生まれ育ったときの人間関係をもう一度見直す

数日前のことですが、母親が自転車を漕いでいて後ろから追い越そうとした若い男性の自転車と接触して、転倒して骨折したのです。

母親は、以前から腰の手術などをしていたものですから、その悪いところを強打したら大変なことになると思っていたので、知らせを聞いたときにそうでないことを祈りました。

結果としては、腰を打つ代わりに股関節を陥没骨折してしまっていたので、人口関節に代える手術をしなければならなくなりました。

入院している母親の看病のために、私と私の家族や私の姉が毎日のように病院にいって、あれこれと母の身の回りの世話をしているのですが、それで気づいたことがあります。

それは、以前から苦手な姉の言動にものすごくイライラさせられている自分に気づいたのです。姉と長い時間一緒にいるのは、数十年ぶりかもしれません。

だからこそ、ずっと前の子供の頃のようなイライラした気持ちが蘇ってきたのです。ああ、自分はこれが嫌いだったんだと思い出したのです。

言葉が通じないで一方通行のような、やりきれない気持ちになったのです。大人になってからは、ほとんど体験したことのない感情でした。

これ見よがしの話題と、他人に対する否定及び文句、こうしたことのオンパレードが自分の心をひどく傷つけるのでした。

けれども、さすがに今となってはただ相手を否定するわけにはいかないということも、分かっているので、それを嫌がる自分の心の中に同じ要素を持っているんだなと理解したのです。

セラピストになって、とてもおだやかな心の状態を継続できるようになって、癒しが進んでいるように思い込んでいたのが、実はそうでもなかったということがバレタわけです。

見るべきものがまだまだ残っていたということを、しっかりと思い知らされた気がしました。逃げずに、なるべくあるがままを体験しようと思っています。

生まれ育った環境で一緒だった家族と自分の関係が、やはり原点なのですね。大人になって、遠ざかっていたおかげで心の中が静かだっただけで、実は元の環境がやってくればたちまち心は波立つということです。

一番むずかしい人間関係は、生まれ育ったときの人間関係の中にこそ見出せるということですね。まだまだです。

物語は完結することはなく、常に中断する

私が子供の頃は、映画にしてもテレビドラマにしても、ハッピーエンドがほとんどでした。ハッピーエンドでない場合でも、それなりにああこれで終わりだなと分かるような結末でした。

あれから何十年と経った今でも、それは概ね変わらないのですが、それでも時々は、え、これで終わりなの?と感じるような幕切れの物語もありますね。

なんだか、尻切れトンボのような、不十分な感じがして、製作者に文句を言いたくなるような気持ちがするものもあります。

そこには、きっと製作者の意図があるのでしょうね。私たちは、時代が変われど、物語の結末を見ずにはいられないという傾向が間違いなくあります。

それは実は、エゴがそれ自身を存続させるための作戦なのだ、ということに気づく必要があります。物語の結末を知らずして、安心して死ぬことができないというのです。

けれども、これはある意味の騙しのテクニックに違いないのです。というのも、物語というのは、本当の意味でのお仕舞いというものはないからです。

一つの物語が終わっても、必ず次の物語がすぐにでも始まろうと待ち構えているからです。それは、大きなスパンで見れば、その繋がりを含めて大きな一つの物語であるとも言えるからです。

つまり、物語というのは決して終わりがないということです。物語が終わるときというのは、如何なる場合においても、中断したように感じるものなのです。

だからこそ、私たちは自分の人生という物語が終わりを迎えるときであっても、まだ続きがあると錯覚するのです。そうやって、輪廻の無限とも言える繰り返しが起こるのです。

肉体の死がやってくるのを待つことなく、いつでも人生を終える覚悟をすることです。そして、それは常に結末という感じではなくて、途中で頓挫したように感じることをあらかじめ覚悟しておくことです。

中断してもいいのです。まだ、やり残したことがあるという状態でも、完全に人生を気持ちよく終えることができるなら、肉体の死後に覚醒することになるのでしょう。

全方向の自分を受け入れる

自分を切磋琢磨して、より優れた自分に成って行こうとすることは、決して悪いことではありませんし、この世界では奨励されていることです。

今、ロンドン五輪の真っ最中ですが、スポーツに限らずどんな世界でも、一芸に秀でた存在になるためには、血の滲むような努力が必要なことは間違いありません。

メダルを獲得できようができまいが、結果はともかくとして、精進し続けることにこそ価値があるということは誰もが認めることです。

けれども、その頑張りの裏に、否定的な自分、駄目な自分をなくそうとする欲望が隠されている可能性があるのだということに、気づかなければなりません。

もしも認めることができない自分の部分を消しゴムで消すことが、努力の原動力であるとするなら、結果がどうであれ、その人は苦悩から解放されることはありません。

なぜなら、私たちの否定的な部分というものには、限りがないからです。醜悪な部分と美しい部分、悪魔の部分と天使の部分が共存しているのが人間だからです。

究極の場合として、覚醒した賢者の場合であっても、そのことはゼロではないのです。インドのラマナ・マハルシは、どんな賢者であってもエゴは何度でも起こるものだと言ったのです。

賢者と我々凡人との違いは、賢者はたとえエゴがぶり返したとしても、そのことを何とも思わないというところなのです。

私たちは、とにかく自分自身の駄目な部分をいつも何とかしようとしてしまうのです。惨めな自分、情けない自分、卑怯な自分、強欲な自分、卑屈な自分、意地悪な自分、こうした自分を持っていない人は一人もいないのです。

自分の心の中に棲んでいるあらゆる自分を丸ごと見ることです。もう自分に隠し立てする必要などありません。人に見せるのではなく、自分が見るだけなのですから。

それが可能だということを腹の底から分かることです。全方位の自分をただただ見続けたその先に、本当の真実の自分との出会いが待っているのですね。

鏡に映った自分への慈悲を感じる

気がついたのですが、最近じっくりと自分の姿を見るということが、まったくなくなっていました。つまり、鏡に映った己の姿を見ることがなくなったということです。

勿論、ドライアーで髪を乾かす最後の時くらいは、髪の部分を見ることはあるのですが、それは自分を見るというよりも、髪の形を見ているだけなのです。

目の調子が悪くて、逆さまつげを見つけるときや、充血の具合を見たりするときには鏡を使うのですが、それも自分自身を見ているのではありません。

これは、きっと年齢を重ねてきた結果、まじまじと老いていく自分の姿を直視したくないという気持ちの表れなのでしょうね。

けれども、もう一度正直な気持ちになって、そして何であろうと見えるものを否定しないというつもりになって、鏡越しに自分を見てみて再発見したことがあります。

それは、あいつはやっぱり本当の自分ではないという確信です。常日頃、意識できるときはいつでも、自分の中心に注意を向けているときに知っている自分と、鏡に映った自分とは明らかに違うということです。

こうなったら、もう鏡を見れば見るほどに、この広大無辺の自分とは違いすぎる鏡の中の自分がいるということが分かります。

そうなると、もう鏡を見ることに抵抗を感じなくなるものです。なぜなら、彼がこの先もっともっと老いていくとしても、それを悲しむ必要もないと思うからです。

彼は彼で大変なのは充分に分かってあげられるのですが、でも彼を彼として根本的に救うことは不可能なことなのです。

彼はこの先、老いて死に行く運命であって、それはどれほど懇願しても変えることはできないというのが冷酷な定めなのです。

彼の本当の救いとは、彼自身がそのことをもっと深く認めると同時に、こちら側に在る純粋な意識としての自己を信頼することなのでしょう。

自分の中心に在る自己から見ると、鏡の中にいるしんどそうな自分に対して、深い慈悲の気持ちも芽生えるというものです。

そうなると、鏡の中の彼をもっとマシにしようというかつての思いは、す~っとどこかに消えうせてしまうようです。

始まったものはいつか終わる

2001年からスタートした今の仕事、もしかしたら今年いっぱいで幕を閉じることになるかも知れないと思っています。

自宅から最も近くで、どこからでも交通の便のいいところをセッションルームにしようと思い立ち、吉祥寺の不動産屋さんを何軒もはしごしたのを昨日のように覚えています。

セラピストとして自分が果たしてこの先やっていけるのかどうか、などということはほとんど考えもせずに、これといった不安もないままに少し奮発をして割高感のあるマンションの一室を借りたのでした。

そのマンションには、結局二年間しかいなかったのですが、更新の手続きをするために出かけた矢先に、今のマンションを見かけて、更新するのをやめたのでした。

そのときには、つたないHPを見てセッションに来てくださるクライアントさんが増えてきていたときだったので、これだったら大丈夫だろうと思って今使っている分不相応ともいえるマンションに引越しました。

その後も沢山のクライアントさんが来てくださって、本当に忙しい毎日を過ごしていました。ところが、自分の内側でこのままでは何かが違うという感覚が次第に大きくなってきたのです。

それに対する答えを見つけたいと思っていたころ、「奇跡のコース」と出会い、ある意味の自己探求が開始されたのです。

それが、2008年のことなのですが、不思議なことにその年から急激にクライアントさんの数が減りだしたのです。

金銭的に足りない分を何とかしようと、翌年から講座を開いたり、不定期にセミナーを開催するようになりました。

そして、2011年の初めにハーディングさんの本との出会いを期に、より深い探求が開始されたのですが、それと同期してまた更にクライアントさんの数が減りました。

そして今年、2012年は更にクライアントさんが激減し、そろそろ今の形での仕事を終えるときが来たのかもしれないと思うようになりました。

私は、外圧がかからないと、新たな船出をしないタイプなので、何か抗し難い事象が起こることで次のステージに進むのかもしれないという自覚があるのです。

来年からの毎日がどうなるのか、正直不安はあるものの、何か楽しみな感じもするのです。どんなことでも、いつかは終わるわけですし、それによって新しいものが生み出される機会がやってくるのですから。

この人生を、不思議と感動を融合した物語にしたい

今地球上で暮らしている70億の人々には、それぞれ70億個の人生という物語があるわけで、一つひとつの人生にはすべて違いがありますね。

自分の人生をずっと見てきて思うのですが、この人生はさほど見ていて面白いものではないなという感想なのです。

それはきっと、自分を最優先する人生、常に自分のために、それを貪欲に貫き続けてきた人生だから、物語としては面白みに欠けるのかもしれないなと、今になって思うのです。

これまでは、それでもいいと思っていました。つまり、人生を誰かに見てもらってそれを喜んでもらえるようにすることは、意図していなかったからです。

如何に自分が快適に、つつがなく毎日を過ごせるかということが大事だったのですから、当然といえば当然の結果なのです。

けれども、ここにきて、この人生という物語を深いところからずっと目撃している本当の自分という存在に気づいてしまったのす。

そうなると、どうも人物としての自分がただ安泰であればいいというだけでは何ともつまらないと思うようになったのです。

映画やテレビのドラマなどであれば、ただ観ることしかできないのですが、この人生という物語では運のいいことに、自分が参加しているわけで、自分がもっと面白いものにしようと思えば、ある程度はそのように変えていくことも可能かもしれないと思うのです。

私は、謎に包まれた不思議な話しと、感動することを融合したような物語に興味があるので、そのような人生に今からでも挑戦してみようかという気持ちになりかけています。

深いレベルでは、この自分がコントロールできることはないのですが、この自分の気持ちの変化は一体何を意味しているのか、今興味深く見ているところです。

存在の非対称性が愛を起こす

「目の前に、AさんとBさんがいる」という場合、実は根本的に異なる二つの世界感がそこには広がっているのです。

一つ目は、AさんとBさんと、それに私もそこにいるという世界です。勿論、これがごく当たり前の状況のように誰もが感じるはずです。

もっと詳しく表現すれば、自分という存在の外側に世界があって、その中にAさんとBさんがいて、私は私の内側からそれを目撃している、ということです。

私という存在は、この世界のある特定の領域(肉体)を占有して、その内側に入っているということが暗示されているということです。

そして、そのことはAさんとBさんについてもまったく同じことが言えるというように想定しているのです。結果として、三人の存在の仕方は対等であるということです。

この対等性から、個々の違いがあり得ないくらいに肥大して、それを比較して評価することが起こるために、人々は苦悩するのです。

一方で、二つ目の世界というのは、ただ単にAさんとBさんがいる世界が見えているということです。

そこでは、一つ目の世界のように、二人を見ている私という存在はないということです。ただ、二人を含む世界を見るということが起きているということです。

この「存在の非対称」ともいうべき世界感が広がっているときには、純粋な愛が起こる可能性があらわれますし、本当の分かち合い、本質的な意味での心を一つにするということが起きるのです。

この世界感にするためには、AさんとBさんを見ていながらも、その方向を反対に向けて、彼らを見ている場所を見ることによって簡単に起こすことができます。

そのときには、外側の世界を見ているという幻想も同時に消えて、実際にはあらゆる姿かたちをした世界という自己を見ていることだけが起こるのです。

本当の救いとは、こうした世界感、私が消えて、その代わりに世界を手にした時に起こるのでしょうね。
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久しぶりに目に留まった他人の言葉

昨日いつものように、ツイッターのタイムラインを流し読みしていたら、毎日のように大量に投稿し続けているある著名人のツイートに目が留まりました。

普段はその方があちこち出かけた先で撮影した写真を見るくらいなのですが、昨日は記事の内容にとても惹かれるものを感じたのです。

それは以下の内容でした。

『表現者は、ナルシストになりがちだが、それでは二流のままである。自分を離れて、突き放して、利他において初めて一流となる。』

『ホームだけではダメだ。自分が無力となり、途方に暮れるアウェーの闘いに飛び込め! 呼吸をするように、ホームとアウェーを、繰り返せ!』

どちらのツイートの内容も、今の自分の心に突き刺さりましたね。私は自分のことを表現者とは思っていないのですが、こうして気楽にブログで言いたいことをただ書き放っているだけでは、確かに二流以下だなあと思っていたところだったからです。

勿論、二流以下ではいけないということではないのですが、これはいい悪いとか、正しい間違っているということではなくて、満足度の問題なのかもしれません。

「自分を離れて、突き放して、利他において…」というところも、自分には根本的に欠けていると思われる点をするどく指摘された感じがしたのです。

そして、「自分が無力となり、途方にくれるアウェーの闘いに飛び込め…」というのも、ぐさっときました。

というのも、自分はつねにホームに常駐していて、安全なところで能書きを並べているだけだという自覚があるからです。

最近、傲慢になったのか他人の書く文章に対して、あまり感動を覚えたりすることが少なくなったなと思っていたのですが、上の文章はまさに今の私にはとても必要な教訓のように感じたのです。

気づかせていただいて、本当にありがたいことですが、今後どのように実践していくのかが鍵になるのでしょうね。

幼いころに喪失したダイレクト感を取り戻す

今までにも何度か書いたことがあったと思うのですが、私は子供の頃のあるときに、生きていることのダイレクト感を喪失したと感じた経験があります。

他にもっといい表現があればいいのですが、とにかく何か昨日までと違う薄ぼんやりした感覚になってしまったと感じたことがあったのです。

目の前に薄い膜が出来てしまったような感じと言ってもいいかもしれません。今となっては、そうした経験をしたことの記憶があるだけで、もっとリアルに世界を感じていたことの感覚を思い出すことはできません。

それはきっと、私自身が自分の肉体の中に完全にもぐってしまったときだったのだろうと思うのです。そのときには、もうすでに自我はあって自分のことを今と同じように自覚していたはずです。

けれども、まだ無邪気な部分が残っていて、その体験をする前までは、時々は世界と一つの状態で生活していたのだろうと思うのです。

それは考えただけでもすばらしい感覚なはずです。残念なことに、そのときを境に自分をこの身体の中に閉じ込めてしまったのでしょう。

それからずっと、もう二度と身体を度外視して世界と一体である経験をしなくなったのです。だからこそ、ダイレクト感を失ってしまったと感じているのでしょうね。

今のこの感覚というのは、身体という牢獄に自分を放り込んでしまった状態のままでいることからやってくる不快感なのでしょう。

ところが最近、自分が世界を見ている場所に注意を向け続けていると、ある瞬間いつもと同じ目の前の空間がとても新鮮に感じる瞬間がやってくることがあることに気づきました。

今までのところ、その感覚はすぐになくなってしまうのですが、それはまるで重苦しい着ぐるみの外へ出て、直接空気に触れたような感じなのです。

もしかしたら、これが幼いころに感じていたあのダイレクト感に近いものかもしれないと思うようになりました。

自分が身体の内側にいるという、とんでもなくしつこい幻想を手放すことができたなら、あの清々しいリアルな感覚がまた戻ってくるのかもしれないと思うだけで、とても嬉しい気持ちになれます。

瞑想的に生きる方法

忙しく活動している毎日の中で、少しの間であったとしても、伝統的な瞑想に類したことを行う時間を作って、心静かに静寂に耳を傾けるのは心身の健康にはいいことだと思います。

けれども、そうした時間を特別に設けるだけが瞑想ではありません。真に瞑想的に生きるということは、本来いつでもどこでも実はできることなのです。

それは単にどこに意識を向けているか、何に注意を向けるのかということだからです。私たちは通常自分の外側で起こる事象に心を奪われています。

場合によっては、状況やそれに対する自分の心の反応に巻き込まれてしまうことがあるはずです。そうなると、見る方向が一方的になってしまうのです。

それに対して、外側を見るのと同時に、「どこから見ているのか」に注意を向けている状態でいることが可能なのです。

つまり、同時に二つの方向を「見る」ということです。これこそが、普段の生活を瞑想的に生きるということになるのです。

なぜなら、自分がどこから見ているかに意識を向けるということは、自分の本当の姿に注意を向けているということだからです。

それは決して難しいことではないばかりか、これほど簡単なことはないのですが、私たちは自分の中心へ注意を向けることを大抵忘れてしまうのです。

簡単すぎることは、自我にはかえって難しく感じるものなのかもしれません。したがって、見ているところを見続けるためには、日々の練習が必要となります。

その練習はなかなか楽しいものです。私自身、まだまだ練習が足らない自覚がありますので、この方法が完全に習慣になるまで繰り返す必要があるのでしょうね。

幸いなことに、自分の中心を見れば、そこには何一つない完全なる無の広がりがあることは誰にでもすぐに分かります。真実は、いつでも見えるところに開示されているということです。