「動」の中にいて、「不動」に意識を向ける

私たちは常に活動しています。じっとしているように見える人も、生きるということ、つまり生そのものが活動なのですから、例外ではありません。

この地球上においても、生物に限らず無生物であっても、必ず「動」の状態にあるのです。地面は私たちにとっては静止しているようにみえるけれど、地球の自転によって時速1700kmくらいの速度で動いています。

太陽にしても、あるいは我々の銀河系にしても渦を巻きながら途方もないスピードで宇宙空間を移動し続けているのです。つまり、この宇宙全体が、「動」で成り立っているのです。

どこを探してみても、「不動」を見出すことはできません。けれども、もしも仮にあなたのマインドの中の思考が停止したとしたら、あなたは「不動」を感知するはずです。

「不動」は、思考によってイメージすることはおろか、どんな知覚によっても感じることは不可能なのです。なぜなら、思考も知覚も「動」の仲間だからです。

実は、思考を完全に止めるなどというのは、一般人には到底できることではありませんが、でもそれを垣間見ることならできるのです。

たとえば、ゆったりと落ち着いた状態で自分の思考を見るのです。そうすると、思考と思考の間にほんの一瞬思考のない部分があることに気づきます。

そこに意識を向けることによって、「不動」を感じることができるはずです。この「不動」こそが、私たちの本質なのです。この世界の「動」という現象を支えている「不動」が在ることに気づくことができるのです。

それは、映写された「動」としての映像と、「不動」としてのスクリーンのようなものだと思えばいいかもしれません。

できるだけ、精妙に周りの音に耳を傾けるなら、思考は緩み、「動」としての音の奥にある「不動」の静寂を聞くことができるはずです。

常に、「動」の中にいながらにして、「不動」に意識が向いていれば、思考は自然と落ちていくし、その逆も起きるはずなのです。

二種類の無思考状態

私たち人間は、この地球上では最も進化した生物ですね。けれども、冷静に見ると、ひとりの人間の約90%は他の動物と同じなのです。

あなたのマインドの9割は無意識だからです。動物は完全に無意識状態で生きています。だから、人間と動物との違いは、わずかに10%くらいのものなのです。

ときどきクライアントさんに対して、「思考を緩めてできるなら何も考えずにいられるといいのです」とお伝えすることがあるのですが、すると、「それって、ボーっとすることですか?」と質問されます。

無思考の状態には、二種類あると思って下さい。一つは、確かにボーっとする状態があるのですが、これはまさしく動物と同じ状態であると言えます。意識的な部分が何もない状態。子供は時々そうなっています。

子供はまだ動物に近い状態で生きているからですね。まだまだ幼くて、社会というエゴの組織に取り込まれていない場合には、動物のようにのんびりとして、思考のない状態でいられるのです。

無邪気な子供らしいマインドは、精神的な苦しみというものをまだ知らないのですから、羨ましい限りですが、残念なことに当の本人はそのこと自体を意識できないでいるのです。なぜなら、無意識だからです。

そして、もう一つの無思考の状態とは、完全に意識的であるということ。しっかりと目覚めている状態であると同時に、マインドが動かない状態でいるということです。

だからこそ価値があるのです。マインドというのは、そもそも動いているもの、活動し続けることによって生き延びているのですから、動かないマインドというのはその危機的な状態とも言えるのです。

したがって、そんな状態は長くは続けることができません。マインドはすぐになんだかんだ理由をこじつけては、活動を始めるのです。つまり、思考が次から次へとやってきて、私たちを乗っ取ってしまうのです。

だからこそ、瞑想状態ではゆったりしていることができたとしても、日常の生活に戻ってしまうと、あっという間にマインドは活躍し始めてしまうのですね。

無思考でかつ意識的でいる訓練を続けていくことで、いずれは無意識に光が当たり、すべてが意識的になる時、もうマインドは再起することができなくなり、人は光明を得ることになるのですね。

瞑想中に起こることは、牛の糞

瞑想の時の気持ちよさが止まらない。どのように表現すればいいのか迷うのだけれど、そしてこの正体とは一体なんなのだろうか?

最初は性的な快感と関連があるのかもしれないと思っていたのですが、どうもそれが中心にあるのではないということは気が付いたのです。

でもその先がまったく分からない。けれども、osho が、瞑想中に何が起ころうとも、それは牛の糞だ!!と言っていたのを思い出し、それを知っていてよかったと思ったのです。

これって、クリスチャンだったらイエスの姿が見えてしまうのかもしれないし、敬虔な信者だったらまばゆい光に照らされる経験をすることになったかもしれません。

それは、本人のマインドが決めることなのです。そして、どんな体験をしようと、それは体験をするエゴ本人がそこにいるということになるのですから。

自分なりに見つめてみると、もしかしたら幼いころの無邪気で無防備なあの感覚に近いのかもしれないと思うのです。長い間抑圧されて隠されていたそれが、瞑想によって表面化したのではないかと…。

だとしたら嬉しいことです。そしてそれは、とても精妙なものでもあるのです。何気なく呼吸するのではなく、できるだけ静かに、そうっと呼吸をするだけでその感覚はやってきます。

敢えて言えば、静かな恍惚感なのかもしれません。静かではあるのですが、本人としては場合によっては呻くこともあるような、かなりしっかりした恍惚感なのです。

ただし、自分がそれをコントロールすることができないので、とても不安定なものなのです。それがやってくることを期待しても、期待通りには行かないし。

本来の瞑想からはかけ離れているという感覚もあるので、しばらくは静観していようと思っています。それ以外には何もできないし。

なによりも気づけたのは、外側よりも内側が大切なのだということ。内側は、宇宙よりも無限に広大だということです。それだけは間違いないことですね。

内的ロボット

この話しは以前にもしたことがあるのですが、かつて会社員だったころ、オフィスがあった横浜から車で帰ってくるとき、走り出してすぐにケータイに電話がかかってきたのです。

夜中でも自宅まで小一時間かかるのですが、そのほとんどを電話で話しながらの運転だったのですが、もうすぐ自宅に着くというところで電話を切ってはっと気づいたのですが、その時自分がどこをどうやって運転してきたのか一切の記憶がないのです。

それは思い出せないというよりも、まったく自分が運転してきた感じがなかったのです。後になって、こうしたことはいくらでもあるのだと分かったのですが…。

その時クルマを運転していたのは、私ではなくて私の心の中にいる内的ロボットだったのです。私たちは何かを訓練して、うまくできるようになると、ごく自然にその仕事を内的ロボットへと渡すのです。

そのロボットは、私の代わりになって所定の手続き通り、いろいろな仕事を効率的かつ能率的にこなしてくれるのですから、使わずにはいられなくなるのも当然なのです。

ロボットに処理をさせておいて、自分は緊急の電話に集中することもできるし、場合によってはまったく他のことを考えたり行動したりもできるのです。

だからロボットは都合のいい道具なのですが、一方で大問題も発生するのです。それは、ロボットは突然のイレギュラーな状況には対応することができないということです。

あるお笑い番組の中での私が大うけしたネタなのですが、話し手がタクシーに乗って移動中に疲れて寝ようとすると、信号待ちで停車するたびに、その運転手さんがサイドブレーキを引く「ギ~~」という音がするのです。

その音が結構耳障りで起こされてしまうために、サイドブレーキを使うのをちょっと控えて欲しいと伝えると、運転手さんは了解してくれるのですが、結局停まるたびにサイドブレーキを引いて「ギ~~」という音を出してしまうのです。

そのたびに、運転手さんは丁寧に謝ってくれるのですが、最後に彼が言ったのは、「だめだ、どうしてもやっちゃう~~!」だったのです。

つまり、タクシーを運転していたのは運転手さん自身ではなくて、彼の中にいる内的ロボットだったのです。ロボットだからこそ、臨機応変に手順を変えることができなかったというわけです。

そしてもう一つ、ロボットを使うときのとてつもなく大きな問題があるのです。それは、ロボットを使うとあなたの思考が野放しになって、止まらなくなる可能性が大きいということです。

ということは、どれほど一生懸命瞑想に勤しんだとしても、ロボットによる生活を続けている限り、思考の虜から抜け出せなくなるということです。

ロボットに仕事をさせないためには、あなたが意識的になってその仕事をするように注意深くいる必要があるということです。それが意識的に生きる、あるいは瞑想的に生きるということなのです。

比較せずにいられないマインド

自分や自分の人生についての自己評価というのは、人によって本当に様々ですね。不運の星の元に生まれてしまったと感じてる人もいるでしょう。

あるいは、自分の人生はどういうわけか、そこそこいいんじゃないの?と思ってる人もいるはずです。何をやってもうまく行かないと感じている人からみれば、次から次へと自己実現を進めているように見える人をずっと羨ましい気持ちで見ているはずです。

もしも、自分と自分の人生を他人のそれと比較してしまえば、そこには必ず嫉妬の嵐がやってきます。その嫉妬は私たちの心をいたく傷つけることになるのです。

それなら、比較することを止めればいいだけなのですが、残念ながら私たちは生まれたときからずっと他人との比較をし続けるようにと、条件付けされてしまったのです。

それは非常に強烈な一つの洗脳とも言えるものです。もしも仮に、私たちが他の動物や植物とも比較されるように洗脳されていたら、もっと悲惨なことになったかもしれません。

でも私たちに与えられた洗脳は、人間同士の比較だけだったので、他人と比較するということだけを今日までずっとやり続けてきたのです。

勿論、比較の度合いや方法も人によってさまざまです。あまり強くは比較しないでいられる人もいれば、強烈に比較してしまう人もいて、その傾向が強いほど人生を苦しむことになってしまいます。

比較したうえで、俺ってイケてるんじゃないの?と思っている人もいるかもしれませんが、そういう人でも比較して都合の悪い結果が出た部分については、抑圧して気づかないようにしているのです。

つまり、あらゆることを比較した上で、すべてを包み隠さずに見るならば、いい精神状態でいるということはほぼ不可能なことなのです。

残念ながら、比較を急に止めることはなかなか難しいことです。ですので、まずは比較をどうしてもやってしまう自分の心の部分を正面から見て、丸ごと受け止めてあげることから始めることです。

比較せずにいられないサブパーソナリティをいつも抱きしめてあげることです。そして、その抱きしめている側の自分は、完全に比較が落ちていることに気づけばいいのです。

気持ちいい瞑想って!?

目を閉じて、内側から眉間のあたりを凝視するという瞑想の方法があって、最近それを試してみているのですが、今日すごく変な気分になりました。

というか、今もその余韻に浸っている感じが続いているので、いつものようなブログの尺を書く気がしないのです。まったくの自己流でやっているので、これでいいのかどうか…。

師がいないって、こういうとき辛いですね。でも、なんでもありの気持ちはずっと持ち続けているので、不安になったりすることはないのです。

生まれて初めて、時間のことを一切気にすることなくずっと瞑想をしていたのですが、それは退屈する暇がなかったからです。何か得体の知れない快感のようなものが奥からやってきてたのです。

今まで結構真面目に瞑想をしていたのですが、そんな気持ちも吹っ飛んでしまって、なんだか子供の頃以来ずっと忘れていた気分を味わったのかもしれません。

この方法で瞑想すると、自分の思考を見ることができるようになるらしいのですが、私の場合はその思考が全部画像となって出てきました。

だから、一般的にイメージしている無念無想とは似ても似つかない感じで、これ本当に瞑想なの?と疑いながらやっていました。なので、今のところ誰にもお勧めできません。

がしかし、とにかく気持ちいいのです。今日のブログはこのくらいにして、また続きを楽しみに行ってきま~す!

真実を語る言葉はすべて方便

「嘘も方便」という言葉がありますね。この「方便」という言葉の意味を辞書で調べてみると、およそ次のように書いてあります。

『人を真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段。 ある目的を達するための便宜上の手段。』

嘘そのものはよくないけれど、場合によっては便宜上嘘を言う場合も在り得る。その裏には、仮に本当のことを言ったとしても、目的を達せられなければ何にもならないという意味も込められています。

ところで、この方便という言葉は、元々が仏教用語のようですね。真実を探求している人に対して、どうやったらその人を真実に導くことができるのか。

単純に真実を伝えればいいように思いますが、残念ながら真実を語ることは不可能なのです。真実は決して、言葉によって伝えることはできないのです。

言葉は思考による表現でしかないからです。だから、師は弟子に対してあの手この手を使って、何とか真実に気づかそうとするのです。

その中でも、言葉を使って真実への気づきを与えようとするのですが、師はその言葉が決して真実を現わしていないと気づいていながらも、伝えるその言葉こそが「方便」ということなのですね。

師が語る言葉に限らず、どんなものであれ真実について伝えようとする言葉というものは、すべからく方便でしかないということです。

私たちは、そのことを決して忘れてはなりません。人類の歴史上最大の発明は、間違いなく言葉であったはずですが、その言葉がまったく真実に対しては通用しないのですから、本当に困ったものです。

けれども、だからこそ真実は無限に深淵なのです。ある言葉がそのまま真実を表現できるとしたら、それは陳腐でありふれたこの世界の何かの知識と同じものになってしまいます。

真実とは、言葉はおろか私たちが考えうる限りのどんな想像力を使っても、想像することすら不可能なものです。もっと端的に言えば、「私」が真実に触れることは不可能です。

「私」が消えたとき、そこにのみ真実が在るのですから。でも、この言葉も単なる方便に過ぎないのです…。

夢は24時間続いている

日中、目覚めて活動している時には、私たちの表面意識が主人となっていますが、夜眠りに乗っ取られてしまうと、誰もが無意識状態となりますね。

その睡眠中には、私たちの潜在意識の中で目まぐるしく起きている現象が、夢となって現れるのです。夢は、本人が記憶していようといまいと、ほぼ必ず誰もが見ているものです。

なぜなら、夢というのは意識の表面には出してもらえなかった何等かの精神活動、自覚のないままに抑圧された様々な想いや感情が、形となって現れ出てくるものだからです。

つまりは、その時々を十分に生きて来なかったために、残してきた過去の精神エネルギーが、外に出ようとして潜在意識から上へと浮上しかけてるもの、それが夢だったのです。

ところで、夢は睡眠中にしか見ないものと誰もが思っているのですが、実はそうではないらしいのです。表面意識が活動している日中であっても、潜在意識の中で夢は起きているのです!

ただ、目覚めているときには、現実の世界に意識が向いてしまっているために、心の奥で起きている夢に気づかなくなっているだけなのです。

だから周囲にある現実の世界から、幻想の方へと意識が向いてしまえば、場合によっては白日夢というような現象も起きることがあるわけです。

このように見てみると、夢というものに対する認識が変わりますね。夢見とは、夜寝ていることと関連があるわけではなく、常に過去に残した精神エネルギーが現在のあなたを追っかけてきているようなものなのです。

ということは、深く瞑想することができれば、潜在意識の中へと深く深く入っていくことによって、能動的に夢を見てあげることができるようになるはずです。

猛スピードで夢を見てあげることができたら、いずれは夢の原動力は消化されて行ってしまい、もう二度と夢を見ることがなくなってしまうでしょう。

そうなったら、あなたは本当の眠り、本当に深い眠りを体験することになって、朝の目覚めはきっとこれまで経験したことのないくらいに清々しいものになるはずです。

自分との隙間を見出す

映画館で、スクリーン上に映された映像と、スクリーンそのものとは互いに距離はゼロでくっついているのですが、それでもスクリーンは映像の影響を受けることはまったくありません。

それは、あなたの本質と、あなたという人物およびその人生との間にも言えることなのです。ある人格を持ったあなたという人物が、あなたの人生の中にどっぷりと浸かりながらを生きているわけです。

けれども、そこには見ることも触れることもできないながら、スクリーンのようなバックグラウンドとしてのあなたの本質が介在しているのです。

それは近すぎて、あまりにも当たり前過ぎるために全く気づくこともできないのです。距離はゼロなのですが、接触すらしていません。

それは例えて言えば、水の中にあって濡れることのない蓮のようなものです。あなたが、これが自分だと信じて疑うことすらしない「私」、それは残念ながら思考の産物なのです。

生まれたときからの周りからの洗脳のシャワーを浴び続けた結果、これがどうも自分らしいと信じてしまったのです。それが、あなたの身体であり、少ししてあなたのマインドとなったのです。

あなたは自分の本質、本当の自分に気づく前に、徹底的に洗脳を受けて、あまりにもそれに順応してしまった結果、自分のことは分かっていると思い込むことになったのです。

強く思い込むと、それは本人にとっての真実となってしまうのです。一度そうなってしまったら、何かよほどの力が働かない限りは、そこに疑問を持つことすらしなくなってしまいます。

しかし、注意深く生きていると、あなたが何から何までただ信じているだけだということに気づくことができるのです。その中には、自分とはこういう人物だということも含まれます。

そうして、信じることを一旦脇に置いてみると、ものすごい不安がやってくるかもしれません。自分は今まで生きてきてこれだけのことは明確になっていると思い込んで来たからです。

自分は何も知らない、一番わかってないのは自分の正体だったと気づくとき、非常に幸運なチャンスがやってきたことになるのです。

自分の本質に気づく前に、是非試してみて欲しいことがあるのです。それは、自分という人物と少し距離を置いて、常に自分に注意の目を向けるようにするのです。

そのようにしてしばらく生活していると、徐々にですが人生にどっぷり浸かっていたそれまでの人生と、ニュアンスが変化してきます。

なぜなら、それまでの自分との隙間が見つかるからです。それは実に驚くべき変化を人生の中にもたらすことになるのです。

深刻さが少なくなり、人物としての自分を丸ごと受け止めることが当り前にできるようになってきます。これこそが真の癒しなのです。

子供の問題行動に感謝すべき

子供を持つ親の気持ちというのは、基本的には同じです。どの親も我が子にすくすくと育って欲しいと願っているし、間違った方向へ行かずに社会の中で立派に生きて行って欲しいと思っているのです。

そうした気持ちは愛からやってくるのですが、そこに親が元々持っていた不安が混じってしまうと、そのありがたい親の気持ちが却って子供の人生に悪影響を与える結果となるのです。

なぜなら、親の気持ちにゆとりがなくなってしまい、親の正しさを子供に押し付けてしまう可能性が高くなるからです。場合によっては、激怒や暴力なども起きるかもしれません。

そうなると、子供は親が自分のことを思って叱ってくれてるのだと理解できたとしても、恐怖によって心が委縮してしまい、自由な自己表現や感情表現ができなくなってしまうのです。

一生懸命過ぎる親にとっては、反抗しない子供の態度は都合がいいので、表面的には親子関係に問題はないと錯覚してしまうこともあるはずです。

けれども、子供のハートは恐怖によって閉ざされてしまうために、まともな成長が阻まれてしまうことになってしまうのです。

そして、ずっと内在していた子供の心の中の鬱憤、怒り、「自分の自由にさせてよ」という正直な気持ちの抑圧が限界を迎えるときがやがてくるのです。

それは確実にやって来ます。それは、不登校という形として顕われるかもしれないし、非行のような形をもって現れるかもしれません。それが、どんな行動であれ、それはすべてが問題行動として知られているものなのです。

もしも自分の子供に何等かの問題行動が起きたときには、その行動だけを問題視して解決しようとしても、全く意味がありません。親が力づくでそれを修正しようとすればするほど、更に深刻な問題行動を引き起こすことになりかねません。

また、子供の気質が繊細であればあるほど、こうした傾向は強くなるものですし、家族の誰かを悪者にするのも得策ではありません。

問題行動を起こしている子供自身よりも、まずは両親の心の癒しが必要であると気づくことです。親が大切なことに気づくチャンスを、子供が与えてくれたと理解できると、何かが変化し始めるはずです。