夏休みという魅力的な響き

昨日は、梅雨の中休みというのでしょうか?一時的とはいえ、カラッと晴れ渡った空が見えてとても気持ちよかったですね。私は、一気にあの懐かしい夏休みの気分を思い出しました。

夏が好きな理由のほとんどは、夏休みという魅力的なものを連想するからだと思うのです。子供のころは、何を楽しみにしていたかといえば、長い夏休みだったのですから。

夏休みは、ルールから解放されて自由を満喫できる最高の日々だったのです。何やら意味のなさそうな宿題もあったのですが、そんなものは脇に置いてとにかく何もしないでいいという日々を堪能しました。

ちょっと変わった男の子だったのか、記憶の限りですが小学生のいつの夏休みかは忘れたのですが、ほとんど外出することなく過ごした年がありました。

とにかく何もしたくないというのが、根底にあったのだと思います。ただじっとしていることが好きで、それはもう異常な感じだったかもしれません。

かといって、友達と一緒にふざけたりも普通にできるのですが、それは本当の自分の姿ではないという感じがありました。そして、独りでは寂しいというのもあるのに、どういうわけか独りで過ごすことが好きでした。

親に監視されることもなく、じっと留守になった家に独りでいると、なんだか落ち着くことができたのですね。その感覚は、大人になった今でもしっかり残っています。

大切な人と一緒に過ごす時間も大好きな反面、とにかく俺を独りにさせてくれ!と叫んでいる幼い男の子の気持ちが根深く残っているのも事実なのです。

身勝手といえばそれまでなのですが、独りは超清々しいのです。母親が若干過保護気味だったせいもあるのかもしれませんが、干渉されずに過ごせる時間が天国なのです。

けれども、自分の中にどっしりとした安心感があって、だからこそ独りでいられるということを考えると、本当に大きな安心感を親から与えてもらえたのだという感謝の気持ちになります。

もうしばらくぐずついた天気が続くようですが、その後はあの嬉しい夏休みのシーズンがやってきますね。大人になった今は、夏休みとは無縁の毎日となったのですが、それでも夏休みの自由さを忘れたことはありません。

今は、毎日が自由すぎてホント感謝の日々なのです!

「ただ見る」ことの大切さ

私たちが今日生きるために使うことになっている、全エネルギーのうちの80%くらいを「見る」ことに使っているそうです。それくらい、「見る」ということに重きが置かれているのですね。

そして、更にその「見る」ことの目的のうちの90%以上が、実は自己防衛のために費やされていると思って間違いありません。掛け算すれば、0.8×0.9=0.72(72%)ものエネルギーが防衛に使われているということです。

それはオーバーだよと思われるかもしれませんが、上の数字はともかくとしても、気づかぬうちに相当なエネルギーを自己防衛に使っているということは、癒しをしていけば理解できるはずです。

もしも、その防衛のエネルギーを何かやりたいことに対して振り当てることができたなら、一体どれだけのことが精力的にできるようになるか、それは想像を遥かに超えているはずです。

セッション中に、何度も私は、「見て下さい!」というのですが、それは防衛するために見るのではなくて、「ただ見る」ということを実践して欲しくて言っているのです。

「ただ見る」とは、思考を使わずに見るということを意味します。この「ただ見る」ということは、判断も評価もせずに見るということです。言葉を変えれば、受け止めるということにもなるのです。

自分の思考を「見る」、心の中の想いを「見る」、感情を「見る」など、すべては無思考でということが最重要なのです。私が見て下さいと言った場合は、常に無思考を指します。

そして、無思考で見るということは、観照するということにもなるのです。自分を「ただ見る」ことを実践することは、取りも直さず自分に正直でいるということにもなるのです。

防衛システムからやってくる思考は、100%が防衛のためのものですから、決してそれをキャッチしてはいけないのです。幼いころからの癖で、ついキャッチしてしまえば、自動的に防衛システムに取り込まれてしまいます。

やってくる思考も「ただ見る」ことを実践することで、その思考に取り合わない態度でいることができるのです。相手にされなければ、思考は衰退していくしかありません。

ネガティブな感情が上がってきたら、それも「ただ見る」のです。そうやって無防備に感情を見れば、自動的にその感情を味わい尽くすことになるのです。

「ただ見る」ということは、そこに純粋な意識を向けるということ。最後には、その「ただ見る」が無意識の奥深くへと入っていくことになり、そうなればこの世界からあらゆる闇が消えてしまうでしょう。

LINE でセッション

今までにもう7000回もやってきた個人セッションですが、初めて文字だけによるセッションをやってみました。これまでにも、遠方で簡単には事務所に来られない方のために、スカイプなどでやったこともありました。

けれども、事情があってそういったものも使えないという状況で、なんと今流行りの LINE を使っての2時間のセッションとなったのです。

少しだけ不安はあったものの、終わってみたらそれなりに利点もあるなあというのが、正直な感想でした。とりあえず、ケータイのソフトキーボードでは全く用を足さないのが分かっていたので、キーボードを購入してキー入力が楽にできるように準備しました。

対面しない状態でのセッションですから、クライアントさんの表情とか態度や声の質などに注意を向けることができない分、少し戸惑いもあったのは事実です。

ただし、落ち着いてゆっくりと聞くこともできるし、話そうとすることもしっかりと時間をとってできるというメリットがあるのです。

しかも、二人のやりとりは、すべてケータイの中に保存されているというのもあって、これはなかなか使い物になるなというのが印象です。

クライアントさんには、途中で気づいて、都度感情が上がってきたときには、そのことも実況してもらうように頼んだところ、協力して下さったおかげで、とてもうまく行きました。

何でもやってみないと分からないものですね。それにしても、便利な世の中になったものです。この仕事を始めたころには、お会いできない場合には電話で、というのが一般的でした。

それが、ネットとアプリの発展のおかげで、スカイプや LINE やチャットなどでも十分にセッションができるということが分かったのです。

もしも、対面するのが苦手だと言う方、あるいは遠方過ぎて事務所まで出向くことができないなどの場合には、上記のようなことでもセッションは可能ですので、是非ご検討してみて下さい。

癒しの作業を疑うマインド

人は内面の癒しを進めて行くと、それなりにいろいろな変化に気づいてくるものです。勿論、その気づきは千差万別であって、こうならなければならないということはありません。

私自身の経験では、しばらくは何も自分の変化を感じることができなかったくらいですから。それでも、自分以外の家族が少しずつ楽になってきたなと感じたその後に、やっとどうやら自分にも変化が来たと感じたくらいです。

癒しがうまく行っている場合には、いい方の変化として次のようなことがあげられます。

-頭でグルグル考えることが減ってくる

-いろいろな事がそれほど気にならなくなる

-身体の痛みが楽になる

-自分に対して、裁くことが減ってきて優しくなる

-他人に対しても同様に裁くことが減る

-身体の疲労感が減少する

-感じる能力が蘇ってくる

-ねばならないなどのルールにこだわらなくなる

-自己表現ができるようになる

-etc.

一方、やだなと感じる方の変化としては次のようなものがあります。

-一時的に極度に身体の具合が悪くなる

-辛いことを感じやすくなる

-頭や心が混乱してくる

-頑張れなくなる

-自己表現を抑えられなくなる

-etc.

癒しを一気に進めようとしてがむしゃらにやっていくと、心の反動もそれに比例して大きなものとなってしまうために、上記のような辛さがやってきます。

特に、マインドは混乱してくるものです。そのときに、自分は信じるままにこんなことをしていていいのだろうかという疑いがやってくるかもしれませんが、それこそが自我の巻き返そうとする作戦だと理解することです。

早々に癒しを終えて、健康になったらこの世界で活躍できるという考えが一番危険です。癒しは継続してライフワークのようにしていくことです。

そしていずれは、自己の本質に気づくことになるのですから。

正常なマインドなどない

残念なことに、わが国ではカウンセリングやその他心理療法などのセッションを受けることがまだ一般的なことではないという認識なのですね。

カウンセリングを受けるなんて、あの人はどこかがおかしいのではないか?などの見方がいまだに根深く残っているのかもしれません。

私は、セラピストの仕事をするようになって、つくづく分かるようになったのですが、私たちのマインドというものはすべからく、良く言えば夢をみているようなものであり、悪く言えば狂っていると言ってもいいかもしれないのです。

誰の心は正常で、誰かの心は狂っているという具合に私たちは往々にして考えがちですが、それは単なる程度の問題に過ぎないのです。

誰の心もおかしな状態であることは間違いありません。仮に私が自覚している精神的な症状を、もしも精神科の医師に訴えれば必ず何がしかの病名をいただけるはずです。

この社会にそこそこ適合して生きて行ける場合を正常と言い、不適合者の場合を異常としているに過ぎません。一般的なセラピーでやっていることは、社会生活に不自由さを感じている状態から、ある程度改善するようにお手伝いしているに過ぎません。

そのことは、それなりに価値のあることかもしれませんが、どれほどセラピーを繰り返したところで、依然として人のマインドが満たされることにはならないのです。

このことは、私自身が身を持って体験した事実です。そして、その理由もはっきりしているのです。私たちのマインドとは、何から何まで信じることで保っているのです。

そのネタは社会やそれに毒された親などの大人から幼いころに譲り受けたものです。マインドは、間違った情報を心底信じることで、それを真理だと思うようになってしまったのです。

誰もが同じように信じているのですから、社会もそれを基盤として成り立ってしまうのも当然のことなのです。けれども、何をどうやっても満たされないなら、そもそも何かがおかしいと気づくのです。

そして勇気ある人たちは、自分が信じているものの一切合財を一度脇へ置いて、真実とは何なのかという探求の旅に出るのです。

そうすると、次第にそもそもマインドを正常な状態に戻すなどということは在り得ないことだと理解することになるはずです。マインドとは、狂った思考の塊りだからです。

そしてもしも、あなたがあなたの本質に気づくことになったなら、その時はマインドの中身は空っぽになり、個人としてのあなたの代わりに、本来のあなたが姿を顕わすことになるのでしょう。

心の奥は深海のようなもの

意味のないことだと分かっているのですが、実は瞑想をする上での密かな楽しみのようなものがあります。それは、体中の知覚が一点に集中してしまったかのような感覚になることなのです。

それは、あくまでも身体の感覚のことなので、単にそれがやってくるとそれを楽しんでいたのですが、残念ながら最近は瞑想をしてもそれがさっぱり起きなくなっていたのです。

つまらないなと思っていたのですが、自分の努力でそれを起こすことができないので諦めていたところ、久しぶりにそれがやってきました。そして、それがやってくる条件のようなものが少し分かった気がするのです。

瞑想中に気が付くと、眠ってしまったという経験を時々するのですが、そうした明らかな睡眠の場合はもう全く瞑想が中断されてしまうので、その場合には一度仕切り直しをしてから再度瞑想をするようにしています。

けれども、その眠りがどうにも微妙過ぎて、寝ていたとは気づかぬレベルの状態があるようなのです。そして、目覚めているのと、眠りとのちょうど狭間のギリギリのところに意識があると、あれが起きるようなのです。

そして記憶にある限り初めて、強烈なのがやってきました。あっ、久しぶりに来てくれた!と思った瞬間、目の前にしっかりと中心が見えるのです。

それは渦巻の中心のようなものなのですが、別に渦を巻いているわけではないのです。それを凝視した瞬間、ものすごい勢いでその中へと吸い込まれたような気がしたのです。

好奇心と恐怖が混じりあったまましばらくすると、ゆっくりとその中心は消えて行ってしまいましたが、今思い返すと、あれはきっと意識下への通路のようなものだったと思うのです。

しばらくすると、やはり得体の知れないおどろおどろしいものが少しだけ見えてきました。心の奥に隠された怪しい闇の部分が少しだけ見えたのではないかと思います。

心の奥というのは、ある意味深海のようなものですね。私たちは、深海に棲息している生物のほとんどについてまだ未知の部分が多いのですが、それと同じかもしれません。

それにしても、こうした体験をしている自分は明らかに自我(エゴ)なのです。エゴがエゴの隠している部分を暴きに行っているわけですから、何ともおかしなことですね。

想い残しがないか振り返る

子供の頃に、早く一人前の大人になりたいと思っている子もいれば、大人になるのは嫌だ、いつまでも何の責任もない子供のままでいたいと思っている子もいるのです。

そのどちらにも実は問題があるのです。そもそもが、そのどちらの子供の場合も未来に意識が向いているということです。本来、子供は過去や未来のことよりも、今日楽しむことに精一杯でいるのが健康な証拠なのです。

早く大人になりたいという気持ちも、いつまでも子供でいたいというのも両方とも、現状に満足していないと言えるのです。

たとえば、早く立派な大人になりたいと思う子供の場合、それは自分のことは何でも自分でやれるようになりたいと思っているのですが、その理由は次のような場合があるのです。

年齢相応の子供のように、親や周囲に甘えて生きることができないと判断した場合。物理的に親に甘えようとしても、それが叶わなければ、子供は自分を救うためにも相手への願いを断ち切ってしまうのです。

そうして、できるだけ早く大人になって、自立することで本当の辛さを見ずに生きて行こうとするわけです。そうやって、大人になってしまうと、子供らしい無邪気さを十分に使わずに過ごしてしまうために、困ったことが起きてきます。

しっかりしなければ、強い自分にならなければと頑張れば頑張るほど、心の奥に隠された無邪気な子供の意識がそれを邪魔するのです。本当は頑張りたくないんだ。

人は、その年齢に相応しい生き方をしなければ、想い残しをすることになるのです。その残った部分が、いつまでも心の奥に燻っていると、いつかは現実のあなたに牙をむいてくるでしょう。

その時になって、ようやく自分の心の中に何やら得体の知れない強力な力を持った闇の部分があると知ることになるのです。

何かがおかしいと感じたときが、生き残っている昔の自分を救ってあげるチャンスなのです。その時の自分のエネルギーが、まだ正常に成仏していないと理解することです。

残った想いは、未来のあなたに向けて訴えてくるのです。心を静かにして、その小さな声に耳を傾けてあげて下さい。そして、丸ごとその声を受け止めてあげることです。

あなたとその声の主の距離が近づけば近づくほど、その子の気持ちや感情を味わって溶かしてあげることができるようになるのです。

完全に諦めたとき、それはやってくる

仏陀は、何年もの間にあらゆる師のところに出向き、弟子として教えを乞うのですが、師の方からもうお前に教えることはなくなった、頼むから他の師のところに行ってくれと言われ続けたのです。

彼自身もどんな苦行にも耐え抜いて、これ以上もうどんな努力もすることができないというところまでやり抜いたのです。その結果、何も起こらなかったのです。

もう本当にやり尽してしまった彼は、放心状態となって、菩提樹の木の下で寝てしまったのですね。それは、本当の意味での深い睡眠をとったのです。

なぜなら、苦行中の睡眠などというものは、心からの安らぎなどを感じることもできなかっただろうからです。全くの熟睡が終わって、最後の星が空から消えかかった早朝に彼は目覚めました。

その時に、彼は自然と覚醒したのです。もうどんな努力もできない状態になり、どこへ行くことも何をすることもできなくなった正にその時に、それは起きたのでした。

そして、こうしたあらましが、あらゆる難行苦行は無駄に終わった。ただ心静かにしている間に光明を得ることができたというところばかりが強調されたのです。

だから、私も騙されていました。本当は、そうした苦行を経て、あらゆる努力は無駄だったと気づけたことによって、彼は覚醒したのです。

最初から努力などいらないのだと、どれほど理性で理解できたとしても、それは役には立たないのです。う~ん、とても残念なのですが、どうもそういうことらしいですね。

私は努力が嫌いなので、修行せずに覚醒できる道が一番いいと思っていたのですが、あらゆる修行はそれが役に立たなかったと完全に降参するためにこそ、必要なのだということです。

エゴを使ってでも、全身全霊で努力すること。そして、どうもがいても、自分の思ったようにはならないのだと知ったときに、人は完全に力を抜くことができるのです。

すべての努力が実らないと悟ったときに、本当の悟りがやってくるのですね。

真の自由とは

昨日のブログで、「無選択」について書きましたが、少しだけ補足したいと思います。無選択こそが、本当の自由だということを書き忘れたのです。

私たちは、誰もが自由を求めています。そのくせ、何等かの不自由さを感じながら生きているとも言えますね。なぜなら、私たちが願っている自由さを、この社会もそしてかつての親も認めてはくれなかったからです。

自分の自由にしたいといくら願ったところで、それじゃあ生きていけないよというメッセージを幼いころに沢山受け取ってしまうのです。そうやって、親や社会のルールを仕込まれるのです。

自分の自由さと社会的なルールの両方のバランスがうまく取れている場合は問題ないのですが、ルールの方が優勢になりがちなのです。それを自己防衛と呼びます。

そうして、あまりにも自己防衛によるルールを優先するあまりに、不自由極まりない人生を生きることになってしまい、結果は大抵が鬱々とした毎日となるのです。

その不自由さから脱出して、自分らしく自由に生きて行けるようにするのが、セッションなどでやっている癒しなのです。人は癒されればそれだけ、社会や自分が作ったルールから自由になるのです。

けれども、これでまだ終わりではありません。この自由とは、社会や自分が作った防衛というルールから自由になるだけで、まだ本当の自由を手に入れたとは言えないのです。

本当の自由とは、あなた自身から自由になるということです。つまり、それはあなたのマインドからの自由を意味します。私たちは、このままだとマインドの奴隷です。

そのマインドは、思考によって日々選択を繰り返して自分をどこかに導こうとしているのですが、それに騙されてはいけません。

あなたは、あなたのマインドではないからです。マインドと同化している限りは、本当の本当の自由を手に入れることはできません。

そこで、「無選択」という生き方がようやく表れることになるのです。無選択でいると、マインドは衰退の一途をたどることになるからです。

思考すること、それによる判断、あるいは比較、そして選択などをしないでいれば、思考は停止してしまい、動いていなければ困ってしまうマインドは、いずれは静かになっていってしまいます。

その時、あなたの本質が顕われることになるはずです。それこそが、真の自由の状態なのですね。

無選択を心がける

毎日が淡々と過ぎていく人生を生きていて思うのは、自覚があろうとなかろうと私たちは生きるということを選び続けているということです。

死なないように、つまり死を選ばないでいるということが、そのまま生を選択しているということです。ところで、自殺する人の多くが、実は生への強い執着があったということをご存じですか?

生を強烈に選択していたからこそ、その極端な選択がひるがえって、そのマインドが今度は死を選択することとなったということです。

少なくとも、生きていても死んでもどちらでもいいという人が、わざわざ自殺するということはないからです。私たちが何かを選択すれば、それが強ければそれだけ強く真反対を選択する可能性が高くなるのです。

生きていたい、あとどれくらい生きられるのかと思えば思うほど、死というものを間近に感じてしまうのと同じかもしれません。生を選択すれば、必ず死がついてくるのです。

自分の心がいつも平安で安らかであることを選択すればするほど、怒りや恐れがついてくるのです。この二元性の世界では、そういうことになってしまうのです。

快楽ばかりを選択すれば、必ず不快さに苛まれる人生がついてきます。二元性の片一方を選ぶということは、それと対極にあるものを選ぶことと同じだということに気づくことです。

幸福を選択すれば、不幸がもれなくついてくるのです。安心を選択すれば、どこまでも不安がくっついてくることは、もう十分に誰もが知っていることですね。

かつてブッダが言った言葉で、中道を行くというのがあるそうですが、それは両極のどちらかを選択するのではなく、そのどちらでもない間にいること、無選択でいるということです。

無選択でいるということは、毎日無数の選択をし続けているマインドにとっては不可能に近いことのように思われますが、それを心がけるということです。

無選択で生きるというと、なにやら柄にもなく修行っぽい感じがしますが、要するに無選択を心がけることで結局は無思考のマインドに近づいていくということですね。