心の声を受け止める

詳しいことは言えませんが、昨日20代半ばくらいのとても素敵な女性がセッションを受けにいらっしゃいました。あらかじめいただいていたご予約フォームには、男性と記してあったので一瞬びっくりしましたが…。

でも今はそういうことも珍しいことではありません。いわゆる GID 性同一性障害の方は、過去にも何度もクライアントさんとして来られたことがありました。

性同一性障害と言う言葉もどうかと思うのですが、世の中ではまだ障害という見方をするのが一般的なのかもしれないですね。

きっと、ご本人は子供のころや10代の頃には人知れず悩みぬいたこともあったに違いありません。一番親しい親からも、理解を得られるとは限らないからです。けれども、彼女はもうすでに自分をしっかり確立していました。

まだ20代なのですが、ただ漫然を生を生きているというのではなくて、しっかりと目を見開いて自分の人生と向き合っているということが伝わってきました。

どんな自分であっても、彼女のようにいずれは丸ごと自分を認めて、受け入れることができたなら、それだけで何にも代えがたい大切な気づきを得たことになるのです。

あなたはどうですか?生まれてから今に至るまでのありのままの自分をどれほど、受け止めてあげることができているでしょうか?

心の声の99を受け止めることができたとしても、たった一つでもこれだけはどうしても受け止められないというものがあるのなら、それは最初の99個も受け止めたことにはならないのです。

なぜなら、そこには判断が介入してしまっているからです。如何なる判断も、肯定も否定も、一切の思考を使わない状態でしか真に受け止めるということはできないのです。

もしも100%本当に受け止めることができたなら、その瞬間に自我(エゴ)は落ちていくでしょう。なぜなら、人生と闘うどんな理由もなくなってしまうからです。

必要なことのすべては、目覚めることだ!

by osho

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あなた方は、自分が誰であるかを忘れた神々だ。あなた方は眠りに落ちて、自分が乞食になった夢を見ている王たちなのだ。

今、乞食は王になろうと試みている。夢の中で、彼らは王になるためのたいへんな努力をしている。そして必要なことのすべては、目覚めることだ!

そして私が目覚めなさいと言う時、あなたはどこで目覚めることができるだろう?未来で?過去で?過去はもうない。未来はまだない -- あなたはどこで目覚めることができるだろう?

あなたはただ、今だけに目覚めることができる。そしてただ、ここだけで目覚めることができる。これが存在する唯一の瞬間だ。

そしてこれが存在する唯一の現実だ。そしてこれが、常にこれまで在り続けてきたものであり、かつ常にこれからも在るであろう唯一の現実だ。

達成者についての、あなたの基本的な哲学を変えなさい。あなたの存在にリラックスしなさい。どんな理想も持ってはいけない。

自分自身から何かを作り出そうとしてはいけない。神を改良しようとしてはいけない。あなたはそのままのあなたで完全なのだ。

あなたのすべての欠点と共に、あなたは完全だ。ひとたびこれを理解するなら、急ぐ必要はどこにあるだろう?心配する必要はどこにあるだろう?

あなたは既にゆっくりしてきた。それは目的地のない、行き先のない朝の散歩だ。あなたはそれぞれの木を、それぞれの日光を、それぞれの鳥を、そして通り過ぎるそれぞれの人を楽しむことができる。

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自分をトータルに生きる

子供の頃に、親がいつも優しくて怒ったりしないでいてくれたら、その子供はとても楽ですね。恐怖と闘わなくても毎日を生きて行くことができるからです。

そういう親は、一見すると理想的な親像のように捉えられるかもしれません。けれども、親が喜怒哀楽のどれかを見せないというのは、大問題なのです。

子供は、親が持っているすべての面を見て育つのが一番いいのです。なぜなら、人間とはそういうものだということを直接的に知ることができるからです。

喜怒哀楽をあまり見せ合わない家族の中で育つと、場合によっては自分のありのままを認めることができない子供になってしまうかもしれません。

なぜなら、人間としての否定的な側面を十分に見ずに育つわけですから。そうすると、子供は自分の中にある否定的な部分をごましながら生きて行くしかなくなってしまうのです。

自分には、どうしてもこういう嫌なところがある、すごく惨めな部分がある、とても人として醜い考えを持っている、このような自分を自分自身に対しても隠そうとしてしまうのです。

人間本来の美しさとは、決して部分的な側面だけでは見出すことができません。自分にとって都合のいい部分も、甚だ都合の悪い部分も、全部含めてトータルに見るときに限り、本当の美しさに気づくことができるのです。

あなたは、そのままで完全なのです。こうした言葉は、どこかで聞いたことがあるかもしれませんが、そのことをいい加減に聞き流してそのままにしてある可能性があります。

もしもあなたが不完全であるなら、それは完全に不完全だということです。不完全さを持っていない完全なものなど、この世界には一つもないのですから。

こうしたことを一度しっかり見つめてみることです。そしていつも、本当の美しさとは何なのか、何を持って完全と言うことができるのかを、感じてみることです。

あなたがあなたのままでいないなら、決して本来の美しさに出会うことはできないでしょう。自分自身をトータルに生きることでしか、生を堪能することはできないのです。

達成者のマインド

私たちは、誰でもゆっくりとくつろいでいたいという気持ちがある反面、もう一方では急がないとと思ってもいるのです。それは、あなたのマインドのどこかに、「早くしなさい!」と急き立てる部分があるからです。

私自身の感覚では、その声は小学3年生くらいから強くなってきたように思うのです。幼稚園のころは、のんびりと、おっとりと生きていた感覚がまだ残っているからです。

小学生になって、何かと急がされることが多くなったのです。早く給食を食べないと、早く問題を解かないと、それができなければ自分は落伍者になってしまう、そういう危機感を持たされるようになったのです。

そして私のマインドは、それを巧みに取り込んで、自分の言動力としてしまったのです。そして、今だにマインドのその部分は私の尻をたたきながら、私を急がせるのです。

意識的になっている時だけは、そのマインドに乗っ取られることも、抵抗することもなく、ただそれを脇に置いておくことができるのです。

けれども、一たび非意識的な状態に陥れば、マインドの思うままに操られてどこかへ向けて急ぎ出してしまうのです。どこかに向かう目的地などないというのに。

私たちが急ぐ理由は、マインドが目的志向だからです。そもそも、マインドは目的がなければ、それ自体の意味を失ってしまうのです。だから、マインドは今この瞬間にとどまっていることができません。

目的地へ到達しなければならない、何かを達成しなければならない、それが本当であれば人生は短いのだから成程急がなければならないということになるのです。

ここで、はっきりさせましょう!生に目的などありません。どんなゴールもありません。達成するべきどんな事柄もありはしないのです。生の目的は生そのものなのですから。

マインドにそそのかされて、ただ急いでいないかどうか、自分を観察してあげることです。そのことに気づくためにも、瞑想が一番手っ取り早いのです。

過去はもう消え失せてしまったし、未来はまだ来ていないのに、達成者のマインドは未来ばかりを気にしているのです。完全に意識的になれば、今の中に落ち着くことができるのです。

その時、マインドと同化しているあなたはどこにもいない状態となるのです。それがどれほど清々しいものか、一度でも体験したことがあれば分かるはずです。

怒りの奥にある惨めさを見る

毎日、お昼ご飯を事務所の近くで買っているのですが、その中で時々利用している有名なお弁当屋さんがあるのです。そのお店で最近メニューに追加された焼きそばを買って食べた時のことです。

作り立ての焼きそばがとても自分の口に合うので、その日もおいしい焼きそばを食べられると期待して、事務所で一口食べたときのことです。

ん?おいしくない!味が悪いというのではなくて、とにかく作り立ての感じが少しもしない。どうやら、作ってしばらく経ったものをあてがわれてしまったようなのです。

急に怒りが出てきて、(怒るのは好きなので)この怒りを明日徹底的にそのお店に行って、訴えてやろうと思ったのです。そして、次の日その店の店長に文句を言ったのです。

すると、予想に反してひどく丁重に謝ってもらうことができたので、もう二度と同じような間違いをしないで下さいねと釘をさして帰ったのでした。

それから、一週間ほどして、またそのお店に行くと、その店長さんが私の顔を覚えていたらしく、レジの仕事を別の人に頼んで、こちらまで出てきてくれて、これまた丁寧にどういう手違いがあったのかを丁寧に説明してくれたのです。

そうなると、今度は何となく自分が大したことでもないのに文句を言ってしまって、大人気なかったなとちょっと恥ずかしい気持ちにもなったのです。

それから、2、3日したあと近くのスーパーに買い物に行くと、その店長さんと偶然ばったり出くわしたのです。彼は、私が気づく前から私に気づいていたらしく、しっかりとこちらを向いて私と目が合うのを待っていたようでした。

若干の気まずさを感じながらも、少しの会話をしてその場は別れたのですが、今回のことでは彼の方が大人の対応をしてくれて、負けたなあというのが実感なのです。

文句を言うのは、楽しいものです。なぜなら、自分は何も悪くないというとても有利な立場にいるのですから。それを楽しんでいたというのもあるのですが、もうそろそろ卒業しようかなと思うようになりました。

私の場合は、自分が惨めな気持ちにさせられたというのがあると、それを隠すために怒りが出てくるということが分かっているのです。

その惨めさをしっかり感じてあげれば、怒る必要もなくなると分かっていながら、怒るのを楽しんでいたというのが本当のところなので、それももう終わりにしようと思い立ちました。

それもこれも、その店長さんのおかげなのでした。

対象を持たない欲望

誰であれ、ものすごく欲しかったものがやっと手に入ったときには、とても嬉しくて有頂天になりますね。それは、モノだけではなくて、人の場合だってあるはずです。

何にせよ、何かを欲するという欲望があって、それを満たすために頑張ったり努力したりして、ようやくそれをわが物にしたときの感動は、すばらしいものです。

けれども、その素晴らしい気持ちというのは、残念なことにいつも一過性のものだったのです。どれほど大喜びしたとしても、しばらくするとそれが当り前のことになり、また別の何かへの欲望が湧いてくるのです。

こうした繰り返しをもう何度も何度も続けてきて思うのは、外側には本当に自分を満たしてくれるものは何一つなかったということです。

もう十分過ぎるほど分かっているはずなのです。それでも、気が付くとまた別の何かを見つけてはそれを手に入れることで束の間の幸せを貪ろうとしてしまうのです。

そこで、さまざまな経典には、「あなたの苦しみの原因はその欲望にある、だからその欲望を手放しなさい。」と謳ってあるのです。

確かに欲望がなくなりさえすれば、誰もがそれを手に入れることができなくても苦しむことはなくなるはずです。でもどうやって、欲望を落とすことなどできるのか?

考えると、欲望こそが悪者のような気さえしてきます。けれども、実は欲望そのものには何の悪意もありません。というよりも、それは私たち自身の本質であるとも言えるのです。

ただし、私たちが欲望という場合には、そこに必ず何等かの対象物が想定されているのです。外側の世界に存在する対象物への欲望こそが、我々を苦しめる原因であって、欲望それ自体ではないということに気づくことです。

では対象を持たない欲望とは何でしょうか?それ自身が拡張したいという強烈なエネルギーだと考えればいいのです。欲望はただのエネルギーであり、それこそがこの生を生み出しているとも言えるのです。

内側にあるエネルギーに欲望という呼び名は不適当な感じもしますが、それが外側の対象へと向かう時には、欲望という名前で呼ばれることになるのです。

自分の欲望から対象を落として内側に溜めるとき、きっと爆発が起きて全体へと帰ることになるのではないかと思うのです。

古いカルテの処分

2001年3月からスタートした沢山のクライアントさんとのセッションですが、自分がとんでもなく忘れっぽいという自覚があったために、セッションの記録、いわゆるカルテを残すようにしてきました。

そのカルテも、セッション数が7000回近くなったことで、結構かさばるものとなってきてしまいました。当然のことですが、どのカルテも例外なく全部保管してあるので、手狭な事務所には不釣り合いな量になってしまったのです。

それでふと、2009年1月以降にいらしてないクライアントさんのカルテについては、別にして保管するようにすれば、取扱いも便利になると思い立ったのです。

実際にやってみると、これがなかなか大変なのです。日付によって選り分ける作業をしているうちに、過去にいらした印象深いクライアントさんのことを思い返したりしながら、なかなか手間を食う難作業となりました。

私が個人的に残してきたカルテですので、どうしても保管しておかなければならないというモノでは当然ないのですが、何となく心情として処分していなかったのです。

けれども、こうして年代によって選り分けたことによって、どうせなら保管せずに処分してしまおうかという気持ちが持ち上がってきました。

クライアントさんによっては、そんな古い自分のセッションのログなど、早々に処分して欲しいと思ってる方だってきっといらっしゃるはずに違いありません。

きっと明日以降の空いている時間を利用して、シュレッダーにかけることになると思います。それをイメージすると、何となくすっきりした感覚にもなれるのです。

今思い返すと、2009年というのはこのブログを開始した年でもあり、また自己探求が始まったのもこのくらいの年だったと記憶しています。

ですから、それ以前のエネルギーを切り離すのは、自分にとってもいいことなのかもしれないです。処分大好きな私にしては、よくも全部丸ごととってあったなあと…。

これでまた新たな気持ちで、セッションに臨むことができるというものです。

丁寧に生きる

小学生の頃、先生や親によく言われたことの中に、「もっと丁寧に文字を書きなさい!」というのがありました。その頃の感覚としては、文字として認識できればそれでいいというのがあったのでしょう。

生まれながらのせっかちな性分なのか、自分ではとてものんびり屋だと思っていたりもしたのですが、どうやら相反する両方の性格をもっているみたいなのです。

長いこと生きてきて今感じているのは、のんびり屋の部分よりも圧倒的にせっかちな方が勝っているということです。そのせっかちさが災いしてなのか、物事を丁寧に行うということが不得意なのです。

食事に行っても、食べ終わったらすぐにお店から出たくなるため、ゆっくりそこでくつろぐということが苦手なのです。これをただの性分として済ましているのはどうなんだろうと考えて、その奥にあるものを見てみたのです。

すると、そこには時間に対する恐怖があると気づきました。時間というものをいつも気にしている心の部分があるのです。有限である時間を常に節約したいらしいのです。

だから一度書いて消してしまうようなホワイトボード上の文字などは、できるだけ早く書こうとしてしまうのです。急いで書いたところで、大した違いはないはずなのですが…。

さらに言えば、時間に対する恐怖とは、きっとこうしている間にも時間は刻々と過ぎて行き、それは一歩一歩死へと近づきつつあるということにも繋がるのです。

死が迫ってきているのに、のんびりとこんな体たらくなままに過ごしていてはいけないという、焦りのような感覚を持っているのかもしれません。

これでは未来への不安と共に生きている、と言われても仕方ありませんね。そのことに気づいたので、これからはなるべく意識して、何をするにも丁寧にしてみようと思うのです。

丁寧に呼吸する、丁寧に道を歩く、丁寧に運転する、丁寧に食事をする等々。すべてを丁寧にしようと心がけると、今という静寂さを感じることができそうですね。

それは、意識を内側へ向けている時とすごく近い感じがします。なぜなら、その場合にも自分の動作がゆっくりとしたものになるのを感じるからです。相通ずるものがあるのでしょう。

せっかちな自分にとっては、少々やっかいな感じもするのですが、できるだけ心がけて丁寧に生きるようにしてみようと思うのです。

瞑想したり、内側へ意識を向けることが苦手だという人は、しっかりと今にいる実感を得るためにも、この丁寧に行為するというのを実践してみるのもいいかもしれませんね。

新たなる決意

久しぶりに大学の時の友人たちと一緒の時間を過ごしたのですが、やっぱりこのブログで話しているようなことは全く通じないということが分かりました。

それは勿論残念なことには違いないのですが、実際自分が一番親しいと思っている家族と言えども理解してはもらえていないので、まあ仕方のないことだなと思うのです。

ただそうなると、人は一体全体何を拠り所として互いに繋がっているのだろうかと、ちょっと考えさせられてしまうのです。家族という血のつながりが大事なのか、数十年来の友人という関係が重要なのか。

今の自分に言えることは、こうした関係はとても残念なことですが表面的なつながりでしかないと感じるのです。自分にとって人生のすべてを捧げて探求しようとすることへの価値を分かち合える人、それこそがすべてだと感じるのです。

もう正直に言えば、表面的で軽薄な繋がりにはどんな興味も失せてきてしまったのを認めるしかありません。そんなものに時間を浪費している暇はないのです。

今までもものすごく我が儘に生きてきたという自覚があるのですが、今後はそれをもっと加速させていくことになると思うのです。

私は断言します。自分の本質に気づくこと以外には、どんなことにも興味を持つことはこの先もきっとないでしょう。つまり、外側の世界に何が起きようと、ただ無難に付き合っていくのみです。

そこには、どんな好奇心も、どれほどの価値も見出すことはできないと分かるからです。今日は、そんな決心を改めてするいいチャンスをもらえたと感謝しています。

存在との二重生活

私たちは、自分という存在は、一人のまとまりのある人格だと思い込んでいます。まとまりがあるということは、そのど真ん中に自分の中心となる部分を持っていると感じているのです。

その感覚がどれほど曖昧であろうと、中心がなければ自分はバラバラな無価値な何かに成り下がってしまうと思っているからです。

その中心らしきものは、言ってみれば自我(エゴ)の中心なのです。だからこそ、もしも自我がないなどということになったら不安と恐怖でどうしたらいいのか分からなくなって、パニックになってしまうかもしれません。

その一方で、自分の内側へと意識を向け続けていると、それまで中心だと思っていたものはそのままにして、まったく異質な別の中心を少しずつ感じることができるようになるのです。

それは、いわば存在の中心、全体性の中心なのです。この中心は、宇宙の中心であり、あなたの本質の中心でもある、すべての中心のことです。

そこへ意識が向かうと、当然のことながら肉体としての自分が移動していたとしても、その中心は微動だにしないということを実感することができます。

全体の中心が動くということは在り得ないからです。クルマの運転をしているときに、運よくその中心へと意識を向けることができると、クルマは走っているのですが存在の中心と一つになっている自分はまったく動いていないということが分かります。

それは歩いている時よりも、もっと容易にその感覚になることができます。きっと、運転中はシートに腰かけているだけで、身体のどの部分も動かしていないからなのでしょう。

以前、歩きながら何度もこの不動の感覚を味わいたいと思って、練習したこともあったのですが、今思えば運転中のほうが遥かに容易くそれを味わうことができると分かります。

ただし、私は覚醒しているわけではないので、自我の中心が完全に消え失せるということはなく、結果として両方の中心を同時に感じるという状態になっているのです。

この存在の中心と自我の中心の両方を同時に感じることを、あらゆる場面で継続することができるなら、これほどすばらしいことはないと今のところ思っています。

存在の中心と少しでも繋がっていると、その奥深い静寂さが、自我の方へも伝搬してくるらしく、運転中に腹を立てることが急に減ってしまうのです。

そしてその余韻は、しばらく続いてくれるのです。もっともっと存在との二重生活を満喫できるように、訓練することができるといいのですが…。