ずっと以前から何も変化してないのです。

ところが、その変化などしていない人物としての自分を、あるがままで「それもよし!」とやれるようになれば、自己改善の必要すらなくなってしまうのです。

ありのままで~♪という唄がこれほど人気を得た理由は、多くの人が自分自身のことを、あるがままでいいと思っていないからに違いありませんね。

エゴは、決して今の自分のままで満足してはいけないと、常にあなたに訴え続けてくるのですが、そんな声に耳を貸す代わりに、そのエゴの声に対してすら、「それもよし!」とやっていればいいのです。

今日から、いつでもどこでも、どんなことがあっても、「それもよし!」とやってあげて下さい。そして、それもよし、などとはどう考えたって思えない!という声に対しても、「それもよし!」とやればいいのです。

とてもシンプルです。簡単でしょ?え?こんなことやる気になれない?ならば、その気持ちについても、「それもよし!」でOKですよ。

しがみつきについて

溺れるものは藁をも掴む、という言葉がありますね。自分の命が危ない危機的場面ですから、そうなるのも当然です。だから、溺れている人を助けに行く場合には、しがみつかれてしまい、両者とも危険な状態になったりするのです。

また、秋田の伝統に「なまはげ」というのがありますね。「なまはげ」がやってきて、幼い子供らを嚇すと、子供たちがお母さんなどに泣きながらしがみく姿がお馴染みです。

個人的には、あの風習は好きではありませんが、それは別として、子供はあまりにも怖いために親にしがみつくのです。つまり、しがみつきとは、防衛に違いありません。

自分がどんな自己防衛をしているのかということを、冷静に見ることはとても大切なことです。なぜなら、自分の自己防衛に気づかぬうちは、それをやめることはできないからです。

あなたは何にしがみついているでしょうか?例えば、絶対に幸せになってやる、と強く思っているとしたら、それはもうしがみつきなのです。

しがみつくという防衛は、溺れる人の例でも言いましたが、せっかく助かるチャンスを逆に台無しにしてしまう可能性もあるのです。

つまり、何かにしがみつくと、その真反対がやってくる可能性が高くなるということです。したがって、絶対に幸せになると思っているなら、不幸が忍び寄ってくるということです。

かつては暴力的だった親のようには決してならない、と幼いころに決意したとしたら、絶対に怒らないということにしがみついていることになるのです。

そうしたら、その真反対である怒りを沢山溜め込んでしまい、いずれはその怒りが爆発することになるかもしれません。爆発しなくとも、常にイライラしている状態がやってくるはずです。

自分は性的な不純なことから離れている、考えもしないようにするとしたら、その人はいずれ必ず性的な妄想に悩まされるか、性的倒錯者になったりするのです。

しがみつきとは、極端な状態を維持しようとすることです。それも強烈なまでに。それは、いつか必ず真反対の極端を招くことになるということです。

どんな自己防衛にも言えることですが、しがみつきも、その効果はその一瞬だけであって、いずれはその逆がやってくることを覚えておくことですね。

「生」があなたの中で生きている

私が感じている真理の一側面について書いてみます。何かの気づきのヒントにでもしていただけたらと思います。ただし、勿論言葉を使う限りは、あくまでも一つの方便であることを忘れないで下さい。

私たちは、夜寝入る時に、必ず明日の朝目が覚めたときには、昨日までの自分の人生の続きが始まると思っていますね。というより、当り前過ぎて、そんなことは考えたこともないかもしれません。

朝起きたら、別の誰かになっていたとか、同じ自分であっても過去に戻ってしまったり、、未来に飛ばされたりするなどということはないわけです。

けれども、なぜ目覚めたときには確実に、自分の人生が再開すると言えるのでしょうか?たとえば、魂というものがあって、それは人間の核のようなものだと考えてみて下さい。

あなたの魂と私の魂が突然入れ替わったとしても、どのようにしてそのことに気づけるのでしょうか?あなたという人物とは、単に思考と体験に基づく記憶の束で出来ているのです。

だから、私の魂があなたの中に入ったとしても、それまでのあなたの記憶や思考などのすべてを受け継ぐのであれば、その瞬間にその魂はあなたとして生きることができるわけです。

今仮に魂という言葉を使いましたが、「生」でも「存在」でも何でもいいのです。あなたの中に在る「生」は、あなたという人物を通してあなたの人生を生きているのです。

私の中に在る「生」についても、全く同じことが言えるわけです。それは、無数の海面上にある波とたった一つの大海原の関係のようなものです。

大海原は一つであり、それが「生」というわけです。ここで生きているのは、私たち一人ひとりではなくて、この「生」こそがあらゆるものの背後に在る正体なのです。

人間の場合に限って、思考によって「生」に気づかないようにしているのです。勿論、動物や植物も無意識の状態であるために、「生」には気づくことができません。

私たちの思考は、私が歩いている、私が考えている、私が生きている、というように解釈してしまうため、「私」こそが人生の中心なのだと感じてしまうのです。

けれども、真実は、「生」が神羅万象を現象化させているに過ぎません。「生」にとっては、道端の石ころとあなたの人生には、何の違いもありません。

「生」にとっては、あなたは一つの現象に過ぎないのです。だから、もっと気楽に毎日を過ごせばいいのです。何が起きても、「ただ、それだけ」と済ませましょう!

自分独自の思考はない

あなたが今、どんな考え方をする人物になっているのか、どういう信念を持っているのか、常日頃どんなことを考えて生活しているのかということは、あなたの環境に大きく依存しています。

もしも違う国に生まれていたら、違う両親、違う宗教の信者になっていたら、あなたの思考は今とは違うものになっていたはずですね。

つまり、あなたが独自に生み出した思考と言えども、それは純粋なオリジナルではないということです。外の世界のどんな影響も受けない思考というものがあれば、それこそはあなたの思考だと言えるかもしれませんが…。

けれども、実際にはそんな思考を持つことはできないのです。あなたが日本人であれば、日本の文化に強く影響された思考を持つことになるのです。

あなたの両親が持っているルールが、あなたの潜在意識の中に組み込まれて、自動的にその影響を強く受けた考え方をするようにもなるはずです。

もしもあなたがキリスト教徒であれば、その影響があなたの思考に及んでくるのは当然のことですね。このようにみてくると、これは自分の考えだと胸を張って言えるような思考は一つもないと分かります。

あなたの思考は、これまで生きてきたあなたの人生の結果であるとも言えるのです。自分は完全に自由に思考できると思っているかもしれませんが、それは大きな間違いだったということです。

結局、あなたの頭の中にある思考は、あなた独自のものではないということです。「これは自分の思考だ」と言えるようなものは一つもないということです。

これは重大なことですね。なぜなら、そうだとしたら、あなたとは一体ナニモノなのでしょうか?どう思いますか?その答えがあなたの正体なのです。

一度じっくり考えてみて下さい。もしかしたら、いやな感覚になるかもしれませんが、逆に何とも軽やかな気持ちになれるかもしれませんよ。

究極の癒しとは無目的に生きること

セラピストとしての私の立場から言うのも何なのですが、心理療法などによる心の癒しというもの自体が、エゴの力を借りて行うものなのです。

なぜなら、困っている自分を何とかしたい、という思いそのものがエゴだからです。エゴは常に、自分をもっと改善したいと願っているのですから。

その強い気持ちがなければ、誰もセッションになどやっては来ないのです。このままではダメだというエゴの思いこそが、人を癒しの道へと誘うのです。

ですから、癒しの原動力はエゴということになるのです。そのエゴの力を借りて、セッションでは強力なエゴの力を弱めようとするのですから、若干矛盾している話しなのです。

強力なエゴの代表は、いい人、真面目な人、とにかく自分を何とかしたいと思っている人、人の評価が気になる人、野心家、苦悩している人、闘っている人、などが挙げられます。

一方、癒しによって弱ったエゴがどうなるかというと、自分を優先できる人、わがままを言える人、自己表現ができる人、のような感じの人になるのです。

要するに、癒しが進むと強い自己防衛が弱ってくるということです。それまで防衛に費やしてきた労力を他のことに使えるようになるのですから、それは当然楽な生き方ができるようになるということです。

そして、エゴの力が緩んできたら、今度はようやくエゴの力を一切借りずに癒しをするように変えていく必要があるのです。そうでなければ、それ以上の癒しの進化は期待することができないのです。

ここからは全く異なる癒しが待っています。それが、無目的に生きるということ。癒しのことも忘れ、自分を改善することも忘れ、そうして未来への期待を一切手放すのです。

目的があれば、そこには思考が入り込み、エゴが生き延びるチャンスを与えることになってしまいます。もしも、何かの目的のために瞑想するのであれば、エゴは健在であり続けるでしょう。

人生に何の目的も設定せずに、ただ生きることそのものが目的となるということです。それ以外にどんな目的も持たなければ、エゴは持ちこたえられないでしょう。

その成り行きとして、覚醒することになるのでしょうね。

遊び心を忘れない

自分は褒められて成長するタイプなんだと言う人がいますね。褒められて、いい気分になってやる気が出るから、いい結果が出るといういい循環になるのでしょう。

誰だって、けなされるよりも褒められる方が好きに決まっています。けれども、あなたが本当に満たされているなら、褒められたいとは殊更思わないはずです。

褒められるとは、認められるということと繋がっているのです。これは、褒められる側の一方的な解釈です。相手はあなたのことを褒めなくても、あなたのことを丸ごと認めているかもしれないからです。

またその逆に、誰かがあなたのことを褒めたからといって、あなたのことを認めているとは限らないというのも事実です。とはいうものの、褒められたいが強いマインドは、褒められる=認められたと勝手に解釈してしまうのです。

自分のことが親にとっての関心事のナンバーワンではないと感じた子供は、必死になって親に認めてもらおうとするようになるのです。その結果、褒めてもらえるようにと頑張ることになるのです。

そうやって、褒められるような結果を出すことで、何とか自分の方にもっと興味を持ってもらいたいという切ない心がそこにはあるのです。

こうした幼いころの心のメカニズムを持っていると、大人になっても目的指向の人生を生きることになってしまいます。このブログで何度も書いてきましたが、目的指向は未来に生きることになるのです。

そして最も大切な今この瞬間を、未来に到達する目標のための手段へと貶めることになるのです。常に未来のどこかに素晴らしい自分、素晴らしい到達点があり、それを求めて現在を費やすのです。

そして残念なことに、どれほど頑張ってその目標に到達したとしても、またそれをどれだけの人たちに褒めてもらえたとしても、その満足は一過性のものなのです。

そしてすぐに、また別の未来の目標を設定して、せっせと現在を手段と化してしまうのです。未来の目標と現在の手段との時間差を欲求と呼ぶのです。

その人生はどこまでいっても決して満たされることがありません。誰かに認めてもらうために今を犠牲にするのではなく、今を貪欲に楽しむために今を生きるように変えていくことです。

そのためには、遊び心を忘れてはいけません。夢中で遊んでいる子供を見れば分かることですが、彼らは褒められるために遊んでいるのではないはずです。遊ぶこと自体が目的なのです。

「生」の神秘について

生まれたばかりの赤ちゃんであったあなたには、自我(エゴ)がありませんでした。自分がいない状態のまま、生きていたということですね。

ちょっと想像できないかもしれませんが、それは事実です。そして、2年くらいが経過すると、次第に誰からも呼ばれているある名前に注目するようになるのです。

もしも、あなたが真由美ちゃんだったら、その名前と自分とを同一視するようになるのです。それが、自我の始まりです。最初は、「真由美はお腹が空いた」とか、「真由美はそれが嫌い!」などと言うのです。

けれども、次第にその名前を自分が使うことはいけないことだと知るようになり、仕方なく「私」というとても大切で便利な言葉を使うようになるのです。

そこから自我はメキメキと成長することになるのです。そうして、あなたにとって、「私」が定着するのです。すると、あたかも「私」がいるというように感じるようになるのです。

エゴの正体とはそんなものなのです。実際に在るものではなく、あたかもいるような感覚になるということです。その後のあなたの人生をリードして、自律的に生きるためには「私」は欠くことのできないものとなるのです。

「私」などいないと見破ることのできる人は、ごく限られた人かもしれませんが、また更にその中でもほんのごくごく少数の人が、完全に自我が消滅した状態となるのです。

つまり、覚醒するとか、光明を得るという言い方をされるのです。彼の中に、「私」はいないのですが、彼が他人と話すときには、仕方なく言葉の上では「私」と自分のことを表現するはずです。

それ以外に言葉によって、何かの意味を伝えることができないからです。では、「私」のいなくなった彼を動かしているのはナニモノなのでしょうか?

彼はお腹が空けば食事をするし、クルマを運転することもできるし、ごく普通の人がやることは何でもできるのです。一体誰が彼を操っているのでしょうか?

それは、「生」なのです。それこそが、「生」の神秘なのです。私たちは、個人の中心としての「私」が知性を持って、その人の人生を生きていると錯覚してしまっているために、「生」こそが本当はあなたを通して生きているということを、理解することができなくなってしまったのです。

本当のあなたとは、あなたが知っている「私」ではありません。あなたの中にいる「私」がいなくても、あなたの人生は肉体が滅びるまで、それまで以上に活き活きと続くことになるのです。

「生」の神秘について、思考で捉えることは不可能なのです。ただただ、驚嘆していればいいのです。

「敬老の日」に思うこと

9月15日(月)は敬老の日ですね。私自身は、これまで敬老の日をまともに考えたことがありません。老人に対する敬意をきっと持っていないからなのでしょうね。

こういうと、何と不謹慎なと思われるかもしれませんが、勿論表面的には目上の人には丁寧な言葉を使うなど、ごく当たり前の常識は持っています。

けれども、心の底から誰かを敬うということが、ほとんどないというのが実情なのです。本質的には、人の年齢など何の意味もないだろうとどこかで思っているからです。

このブログでも時々出てくる、osho のことですが、彼の両親は、年老いてから何と彼の弟子になったのです。勿論 osho がそうさせたわけではありません。

彼らの意志で、自ら自分たちの息子の弟子になることを望んだのです。きっと彼らにとっては、すでに息子という人物としてのエゴは消滅したことを知っていたからなのでしょう。

親は常に子供よりも偉い、などということはありません。真実を求める人には、この社会の常識など本当にどうでもいいことになってしまうのです。

セッションに来られるクライアントさんの中には、時々幼いころに「親は絶対」という思いを強く持っていたという人がいらっしゃいます。

そうしたある意味で洗脳のようなものは、親の防衛から起こるのであり、子供はそれに迎合することでその子自身の防衛をすることになるのです。

心の癒しを進めて行くと、それにつれて防衛が減っていき、それに伴って常識やルールと言ったものから少しずつ離れていくようになります。

そうなると、敬老などという形式的なことには興味がなくなってしまうのです。身体が弱体化した人には手を差し伸べ、知恵深い人の言葉を真摯に聞くという、ただそれだけの当り前のことであればいいのです。

そこにはどんなルールも不要なのですね。

対極の経験によって気づきを得る

もしもあなたが、生まれてから今に至るまで一度も病気をしたことがなかったり、具合の悪い経験をしたことがなければ、自分の健康について知ることはできません。

自分以外の誰か不健康な人を見ることで、それと比較することでなるほど自分は健康なのだろうと理性で理解することはできますが、健康そのものの実感を得ることはできないのです。

あくまでも、不健康な体験があって初めて、自分の健康について真に知ることができるようになるはずです。こうしたことは、どんなことにも当てはまるのです。

あなたが自分はなんて幸せなのだろうと感じるとしたら、間違いなくこれまでに幸せではない経験をしているということになるのです。それなくして、どうやって幸せだと認識できるでしょうか?

幸せに違いないという判断を理性によって下すことだけはできるのですが、幸せな実感を得ることは不可能なのです。このようにして、対極の経験を通過することによってしか、それを直に知ることはできないということです。

だとすると、私たちの誰もが自分を肉体やマインドと同化する理由が分かるというものです。一度でも同化する体験をしなければ、非同化することができないからです。

非同化することによってのみ、私たちは自分の本質に気づくことができるのですから。つまり、この世界というのはその気づきのために欠くことのできないものだということです。

肉体やマインドと同化した自分がこの世界で生き、苦悩し、もうダメだというところまで人物としての人生を生き、その成り行きとして本質の自己への探求が始まるのです。

それは通る道なのです。エゴがあると思い込まなければ、エゴはないと気づくことができないのです。この世界とは一体何なのだろうとか、なぜ人は苦悩するのだろうと疑問を感じている人は沢山いるはずです。

けれども、それなくして誰も真実を思い出すことができないのです。真実とは到達するものではなく、この世界という非真実を通してようやく知るものだということですね。

プライドをぶっ壊せ!

よく「プライドを持て」、ということを言われることがありますね。プライドを高く持つこととは、自分を肯定的に見るということのように思えるかもしれません。

プライドというと、中学生のころに be proud of などという慣用句を習った覚えがあります。けれども、日本語でプライドというと、オリジナルとはまた違ったニュアンスの意味を持っているようにも感じます。

端的にいって、プライドとは自己防衛の一つの戦略であるということです。もしもあなたが、心から満たされているなら、プライドはまったく持つ必要もないはずなのです。

プライドが高ければ高いほど、自己防衛がそれだけ強いことを意味し、それは影に隠れてはいるものの、自己否定感が強いということを物語っているのです。

だからこそ、あなたがもし自分のプライドを傷つけられたと感じたら、それはもうひどく怒りが出るだろうし、その事実を決して認めたくないと感じるはずなのです。

もしもあなたが、自分のプライドが傷つけられたと感じたことがあるなら、それは気づきの大チャンスだったと理解することです。なぜなら、そのときにあなたは、自分の防衛システムを点検することができたからです。

あなたがどんなプライドを持っていようと、それはすべて不要なものです。そのプライドを守ろうとしている限り、エゴがあなたをコントロールしていると思って間違いありません。

あなたが自分のプライドが傷つくことを恐れずにいれば、エゴは衰退するしかなくなるのです。もちろん、そのときにあなたのマインドは傷の痛みを味わうことになるのですが…。

プライドが踏みにじられるのは恐怖であり、惨めな体験であることは間違いありません。なぜなら、守っていた砦を壊されてしまったからです。

散々に壊されて、もうどうにも自分を守ることなどできなくなったときに、あなたは本当に自分のあるがままでいいということに気づかされるのです。

それは何物にも代えがたい清々しさであるはずです。