本当の自己の体験したいこと?

昨年末のオフィスの引っ越しで、相当な出費がありました。ある程度は予想していたのですが、それでも元々が財政難のための引っ越しだったわけで。したがって、なかなか辛いものがあります。

それがまたここへきて、どんどんお金が外へと流れ出て行っているように感じるのです。そこには勿論自分でも自覚している自分の行動にも原因があるのです。

それでも、そうしたことも何となく責任逃れをするつもりではないのですが、何かの力が働いているように感じてしまいます。

なんだか、所持金ゼロへの道を真っしぐらに突き進まされているように思うのです。必要に応じてそれなりにコストがかかるのは仕方のないことです。

けれども、そうしたことが沢山重なってくると、どうも天の方を見て、あの~って恨めしく言いたくもなってしまいます。

10分くらい前に、10年くらいだましだまし使ってきたパソコンのハードウェアがどうも壊れてしまったらしいことに気がついてしまいました。なので、タイピングし辛い ipad で今書いています。

そろそろ新しいパソコンが欲しいなとは思っていたものの、この時期いろいろ物入りなのでもう少し様子を見ようと思っていた矢先のことです。

下取り車の方が高価だった新顔のクルマにカーナビをつけようと思ったら、予想をはるかに上回る出費になりそうだし。

ここのところ、スマホで通話することが著しく増えて、その通話料も心配だし、何もかもがドンドン自分の懐から流れ出て行くように見えるのです。

この経済的不安感は、ときどきやってくるのですが、その度にじっくりと見てあげることで、あっという間に消えてしまうということも知っています。

それがなかったら、なかなか大変だっただろうなと人ごとのように感慨深いのです。さて、今年の自分からはどれだけのものが奪われていくのか、じっくり眺めることにしようと思います。

それが、本当の自己の体験したいことであれば。

「傷ついてもいい」は最強

つい最近のことですが、6年間お世話になった愛車に別れを告げて、代わりに新入りのクルマが私のところにやってきました。

別れたばかりのクルマは、とても図体が大きくて、自分では動く応接間だと思っていました。眺めもいいし、自然とハンドルを握る自分の気持ちもゆったりとするのでした。

それに比べて、今度のクルマはものすごく極端に寸の短いクルマで、駐車場のスペースの半分くらいしか占有しません。

それはそれはとっても可愛い、まるで子犬のようなフォルムなのです。けれども、どうも今までのようなゆったりした気持ちでは運転できないのです。

つい先ほども体験したのですが、どうも周りのドライバーさんたちから若干舐められているような感じがするのです。それも結構頻繁に。

たとえば、一般的にいって、狭い道路で向こうから大きなクルマが来たと思ったら、ちょっとアクセルを緩めるのが人情というものです。

けれども、逆に子犬のような奴がやってきたら気にせずそのまま向かっていくのでしょうね。おちびチャンは止まってな!という感じなのでしょう。

こうなると、今までのように無防備に運転するわけには行かなくなったのです。周りを気にして、オーバーにいえばビクビクしながら運転しなければならないのです。

以前学生のときに引越しのためにトラックのレンタカーを借りて運転したことがあったのですが、かなり強引な割り込みをしても周りが譲ってくれるのを感じましたね。

トラックなんて、少しぐらい擦ったってどうってことないわけですから。悠々たるものです。やはり、少しぐらい傷ついてもいいというのは最強なのですね。

一方、「傷つきたくない」は、自分を苦しめることになってしまいます。子犬のようなクルマだとしても、傷ついてもいいという気持ちになって、悠々と運転したいものですね。

強靭な防衛システム

私たちが3歳くらいから作り出した自己防衛システムは、ネガティブな感情を見ないように仕向けてくるので、それが成功すればするほど感情を蓄積することになります。

こともあろうに、実は自己防衛システムの原動力は、その溜め込んだ感情というエネルギーであるから始末が悪いのです。

つまり、一度作りこんだ防衛システムというのは、それを使い続ければそれだけ自己増殖するようにできているということです。

その結果、本当は必要ではない場面であろうとも、とにかく防衛システムをそれ自体が稼動させたがるために、過剰防衛をすることになってしまうのです。

そしてそれがまた、防衛システムを強大なものへと進化させていくことになるのです。もうお分かりだと思いますが、幼いころに作り出した防衛システムは手に負えないのです。

防衛システムの本当の目的は、恐ろしいことにその防衛システムを存続させることになってしまうのです。決して自分を守るということが目的ではないのです。

けれども、そのことを本人が気づけないようにと用意周到なやり方がなされるのです。つまり、自分が防衛していることに気づくことができないようにさせられてしまうのです。

こうして書いてみると、向かうところ敵なしの磐石なシステムのように見えますね。しかし、本当のところはどうかと言えば、決定的な弱点も持っています。

それは、一度気づかれて化けの皮が剥がれてしまえば、意外に脆いものでもあるのです。そして、もしも心が無私の状態になったなら、それは使われなくなる運命にあるのです。

みなさんは、自分の防衛システムにどのくらい気づいていますか?そして、それをいつまでどのくらい稼動させたいと思っているのでしょうか?改めて、自分自身に問いかけてみてください。

思考に使われるのではなく、それを活用する側になる

思考に巻き込まれている人の話しというのは、どんなことがあったとか、こういうことが起きていやな思いをしたなどという物語の内容が中心となります。

その物語の中で、自分がどんな気持ちになったのか、どういう被害を蒙ったのかなどということが延々と語られるのです。

それに対して、思考そのものを見ることができる人は、どんなことがあったという物語そのものに話題の中心が向くということがないのです。

それよりも、そういう物語を見ている自分に気づいているのです。思考と物語はそのまま対応関係にあると言ってもいいくらいです。

思考そのものを見る側にいる人は、物事が起こっている地上に目が行く代わりに、地面の下の見えない部分に意識を向けることができるのです。

奥深くでは何が起きているのかという視点とも言えるかもしれません。表面的な出来事に右往左往するのではなくて、その大元に目がいくということです。

そうなると、視点が定まり、あれこれと動揺することが少なくなってくるのです。思考の働きが緩んできて、大きな全体を把握しているような感覚になりますね。

自分が理解している何もかもが思考の中でのことだったと分かって、そのことを認めることができれば、さらに心は穏やかに落ち着いてくるのです。

そうなれば、もう思考を恐れることはありません。思考は便利なただのツールとなるのです。思考に使われるのではなく、それを活用する側になるのです。

そうなったら、思考はもう自分の邪魔をすることもなくなります。思考から開放されれば、あらゆることが自分の味方に感じられるはずです。

自分の本質に気づかないなんて勿体無い

私たちの本質が、思考では決して認識できないもの、理解を遥かに越えているものだということ、このことに気づかずに死んでいくのは何としても勿体無いのです。

もちろん、これは気づくことが正しくて気づかないことが正しくないということではありませんし、気づくことと気づかないことに何の優劣もありません。

なぜなら、私たちは「それ」ではなかったためしがないからです。最初(というのもないのですが)からずっと「それ」であり、これからも永遠に「それ」なのです。

ですから、そのことに気づこうが気づかないでいようが、そんなことは本質的にはどうでもいいことだとも言えるのです。

けれども、実質的なことを見てみると、自分の本質に気づいている人はそうでない人よりも多くの点で有利なのです。

たとえば、どんなときでも深刻になり過ぎてしまうということがなくなります。深刻になったとしても、きっとほんの短い間でしかありません。

ずっと深刻さを持ち続けるなどということは不可能なことになるのです。なぜなら、私たちの本質である「それ」は、決して傷つくこともないし、生まれることも死ぬこともないからです。

そのことに深く信頼することができればそれだけ、自己防衛は確実に減っていくことになるはずです。防衛しようとする自分を冷静に見つめることもできるようになっていくはずです。

そのことによって、苦しみから解放されるようになるのです。やってくる痛みから逃げなくなれば、その痛みはいずれは去っていき、今度は喜びがやってくるのです。

個人として生きる限りは、エゴはなくならないでしょうけれど、そのエゴをやさしい眼差しで見つめることができれば、人生は面白い物語となるはずです。

静かな恍惚の中で寛ぐ

自分の本質である純粋な意識に注意を向けて、言葉にはできない「それ」を心の限りに信頼することです。

「それ」は必ずその信頼に応えてくれます。どのようにして応えてくれるのかは、私たちの想像を遥かに超えているので形容することは不可能です。

それでも、確実に「それ」は応えてくれるのです。物理的な現象のレベルであろうと、肉体的な問題であろうと、精神的なことであってもです。

自分の都合のいいようにやってくれるということではありません。ただただ、人間業ではないだろうということだけは、知ることができます。

そのことを「奇跡」と呼んでもいいかもしれません。そしてその「奇跡」には限度がありません。それは畏敬の念を呼び起こすかもしれません。

それが私たちの本質であるということは、なんと言う奇跡なのでしょう。思考の手の届かないところ、理解できない未知の領域からこの宇宙が毎瞬創造され続けているのです。

私たちにできることは、それをただ喜び、驚き、それによって満たされることです。それ以外に何ができるでしょう。

静かな恍惚の中で、ゆっくりと寛いでいられることに深く感謝せずにいられません。

分離不安と全体性

何度も繰り返しお伝えしているとおり、私たちの本質は全体性であり、したがって生まれてからしばらくの間はその状態のまま生きているのです。

けれども、人間だけが3歳前後になると、親からの分離を意識するようになり、結果としてそこから個体としての自分に目覚めることになるのです。

その過程で感じる不安のことを分離不安と呼びます。全体から個体へとうまく自分を騙して推移できると、立派な個人への道が待っています。

しかし、本人の生まれ持った気質や、安心できない環境などの理由によって、分離を認められずに成長していくケースもあるのです。

つまり、分離すると錯覚することの恐怖が大きすぎて、それを認めることができないのですが、その奥ではやはりここに自分がいるという分離した個人でもあるのです。

この中途半端な状態が、その後の本人を苦しめることになります。心の中はどうなっているのかというと、全体性をどこかで忘れずにいて、それとは別に個人であり、かつそれを認めたくないという曖昧な状態なのです。

分離してしまっているということをどこかであきらめつつ、それはあまりにも恐ろしいのでそれを認めずにいるという葛藤です。

そのために、大人になってもフワフワとした精神状態が続き、場合によっては自分から抜けてしまっている状態、つまりグラウンディングができてない状態のままでいることもあります。

癒しの順序としては、まず忘れずにいる全体性の感覚を一度脇へ置いて、分離の恐怖をしっかり見ることです。そうやって、恐怖を小さくすることができれば、個人としての自分の居場所が明確になります。

その上で、忘れずにいたあの全体性の感覚をしっかりと思い出すことです。はっきりとした個人としての意識と全体性を同時に感じることで、人生の捉え方が大きく変化するはずです。

純粋な気づきへの100%の信頼

ゆったりと寛いで思考の働きを徐々に緩めていくと、ただ在るということだけになっていきます。それは精神的な活動が激しいと、すぐに隠されてしまう精妙なものなのです。

急いでいたり、この場を何とかしなければならないと考えていたり、何かに集中していたり、そうしたあらゆる精神活動が邪魔をするのです。

街の喧騒の中では、小さな鈴の音がかき消されてしまうのに似ています。けれども、誰であってもそれを感じることはできるのです。

なぜなら、その静かな気づき、ただ在るというこの感覚は、すべての人に共通のものに違いないからです。

ただ在るという気づき、何かが在るというのではなくて、これ以上シンプルにはなりようのない、ただ在るということ。

そしてその気づき自体が私たちの本質なのですね。何かに気づいている私がいるのではなく、その気づき自身であるということです。

今日一日がどんな日であったとしても、一日のどこかで必ずこのことに意識を向けることを忘れないことです。

個人としての自分は、どうしても目の前の現実に飲み込まれてしまうようにできています。だからこそ、敢えてこの気づき自身である自己を観るようにするのです。

その純粋な気づきへの100%の信頼があれば、どんな物語であってもそれを心から楽しむ余裕ができるはずです。

癒しの原点

まず始めに必要なことは、自分も含めて誰の心も一枚岩ではないということに気づくこと。自分が把握している自分は、自分全体の一割にも満たないということ。

そのことに気づき、それを認めて、そのことを心から受け入れることです。いわゆる潜在意識とか無意識という領域があり、その力が絶大であるということです。

その見えない意識の中が沢山の部分に分離していて、互いが足の引っ張り合いをしてしまう時に、葛藤というものが起こるのです。

面倒なのは、それがぼんやり感じるレベルから、全く気づくことのできないレベルまであるということです。幼いころの恐怖やそこから発生する様々な感情は、概ね気づきにくくなっています。

なぜなら、気づけば苦しむことになると思っているからです。そうした思いすら、抑圧されているために、本人は気づけない場合がほとんどです。

けれども、そのネガティブな感情の存在に気づき、それを認めて、充分に受け入れることができれば、潜在意識の奥深くへと隔絶していた状態から、それを引き寄せることができます。

その上で、最終的にはただ受け入れるというよりは、その感情と一つになるようにするのです。つまり、それから逃げも隠れもせずに無防備に味わうのです。

そうすることで、潜在意識の中に埋もれていた感情というエネルギーが浄化され、それが暴れることで起きる不都合や苦しみが減少していくことになるのです。

もしもあなたが、過ぎ去った過去など見ずに、前を向いて進めばいいんだと思っているのなら、是非次のことを知って欲しいと思います。

それは、知らず知らずのうちに隠してしまった過去をそのままにすれば、必ず過去に苦しんでいた幼い自分が、過去からあなたを乗っ取りにくるということです。

私たちは、いつまでもそれを押さえ込んでいることはできないのです。それはどれほど努力しても、頑張って打ち勝とうとしても無駄なことです。

そしてとうとうどうやっても逃げおうせないと気づいたときに、ようやく癒しの第一歩がスタートするのです。勿論それでも決して遅くはありません。

いついかなるときにも、人生のどんな局面であろうとも、癒しを始めることはできるし、それが自分に正直になるということなのです。

私たちは結果の世界に生きている

この世界、このあらゆる現象が詰まった世界とは、すべてが結果なのです。私たちの思考だけが、この世界の中に原因と結果を見い出してしまうのです。

思考は、論理を使って理解ということをし続けたいので、因果というものをでっちあげるのですが、その思考すら結果でしかありません。

一体何の結果なのかというと、源泉という原因からやってくる結果なのです。あらゆる森羅万象が起きる根本原因は、この世界の中にはありません。

それはちょうど、私たちが観る映画と同じです。映画の内容がどうであれ、それはすべて撮影した結果でしかありませんね。

その映画の物語の中には起承転結があるかもしれませんが、それらは撮影した結果でしかないということは自明です。

あるいは、あなたが夜寝ている間に見る夢がありますが、その内容がどうであれそれはあなたが夢を見ている結果です。

夢の内容のすべての原因は、あなたが夢を見ているということですね。この世界もそれと全く同じだということです。

そして源泉こそが、思考を超えた真実です。その理解を越えた源泉から、毎瞬ごとにやってくるものがこの世界で現象化するということです。

そうやって、私たちはすべての大元である源泉からやってくる結果の中で暮らしているのです。だから、その源泉にすべてを委ねればいいのです。

自分の身は自分で守らねばならないということを忘れることです。そうすれば、不必要な苦しみから解放されて、無防備な愛の中で生きていくことができるのです。