真実は表現することもイメージすることもできない

どれほど真実を表現しようとして言葉を並べても、残念ながら真実を伝えることはできません。なぜなら、言葉は思考からやってくるからです。

思考をどんなに駆使したところで、所詮思考の枠の中でのことだからです。世界一信頼されている経典に書かれている言葉であっても、それは同じこと。

決して真実を表すことなどできません。たとえば、すべては「無」であるというとき、それは真実は何かではないということをいいたいに過ぎません。

私たちが考える何かではないということだけははっきりしているので、なにものでもないということを言いたくて「無」と表現しているのです。

したがって、「無」だからといって空虚とは虚無ということでも本当はないのです。ただただ何ともいえないし、イメージすらできないものです。

「無」であっても、それはただ在るのです。あらゆる現象の根源ですから、私たちが想像しているような「無」とは違います。

それはイメージとは違うというレベルのものでもありません。言葉や思考とは何と虚しいものなのでしょうね。最近、つくづくそう思ってしまいます。

自分はどこにいるのだろう?って見て、ああやっぱりどこにもいないし、全体性として遍在しているという感覚さえも、真実ではないのでしょう。

私たちは、本当には知っていることを知らないと信じていて、知っていると信じていることは本当は何も知らないということにも気づいていません。

真実は無限に遠いし、限りなく近いとも言えますね。

自分の中にいる男の子の思い

指折り数えてみると、電車やバスなどの乗り物を使っての通勤というものをしなくなってから、16年経っていたことに気づきました。

それが昨年末にオフィスを引越ししてからは、毎日バスでの通勤の毎日がまた始まったのです。身体がそれに慣れていないということと、この寒さとで心の中で誰かがびっくりしているようです。

でも人間というのは不思議なもので、1、2ヶ月もたってくると徐々に慣れてくるのですね。寒いのは相変わらず好きにはなりませんが…。

それでも何とかして、クルマでの通勤を取り戻したいという思いで、プロに駐車場を探してもらっているのですが、なかなか見つかりません。

それと、高々片道5,6km くらいの往復ですから燃費のいい小さなクルマでも手に入れようとして、もっとも用途に都合のいいものをネットで物色中なのです。

ただ毎日の通勤の足になればいいだけなので、特別な思い入れなど必要もないし、当然安く手に入る中古車市場をサーチしています。

けれども、あれでもないこれでもないとやっているうちに、どうやら自分にはまだまだなんらかの拘りのようなものが厳然としてあるんだなと気づきました。

何でもいいなどとは全く思ってないということが明らかになりました。手ごろなものが見つかったと思っても、どうしても触手が動かないのです。

そんな通勤クルマにも遊び心というか、スタイリッシュさというか、目立ちたがり屋というか、そんなものを求める自分がいました。

というわけで、理屈ではなくて、ただコストパフォーマンスを求めるのでもなく、自分の中にいる楽しみたい男の子の気持ちを受け止めてあげたいと思うのです。

二つに分裂したインナーチャイルド

私のセッションでは、大抵の場合インナーチャイルドという言葉が登場します。もうすでにご存知の方が多いと思いますが、直訳すれば内なる子供ということです。

つまり、大人の心の中に残存している子供の頃の意識ということです。インナーチャイルドのいない人はいません。

どんな人であっても、インナーチャイルドが心の奥に潜んでいます。無邪気な子供の頃をあるがままにそのままにしておける人は、いないからです。

誰でも、大人になるにしたがって、無邪気な心だけでは生きていけないということを悟るからです。社会に順応して生きていくためには、無防備さだけでは危険なのです。

そこで、自己防衛のシステムが作られることになるのです。その自己防衛が強大であればあるほど、それだけ苦悩も大きくなるのです。

つまり、インナーチャイルドがいることが直接問題であるということではないのです。インナーチャイルドはざっくり言って二つの部分に分裂しています。

一つは、無邪気なままの無防備な子供の部分であり、もう片方がそんな自分を否定して、誰からも否定されない自分を創ろうと頑張る部分。

実は後者の部分こそが、自己防衛システムを強大にしていくことになるのです。どちらのインナーチャイルドにも等分の役割を果たさせることができると、バランスのとれた大人になることができます。

けれども、その後者のインナーチャイルドの上に自分を構築して行ってしまうと、自己防衛の強い人生へと突き進んでいくことになってしまうのです。

その場合にこそ、癒しが必要になるのです。セッションの最初では、こうした心のメカニズムについて、充分に理解していただくことが大切なのです。

自分の本質に気づくことが真の癒しとなる

セッションを受けると、その反応はクライアントさんによって様々になるのですが、これだ!と感じられると、短期間に何度もセッションに通いたくなるものです。

そして、少しでも早く癒しを進めて、これまでの不自由さや苦しみから解放されたいと願うのは当然のことですね。

けれども、癒しが進む速度というのは誰であれ、概ね決まっているのです。思ったようには進まないのです。

仮に自覚としてはどんどんよくなっていると思えたとしても、それほどの変化に深い部分はついていけないのが現実です。

そのことを理解して、焦らずじっくりと腰を据えて、癒していくことが大切なのです。それは、必ずしもセラピーに通うということではありません。

普段の生活こそが、癒しの最大の実践の場であるということを忘れないことです。そして、最終的に何よりも大切なことは、自分の本質に気づくことです。

癒しが進んでいくというのは、人生という物語の中でのことなのです。真の癒しは、物語の中にいる自分に気づいていることです。

つまり、物語の外に自分の本質があるということ。その気づきこそが、物語の中で自分を何とかしなければと躍起になっている自分への最大のプレゼントになるのです。

それは間接的に真の癒しをもたらしてくれます。自分を改善しなければという凝り固まった信念から開放してくれるのですから。

「気づき」こそが真実

「気づき」という言葉を私たちは、何気なくよく使っていますが、本当のところ気づきとは一体何のことを指すのでしょうか?

あえて表現すれば、気づきとは知覚を使わないで知る方法であると言えます。但し、ここでいう気づきとは、一般的に使う「忘れ物に気づいた」という場合とは異なります。

この場合は、思い出すというような意味合いで使っているのですが、「気づき」は気づいている状態であることも含むのです。

私たちの認識のすべては、知覚であったり、知覚が元になってなされるのです。そして、知覚が機能するためには、知覚する主格と知覚される対象との分離が必要です。

知覚する主格自体を真に知覚することは不可能です。自分の肉体の目でそれ自体を見ることが不可能であることを考えれば、当たり前のことです。

「気づき」とは知覚のように対象を必要としない、主格自身がそれ自体を知ることなのです。私たちの本当の自己が、それ自身を知る方法こそが気づきなのです。

気づきは知覚のように間接的ではありません。それ自身がそれ自体に気づいているのですから、これほど直接的なものはないですね。

したがって、気づきを騙すことはできません。それそのものに直接気づいているのですから。これが真実なのです。

これに対して、知覚は残念ながら身勝手な作り物でしかありません。なぜなら、決して知りえない対象に対する認識だからです。

目を開いたまま「何もなさ」に気づく

目を閉じると、なにも見えなくなります。それこそ真っ暗闇の中に、放り出されたような感じがするかもしれません。

けれども、何も見えないというのは「無」を見ているということでもあるのです。もちろん、それは肉体の目で見ているというわけではありません。

「無」それ自体と共にあるということ。「無」そのものであることをただ感じているのです。個人としての自分は、知覚を遮断されるとそれだけで不安になるのです。

その不安が、暗闇のようにただ感じさせるのです。知覚からの情報が途絶えると、思考は活力を失うのです。思考が止まれば、個人としての自分はいなくなってしまいます。

ですから、暗闇はとても危険であるという判断がなされるわけです。真実は、暗闇なのではなくて、「何もなさ」の体験なのです。

洞察力とは、有名な絵画である「モナリザの微笑み」を見て、その背後にある真っ白なキャンバスを見抜く力です。

誰もがモナリザの口元の怪しい微笑みに魅了されてしまいます。それもすばらしいことですが、それと同時にモナリザがそこにあるための土台である真っ白なキャンバスを見通すのです。

それよりも、もっともっとずっと簡単なことですが、目を開いたときに、目を閉じたときのあの何もなさを知覚と同時に忘れずにいればいいのです。

そうしたら、時空と物質で埋め尽くされているこの世界を知覚しつつも、同時に何もなさをいつも見ていることができるのです。その何もなさこそが、本当の自己なのです。

素直さという宝物

小学生のころ、家の裏側に位置する家によく一緒に遊ぶ友達がいました。彼は、次郎ちゃんといって、確か小学生までは同じ学校でした。

いつものように、じろちゃんと遊んでいたある日、何かちょっとしたことで気分を害した自分は、あからさまには怒りを出さないようにして、陰険な感じで言い合いをしていたと思います。

そのときに、じろちゃんは、ふいに「なんか僕たちケンカしてるみたいだよね」と言ってきたのです。自分は冷静を保ったように、そんなことないよと言って、二人はいつもの仲良しに戻ることができたのです。

じろちゃんが仲直りのきっかけを作ってくれたんだなとはっきり分かりました。いつも自分の方が何となくえばっているくせに、こういう肝心なときはじろちゃんの方が上だなと。

自分は負けたと思いました。自分の方が弱い、その弱さとは素直になれないということです。素直に表現ができる人が羨ましいと思ったものです。

自己防衛していると、素直さはどこかへ行ってしまいます。相手に負けたくないと、弱みを見せたくないとつっぱるのは、ただの自己防衛ですね。

素直でいることが恥ずかしいと感じていたのです。それは今でも変わらずに持っている自覚があります。子供のころよりは、小さくなったかもしれませんが…。

恥ずかしさは恐怖から来ていますので、恥ずかしさを正面から感じようとしなければ、いつまでも自己防衛の懐から抜け出すことができません。

恥ずかしさにはどうしても勝てない人、きっと沢山いらっしゃるはずですね。その恥ずかしさをまともに感じきることができたら、素直さという宝物を誰でも手にすることができるのです。

「無」とは万能ということ

映画館のスクリーンは、大きくて真っ白で光が当たる面が真っ平ですね。それは、撮影された映像ができるだけ忠実に再現されるためです。

もしも、面積が小さければ、映像の一部しか観ることができないですし、色が着いていたりしたら、ちょっと気持ち悪いことになりそうです。

白という色は、すべての波長の光を同等に反射してくれるので、偏りのない天然色を観ることができるということです。

光の当たる面がでこぼこしていても、映像が歪んで映ってしまうはずです。このようなわけで、私たちがいつも当然のように思っているあのスクリーンとなるわけです。

まったく同じようなことが真の自己に対しても言えるのです。自分の頭(顔)があると想定されているところを自分が見ようとしたときに、そこには何もないということをすぐに知ることができます。

あの何もなさこそが、映像を忠実に映し出すためのスクリーンなのです。その何もなさ、つまり「無」であるからこそ、この世界のあらゆるものが何の手も加えられることなく起こるのです。

もしも、それに形があったら、色があったとしたら、位置があったとしたら、この宇宙はそれに依存して世にも奇妙なものになっていたことでしょう。

何もなさとは、万能だということです。白があらゆる光をそのまま反射してくれるのと同じように、「無」はあらゆる物事をそのままに起こす力を持っているということですね。

そして、それこそが私たちの本質でもあるわけです。本当に驚くほど、よくできていると思います。

瞑想しようとすると、すぐに寝てしまう人にお勧めの方法

大抵の人は瞑想するときに、目を閉じると思います。それは、目を開いていると、目の前にある何かを見てしまい、そちらに意識が向いてしまいがちになるからですね。

座禅などでは、目を閉じずに伏目がちにして床の辺りに目が行くようにするという方法を取ることもあります。これは、目を閉じると寝てしまう可能性があるからです。

どちらにしても、思考が活発に動いていては心を静かにすることができないのですから、思考の餌になる視覚を使わないようにする手段であるわけです。

20世紀最高の賢者の一人と言われたラマナ・マハルシは、目を見開いたままじっとして何時間でも動かずにいたそうです。

彼は目を見開いてはいたものの、視覚をまったく使わないでいたのでしょうね。どれほど視覚からの刺激が入ってきても、思考が反応しないような状態でいることができたということです。

彼はそれを意識的にやっていたということでもないのだと思います。「私」という思考がなければ、思考はただ機能的に活動するだけだからです。

部屋で一人で静かにしているときに、目のピントを合わせるために使う筋肉を緩めてやると、目の前にあるカーテンを見ているようで見ないという状態を作ることできます。

この方法は、目を閉じるとどうしても寝てしまうという人には、都合がいいかもしれません。私は、子供のころからこの状態でいることが多かったです。

勿論、瞑想状態であったということではないのですが、ボーっとして何もしていないということが多かったのだろうと思います。

瞑想しようと力む代わりに、このようにして目の視点がどこか遠くに合っているような曖昧な状態を作れると、便利かもしれませんので、ご興味があれば試してみて下さい。

それに慣れてくると、今度は目を開いて何かにピントがあっている状態であったとしても、目を閉じていたときのあの「無」を感じ続けることもできるようになります。

瞑想が苦手な人にお勧めです。

テレビを悪者にしたくはないけれど…

昨年末のオフィスの引越しに伴い、自分自身も10年以上ぶりに自宅からオフィスへ通う普通人(?)の生活に戻りました。

オフィスに寝泊りしていたそれまでの生活では、ほとんどテレビを見るという習慣がなくなっていたのですが、戻ってきた自宅の部屋には大型のテレビがあって、何気なく電源を入れてしまいます。

特に何を見たいというのでもないのですが、一度テレビを点けてしまうと、見る番組がなくてもなかなか消そうとしない自分がいることに気づきました。

ああ、こうやってただ何となくテレビに意識を向け続けてしまうようになるんだなと、改めて分かった気がしました。(一年前にも同じような経験をしていたことを思い出しました。)

そうやってテレビを見たあとは、思考が物語に張り付いていたことに気づかされます。それがとても勿体ないと感じるのです。

というのも、その後あの純粋な意識、真の気づきの状態へは簡単には入っていけなくなってしまうからです。

人の習慣というのはしぶといものがあって、ただテレビの中の物語にのめり込んで行ってる時間が長くなればなるほど、純粋な気づきが遠ざかるのです。

本来、それは何をしていようが自分の一番身近なところに常にあるのですが、それに気づけなくなってしまうということです。

リアルタイムでニュースを見たいという場合を除けば、テレビは本当に不要ですし、テレビにかかわっている時間があるなら、純粋な気づきに気づいている時間に当てたいものですね。