あなたは、最初の最初から光明を得ている その3

昨日のつづきです。

by osho

だからあなたは、あれやこれやのものを達成しようと突っ走ることになる。これらのものがあなたから取り上げられるだろうという考えが、だんだんとあなたに起こり始める。

死がやってきて、全てを奪い去る。あなたは、ショックを受け、恐怖がわき起こる。恐怖から、あなたは自分から取り去られない何かを探そうと考え始める。

神や真実や光明やニルヴァーナを、どんな名前で呼んでもいいが・・・。今度はあなたは、ニルヴァーナや光明や神やサマーディを、お金や権力や名声を探したのと同じやり方で探し始める。

何故ならあなたは、ある道理を学んだからだ。あなたは、あるプログラムを学んだからだ。今では、そのプログラムはこう言う。「お金は、探し求めることがなければ得られなかった。

だから、探し求めることがなかったら、どうやって光明を得ることができるだろうか?だから、探そう。探し求めよう。戦おう。奮闘しようと。ここに物事の核心がある。

そうやってあなたは、馬鹿げたことをやり始める。お金が欲しければ、探し求めなければならなかったが、光明は既にそこにある。あなたは、それを携えてやってきた。

それは、あなたの本来の顔だ。それは、あなたの空(くう)であり、あなたの意識であり、あなたの在りようだ。あなたが死ぬとき、光明以外の全てが、あなたの意識以外の全てが死ぬ。

誰もそれを、あなたから奪うことはできない。だが、あなたが世の中で学んだ道理は、あなたを狂気に駆り立てる。

お金や権力や名声を探し求めることは、とても道理にかなっているが、光明を探し求めることは、道理に合っていない。もしそうしてしまったら、それはとても深刻な重い旅になるだろう。

つづく

あなたは、最初の最初から光明を得ている その2

昨日のつづきです

by osho

最初の最初から、誰も光明を得ていない人はいない。だったら、人々に何が起こったのか?何故彼らは探しているのだろうか?何故彼らは探し続けようとするのだろうか?

何故彼らは、そこから目的地を創ろうとするのか?

『人生においては、光明以外の全てのものは見つけ出される必要がある。』もしお金がほしければ、それをゴールにする必要がある。

そうしなければ、それを見つけることはできない。あなたは、そのために一生懸命に働く必要があり、その野望にあなたの全エネルギーを注ぐ必要がある。

そうしたとしても、確実というわけではない。それを見つけられるかもしれないし、見つけられないかもしれない。もし権力がほしければ、あなたはあらゆる方法でそれを見つけ出さなければならない。

合法であれ、非合法であれ、正しい方法であれ、間違った方法であれ、探し求めなければならない。人生においては、全てのものは、見つけ出さなければならない。

何故なら、あなたはお金を持ってくることができなかったからだ。あなたは、権力を持ってくることができず、宮殿を持ってくることができなかったからだ。

あなたは、裸で、空っぽの手でやってきて、裸で、空っぽの手で去って行く。あなたはこの世のものを、それがみんな必要とされているにも関わらず、持ってくることはできない。

だからあなたは、あれやこれやのものを達成しようと突っ走ることになる。これらのものがあなたから取り上げられるだろうという考えが、だんだんとあなたに起こり始める。

つづく

あなたは、最初の最初から光明を得ている。

by osho

光明というものが、光明という考えそのものが、世の中に存在する最大のジョークだ。光明とは、既に持っているものを獲得しようとする努力であるため、それはジョークだ。

それは、あなたが既にいるところに到達しようとする努力だ。それは、全く存在しないものを取り除こうという努力だ。それは、馬鹿げた骨折りだ。あなたは、最初の最初から光明を得ている。

光明はあなたの本性だ。光明は、達成すべきものではない。それは目的地ではなく、あなたがやってきたところだ。それは、あなたのエネルギーそのものだ。

しかし、一度あなたが光明を目的地と考え始めると、あなたは深刻になってしまう。あなたは、多くのトラブルに巻き込まれる。

それは、あなたが自分で創り出した全く不要なものだ。それに、あなたは決して成功することはない。何故なら、光明を目的地と考えることからして、要点を逃しているからだ。

それは、探求できるようなものではない。それは、探求者の中に存在している。探求者は、それを探すことはできないのだ!

もし探求者がそれを探そうとしたら、それは決して見つからない。それは、誰かが眼鏡をかけているのに、眼鏡を探そうとしているようなものだ。

彼は、眼鏡の助けを借りて眼鏡を探しているのに、それに気付かない。馬鹿げている!あなたが自分で、深刻なトリップを創り出している。

あなたはそれを目的地にしようとしているが、それはあなたがやってきたところだ。あなたはそれを自分の野望の対象にしようとしているが、それは既にあなたの実状だ。

最初の最初から、誰も光明を得ていない人はいない。だったら、人々に何が起こったのか?何故彼らは探しているのだろうか?何故彼らは探し続けようとするのだろうか?

つづく

すべては自分の反応次第

by osho

誰かが怒っている。それを怒りと感ずるのは、自分がそれによってかき乱されているからだ。もし自分が乱されていないなら、それを怒りと感じることはあり得ない。

その質が変わるのは、あなたの解釈が変わるからだ。こちらが違っているからだ。誰かがあなたを憎む。それを憎しみと感ずるのは、こちらがかき乱されるからだ。

自分が乱されておらず、しかも自分を憎む者があったとして、それを憎しみと呼び得るだろうか。どうしてそれを憎しみと呼び得よう。

あなたは慈愛さえ感ずるかも知れない。哀れみを感ずるかも知れない。「いったい、この人はどうしたのだろう。なんて苦しそうなんだ。しかも、その必要はないのに、無益なのに」と感じることだろう。

あなたはその人がその状態から抜け出せるように、助けてさえあげるかも知れない。人が腹を立てる時には、自分の肉体を毒しているのだから。その人は病気なのだ。あなたは、彼がそこから抜け出せるように助けてあげるだろう。

癌を病む者がいたら、その人と喧嘩を始めたりはしない。その人を助け、世話し、病院に連れて行くだろう。

慈愛こそが必要だ。その人は助けを求めている。そして、この世がもう少し光明を得たなら、誰かが腹を立てた時にはいつでも、家族の全員と友達がその人をいたわるだろう。彼は治療を必要としている。

その人と喧嘩をしたり、腹を立てたりするのは馬鹿げたことだ。それはまったく馬鹿げた愚かなことだ。

相手が既に病んでいるのに、みんなでその人に対立して、どうやってその人を助けようと言うのかね。肉体的な病に対しては私たちは同情する。

心の病に対しては、同情しない。それは、肉体的に病む者がいても、私達はそれを自分に対する侮辱とは考えないからだ。

ところが誰かが心を病んでいる時には、私たちは、相手が心を病んでいるのは自分のせいだと考える。この態度は、自分もまた、病んでいるためにあるものだ。

ひとたび、自分が乱されてなければ、すべては一変する。自分の態度が変わるからだ。あなたは別人だ。全世界が違っている…。「もはや、昔のそれではない」。

瞑想とは私が消えること

今月は、今日7日(日)と27日(土)の両日に、瞑想会をやります。といっても、いつものことながら、何か特別なことをするわけではありません。

ただ、集まった方々とご一緒に、しばらくの時間、目を閉じて心静かにしているだけです。無念無想などを目指そうとするものでもありません。

元々、瞑想というのは行為ではないのですから。もっと正確に言えば、瞑想という行為をしている誰もいなくなることです。

要は、自分がいなくなればいいのです。ですから、何も静かに座っている必要もありません。時には、踊ったり、飛び跳ねたり、寝転がったっていいのです。

踊っている自分がいなくなり、踊りそのものになってしまうということです。場合によっては、体を動かしているときの方が、よりリラックスすることで行為者である自分が消えてしまうという可能性もあるのです。

みなさんは、瞑想という言葉からは、おそらく思考を止めるというようなイメージが浮かんでくるのではないでしょうか?

実は、必ずしも思考が止まっている必要はないのです。繰り返しになりますが、思考が働いていたとしても、思考している自分がいなければいいのです。

「私」という思考が介在しない思考というものは、誰もがごく普通に経験しているはずです。たとえば、囲碁や将棋のプロの方々が対戦しているときなど。

いくつ先の一手まで見通すのか知りませんが、そうした予想というのも思考の働きによるものと言えますが、名人ともなると試合に勝ちたい、負けたくないという自己がいなくなっていることが多いのではないでしょうか?

「私」という思考が勝ち負けを意識するようになってしまうと、純粋な思考の邪魔をしてしまうために、勝てる相手に負けてしまうということもあるかもしれません。

楽器の演奏者の場合も同じようなことがいえます。演奏している自分が消えて、演奏そのものになれる人こそが、すばらしい演者なのだと思います。

それも瞑想と言えますね。うまく演奏できるかどうかという思考が発生した瞬間に、瞑想からはずれてしまい、芸術に水を注されてしまうかもしれません。

瞑想とは、このようにいついかなる状態であろうと関係なく、ただただ「私」(という思考)が消えさえすればいいということです。

こんなシンプルなことなのですが、「私」というのはシンプルなことほど苦手なのです。更に付け加えれば、瞑想などに興味もないという人もいるかもしれませんね。

その理由もいたってシンプルです。それは、「私」が常に存続していたいと思っているからです。けれども、苦悩の大元は間違いなく、「私がいる」という思考なのです。

「私」が消える瞬間、「私」を守ろうとする思考もなくなります。そのときにこそ、本質の自由と一つになることができるのですね。

この世は神の創造物

みなさんは、アナログとディジタルの違いをご存知でしょうか?私が子供のころには、どちらの言葉もほとんど使われることがありませんでした。

それは、ディジタル技術がまだ確立していなかったためです。そして、世の中にアナログしかなかったので、敢えてアナログという言葉も用いる必要がなかったのですね。

だから、昔ながらのフィルムを使うカメラのことを、わざわざアナログカメラとは呼ばなかったわけです。今では、ディジタルカメラが全盛になっています。

最近では、デジカメなどと呼ばれますが、デジカメの便利なところは、フィルムを購入したり、撮影済みのフィルムを現像に出したりする必要がないというところです。

フィルム代や現像代を気にせずに、いつでもどこでもシャッターを押すことができますし、撮影した画像をその場で見ることもできます。

こんなすぐれもののデジカメでも、出だしたころには爆発的に売れたわけではありません。なぜなら、解像度の問題という致命傷があったからです。

今はケータイや ipad などにもデジカメ機能が付いていますが、解像度がどれくらいかというのを、誰もが気にするのは、解像度が高ければそれだけきれいな画像が得られるからですね。

デジカメに限らず、ディジタル技術というのは、粒子の集まりからできているものですから、その粒子が細かいほど、本物つまりアナログに近いということです。

技術の進歩とともに、解像度が益々高くなってきていて、アナログとの違いが肉眼では分かりづらいところまでやってきています。

つまり、偽者のディジタルが本物のアナログに肉薄してきているということです。しかし、それがどれほど本物に近づいたとしても、偽者は決して本物になることはできないですね。

ではその本物である現実の世界とは、本当にアナログでできているのでしょうか?いえいえ、実はそうではありません。

この現実世界こそ、素粒子というディジタル技術でできていることを、科学者でなくても誰でも知っているでしょう。

人類が発明したディジタル技術とは違うものの、この宇宙も素粒子というディジタルでできているというのは、不思議なことです。

それはきっと、この宇宙が神の創造物だからではないかと思うのですが、みなさんはどう思いますか?

自己の探求が物語を照らし出す

ガンガジのすばらしい言葉です。

—————————————–*

自己探求というのは、私とは誰か?という固定した質問のことを指すのではありません。自己探求とは存在の仕方であり、生き方です。

それは、いついかなるときにも、立ち止まって、自分に『何が起きているのか? 自分は何を考えているのか? 自分は何を信じているのか? それは現実か? それは真実か?』と問う意欲のことです。

こうした率直な自己探求によって、それがどんな物語であれ、物語はどれも、思考によってのみ構成されているということに気づくことができます。

その思考がどんなに強力なものでも、またその物語が比較的本当のことのように思われたとしても、所詮それは思考によって構成されたものにすぎません。

そうした思考より深いところに、思考が存在する前、思考が通り過ぎた後、またその思考が起きている最中でさえも見事に、あなたという存在の真実の姿がそこにあります。


正直な自己探求は、あなたが『誰それ』であるという基本的な前提に問いを投げかけます。この大前提を疑う人は滅多にいません。

なぜならたいていその後に、『私には何が必要か、私は何が欲しいか、私は何を持っているか、私は何を持っていないか、私は何を持っているべきか』などの物語が続くからです。

こうした物語によってあなたは、あなたの真実の姿の広大さとは区別されたある人物として認識されます。あなたはある特定の形、生と死に支配される肉体として認識されるのです。

この認識はつまり意識的な個性化です。個性化は悪いことでも間違いでもありません。人間の進化・発達において、それは自然なことであり、人間の神秘の一つです。


個人的認識が自己実現の妨げになる、と思い込んだ精神的探求者のほとんどは、自分の物語を排除しようとします。でもこれは、物語の別の一部にすぎません。

このことに気づくことは非常に重要です。物語を排除しようと試みるのはその物語の別の一面にすぎず、マインドによる支配力の一例です。


精神性を追求している人たちの間で、自分の物語を本当に検証する代わりに、物語を抑え込もうとする傾向があるのを私はしばしば目にしています。

そうやって抑え込むと、物語は一見削除されたかのように見えますが、その後に平安はやってきません。

一方であなた自身の物語を押し殺しておきながら同時に自分の中の美、超越を味わうことなどできないのです。

物語はいまだに続いていながら、魂の探究者である、と自己認識しているあなたは、それを意識の外に追いやってしまうのです。

世俗的な条件付けが、精神的な条件付けに取って代わられただけの話です。物語はまだ生きていますが、今度はそれは無意識下に作用しているのです。

そしてあなたは、自分がまだ苦しんでいることに困惑します。苦しみが続いているということは、いまだにあなたの物語が語られているという証です。

その苦しみに、悪いことであるというレッテルを貼らない意思があなたにあれば、あなたには、物語をただありのままに見つめる意思を持つことができるはずです。

興味をもって、歴史を学ぶ

私たちの思考というのは、ただ起きていることに意味づけをして、それを時系列で見るという特性を持っています。

そうして、ただ現象化していることを物語として認識するということを、ずっと続けているのです。物語の一番身近なものとは、自分の人生ですね。

そして、もう少し視野を広げると、自分の家系の物語というのもあるでしょう。もっと大きく観れば、国家の物語、それは通常は歴史と呼びます。

更に、人類の歴史、地球、宇宙の歴史というように広げていくことができます。つまり、歴史とは過去から現在までの物語のことです。

学生時代には、ほとんど日本史や世界史には興味がなくて、試験の前日に一夜漬けで勉強したことしかなくて、恥ずかしながら知識は幼稚園児なみです。

飛びぬけた個人主義というのでしょうか、自分の中で国家感というものが非常に乏しいという自覚があります。

物語に興味がないのではなくて、単に視野が狭いということなのでしょうね。それが、最近少しずつ日本という国の歴史(物語)にも興味がもてるようになってきました。

「私」というのが思考そのものであり、その思考があらゆる現象を物語として解説しているだけなのだということがはっきりしたことで、かえって自分の人生レベルの物語よりも大きな物語にも目が向けられるようになってきたということなのでしょうか。

あるいは、年齢を重ねると共に、自分の人生という物語にはさほど興味を持てなくなってきたということでもあるのかもしれません。

いずれにしても、人生の残った時間で、今まで目を向けてこなかった国家や世界の歴史(物語)について、楽しみながら見聞を深めていきたいと思うのです。

帰依心について

最近は、テレビ番組をテレビ自体で観るということがほとんどなくなってしまいました。代わりに、ipad で誰かがアップしてくれたものを、自分のタイミングに合わせて観ていま
す。

これがとても便利なのです。自分はとにかく録画も何もせずに、ネット上にアップされているものを検索しては、高解像度で観ることができるのですから。

そのやり方で、さっき久しぶりに「笑っていいとも」のテレフォンショッキングに珍しく北野たけしが出ているのを見かけました。

最後の部分で、次に出演する人と電話で繋ぐ場面で、たけし軍団のうちの一人が電話に出たのですが、二人のやりとりを聞いていて、本当に師匠と弟子の強い絆を感じたのです。

私自身は北野たけしの事を特別何とも思っていないのですが、もしも自分が軍団の一人として、彼を「殿」として慕う立場になったらどうなのだろうと想像してみたのです。

弟子としては、かなり過酷な無理難題なことまでさせられたりするのでしょうけれど、それはそれとして、心がとても安らかになるような感じがしました。

つまり、師匠に対する絶対的な献身の心を持って生きるとき、人は本当に安らかでいられるのではないかと思うのです。

絶対的な存在である神や、完全に信頼することのできる師匠などに帰依する人が数多くいるのは、そうした心の安定を得られるからなのだと思います。

かつての武士は、おのれの親方様のためなら命をかけることができたのでしょう。それがいわゆる武士道の真髄なのですが、それは純粋な帰依心であるとも言えるのです。

私には、心の底から信頼することのできる師匠(グル)がいませんし、これからもそうした人が顕われるとは思えません。

そのことがとても残念で仕方なかったのですが、でも今これを書いていて思ったのですが、目には見えなくても、全体性を感じさせてくれる本質的な自己に帰依すればいいだけだと。

ふとそんな思いが浮かんできました。言葉を変えれば、それが聖霊ということになるんでしょうか?少しじっくりとそのことを見つめてみようと思います。

個別性とは思考であり、全体性とは注意である

このブログでも、もう何度も繰り返し書いていることですが、私たちの正体とは思考です。思考が、「私はここにいる」と解説しているのです。

それを自覚できるのだから、私とは自律的な存在であるということになるのです。自律的な存在とは、個別性のことです。

つまり、思考は全体性を真に認識することができません。思考の全体性に対する認識とは、個の集合としての全体という概念に限定されています。

けれども、真の全体性とは個別性の寄せ集めではありません。唯一であるもの、「不二」であるものを分離も分解もすることはできないのですから。

これは言葉でとりあえず表現することはできるとしても、本当のところ個別性である思考の限界を超えたものです。

個別性がどれほど改善され、どんなに進化したところで全体性に到達することはできません。一方は真実であり、もう一方は真実の影のようなものだからです。

私たちは、どれほど頑張ったところで思考から逃れることはできません。なぜなら、繰り返しになりますが、私たちが思考だからです。

私が私をやめることなどできないのですから。それは不可能なことです。けれども、その思考を静かにさせるとき、初めにその不可能だとの解説も思考であると分かります。

その不可能さを放っておいて、私という思考の根元をどこまでも見ようとしているうちに、それが見つけられないものだというのがやってきます。

個別性は見つめることで、消えてしまうだけでなく、突然それは全体性としての姿を顕わすようになるのです。

全体性とは気づきであり、注意です。何かに気づくのでも、何かに注意するのでもなく、気づきそのものであり、注意そのものであるということです。

それこそが、思考という個別性の源としての本当の私たちの姿なのですね。それは、至福というよりも静寂であり、不二である全体性なのです。