役割のローテーション

以前に数種類の講座を開催していたことがありました。ホームページのアップデートをさぼっているので、その頃の残骸をまだ見ることができると思いますが…。

講座の目的としては、例えばカウンセラー養成講座であれば、名前のとおりカウンセラーになっていただくためのものだったりするのですが、実は別の影の目的もあったのです。

それは、役割のローテーションなのです。つまり、いつもクライアントさんとしていらしていただいていた方々に、カウンセラーの役をやっていただくことで、癒しについてのより深い理解を得ることができると考えていたのです。

実際に受講された方であれば、この意味するところを肌で感じて下さったはずだと思うのですが、立場を変えて体験するということの恩恵は、想像以上のものがあるのです。

私たちが日頃沢山抱えている何等かの役割というものがあるのですが、たとえば親としての役割、子供としての役割、上司や部下としての役割、医者と患者等々。

私たちは知らず知らずのうちに、そうした役割を固定化してしまい、自分の役割の立場からしか周りの物事を見ないようになってしまう傾向があるのです。

そうなると視野が狭くなり、相手の立場でものを考えることを省略してしまうことになるため、円滑な人とのつながりに支障が出てきてしまうのです。

カウンセラーがたまにはクライアントになってみたり、教師がたまには生徒として生徒から教えを受けてみたりすると、きっと価値ある経験ができるはずですね。勿論その逆も然り。

妻と夫も互いに、相手と役割を一時的に変えてみることができるなら、何かそれまで気づかなかった相手の隠された苦労などに驚くこともあるかもしれません。

実際にそうしたことができないまでも、イメージの中で相手の役割を疑似体験することはある程度できるはずです。それは、もしかしたら自分にとって都合の悪いことに気づいてしまう可能性だってあるのです。

気持ちにゆとりがある時に、もしも相手の立場を疑似体験してみようと思い立ったなら、是非可能な限り試してみることをお勧めします。きっと新しい発見があると思いますよ。

「罪悪感よ、いらっしゃい!」

恐怖と罪悪感というのは、どちらも自我(エゴ)にとってはなくてはならない武器なのです。もしも、この二つのエネルギー両方のシャワーの中で育てられたなら、その子はどうしようもない窮地に追いやられてしまうはずです。

親の怒りが激しければ激しいほど、子供の恐怖はとてつもなく大きなものになってしまいます。そうなると、子供は素直な自己表現ができなくなってしまうのです。

それは当然な成り行きですね。親自身は自覚のないままに、子供を自分の都合のいいようにコントロールしたいがために、怒りによって子供を恐怖で縛るわけです。

これだけでも子供の無邪気さ、無防備さは阻害されてしまうのですが、さらにその親が子供に罪悪感を感じるように仕向けるとするなら、そこでも子供は二重に自己表現を抑圧させられることになるのです。

特に、子供の感受性が鋭くて敏感体質であればあるほど、この罪悪感攻撃はツボにはまってしまうのです。繊細な子供がいつまでも親に反抗できずにいるのは、恐怖よりもむしろ圧倒的に罪悪感が原因なのです。

恐怖の方は、子供の成長とともに薄らいでいくものです。子供の身体が親のそれを超えるくらいに成長するようになると、子供はそれほど親に威圧されても恐れずにいられるようになるものです。

勿論それには例外もあって、いつまでも昔の親の恐怖にずっと縛られているという場合もあります。けれども、罪悪感の方が何倍も始末が悪いのです。

もしもあなたが、恐怖と罪悪感の包囲網に窒息しそうになって生きてきたなら、莫大な怒りが溜まってしまっていると考えて間違いありません。

癒しの最初のステップでは、その怒りを味わって味わって解放していくことです。そしてその次に、手がけなければならないことは、恐怖や罪悪感と対面することです。

とくに罪悪感は、じわじわとあなたの首を真綿で締め上げるような感じがするため、派手さはないものの確実にあなたの自由が奪われてしまうのです。

もうけっして罪悪感を恐れないことです。あなたが単刀直入に相手に自己主張するようになれば、必ず大きな罪悪感があなたを攻めにやってきます。

その時こそチャンスなのです。「罪悪感よ、いらっしゃい!」とつぶやいて、それをとことん見てあげることです。罪悪感から逃げずに、罪悪感と闘わずに、ただそれを迎え入れるのです。

もしもそのコツがつかめたら、もうあなたは罪悪感に人生を破壊されることはなくなるはずです。そのときにこそ、あなたは自分の本当の人生を生きることができるようになるのです。

ハートを開き、マインドを小さくする

14年前にサラリーマンを辞めて以来、知識を詰め込むために本を読むということが皆無になりました。それまでは、仕事の一部として活字を読んでいたのですから、それはそれで仕方のないことだったのですが…。

最近では、本を読む目的がすっかり変わってしまった感じがしています。それは仕事でもなければ、趣味でもない、じゃあ一体なんだろうと思ったのですが、一番近いのはこのブログを書くということかもしれません。

ブログを書くことも、本を読むことも決して必要不可欠なことではないのですが、人生の一部になってしまっているということなのですね。

本の種類にもよるのかもしれませんが、私の読み方というのは、ツーッと連続的に読むのではなく、かといってじっくりと内容を吟味しつつ読むというのでもありません。

しばらく読んでは一旦本を閉じて、目をつぶってしばらく静かにしているということを繰り返しているようです。目を閉じてる間に何をしているかというと、眠くなったら寝てしまう(笑)。

寝ないときには、それまで読んだことを感じているのでしょうね。言語というのは思考ではあるのですが、論理的に考えるというよりもハートで感じているのです。

私が読む本は、散文には違いないのですが、どこか詩のような趣があるので、文字を追うよりは行間に漂う芳香のようなものを味わっているように感じます。

もっともっと感受性が高ければ、きっと詩のようなものへと傾倒していたと思うくらいです。詩は言語を利用してはいるものの、思考よりもハートに近いものです。それが論理的ではないからです。

だから詩は素晴らしいのです。奥行があって、さまざまな人ごとに十人十色の解釈ができるのですから。それに比べて、論理は薄っぺらですね。

音楽にしても、絵画や彫刻などのあらゆる芸術は、直接ハートに向けて何かを伝える能力がありますので、閉じかかった現代人のハートを開かせる無限の可能性があるはずです。

ハートが開けば開くほど、それは同時にマインドの占める割合が小さくなることを意味し、それだけ自分の本質へと近づくことになるのです。

勿論瞑想は、場合によってはもっと直接的に本質へとあなたを向かわせることになるのです。

自分のマインドを疑え!

昨日のブログでは、疑うということは決して悪いことではなくて、それは探求へと繋がる素晴らしいものなのだというお話しをしました。

疑わずに信じてしまえば、もうそこからの成長は全く望めなくなってしまうからです。疑う心の奥底には、実は信頼が横たわっているのです。

信頼とは愛であり、そこに恐怖がないからこそ正々堂々と疑うことができるということですね。そうやって、自由な心の持ち主は遠慮せずに疑うのです。

私自身も、最近は何から何まで疑いを持って生活してきたという感覚を持っています。何も信じないのです。信じる代わりに検証すればいいのです。

ところが、物事を疑ってかかることができる人であっても、自分のマインドだけはどういうわけか、あまり疑うことをしないのです。

本当は、自分のマインドこそ徹底的に疑ってかかる必要があるというのに。なぜなら、マインドとはあなたのものではないからです。

マインドは、社会や両親、そして教師たちによって作られたものであるからです。だからあなたからすれば、あなたのマインドはあなたのものではないのです。

マインドは常にあなたを欺こうとしているのです。たとえば、セッションの中で私はクライアントさんに対して、これこれを実践してみて下さいとお伝えします。

けれども、それを率先して実践してきてくださるクライアントさんは、あまり多くはないのです。なぜなら、クライアントさんのマインドは、さまざまな理由をでっち上げては、実践を妨害するのです。

そんな単純なことをやっても、きっと効果なんかでないはずとか、そんなことを毎日する時間を作ることができないとか、最もらしい理由をあなたへ提示するのです。

その本当の理由は、マインドというものはあなたを騙しておいて、あなたの本質に気づかないようにしなければならないからです。あなたの本質は、マインドではないからです。

癒しを進めて行った先には、いずれはマインドのウソがばれてしまうことになるということを、マインドは察知しているのです。

だから、あなたはマインドが何かそれらしい理屈を言ってきたときには、とりあえずその内容を疑ってかかることです。それをよく吟味した上で判断するべきなのです。

あなたのマインドを決して信じてはいけません。常に疑って、それが本当にあなたのためになることなのか、冷静に見てあげることです。

マインドを疑うことで、大切なことを取り逃がすことが少なくなっていくはずですよ。

疑うということは素晴らしい

疑うということを否定的に捉えていることが多いかもしれませんが、それはなぜなのでしょうか?疑うことは、とても素直な心の在り方であると私は思うのですが…。

例えば、純粋無垢な幼い子供は親の言葉をそのまま信じることができると言われることがありますが、これは全く的外れな理解であると思っています。

というのも、純粋無垢とは無防備な状態であって、それは何かを信じるということはできません。それはただ信頼することしかできないのです。

無防備とは愛であり、愛は信頼だからです。信じることとは、防衛の一つに過ぎません。親という権威、この人に迎合しなければ自分は危険なことになると判断した子供だけが、親を信じることとなるのです。

そこにあるのは恐怖であって、愛ではないということに気づくことです。何かを信じてしまえば、その裏に必ず信じない心、つまり不信がついてくるのです。

社会やそれに洗脳された親たちは、とかく疑う子供の自然な心を敵対視して、それを亡き者にしようとしてしまうのです。だから子供は信じることしかできなくなるのです。

もしも子供の心に恐怖がなければ、そこにはさまざまな疑いの気持ちが芽生えて当然なのです。疑いとは探求することであって、そこから成長が起きるのです。

もしも疑うことを否定してしまえば、そこには探求者の代わりに社会にとって都合のいい信者が誕生することになってしまうのです。

信者はただ信じることで自分を救おうとする人たちであり、そこには残念ながらもうどんな成長も見込むことはできません。だから私はセッションにおいても常にお伝えしているのです。

私の言うことを決して信じないで下さいと。信じてしまえば、それは不信と隣り合わせにならざるを得ないし、自分で探求して、自分で確かめるということをしなくなってしまうからです。

疑うことを否定せずに、そこから探求者になることです。どんな賢者の素晴らしい言葉であろうと、疑いから出発することで、それを検証していく態度でい続けることができるのですから。

言葉から離れてみる

誰かと一緒にいて、まったく会話をしないというのは、少し居心地の悪い感じがしますね。勿論、互いに何かをやっている場合はいいのですが、何もせずにかつ会話がないというのは、どうにも居づらいのです。

会話に使う言葉を発明したのは、人間の素晴らしいところの一つに違いありません。言葉がなければ、私たちの99%のコミュニケーションができなくなってしまうのですから。

そういう意味からして、言葉はとても大事なものです。言葉とは思考であり、思考とは言葉なのです。勿論言葉を伴わない思考というものも存在することはします。

しかし、そういう思考というのは、本当に原始的で単純な思考に限られてしまうのです。私たち人間の進化とは、言葉による思考を積み重ねた結果、非常に複雑で論理的な思考を駆使することができるようになったことなのです。

だから言葉とは、人間の代名詞と思ってもいいくらいなのです。言葉とは、それが思考であるためにこの世界を解説するためには適したものなのです。

けれども、思考を越えた真実については、どれほど言葉を上手に繋ぎあわせたところで、決してそれを表現することはできないのです。

例えば、かつてブッダは神については一言も触れなかったし、神についての質問はするなと明言していたらしいのです。神についての何か少しでも言葉にすれば、それは間違ったことを言うことになってしまうからです。

このブログにしても、言葉を連ねて何かを伝えようとしているわけですが、本質的なことは残念ながら表現することはできないのです。

それでも私たちは言葉を使うしかないわけですから、言葉の奥にある、いわゆる行間を感じるということでしか、真理は伝わらないのですね。

もしもあなたが、ずっと誰かと会話をし続けていたり、独りになったときにも、心の中で言葉が止まらないのでしたら、それは大問題です。思考に乗っ取られていると思った方がいいのです。

可能な限り不必要な会話を控えるようにしたり、心の中から聞こえてくる言葉に巻き込まれないようにすることが得策です。

そうして、言葉のない時間というものを作ってみることです。言葉があればそこには必ずエゴがあるのですから。どれほど素晴らしい言葉でも、言葉によって満たされることはないと知ることです。

人生の不思議さ

まさか自分の人生がこんな風な展開になっていくとは、若いころには想像もつきませんでした。というのも、45歳の頃に病気がきっかけでサラリーマンを辞めるまでは、自分の人生は典型的な、平均的な日本人のものだと感じていたからです。

特別なことは何もなく、誰かに自慢できることも何もなく、事件らしきことも何もなく、ただ淡々と平凡過ぎる毎日を送っていたからです。

自分の生活や経歴を誰かに話して、それを理解されないなどということは在り得ないことだとも思っていました。ところが、サラリーマンを辞めてセラピストになってからは、一変してしまいました。

仕事の内容を詳しく説明しようとすればするほど、思ったようには相手に伝わらないのだということを思い知らされることとなったのです。

仕事の内容だけでなく、自分が感じていることや自分が理解するようになった、人の心についての事柄は、どうやっても平均的な日本人のそれとは全く異なるものとなったのです。

そこで、自分は完全に社会のアウトローになったのだなと実感したのです。それはある種残念なことでもあり、また一方ではとても小気味いいことでもあったのです。

社会から逸脱した生き方、考え方を持っているということは、もうどれほど頑張っても社会の表舞台には出て行かれないということなのですが、それはそれで構わないのです。

この年齢になって、以前よりも更に無欲になってきたというのか、別の言い方をすれば、欲望が一点に凝縮されるようになってきたということです。

人物としての自分がどんな体験をするのかということへの興味が薄れ、代わりに自分の本質へと意識を向け続けることだけに集中したくなったのです。

クライアントさんからの予約が入らなければ、経済的に困ったことになるのですが、ごく最近ではそれも必要なチャンスをいただけたという感覚へと変化してきています。

考えてみると、私くらい恵まれている環境にある人は少ないのかもしれません。雑務らしきものが、毎日の生活から排除されているからです。

思い返すと、不思議な人生です。すべてが整いつつあるということを実感することができます。最後のひとっ跳びは、いつやってきてくれるのか、それともこないのか、楽しみです。

ノーマインドが真実をもたらす

誰もが丸裸でこの世界に生まれ出てくるので、人生でやるべきことは必要なものを手に入れ続けるということなのです。それは、モノやお金に限らず、あらゆるものが含まれます。

愛する人や家族だったり、知識などもそうですね。とにかく、私たちのマインドは自分の外側にある必要なものをできるだけ多くゲットすることが幸福への道だと信じています。

だからそのために頑張ったり我慢したりすることは得意なのです。精一杯努力したり、身体に力を込めて緊張することには慣れているのです。

けれども、その逆のこと、つまり頑張らないとか、力を抜いてリラックスするということは、どうも苦手になってしまっているのです。

マインドというのは、その性質として目的志向なのです。何かを目指すとか、目標を設定してそれへの到達を目的として生きるということをし続けるのです。

そうでなければ、マインドはそれ自体の意味がなくなってしまい、結局は消滅することになってしまうからです。マインドにとって、最も困ることは手に入れたものを手放すということ。

昨日まで相思相愛だった大切な相手から、突然別れを告げられたら誰だって冷静ではいられないはずですね。当然のことですが、当分は相手への執着心が残ってしまうでしょう。

手放すということは、マインドにとって最も苦手なことなのです。それはこれまで培ってきた知識であっても同じです。知識を手放すことくらい難しいことはありません。

必要なものを手に入れながら、目的地へ向かって進むこと、そのことにしかマインドは能力を発揮できないのです。ところが、この生き方というのは未来志向でもあるのです。

明日への期待を餌にして、マインドは生き延びているからです。もしも過去も未来もない、たった今この瞬間しかリアルではないと分かったなら、マインドは働くことができなくなってしまうのです。

けれども、あなたが本当に欲している完全なる静寂さや、至福という真実の味わいは、この瞬間にしかないのです。もしも、あなたがどんな目的も手放して、ただここに在ることができるなら、マインドは消滅してしまうでしょう。

その結果、精神活動をまったくしないノーマインドの状態が起こり、それまで隠されてきた真実が姿を顕わすことになるのですね。

二元性が消滅するとき

私たちの住んでいるこの世界は、二元性というもので出来上がっています。光があればその反対の闇があり、固いがあれば柔らかいがあるように、あらゆるものが対として存在しているのです。

こんな子供でも知っているような当り前のことでも、ときとして私たちはそれを忘れて、対のうちのどちらか一方の都合のいい方だけが、あたかも存在しているように見てしまうのです。

誰もが快適な生活を望んでいるのですが、それにも必ず不快な部分がくっついてくることを忘れてしまうのです。生きていると、その反対の死が必ずくっついてくるのに、そのことを忘れようとしているのです。

そこにこそ、苦しみの根源があるのです。分かっていながらも、心のどこかで一方を無視しようとすることで、それを拒絶すればするほど苦しみは深くなるのです。

逆に、もしも幸せを求めても、それには必ず不幸がくっついてくるということを、あらかじめ受容することができるなら、何も問題は起こらないはずなのです。

悦びがやってきたら、いつかは悲しみもやってくるのです。それを避けることはできません。それを避けることができるという幻想があなたの心の中にある限り、決して満たされることはありません。

あなたが誰かを愛せば、そこには必ず何等かの憎しみもついてきます。残念ですが、どれほど愛していたとしても、そこには憎しみが含まれているのです。

いやいや自分は相手のことを純粋な愛で包んでいるので、憎しみなど含むはずがないと思っているかもしれませんが、それは不可能なのです。なぜなら、二元性の原理が働いているからです。

ただし、唯一この二元性の原理が崩壊する瞬間というものがあるのも事実です。それは、あなたという人物があなたの中で消えているときです。

相手を愛している当のあなたがいなくなれば、そこには純粋な愛が発生することができるのです。なぜなら、本当のことを言えば、二元性というのはあなたのマインドが創り出しているものだからです。

マインドが消滅した瞬間、この世界は純粋無垢なものへと変貌するのです。それが「不二」ということ。つまり、二つ目のない、一つだけがただ在るということ。

それこそが真実なのですね。

自己表現の練習あるのみ

自己表現というのは、相手に向かってはっきりと「ノー!」と言うことです。「イエス!」は、自己表現のうちに入りません。なぜなら、そこにはどんな危険もないからです。

もしもあなたが、「ノー!」という自己表現が苦手だという自覚があるのでしたら、その理由にしっかりと気づいているかどうかが大切なのです。

自己表現を抑える本当の理由とは、自己防衛なのです。つまり、相手の気持ちを逆なでするようなことを言わないことにして、相手から否定されたり嫌われたりするリスクを回避しようとしているのです。

相手の期待に応え、相手の都合のいい自分を演出することで、見捨てられて惨めな自分にならないように、本当のことを言わずに相手に迎合しようと努力しているということです。

見捨てられる恐怖とは、幼い子供にしてみれば死の恐怖に匹敵するものですから、是が非でも自己表現をしないようにとしてしまうのです。

ところが、自己表現をしないことで一つの恐怖から逃れることはできるのですが、実はもう一つの恐怖を益々増やしてしまう結果となるのです。

それは、自分の自由が奪われて、相手に侵略されてしまうという恐怖です。「ノー!」とはっきり言えないということは、相手に屈服してしまうということになるからです。

そうなると、さらに他人の存在というものへの恐怖が大きくなってしまうのです。つまり、見捨てられる恐怖だけでなく、侵略される恐怖も加わってしまうからです。

自己防衛のつもりで自己表現を抑えたことが、実は防衛にはならずにさらに他人への恐怖を増大させる結果を招いてしまうということなのです。

自己表現が苦手であるなら、こうしたことにしっかりと目を向けて、少しずつでも自己表現ができるように練習することです。恐怖から逃げずに自分を訓練することです。

そうやって、徐々にですが他人への恐怖というものが薄れていくことになるのです。幼い頃ならともかく、大人になったあなたなら、必ず練習すればできるようになるはずです。

できてしまえば、なんでもないことだったと気づけるはずです。