近すぎて理解不能なもの

子供の頃から、自分で自分のことをじ~っと見つめてみるという癖がありました。それをやっていると、必ず何とも言えない気恥ずかしさがやってくるのです。

隠していたつもりはないのですが、普段は見ずにいた自分自身との対面は、不思議なことに恥ずかしいという感覚なのです。

それはちょうど、いつもみんなでワイワイやっている仲間同士なのに、ふと二人きりになったときに互いに何を話せばいいのか分からなくなる、あの気恥ずかしさに似ています。

その恥ずかしさにたどり着くまで、じっと自分で自分を見続けるという変な癖があったのですが、最近その感覚がどうもなくなってしまったようなのです。

以前のようにして、いくら自分を見続けてもその感覚はもう戻ってこないのです。その代わりと言ってはなんですが、感覚の広がりに気づくようになったのです。

内側を深く見つめていくうちに、人物としての自分を通り越して、その奥に広がる本当の自己にその矢が刺さるとき、いきなり自己が拡大するのです。

それは、「自分とは一体なんなの?」という問いかけを徹底的にやり続けたときのあの感覚と同じなのです。

終点となるナニモノもないのですが、全体性へとシフトしてしまうのです。なんだ、そうだったのかと分かる瞬間ですね。

近すぎて理解不能なところ、それこそが真の自己の姿なのでしょうね。

男性は孤独に瞑想することで、女性は愛を通して覚醒するのです

恋愛相手に心を奪われて、寝ても醒めてもその人のことを想い続けてしまうようなことは、誰でも一度や二度経験があるかもしれません。

それは何も10代20代の若者だけが罹る恋の病ではありません。何歳になっても、誰かに恋をし、その人に魅了されてしまうことがあっても不思議ではありません。

けれども、そこには男女の差があるのです。男性も女性も、意外とその性差については分かっているようでいて、本当には分かっていないことが多いのです。

そもそも、一般的に言えば、男性は長期に渡って恋愛に溺れてしまうということがありません。愛よりも、仕事や社会的な活躍を通して自分に満足を与えようとするのです。

一方で、女性は人生の中心に愛がなければならないと感じているのです。自分の価値を愛されることで認識しようとするのです。

勿論こうしたことは、一般的な傾向であって、相当な個人差があることも事実ですが、私の経験ではかなりの確率でこの傾向は当てはまると言えます。

男性にしても女性にしても、こうした違いを互いによく理解し合っておくことができると、無用なトラブルを避けることもできるのです。

男性は、好きな人と一緒の時間を持つことに対して、それほど重要視してるわけではありません。だから、女性のようになるべく愛する人と一緒に居たいという思いが比較的少ないのです。

女性は、好きな人とあらゆる体験を共有したいという気持ちが強くあるのです。だから、男性の素っ気ない態度を見て、愛されていないかもしれないと不安になってしまうのです。

男性は孤独に瞑想をして覚醒していくタイプであり、女性はそうした男性との愛を通して覚醒していくのです。

どちらも優劣で捉えることはできません。そして、覚醒の間際には、男性も女性も互いの不足を補い合うことで、まったく同じところに立つことになるのです。

思考と純粋な意識の違い

一般的に、意識とは目覚めていて一定の精神活動を行っているという自覚があることを指すと言っていいと思います。

私たちは、「意識がある」という表現を使いますが、この場合の意識とは自分のことを自分だと分かっている自覚のことです。

けれども、もう少し正確に表現すれば、それは思考にほかなりません。ごく普通の精神状態においては、意識があって思考がないということはないからです。

そのことをよく見つめてみると、ここに自分がいるという自覚は思考そのものだったのだということがはっきりするのです。

そして、裏を返せば、思考が活動を停止してしまったら、目覚めていたとしても「自分」という自覚は消えてしまうということです。

つまり、「私」という自覚は思考の中で起きていることでしかないということです。私たちは肉体のことを自分だと思い込んでいるのですが、実は思考であったということです。

その自分とは、人物としての、個人としての自分のことを指します。個人としての自分の正体とは、何のことはないただの思考だったということです。

このことと正面から向き合って見ると、大変なショックを受けるかもしれません。なぜなら、自分の実態がただの思考に過ぎないのですから。

でも、安心してください。思考のないところ、その外側に在るものこそが、本当の本当の私たちの本質なのですから。

それこそが、純粋な意識、純粋な気づきとしての私たちの真の姿なのです。一日のうち何回でも、そこへ注意を向けていることができるといいのですが…。

心の基盤にメスを入れる勇気

心を癒していく過程において、もっとも重要なことは、自分の信念や信条、考え方や信じていることなどの外側にあると思われることを拒絶しない姿勢です。

癒されるときには、必ず長年培ってきたものに対する心理的なパラダイムチェンジを必要とするからです。それがなければ、どんな変化もうわべだけの浅いものに終わってしまいます。

今の自分を癒していくためには、今の自分を作り上げた心の基盤を脇に置くという勇気がどうしても必要になるのです。

今の自分や自分が抱えていると思い込んでいる問題は、たまたまそれがそこにあるわけではないのです。それは自分自身の生き方の結果としての当然の帰結であると気づくことです。

自分の主義主張、正しさ、信じているもの、そういったものはそのまま温存しておいて、癒しが進んでいくということは決してないと理解することです。

残念ながら、セラピーにいらしたクライアントさんの大多数は、自分に都合のいい癒しの方法だけを期待しているのです。

追い詰められて、そんなことはもうどうでもいいという状態になれた人は、そうした理由から比較的容易に癒しが進むのです。

誰でも自分の内側にある心の基盤を守ろうとするものです。それはエゴの本質でもあるので仕方のないことですが、思い切ってそこにメスを入れることです。

それは、セラピストのサポートがあろうとなかろうと、結局やれるのはクライアントさん自身でしかないということですね。

信じている限り物語から抜け出せない

私たちの誰もが物語のことが大好きなのですが、その物語のそもそもの始まりは何かを信じるということから開始するのです。

信じるという心理的な行為がなければ、物語は存在することができません。信じることの連続によって、時間の流れを感じるようになるからです。

その時間の中においてのみ、あたかも物語が進行しているように感じることができるのですが、私たちは信じているということを忘れてしまいます。

そうやって、目の前に繰り広げられている物語がまるで真実であるかのように見てしまうようになるということです。

この現象界に物語があるのではなくて、自分の心の中にこそでっち上げられた物語があるということを見抜くことです。

それなくして、物語から抜け出すことはまったく不可能になってしまいます。物語の中にいるという錯覚が続く限りは、本当の本当の自分の本質に気づくことはできません。

私たちはあるがままを見ているつもりになっているものの、実際は自分が信じ込んでいるものを事実だとして見ているに過ぎないのです。

自分があらゆる物事を信じている、あるいは信じていない状態であるということに気づくことです。その一方で、真実を信じることはできません。

真実は信頼することしかできないのです。信頼は時間を必要としないし、対象物があるわけでもありません。ただ在るということに気づくことこそが信頼なのです。

そこにはどんな物語も存在しません。すべてが私たちの本質からやってくる、瞬間ごとの細切れの現象なのです。それが今という真実ですね。

「何もなさ」こそが森羅万象の源泉

そっと目を閉じて、心を静かにして思考では捉えることのできない「何もなさ」を感じてみてください。それはとてもすばらしい体験です。

そして、ゆっくりと目を開いたときに、目を閉じていたときの「何もなさ」がそのまま残っていることを感じ取ってみることです。

私たちは、本当は目を開けているときも目を閉じているときに見ている「何もなさ」を見続けているのです。そのことに気づくことです。

それは映画館で映画に熱中している間にも、実はスクリーンを凝視しているのだということに気づくことに似ています。

その「何もなさ」には思考も、その思考が必要とする時間や空間さえもありません。それなのに、この現象界で起きるあらゆることを含んでいます。

それはあらゆるジャンルのどんな映画でも、たった一つのスクリーンに投射され得ることと同じだと言えます。

「何もなさ」とは、この現象界で起きているすべての土台であり、源泉でもあるのです。時間や空間、そして物質や自分がここにいるという思考も全部がそこからやってくるのです。

思考では、ただ「何もなさ」と表現するしか手立てがないのですが、真実はそうではありません。森羅万象の源泉なのですから。

慣れてくれば、わざわざ目を閉じなくても、ごく普通に周りの現象を見つつ、「何もなさ」に注意を向け続けることもできます。

それが本当の意味での明け渡しであり、物語から開放されて自由になるということなのですね。

逃げずにただ見れば問題は消失する

長く生きているといろいろなトラブルというものに出くわすもので、その大半は相手が悪かったり、相手も自分も悪かったりなのですが、今日勃発したトラブルは何と全面的に自分のせいだったのです。

自分の身勝手な勘違いというやつです。それで、見ず知らずの人に大変なご迷惑をかけてしまったという物語なのですが、こういうこともあるのですね。

加害者と被害者のどちらがいいかといえば、圧倒的に被害者のほうが気持ちが楽なわけです。なぜなら、被害者は文句を言っていればいいだけですが、加害者(迷惑をかけてしまった側)は、いろいろとやっかいです。

そういうこともあってか、いままで多くの場合に自分が被害者の立場であったように記憶しているのですが、今回の件は明らかに自分が加害者側だったので、本当にびっくりしました。

自分だけはそんなことになるはずはないと、ある種高をくくっていたようなところがあるのですが、不注意によって誰でもが簡単に迷惑をかける側になり得るということを、あらためて認識し直すことになりましたね。

加害者側になるという物語は、今までの人生の中でそれほどの経験がないので、言ってみれば慣れてないのです。

もちろん物理的な謝罪と、心からの誠意を持った謝罪の両方を充分にしようと思っているのですが、ただ罪悪感はありません。

罪悪感は、ほかの否定的な感情と同じように、逃げずにとことん感じきることができれば自然と消え失せてしまいます。

何からも逃げないでいることができれば、解決すべきことは一つ残らず消えていってしまうということですね。

思考を見ることで平静さを取り戻す

昨日のブログに書いた方法が苦手だという方もいらっしゃるかもしれません。そういう人のために、別の方法をお伝えしたいと思います。

私たちが平静な心から逸脱している場合というのは、間違いなく思考に巻き込まれている状態であるといって構わないと思います。

平静ではいられないからこそ思考が目まぐるしく働くことになるのか、それとも思考がグルグル回転しているから平静さを奪われてしまうのか。

どちらにしても、平静さを取り戻すためには思考の働きを緩めることがとても大切であることに変わりはありません。

そして、そのための最も簡単で効果的な方法とは、自分の中にある思考を見るということです。思考を外側から眺めてあげるのです。

その眺める側も思考には違いないのですが、そのことに注意を向けていることで、やってくる思考に乗っ取られてしまうことが激減するのです。

コツは、思考の中身を深く追求するのではなくて、こんな思考が今あるなあという程度に、思考を外側から大雑把に見てあげるのです。

思考を見ることに注意を向けていることで、別の思考に巻き込まれることが本当になくなっていくのです。一度でもやったことがあれば、うなずけるはずです。

自分の思考について見るということを日常的に練習することで、やってきた思考に巻き込まれることがなくなっていくということです。

そうなると、物語の中で右往左往している自分に深く気づくことができるのです。そして、どんなことも否定することができなくなってきます。

それは本当に清々しいものですね。

原点に立ち返る

毎日の生活に忙殺されて、なんとなく落ち着いた気持ちになれなくなってしまっていたり、日々起こることに翻弄されてしまうこともありますね。

そういうときには、原点に戻ることがとても有効です。私の場合には、どうするかというと、「自分は今どこにいるのか?」という質問から始めます。

本当に具体的にどこにいるのかを見つめるのです。感覚としては身体の中にいるように思うかもしれません。

もしも、頭の中にいるように感じるなら、その頭の中をかち割ってそこを解剖学的に想像してみるのです。そして、本当にその中に自分が潜んでいるのかどうかを検証します。

そして、いつものようにやっぱりそんなところに自分はいないということが明確になります。それでは、一体自分はどこにいるのか?

もし、身体の近くにいるのだとしたら、その大きさは?形は?ここまでが自分でここから先は外部という境界を見つけることができるのか?

どこをどう探してもそんな境界は見つけることができません。ということは、自分には大きさも形も色も、そして位置さえもないということになります。

その瞬間、自分の意識が無限大に拡大した状態になっていることに気づくことができます。この感覚は誰にでもあるはずのものですが、それを否定する防衛システムに負けていると気づけなくなるのです。

目を閉じていようが開けていようが、自分の気づきは全体性だということに気づくことができます。それが「無」であり、何も知らないという感覚です。

ここまでくれば、日常的に心を奪われた状態から、正常な気づきの状態へと戻ることができます。それが本当に落ち着くということですね。

いつでもどこでも簡単に検証することができるので、とても便利ですから是非試してみてください。

自我と心理的自己防衛

私という人物がここにいるという思いと、自分のことを守りたいという思いとはほとんど一つのものであると考えて差し支えありません。

その二つの思いを切り離して、別々に持ち続けることができないからです。この二つの思いが合わさったものを一般的に自我(エゴ)と呼びます。

人間の成長過程の中の幼少期に、まず初めに「これが自分なんだ」という思いが生まれることになるのです。

ほかの動物と人間との一番の違いはこの点にあります。ほかのいかなる動物も、「自分」という明確な思いを持っていません。

もしかしたら、ボンヤリとしたものを持っている高等動物がいるかもしれないということを否定する必要もありません。本人に聞いて見なければ実際のところはわからないわけですから。

けれども、我々人間のような自我を持っている動物がいないことは明白です。なぜなら、人間のような心理的自己防衛をする動物がいないからです。

生物としての本能的な防衛と人間だけが行う心理的防衛がいかに異なるものかを理解すれば、人間の自我が特別だということがはっきりします。

その心理的自己防衛の真の目的は、本当の自分の姿のことを忘れ、それから遠ざかったままでいるということです。

勿論表立った目的は、人物としての自分の命を守るということに見えるのですが、それは本当の自分を騙し、自我を存続させるために過ぎません。

だからこそ、私たちは本当の自己の姿が常に目の前より近くにあるのに、それを認めようとしないのです。

この自分のことを守りたいという心理的自己防衛が、それ自体のカラクリを本人に隠そうとすることを見れば、それが如何に真理とは正反対のものであるかがわかります。

嘘は嘘でかためておかなければ、すぐにその本性がばれてしまい、あっという間に消えていってしまうからです。

自分という自我も、それを守ろうとする心理的自己防衛もそういうものだということにはっきりと気づくことです。そうすれば、人は苦しみから解放されるのですから。