自己改善よりも自己受容

人は誰でも自分について、どこかしら不満を抱いているものです。それが、外面的なものであろうと、内面的なものであろうとです。

セッションで、自分の性格を直したいと訴えてくる方は結構多いのです。あるいは、今抱えている不自由さを少しでも直して、生活全般を改善したいと思っているのです。

そうした欲求がなければ、誰もセッションを受けになど来ないはずですね。ところが、この自分を何とかして改善したいという思いは、まさしくエゴのものだと言えるのです。

エゴとは、決して満足することのないマインドの性質なのです。いつも何等かの不満を抱えて、今日よりも明日、明日よりも明後日に何か変化があるかもしれないと期待しているのです。

つまり、エゴの「自分を改善したい」という欲望があるからこそ、このセラピストとしての仕事が成立するということになるのです。その意味で、エゴは私にとって必要なのです。

私は、エゴの欲求を用いて、クライアントさんの癒しをヘルプするのです。そうしたエゴの意欲をうまく利用することで、クライアントさんは癒しを継続してくれるからです。

けれども、どこかの時点で、自分を癒して改善していこうという思いこそが、エゴの中心的な欲望に違いないのだということをお知らせしなければならないのです。

この世界で唯一不要なものがエゴだからです。エゴを用いて癒しを進めている間はいいのですが、それはいずれは収束させていかなければならない運命にあるのです。

それがいつになるのかは、クライアントさんごとに違ってくるのでしょう。それは私が判断するようなものではなく、自動的にそのような流れがやってくるのです。

癒しの本質は、自己改善ではなくて、自己受容なのだということに気づくことなのです。それに気づいて、自分を徹底的に受け止めることができるようになれば、あなたは自分を観照することができるようになるのです。

それこそが真の癒しであり、真実に気づくことこそがあなたに与えられたこの生での役割なのです。

弱さの勧め

辛いぎっくり腰の痛みを少しでも緩和できたらと思って、ハリ治療に行ってきました。以前にも二度ほど行ったことがあったのですが、フットワークの悪い私が、比較的早めに行動できた最大の理由は、事務所と同じマンション内にあるからなのです。

そのハリの先生に以前から言われていたのですが、「大澤さんは非常に敏感なので、一番細い針を使ってるんですよ~。それでも、そんなに痛いのですね~。」

いいえ、ただ痛いだけではなくて、次にどんな痛みがやってくるだろうという恐怖感が大きくて、体中に冷や汗がたっぷり出てしまって、結構カッコ悪いのです。

先生も半ば笑っている感じで、しかしこっちとしては本当に奥深い痛みがズシッとやってくるので、自然と身体に力が入ってしまうのです。ただし、痛い方が確かに効いている感じはしますね。

自分でも弱いなあと思うのですが、でも弱さとは言いかえれば大切な感性が豊かであるとも言えるのです。弱さとは柔らかさをも伴いますね。

身体が固くなっている人には、もっともっと太い針を使うそうです。それでも、痛がらないのだそうで、自分とのあまりの違いにびっくりしてしまいました。

身体が固くなっている人は、人生と闘っている人です。身体の固さは、内面の固さにも影響しているはずです。闘っていればそれだけ恐怖も大きくなるので、防衛も強力になるのです。

そうなれば、それだけ心の鎧は固くて重いより頑丈なものが必要となって、安全ではあるけれど軽快な人生とは言えなくなってしまいます。

弱くて柔らかいということは無防備で受容的であるということであり、強くて固いのは防衛的で頑なであるということです。もしもあなたのハートがフルに開いているなら、きっと多くの痛みを感じるはずです。

それが自分のものでも他人のものであっても。それが、肉体的な痛みであっても、心理的な痛みであろうとも。だから、痛みそのものは決して悪ではありません。

でもやっぱり、早く痛みが去って行って欲しい!今、これを書いていたら痛みを忘れてました。それと、大分楽になってきた感じがしてます。やった~!

エゴは成し遂げ屋さん

無邪気に遊んでいる子供の心には、何の目的もありはしませんね。子供には、何に価値があるとか、明日どうなるなどの思考が明確にはないのです。

ところが、人は成長するにつれて、何をするにもそこに理由が必要になるのです。つまり、何かのため、何かを成し遂げるため、目標を達成するためなど…。

その成し遂げたことにどれだけの価値があるのか、どんな素晴らしい意味があるのかということを常に気にするようになるのです。それがエゴなのです。

エゴは成し遂げ屋さんなのです。人の心の中にある野心とは、まさにこのエゴの成し遂げ屋のエネルギーが活発な状態であるということなのです。

その野心が、俗物的であろうが、流行りのスピリチュアルなものであろうが、そこには何の違いもありません。株で大儲けしようとすることと、崇高な人格になろうとすることは、どちらも成し遂げ屋のパワーなのです。

まだ野心が俗物的な欲望の方に向いている場合には、本人もそこにエゴが見え隠れしているという自覚があるので、自体は単純なのです。

一方、スピリチュアルに目覚めた人が成し遂げ屋として活動している場合には、なかなか厄介な状態であると言えるのです。なぜなら、本人は一向に自分の原動力がエゴであるとは気づかないからです。

スピリチュアルな欲求は清いものだと思ったり、気高い志しで人を助けようと画策してみたり、自分は愛の塊りだとばかりに、人類の救世主になろうとしたり…。

逆に、あなたがどんなことをしようとも、あなたの日々の活動の中心にあなたがいなければいいのです。自分の活動をただ見ている自分であればいいということです。

もしもあなたが人生の牽引者であったり、リーダーシップを発揮しているのなら、要注意なのです。自分の中に潜んでいる、成し遂げ屋にいつも気を付けていることですね。

成し遂げ屋として生きて、満たされるということは原理的に不可能であることを忘れないことです。

一生の不覚かも

実は数日前にぎっくり腰になってしまい、ちょっと辛い毎日を過ごしています。スポーツクラブのお風呂の中にある、水風呂からあがった瞬間にそれはやってきました。

最近ちょっと疲労気味だなという自覚があったし、若いころから腰はあまりよくない状態だったので、それとなく注意はしていたのですが、やはりやってしまいましたね。

中学生の頃、部活でバスケットボールをやっていたからなのか、時々腰痛の自覚があったのです。高校に入ってそれが悪化して、医者でレントゲンを撮ってもらったら、背骨の中のどれかが一つ足りない?的な言われ方をしたことがありました。

何でも構造的に、腰痛持ちになりやすいのだとか。けれども、ぎっくり腰を初めてやったのは、45歳を過ぎてから。つまり、今の仕事をするようになってからなのです。

それがある程度はもう、クセになってしまっているのかもしれません。一昨年の12月にもなった記憶がありますし、その少し前にもなって、結構つらかったのを覚えています。

あの時には、ちょっとストイックなくらいに自分に意識を向ける作業をしていたので、心理的な原因はそこにあったと思っています。

今回ももしかしたら、心理的な要因は瞑想をやり過ぎているからなのかもしれないと思っています。あまりにエゴが嫌っていることをやり過ぎると、しっぺ返しを食らうのです。

まだまだエゴの力はそれほど衰えてはいないようです。とはいうものの、腰が痛いくらいで大好きな瞑想をやめるわけにもいきません。

勿論、それなりに続けてはいるのですが、やはり?と言うのか、いつものあのフワ~っとした感覚がなかなかやってきてくれないのです。

私的には、あれはきっと脳内に快感物質がドバっと分泌された瞬間なのだろうと推察しているのですが、もしかしたら腰の痛みを緩和するために快感物質が使われてしまって、脳の方に回ってこれなくなっているのかなと。

いずれにしても、何があっても瞑想は続けていくのです。あれほど全的にくつろげるスペースは、他にはないからです。あの暗闇に溶けていく感覚は、なにものにも代えがたいのです。

よく酒飲みが、お酒を飲めない人に向かって、それは一生の損だとうそぶくことがありますが、同じように瞑想の習慣のない人に向かって、瞑想の静寂を知らないなんて、一生の不覚だと言いたいですね。

ルールをそっと脇に置く

私はこうして毎日ブログを書いているくせに、他の人のブログやホームページその他のものを読みに行くということがほとんどないのです。傲慢というのか何というのか…。

ミクシィにしてもフェイスブックにしても、はたまたツイッターにしても、自分にとって都合のいい記事だけを拾い読みする程度で、他の人がそこでどんなことに興味を持ち、何を伝えたがっているのかということに無頓着なのです。

結局のところ、自分のブログをアップするためだけに使っているわけで、早晩そうしたSNSやツイッターなども、そのうちにはまったく使わないようになるのだろうと分かるのです。

マメさが欠けていると言ってしまえばそれまでなのですが、どうも元々が人との関係性について、あまり貪欲なものを持っていないのだろうと感じています。

セッションにいらっしゃるクライアントさんの中には、友達があまりいないということを否定的に捉えている人がいますが、私も特別に親しい友人というものがいません。

仕事を絡めずに会う人がまずいないと言った方が当たってるのです。それでも、少しも不自由を感じているわけでもないですし、恥ずかしくも感じません。

年賀はがきを自分から出すということもほとんどしなくなっていますし、人の関わりの希薄さに今更ながら驚きます。けれども、人生にはこうでなければならない、というルールなどはないのです。

この社会のルールを無視していいのかとか、人との間の義理を欠いていいのか?など、勿論全く考えないわけでもないのですが、結局そういうことをいくら考えたところできっと長続きしないのですから仕方ありません。

最終的には、自分がどうしたいのかということに行きつくわけです。自分の自由をできるだけ尊重したいのですから、あとのことは何がやってきても受け入れるということですね。

最期に息を引き取るときにも、誰かに看取られる必要も感じていないので、どこかで野垂れ死にすることになっても、いいのかなと思っています。

あなたの人生がいくら価値あるものだとしても、究極的には一つの物語でしかないのです。そのことに深い理解があれば、きっと人は孤独を愛することができるのだと思うのです。

普通であること

私たちの中にあると想定されているエゴというのは、いつも理想を掲げて持っているのです。その背後にあるものとは、断定的とも言える自己否定感なのです。

自分にダメ出しをしているからこそ、その真逆である素晴らしい存在に憧れもするのです。自分がそうなりたいと思うだけではなくて、そうした理想的な人物を無意識に探しもするのです。

そうして、この人はという人が見つかると、その人のことを勝手に理想的な素晴らしい人であると決めつけてしまうのです。そして、その人を崇め奉るようになるわけです。

けれども、その人のプライベートなどを知ることになって、おいおい、話しが違うじゃないか、その人はこんなことをするはずがないのに、というようにして裏切られた感にやられてしまうのです。

なんだ、ごく普通のくだらない奴じゃないかと思えて、尊敬の眼差しが一気に消えてしまうのです。それはきっと物凄く残念な体験になるのでしょうね。

ごく普通のセラピストである私ごときでも、クライアントさんによっては自分とは違う世界に棲んでいると勘違いしてしまうことがあるくらいです。

それを感じると、わざわざ時間を割いてでも自分はごく普通のおっさんですよ、と説明することにしているのですが、そうした内容はどうも耳に入らないようなのです。

私でもそうした経験があるくらいですから、この世界で活躍されている有名な方々のことを、勝手に高貴な人に違いないと勘違いしてしまうのも、当然かもしれません。

21歳のときに光明を得た osho であっても、大人になった彼はシャワーを浴びるときに床をビショビショにして、付いている女性に叱られてみたり、頭からすっぽり毛布に包まってしか眠れないなどということがあったのです。

どんな人も、近くで見ればごく普通の人たちなのです。その普通さがとても大事なのです。人格が高貴で、などという人は逆に危ない人です。禁欲的な人もダメです。

悪魔から天使までまんべんなく持っている自分、その自分を全的に生きているその普通さこそが本当に素晴らしいのだと気づくことですね。

マインドとは精神活動のこと

もしもある時に、ふと「何もやることがないなあ」ということに気づいたとしたら、あなただったらどうしますか?テレビもビデオも見たくないし、本や雑誌も読みたくない。

誰かと話しをするでもないし、家事仕事も終わった。さあ、たった独りでいてそうなったら、どうでしょうか?それでも、無理やり何かやるべきことを捜すでしょうか?それとも、何もせずにただその場でじっとしているのでしょうか?

そんな事態を経験したことがないから分からないという人もいるでしょうね。あるいは、やはり何もせずにいるということをしたことがないので、きっと何か捜してやり出すに違いないと思う人もいるはずです。

そして、ごくごくほんの少数の人たちだけが、ただ何もせずにいるということを選択するのかもしれません。私の場合、それが自宅か事務所であれば瞑想するでしょうね。

私たちのマインドは、常に活動していなければならないのです。表現を変えれば、精神活動というものこそが、マインドであるとも言えるのです。

したがって、活動していないマインドというものはありません。精神活動がとまったときには、マインドというものは存在しなくなるからです。

これこそが、あなたが何かをしていなければいられない理由なのです。何もすることがなくて、身体は動かさないとしても、きっとあなたは思考の中に入って、ああでもないこうでもないと始めるはずです。

マインドとは、固定しておくことができないものだからです。そしてこのマインド、つまり精神的な活動こそがあらゆる苦しみの根源なのです。

マインドの中で渦巻いている思考がなくなれば、そこに苦悩が残ることはありません。ただし、痛みはなくなりません。痛みとは、ハートで感じるものだからです。

苦しみと痛みの違いとは、マインド(思考)とハートの違いだと理解すればいいのです。話しを元に戻して、もしもあなたに何もすることがない状態がやってきたなら、それは絶好のチャンスです。

何もせずにいるチャンスです。肉体的な活動だけでなく、精神的な活動もストップして、常にマインドという主人に従属してきた仕返しをするチャンスなのです。

マインドは悲鳴を上げるはずです。その悲鳴をただあるがままにハートで感じてあげてればいいのです。少しでも手持ち無沙汰を解決しようとしてしまえば、マインドが活動を始めてしまうでしょう。

もしも、日ごろから瞑想を習慣にしているなら、そんな時に困ることもありません。退屈は、マインドにとっては恐怖そのものですから、それもそのままに感じていられるといいですね。

ブログを書くメリット

今このブログを書きだそうとしてパソコンに向かっているのですが、実際毎日ブログを書くのは面倒だなという感覚があります。ところが、今日もこうして書き出しているからには、何か魅力があるに違いありません。

不思議なのですが、面倒だと思わない日はないにもかかわらず、今日は何を書こうかと思って、パソコンに向かうと頭の中が空っぽになって一種の瞑想状態のようになれるのです。

その時間が結構な至福感をもたらしてくれるのです。瞑想するぞ!と思って瞑想を始めるよりも、かえってこうして瞑想のことなど何も考えずにパソコンの前にいるのが、とても気持ちいいのです。

そして静かに座っていると、きっとそのうちに今日のネタになりそうなものが、浮かんできてくれるのです。自分の努力を使っている感じはありません。

そして、たぶん意外に思われるかもしれませんが、つたないブログであっても読んで下さる方がいらっしゃるから、こうして書き続けているのは確かなのですが、他にも理由があるのです。

それは、結局のところ自分のためになるからなのです。どこからともなくやってきてくれる、ブログのネタをタイプしながらも、実は「ほう!」という思いを持って眺めている私もいるのです。

その証拠に、一度書いたものを後で読み返すこともあるくらいです。それは、出来がいいか悪いかをチェックするためではなくて、内容を再度自分のものにするためなのです。

書いているときには、あまり思考を働かせていないために、あとでもう一度読む方が自分にとっても分かりやすいという面があるのでしょうね。

文章表現の未熟さとか、そういったところを見だしたら、悲しい気持ちにもなってしまうので、もうそのようなところはまったくスルーすることができるようになり、以前よりも楽になりました。

物事は何でも、まず第一に自分のためになることが大切ですね。充分に自分のためになるという自覚があればこそ、それが副次的な効果を外の世界へと広げることになる可能性が出てくるのですから。

自分のためであればこそ、面倒であっても継続させることもできるというものです。でもやっぱり、読んでもらったらそれはそれで嬉しいというのも本音です。

頑固さに見切りをつける

クライアントさんと向き合っていて、邪魔だなあと感じることの一つは、クライアントさんのマインドをギューっと締め付けて離さない頑固さなのです。

頑固さとはどこからやってくるかと言うと、それは自己防衛がその原因なのです。恐怖から自分の身を護るためには、それこそ頑なに命がけで防衛しなければならないのです。

したがって、本人にとってその恐怖が圧倒的に大きければ、どんな人だって頑固にならざるをえないのです。生まれつきの頑固さというものは存在しないと私は思っています。

つまり、頑ななマインドとは生後の環境によって仕方なく作り出されたものだということです。勿論そこには、本人の敏感さという要素が非常に強く影響するのは間違いありません。

頑固さとは、初志貫徹という面から見ると、とても素晴らしいことでもあるのですが、最初に決意したその状況はもう消え去っているにもかかわらず、大人になった今でもその決意を頑なに守るからこそ、生きづらくなるのです。

頑固さとは、少し前にこのブログでも書いた、「しがみつき」と同じものでもあるのです。かつての決意にしがみついていることこそが、頑固さの根っこなのですから。

人は自分が幼いころに決意してしまった頑固な想いに対して、どこかで見切りをつける必要があるのです。もういいよと言ってあげる度量が必要なのです。

マインドの中にいるインナーチャイルドにとっては、決意した当時のままに在るので、現在はその決意はもういらないということを知らないのです。

大人のあなただけがそのことに気づける唯一の存在であることを忘れないことです。そうして、多少の勇気とともに過去の頑固な思い込みを手放すことです。

手放すことができたなら、あなたは今までどれだけ重く苦しい毎日を送って来たのかを、思い知らされることになるでしょう。それだけ、突然生きることが楽になってしまうということです。

そうやって、一つずつ防衛を手放していくことで、より無防備になっていくことで、あなたは本来のあなたを取り戻すことになるのですね。それは、なにものにも代えがたい素晴らしい体験になるはずです。

対処しようとしない

時々クライアントさんから、「○○になってしまったのですが、どうしたらいいですか?」という質問をいただくのですが、私もつい、「こうしたらいいんじゃないですか?」と答えてしまうことがよくあります。

けれども、本当は何もしないことですよと伝えたいのです。私たちは、何かが起こるとすぐに、それにどう対処したらいいのだろうかと、考えてしまう根深いクセを持っているのです。

その問題解決主義こそが、次なる問題を生み出すということに気づくことです。「癒し始めてから、どうも怒りっぽくなってしまったのですが、どうしたらいいのでしょう?」

勿論答えは、「そのままでいて下さい。」なのです。怒りが出てくるようになったなら、何も特別なことをせずに、ただその怒りを味わえばいいのです。

こうした方がいいんじゃないのか、ああした方がいいのかもしれないという、果てしない問題対処主義が繰り返されて、その結果どんなことも解決することはないのです。

物事は解決するのではなく、ただそれを見ることによってのみ、その問題は自然と消滅することになるのです。これを一度でも体験することができれば、まるで生き方が変わってしまうはずです。

何が起きても、さあどうしよう?という思考に乗っ取られる代わりに、ただそれを見つめることです。そのとき、もしもあなたが何か思考を使って考える必要があるなら、あなたが考えるということが起きるはずなのです。

そのときに、不要なのは唯一あなたがやってきた、「さあどうしよう?」という思考だったのです。好きな人に振られて悲しくて仕方ないとき、私はどうしたらいいのだろう?と思うのです。

そんなときも、どうするでもなく、ただその悲しみを見ることです。ただ見ていれば、あなたは悲しみの中に深く入っていくことができ、いずれはその悲しみから解放されるはずです。

誰かに電話をして話しを聞いてもらおうとしたり、自分を振った相手のことをクヨクヨ思い返していたり、やけ食いしたりしても、何も問題は解決されないのです。

何が起きても、あなたはただそこにいるだけでいいのです。ただそのままにいて下さい。一過性の物事は、あなたが何も対処しようとせずにいてくれれば、それだけ早く通り過ぎるのですから。