沈黙の空間を創る

私たちは、じっとして何もしないでいるということがほとんどありません。そして、誰かと一緒にいて、ただ黙っているということにも耐えられないものです。

常に何かをやっているし、誰かといれば必ず何かの会話をし出すのです。二人以上の人が一緒にいて、互いに何もせずに、尚且つ誰もが黙っているという状況を想像すると、ちょっと怖い感じがしますね。

これは、自我(エゴ)が創り出した罠に違いありません。私たちは、他人が怖いのです。その恐怖を少しでも避けるために、できるだけ会話をしようとするのです。

何気ない会話は、その場の雰囲気を和ませる力をもっていますので、感じていたはずの恐怖を気にせずにいられるようにしてくれるのです。

もしもチャンスがあったら、試して欲しいのですが、誰か気の合う仲間や家族と一緒に、一つの空間を共に過ごすのですが、互いに何もせずに何も会話をしないようにするのです。

互いを無視するでもなく、かといって意識し過ぎるでもないという状態をしばらく続けるのです。初めのうちは、慣れないために違和感を感じるでしょう。

けれども、その状況に慣れてくると、その場の静けさがとても心地いいものになるはずです。そして、その外側の静けさは、容易に自分の内側にある静寂さへと意識を繋げてくれるのです。

そして、その心地いい余韻は、その後独りになってからもしばらくは続くでしょう。その時、一体自分はどれほど無駄な会話という騒音の中で過ごしてきたのかを発見することになるのです。

家族や恋人と一緒に道を歩いている時も、しばしの間会話を中止するのです。そして、もしも道端に咲いている花を見つけても、「きれい~!」と言わないことです。

言葉にすれば、必ずそれは思考を伴ってしまうからです。せっかくの沈黙をそんなことで中断しないようにすることです。そうして、静寂を楽しむのです。

静けさは必ず、意識を内面へと向けてくれるのですから、それを利用しないという手はありません。こういった方法は、ときとして独りで瞑想するよりも効果があるかもしれません。

誰かと一緒にいて、完全に無防備でいられるということは、途方もなく味わい深い瞬間を創りだしてくれます。こうした一種のワークを理解してくれる仲間がいる人は、是非一度試してみて下さい。

非常識第二弾(人格を捨てる)

昨日のブログの内容(知識を捨てること)は、もしかしたら読者の反感を買うかもしれないなと思いながら書きました。それは、一般常識に反する内容を含んでいるからです。

なぜ常識に反すると拒絶や否定をされる可能性が出てくるかというと、私たちは常識というものを自分を守るために身に着けてきたからです。

その大切な防弾チョッキ、心の鎧をけなされてしまえば、それは危険なことなので抵抗する気持ちが顕われるのも当然のことなのですね。

けれども、アインシュタインの言葉に、「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションのこと」というのがあるように、常識というのもある種の知識のようなものに過ぎません。

防衛のために使われるいかなるモノも、醜いだけでなく、自分を不自由にすることになるのです。防衛の原動力は恐怖であり、そこには愛がないからです。

ということで、今日も非常識な内容を書いてみようと思います。以前ある人と話をしている時に、自分のアイデンティティなんていらないという内容のことを言ったときに、激しく抵抗を受けました。

相手は到底受け入れがたいという感じだったのですが、なかなかうまく説明できずに終わってしまった記憶があるのです。実は、その話しをする少し前に、私自身が自分は大澤富士夫ではないという感覚を強く持ったことがあったのです。

そのことをただ伝えたかったのですが、当り前ですが失敗したのですね。アイデンティティも人格も私たちの本質からみれば、周辺で起きていることなのです。

もしもあなたが自分の人格を大切だと信じているのでしたら、その奥には確実に不安が横たわっているはずなのです。なぜなら、人格とは砂上の楼閣だからです。気づいているかどうかは分かりませんが。

人格というのは、そもそも他人によって作られたものです。その上に自分の経験という断片を張りぼてのようにくっつけて、その繰り返しによってでっち上げられたものなのです。

あなたの本質は、あなたの人格とは縁もゆかりもありません。人格は架空の産物に違いありません。人格を持った人物としてのあなたなど、本当は実在しないのですから。

人格を周辺に押しやり、新たな中心として自分の純粋な意識を据えるのです。こう書くと、それを意識的に行うことのように誤解されるかもしれませんが、そうではありません。

ある気づきとともに、それはやってくるものです。そのニュアンスが分かれば、きっとこの非常識さもただ愉快なものになるはずです。

知識を捨てること

自己防衛の中の一つに、知性化というのがあります。それは、知識をできるだけ溜め込むことで、ハートで感じることを遮り、観念の世界へと逃亡する方法です。

沢山の本を読み漁り、人よりも多くの知識を記憶して、心の鎧として使おうとすることです。一般的には、インテリ層の人がよく使う防衛のメカニズムですね。

知識というのは、自分以外の誰かから得た情報の集まりであって、そこには生き生きとした生を感じることがほとんどできないのです。

ただただ、知識を詰め込むことでいくばくかの安心を得ることができるというだけで、その一方で知識を増やせば増やすほど自分の本質から遠ざかっていくようなものなのです。

なぜなら、あなたの得た知識が自分はこれだけのことを知っているというように思わせるからです。それは知っているのではなくて、信じているだけだということに気づかなくなってしまうのです。

あなたが仕事などで使う必要のある知識、それは情報と言えばいいものですが、それは勿論必要なものです。けれども、単なる知識は害になるのです。

できるだけ、これまで得てきた知識を捨てることです。知識は百害あって一利なしですから。それよりも、少しはましなのが知恵ですね。

知恵は、人から聞いたものではなく自分で経験したことに基づいているため、知識ほど害にはなりません。ところが、この知恵も厳密な意味においては、本当に役立つものではないのです。

なぜなら、知恵の出どこはあなた自身が経験した過去の産物から得たものだからです。あなたの生は、一瞬の休みもなく絶えず流転して変化しているものです。

だから、あなたの知恵は今この瞬間にはもうすでに古くなってしまっているというのが本当のところなのです。本当に大切なのは、知識でも知恵でもなく、今この瞬間の認識なのです。

認識とは常に今であって、過去の蓄積とは全く異なるものです。認識は生と同じようにまさに生きているのです。それは常に生まれ変わって古くなることがありません。

瞬間瞬間の認識の中に生きることです。歴史や伝統の重さから解放されて、今この瞬間に全身全霊で入っていくのです。過去も未来もないこの今という永遠に生きるということです。

非本質的なことを落とす

osho の以下の言葉に、頭をガ~ンと叩かれたような気がしました。

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覚者になりたい者は、より多くのエネルギーが本質的なもののために利用できるように、非本質的なことをますます落とす必要がある。あなたの人生を見てごらん。

どれほど多くの非本質的なことをしているかーーそして何のために?また、どれほど長い間、あなたはそれをしてきたことかーーそしてあなたは何を得ただろう?

あなたは同じ愚かなパターンを、自分の全人生で繰り返すつもりなのだろうか?もう充分過ぎるだろう! ちょっと見てごらん、それに瞑想してごらん。

本質的なことだけを言いなさい。本質的なことだけをやりなさい。本質的なものだけを読みなさい。するととても多くの時間が節約され、とても多くのエネルギーが節約される。

そのエネルギーと時間のすべてを瞑想に向け、内的な成長へ向け、目撃することへと向け、簡単に注ぎ込むことができる。

私はいまだかつて、瞑想できないほど貧窮した人間を見たことがない。しかし人々は馬鹿げた事、全く馬鹿げた事に従事している。

彼らが愚かに見えないのは、他の人々もみんな同じことをしているからだ。しかし、探求者は注意深くなければならない。

自分がしていること、自分の人生でしていることにもっと注目しなさい。なぜなら覚醒のバラが成長するためには、多くのエネルギーが必要だからだ。

エネルギーの貯水池が必要とされる。あなたに余分なエネルギーがある時だけ、すべての大いなるものが来る。

もしあなたの全エネルギーが世俗的なものに浪費されているなら、神聖なものには決して接触しないだろう。

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自由と安心は同時に手に入らない

私たちの誰もが自由を求めていることは確かですね。物理的な自由だけでなく、精神的な自由も同じように求めているのです。

そのことは事実なのですが、往々にして結果は自由とは真反対の束縛されたものになってしまいがちなのです。そのことについて、書いてみたいと思います。

そもそも私たちが自由を求める本当の理由は、たった一つだけ、不自由さを感じながら生きているからです。その不自由さというものを、誰もが好ましく感じていないからに違いありません。

その不自由さとは、たとえば生きて行くために気の進まない仕事に毎日出かけなければならないとしたら、それはとても不自由を感じるはずです。

あるいは、家事仕事が忙しすぎて、自分がやりたいことをする自由な時間を作ることができないとしたら、これまた不自由な人生ということになるはずです。

つまり、生計をしっかり立てて生きて行くためには、また怠惰な奥さんと思われたくなくて、などの理由によって、止むおえず自分の自由を切り売りしているということかもしれません。

そのように見るなら、確かに不自由さも仕方がないように思えるのですが、実はそれは安心を得るための方策であるとも言えるのです。

実は本当に自由を手に入れようとするなら、安心や安全を期待してはいけないのです。そのどちらも同時に手に入れることは不可能だからです。

自由であるためには、危険や痛みを覚悟しなければなりません。誰かに後ろ指を刺されたり、認めてもらえないことになったとしても、自分の意志を貫きとおす覚悟が必要なのです。

もしもあなたが安全第一の旅を求めるのなら、ただバスに座っているだけでどこへでも連れて行ってくれる、便利な団体バスツアーに行くことです。

あれほどの楽ちんな旅もないでしょう。無駄なく名所旧跡を巡ってくれて、ちょうどお腹が空くころには食事を用意してくれるのですから。

けれども、安心していられるのとは反対に、自由さはほとんどありません。もしも、自由な旅を求めるならば、何の計画もせずに一人旅にぶらっと出かけるのが一番です。

その代わり、自分で何でもしなければならないのは言うまでもありませんね。人生もこうした旅行と同じです。あなたが勇気を持って生きるなら、自由はおのずと手に入るはずだからです。

生死を超越した自己

昨日のブログの冒頭で、私たちが生まれたその瞬間から、死に向かってのカウントダウンが始まっているということを書きました。

そのことは事実ではあるのですが、日ごろからそんなことばかり考えて生きている人がいたとしたら、その人は相当な変わり者だと言われてしまうでしょうね。

なぜなら、私たちは死ぬことを隠すためにも生きることに重きを置いているからです。そして、生きるために私たちが必要とするものは、すべて自分の外側にあるのも事実です。

餓死しないための食物も外側にあるし、危険から守ってくれる親も外側にいるのです。快適な生活を保障してくれる我が家も外にあるし、愛する人も外側の世界に住んでいます。

誰もが当然過ぎるくらいに知っていることですが、生き続けるためのすべての必須アイテムが外側の世界に存在するのですから、私たちの注意が自分の外側に向いてしまうのは仕方のないことです。

ところがどっこい、外側の世界ばかりに目が向いていると、いつまでたっても本当の不安はなくならないし、何を手に入れることができたとしても、満たされることは期待できません。

一度でも、ほんの少しでも完全に満たされた体験をしたことがある人なら分かるのですが、その感覚には理由がないのです。何かがあったから満たされたという外側の原因など、一つもないのです。

すべては内面で何かの変容が起きたとしか考えられないのです。つまり、私たちが本当に求めているもの、それは外側の世界には何一つないということです。

外側には、なるほど生きて行くために必要なものが勢ぞろいしているのですが、残念ながらあなたが心から欲しているものは、自分の内側にのみあるのです。

生きることに時間を使うのと同じくらい、死に対しても見つめることをすることができるなら、あなたの意識は自然と内側へと向くことが増えてくるはずです。

なぜなら、いくら外側に注意を向けてもそこには生きるためのネタがあるだけで、死への洞察を助けるものがないからです。人は、死を意識できれば必ず意識を内側へと向けることができるようになるのです。

そして、その内奥の究極まで見ることができたなら、生きることと死ぬことを超越した自己へとあなたは変貌を遂げることになるのでしょう。

自分の不死性

私たちは、生まれたその瞬間から死ぬ日に向かって、一歩一歩近づいて行っているのです。つまり、誕生とともに、死へのカウントダウンが始まるというわけです。

初めて人は死ぬのだということを知ったとき、子供は大変なショックを受けるのですが、その恐怖がなかなか受け止めがたいものなので、その恐怖を心の奥へとしまってしまうのです。

それがあらゆる恐怖の大元となっているのは間違いありません。そして、お年寄りは死が身近に迫ってきているものの、自分はまだ子供だし、あるいは自分はまだ若者なのだから死について考えなくてもいいとして生きるのです。

人間以外の動物は死について知ることはありません。だからこそ、動物には私たち人間のような心理的な恐怖、それが原因となる心理的苦悩というものがないのです。

動物は、目の前で動物の死を目撃しても、それを自分の事に照らして見るということができないのです。だから、死について無頓着でいられるのです。

人間は、そうはいきませんね。誰かの死を知れば、自分にもいずれはそれがやってくるということを思い起こされるので、またあの恐怖を思い出したりするのです。

死を恐れるあまりに、それから目を逸らし続けていれば、いつまでもその恐怖が人生のあらゆる場面について回るのです。そこから脱出するためには、死をもっと身近なこととして見ることが必要なのです。

そして生きることと同じくらいに死について見つめることができると、私たちは誰もが生死を超えた存在であるということに気づくことになるのです。

死について忘れて、人生でどれほど嬉しいことがあったとしても、それはまやかしでしかありません。死は毎瞬毎瞬迫ってきているに違いないのですから。

瞑想中に、自分の身体が死んでまったく動かなくなったというイメージを強く持つようにすると、本当に身体が異常なほど重くなり、自分自身が身体から離れたような感じになります。

そのときに、自分は身体ではなかったという実感を得ることができるのです。身体は、生まれては死に、生まれては死にを繰り返すのですが、自分はそれとは違う存在であると実感できるのです。

自分の不死性を見いだせたとき、本当の自己との出会いがそこにあるのです。

不安の本当の理由とは?

セッションにいらっしゃる多くの方々が、漠然とした不安を抱えています。自分では、どうして不安がこびりついているのか、その理由も分からずにずっと過ごしてきたのです。

このことは何度もこのブログでも書いてきたのですが、その不安の多くは、自分の存在に自信がないことが原因なのです。自分のままで、ここにこうしていていいかどうか?充分に分かっていないということです。

その不安を解消して安心したいがために、人は頑張り続けるのです。頑張って、努力して存在価値の代わりになるもの、つまり他人からの評価を気にする人生を生き続けるわけです。

それはいずれは限度を超えて、鬱症状を発症することになるはずです。幼いころの自分のあらゆる訴えを聞いて、丸ごとそれを受け止めることを続けていくことで、心の奥にある不安が安心へと緩やかに変化していくのです。

と、ここまでは通常のセッションで、みなさんにお伝えしてきたことです。けれども、もっと深いところに実は不安の原因となる大元が潜んでいるのです。

それは何かと言うと、私たちの誰もが自分の正体を本当には分かっていないということ、それこそが不安の本当の理由なのです。

自分が何なのかが分からないまま、安心していられるはずがありません。私たちは、自分を知りません。自分が誰なのか、一体ナニモノなのか皆目分かってはいないのです。

幼いころ、それもようやく意識が芽生えるもっとも大切な時期に、あなたは○○ちゃんなのよ!という洗脳を繰り返し受け続けた結果、それをただ信じたに過ぎないのです。

私たちは本当に知っていることを信じることはできません。知らないからこそ、教えられたことを否応なしに信じるしか手立てがなかったのです。

そして信じたという事実を、完全に忘れ去ってしまったのです。だから、私たちは自分は誰なのかを当り前のように知っていると思い込んでしまったのです。

固く信じ込んだことは、本人にとってはそれが事実であると感じるようになるのです。けれども、心のもっとも最奥の箇所で、自分が何かを知らないままでいるのですから、そこから決してなくなることのない不安がやってくるのです。

その不安を根こそぎにするためには、誰もが自分の本質に気づくこと以外に方法はありません。このブログでずっと伝えていることは、簡単に言えばそういうことなのです。

「お友達作戦」の勧め

クライアントさんの中には、闘い続けてきた結果、もうヘロヘロに疲労困憊してしまって、どうにもこうにもしようがなくなってしまったという方もいらっしゃいます。

それほどまでに極端でなくとも、私たちはずっとこの人生と闘ってきたのです。そのことにどれくらい気づいているでしょうか?自分は恵まれていると感じている人であっても、必ず闘争してきているのです。

あなたが、人生とどれだけ過激に闘ってきたかによって、それだけ苦難が増えるのです。なぜなら、闘えば相手はそれだけあなたに牙をむくからです。

あなたは危険だから仕方なく闘ってきたのだと主張するかもしれませんが、残念なことに人生のごく初期の頃を除いては、実際あなたが闘ってきたからこそ、苦難がやってきたのです。

闘えば、あなたは過酷な道を選ぶことにもなります。もしもそのことに気づいて、ほんの少しでも闘いの手を緩めることができるなら、人生もあなたにやさしく接してくる体験ができるはずです。

私はずっと水泳が得意ではなくて、社会人になってからふとしたきっかけから、水泳のスクールに3か月間くらい通ったことがありました。

最初は、25メートル泳ぐと息苦しくなっていたものが、あるときから急に息が楽にできるようになったのです。そうしたら、ゆっくりであれば休憩なしにいくらでも泳ぎ続けることができるようになったのです。

そのときに感じたのが、「ああ、水はお友達!」というものでした。それまで、自分の身体の周りにまとわりついて自分を苦しめていたと感じていた水が、突然お友達だと思えるようになったのです。

つまり、自分は気づかぬうちに水と闘っていたということなのです。溺れそうになっている人は、最大級に水と格闘していることは明白ですね。

また、スポーツクラブの100℃のサウナで汗を流すのが日課となっているのですが、あの高温の中でも長く入っていられるコツがあるのですが、それも「お友達作戦」です。

私たちは長く入って沢山汗を掻きたいと思うために、あの暑さとつい闘ってしまうのです。あと1分と思った瞬間に、その思考が闘いを作り出すのです。

その反対に、この暑さはお友達と感じるまでに自分のマインドを手なずけることができると、暑さの質が明らかに変わってきます。

このお友達作戦は、他のあらゆることに使えるのです。私たちは、放っておけば苦しみと闘ってしまうのですが、意識的にこのお友達作戦を実践すれば、苦しみの質は間違いなく変容してしまうはずです。

試してみる価値はありますよ。

マインドを超える

osho が光明を得た人の在り様を以下のように表現していましたので、抜粋します。なるほどね~、そそられます!

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もしマインドを超えていくことができたらいったいどうなるのか。マインド自体は同じままだ。マインドには何の変化もない。

だがマインドを超えていくとすべてが変わる。必要ならば部屋に戻って来ることもできる。だがあなたはもう別人だ。

このように出たり入ったりすることによって、あなたは質的に変わる。部屋の中だけに住んでいる人間、外がどうなっているか知らない人間は、じつは人間ではない……甲虫のように、昆虫のように生きている。

その彼が外に出て、空へ、大空へ、太陽へ、雲へ、無限の拡がりへと向かうとき、たちまち彼は変わる。この「無限」の衝撃によって、初めて彼は人間になる--意識になる。

また再び部屋に戻ることもできる。だが彼は別人だ。その部屋はただ利用するためのものだ。もはや牢獄ではない。

いつでも出て来られる。そして部屋は、利用するもの、実用的なものとなる。かつて彼はその中に囚われていた。

だがもう囚われていない。今や主人だ。今や空が外にあることを知っている……無限が自分を待っていることを知っている。

その部屋でさえも、今やこの無限の一部であり、また部屋の中の小さく限られた空間でさえ、外と同じ空間だ。

彼は再び部屋に入り、そこに住み、その部屋を使う。だがもうそこに囚われていない。これは質的な変化だ。

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