逃げも隠れもしない決意

セラピストの役割とは、クライアントさん自身が逃亡生活を送り続けていることに気づくように仕向けることだと言えます。

一体何からの逃亡かと言えば、ご本人にとって非常に都合の悪いもの、惨めな自分の姿だったり、それを体験した時の恐怖だったりするのです。

誰もがそういった決して向き合いたくないと思っている感情から、遮二無二逃げ切ろうとしているのですが、大抵はそのことに気づいてもいないのです。

自分が逃げ回る人生を送っているなどとは思ってもいないので、逃げることをやめることができなくなってしまっているのです。

だからまずは気づく事こそが是非とも必要なのです。自分一人で気づけないからこそ、他の誰かのサポートが必要となりますね。

そこでセラピストの出番なわけですが、残念ながらセラピストはご本人が何か困った事を抱えていなければ、お会いすることさえできません。

そのために、クライアントさんは、自分が逃げている事に気づくために、困った現実を起こしてセラピストのところへやって来ることになるのです。

そしてもう一つの方法を使う場合もあるのです。自分の人生ではなくて、みじかなご家族などの問題を利用して、セラピストのところにやってくる方法です。

後者の場合、ご本人にはそうした自覚は全くないのが普通です。問題は自分ではなくて家族の誰かだと信じ切っているのですから。

そして確かにそのご家族の方にも同様な逃避の問題があるのも事実なので、その方のセラピーも行っていくのですが、その途中で当の本人の逃避にも気づきがやってくることになります。

セラピストは、時には憎まれ役を演じなければならないかもしれません。なぜなら、逃避に気づくためには本人を追い込まねばならないからです。

クライアントさんは、嫌なことばかりを見せつけられるので、セラピストを避けるようにさえなるものです。そして、それもずっとやってきた逃避生活と同じことなのです。

そして、逃避に気づくことさえできれば、今度はその逃避をやめるという選択肢があるということに気づくことができるのです。

そうなったら、あとは本人が逃げも隠れもしないという決意をすることです。傷つくことを厭わないという決意がそこにあれば、まったく新しい自由な人生が待っています。

サポートとコントロール

子供が産まれると、親は我が子が幸せになれるようにできるだけのサポートをしようと思うものです。それは親が子供に対して持つ本能的な愛が、そう思わせるのですね。

けれども、子供の成長と共に少しずつですが、親は子供をコントロールするようになっていくのです。そのことは、もしかしたら初めのうちは、親の自覚がないかもしれません。

親が子供に幸せになって欲しいと思うこと自体が変化することはないのですが、ただそこに親のコントロールが介在するようになっていくのです。

そのコントロールとは、親が個人的に望むような幸せを子供の人生に期待するということです。こういったことは、多かれ少なかれ、どんな親にもある程度は当てはまるものです。

随分前のことですが、あるクライアントさんの親とお話しするチャンスがあったのですが、そのときに母親がこう言ったのを覚えています。

「自分の子供に幸せになってもらいたいのは当たり前のこと。けれども、どんな幸せでもいいということではない。そんな身勝手なことは許されない。」

それを隣で聞いていたクライアントさんが、深く落胆しているのを私は見逃しませんでした。残念ながら、そのセッション中にその親の気持ちを変えることは不可能なことでした。

子供が幼いときに、母親が気に入る服だけを子供に着させようとするなどという事例は、山ほど知っています。

娘が成長して、結婚したいと思っている恋人を親に会わせたところ、単に彼が黒人だったというだけで反対されたという悲惨な話を聞いたこともあります。

こうした親のコントロールについては、子供の年齢にかかわらず、事例はいくらでも思い出すことができます。

それだけ、親のコントロールに苦しんできた子供は沢山いるということですね。心当たりがある方も多いのではないでしょうか?

自覚としてはサポートしているだけのつもりが、知らぬ間にコントロールの要素が強くなっていくので、なかなか気づくことが難しいのです。

コントロールされる苦悩を持っているのなら、自分も相手をコントロールしようとしてはいないかを、まず第一によくチェックすることから始めて下さい。

そして、コントロールを手放すことができると、それだけサポートすることにエネルギーをつぎ込むことができるようになるはずです。

そうすると、不思議なことに相手からのコントロールが気にならなくなっていくのです。愛の力はコントロールを溶かしてしまうらしいです。

あまりにも自明すぎる全体性

以前にも書いたことがあったと思うのですが、会社員の頃にステレオグラムに嵌ったことがありました。みなさんは、そのステレオグラムを覚えているでしょうか?

今でも、本は売っていますし、ネットでも沢山の画像を見ることができますね。ステレオグラムというのは、平面上の画像に立体的な要素が隠されているものです。

一度コツをつかんでしまえば、いとも簡単に隠れていた立体が浮かび上がってくるのを経験することができます。

それは何と言うか、外側には何の変化もないのに、自分の知覚が急に変化してしまうことによる見え方の激変を体験するわけです。

不思議なことに、その画像の中に立体を見ている状態になると、どういうわけか普通に見ているときと比べて緻密さが出てくるような気がします。

どうすればそれが見えるのかが分からない人にとっては、初めとても難しいことのように思えるかもしれませんが、一度でも経験した人からすれば何と簡単なことかと分かるのです。

これって、個人としての自分が一瞬にして全体であるものに変容する感覚と似ているように感じます。

けれども、ステレオグラムを見るときよりももっと容易く全体性を感じることができますし、個人の感覚と全体性は両立します。

同時に両方の感覚を感じていることが可能です。それは、ステレオグラムとはまったく異なる特性ですね。ステレオグラムは、普通の見方と立体のどちらか一方しか見ることができません。

全体性を感じるのには何の努力も工夫も必要ないということも、ステレオグラムとは違うところです。あまりにも簡単すぎて、説明ができないところも違います。

ステレオグラムの場合には、視点にある操作をすることによってその状態に持って行くのですが、全体性は実はずっと生まれたときからそれが途切れたためしがありません。

ただいつも「在る」ものを見ないようにしてきただけなのです。簡単すぎることは、私たちはとかく敬遠しがちだということも、分からなくなってしまった要因の一つかもしれません。

誰もが本当はわかっている、この全体性にはっきりと気づくときが確実にやってきます。分からないというのは、呼吸をしていることを忘れているというのに似ています。

でも呼吸していることに意識を向ければ、それに気づけない人はいません。それと同じことです。そのくらい当然の感覚なのです。

安心と快適さだけでは満たされない

幸せの定義というのは、十人十色といわれるように、人によって様々かもしれませんが、それでも多くの人に共通していることは、安心、安全と快適さが必要だと思っているはずです。

その逆に、不安で不快な状態であれば、幸福などというイメージとは繋がりにくい感じがしてしまいます。

そして私たちは、その安心、快適というものが手に入れば、幸せになれるというように単純に直結してしまいがちなのです。

でもそれは本当ではありません。その理由はいたって簡単、つまり完全に安心できる完璧な安全とか、100%継続する快適さなどというものはありえないからです。

安心、快適を欲すること自体が悪いということではないのですが、そこに多大なエネルギーを費やすほどになると問題が起こってきます。

それは都合の悪いことから逃避しつつ、欲しいものを手に入れようとする人生ということになります。それが常に成功するという人生は決してないのです。

だからこそ、そこに苦しみが発生してしまうわけです。その人生を別の言葉で表現すれば、自己防衛の人生ということになります。

それも決して悪いことではありません。誰もが自分を守ろうとして生きているのですから。けれども、それがあまりにも強大になってしまうと、それだけ苦悩することになるのです。

深みのある人生について考えているのなら、苦しみや恐れ、不都合なものから逃げないことです。そして、都合のいい安心、快適さだけを殊更求めないこと。

自分がコントロールできる範囲をしっかり見据えて、コントロールできないと認識したことからは、きれいさっぱり手を引くことです。

そうして、自分の浅知恵などよりももっと奥深い知性に委ねることです。一過性の安心、安全と快適さだけでは、奥深い満足感を得ることはできないということに気づく必要があるのです。

人生のパターンを癒す

私たちは、人生において何らかのパターンを繰り返している、ということに気づくことがあります。そしてそれは大抵が気のせいなどではありません。

現実にそうしたパターンがあるということです。そのことに、明確に気づいている人もいますし、何となくそうかもしれないと感じるレベルの人もいるはずです。

そして往々にして、そうしたパターンというのはあまり当人にとっては好ましいものではないというのも事実なのです。

パターンの大元は、幼い頃に体験した惨めな想いや、恐れなどの苦しみです。そうしたことがまるでなかったかのように、本人は逃げ回って生きてきたのです。

本人は、それこそ必死に、命がけの努力をして、逃げ切ろうとするのです。確かに一時は逃げとおせたと思えたこともあったかもしれません。

けれども、事実はといえば、決して逃げとおせるものではないのです。隠したものは、本人の背後にぺったりとくっついて、いつまでも追ってくるのですから。

そうして、いずれはそれを本人に思い知らそうとして、現実の生活の中に起きてくるというわけです。それがパターンの本性です。

疑うことを知らない幼い頃に、無邪気に生きていて周りの大人たちにひどく傷つけられて、その惨めさを隠してしまうと、傷つけられるパターンが作られます。

もっと具体的にあげれば、たとえば仲良しだと思っていた人から裏切られるパターン、惨めに見捨てられるパターン、大切なものを奪われるパターン、こうしたものはいくらでもあります。

あなたの人生でのパターンはどんなものでしょうか?もしも、気になっているパターンがあるなと思い当たる場合には、それを体験するときの気持ちをよく見ることです。

もしかしたら、そのパターンの大元を見つけることができるかもしれません。いずれにしても、そのパターンが起きたときの本当の気持ちから逃げないことです。

その惨めさや自己否定感などと共にじっくりいることです。パターンを作り出している物語は出来る限り脇へ置いて、感情と一つになることです。

うまくいけば、パターンから逃れていくことができるだけでなくて、もしもまたそのパターンがやってきたとしても、そのことが問題ではなくなっていくはずです。

過去の体験をもとに未来に期待してしまう

最近、ネット上で配信される映画をたくさん観るようになりました。というのも、パソコンでは机に向かっていないといけなかったのですが、ipad を購入してから、リビングのソファに腰掛けて、リラックスしながら観れるようになったのが大きく影響しています。

画質もいいし、何よりも横になったままでも観れるというのが私好みなのです。特にジャンルを問わずに観ているのですが、気づくと洋画が多いかもしれません。

たまにとても気に入った映画に出会うことがありますが、それはそれほど多くはありません。そして、次にはもっとすばらしい映画を観たいと思うのです。

どれほど出来のいい映画を観ても、もうこれで映画は観なくてもいいや、とは決してなりません。まだまだいい映画があるはずだといつも期待してしまいます。

そして、その期待を裏切られつつも、いくつも次々と映画を観続けているというのが本当のところです。どの映画に対しても、自分なりの評価があります。

あまりに点数の低かった映画を観終わった時には、一体誰がこんな酷い映画を好んで作ったのだろうと心の中で悪態をつきます。

どんな映画だろうと、作った側にはそれなりの主張や苦労があったろうはずなのに、そういうことは大抵無視してしまうのです。

それはともかくとして、私たちは自分がいい体験をすると、それと同等かそれ以上の体験をしたいと思い続けて生きているのです。それは映画に限ったことではありません。

過去の経験を覚えておいて、未来に対してそれ以上の経験を常に期待し続けているのです。だから、その期待が裏切られると不満を感じることになります。

自分が不満を感じることがあったなら、何か過去の体験がベースになった期待を持っていたということに気づくことですね。

あくまでも過去は過去として未来に持ち越さないことができるといいですね。そうすれば、未来に対していつも素直な気持ちで迎えることができるのですから。

真理を逃避のツールとして使わない

私たちが使う言語というのは、思考とほとんど同義語と言ってもいいのですが、その言語によって真理を表現した書物は沢山あります。

有名な宗教的な経典や聖典といったものから、覚醒した人が語った言葉を書物にまとめたものなど、数え切れないほどの文献が残されています。

私たちは、そうした文章に記された言葉を理解することで、真理を理解したような感覚になって、ある種の高揚感を味わう場合さえあるものです。

あるいは、もしかしたら身近にも実際に真理を垣間見たことのある人物がいて、直接真理についての話しを聞かせてもらうことができる場合だってあるかもしれません。

言語(思考)によっては、決して真理を表わすことはできないと頭では分かっていても、都合のいいように真理を理解したような錯覚をしてしまうことが多いのです。

例えば、奇跡のコースには、この世界は幻想だと書いてあります。これは確かに真理について述べたものだということは分かります。

けれども、だからといってこの世界はどうせ幻想なのだから、どんな努力もする必要はないし、極端なことを言えば人を殺したとしても幻想なのだから問題ない、とは言わないはずです。

当然のことながら、これは真理とは程遠いものです。なぜなら、世界は幻想だということを思考によって理解してしまったからです。

そして、そういう理解の仕方というのは、自分に都合のいいように利用されてしまう可能性が非常に高いのです。それは、常に逃避のツールとして使われてしまうのです。

真理はいつも、「○○である」と表現されたとしたら、「○○ではない」とも表現されると覚えておくといいと思います。

つまり、世界は幻想である、という言葉を真理として受け止めるのなら、世界はレッキとした現実である、という表現もできるということです。

こうしたことは、理性では納得し難いことかもしれませんが、そもそも言語(思考)で真理を捉えることは不可能だという地点に戻れば、真理を納得することなどできないことを思い出せるはずです。

要するに大切なことは、自己防衛の手段として、言語によって表現された真理を利用しないということです。そのためには、自己防衛しようとしている自分を常に監視することです。

いつも自分に正直に、自分の深い部分に誠実に向き合っているなら、きっと言葉の上の真理を用いて、それを口実にして逃避しようとする瞬間を捉えることができるはずです。

そうすれば、自己防衛(見ることから逃げようとすること)をしないという選択肢があるということに気づくことができるのです。

意識と思考の違い

思考の本質とは一体何だろうと考えてみました。なぜかというと、私たちは「私」がここにいるという自覚があって、それを意識だと思い込んでいるからです。

実はそれは、意識ではなくて思考なのです。意識と思考を混同していることにはっきりと気づく必要があるのです。

そのためにも、思考の正体をできるだけ明確にしたいと思ったのです。まず初めに、純粋に単一の状態において思考することは不可能だということに着目します。

なぜなら、思考するためには必ず思考している主体と思考の対象が必要となるからです。ということは、思考とは分割、あるいは分裂を意味するとも言えます。

よく宇宙の本質はワンネスだと言われることがありますが、なにものも分割されていなければ、そこには思考の入り込む余地はありません。

したがって、よりシンプルに表現すれば、主体が対象を認識することこそが思考の始まりなのだと言ってもよさそうです。

だからこそ、思考と知覚は切っても切れない関係があるのですね。ただ、思考には論理性というものが備わっているように見えます。

それは、分割された対象を比べることによって発生するものなのだと思います。比較するということから、論理というものが生まれるのです。

そしてそこには、正しさだとか妥当性というもの、そして善悪や真偽という概念が作られるようになるわけです。

純粋な意識とは言わば何でもそのままを写す鏡のようなものです。鏡は、目の前のものを判断することなく、そのまま、あるがままを映し出します。

けれども、その鏡が粉々に割れて破片の集まりのようになってしまったとしたら、それぞれが勝手な写し方をするようになってしまうはずです。

それが思考なのです。もしも、割れた鏡を何とかして修復して一枚の美しい鏡に戻すことができるなら、もうそこには思考はなくなり、元の意識だけになるはずです。

そこには認識も思考もありません。それが、ただ在るということです。

物語は魅力的でも真理ではない

私たちは、誰もが「物語り」のことが大好きです。幼い頃のたわいもない空想や妄想の類から始まって、映画やテレビの物語にも時間を忘れてはまり込むものです。

そうした作り物の物語だけではなくて、現実の物語にもとても興味があります。実話とか伝記のような本当にあった物語、それは人や人類の歴史についてだったりします。

そして最も身近な物語として、自分自身の人生があるわけです。自分の人生については、単に興味があるというレベルでは済まされないですね。

でもそれもやはり、物語には違いありません。「物語」というのは、何かが起きること、そしてそこには原因とそれに続く結果が必ずあるのです。

原因があれば、かならず知性によって理解できる結果が待っていることを知っています。ところが、それは100%の精度があるわけではありません。

つまり、過去にある原因が充分に分かっていても、完全には未来の結果を予測することが不可能なことも知っています。

それは、原因となるもののすべての要素を知ることが不可能だからです。だからこそ、未来を予測することができても、100%の精度を達成することができないのです。

そのバランスが人生をすばらしいものにしているのですね。物語がどう進んでいくのか、自分がいつ死ぬのか、そういう未来が分からないからこそ物語に魅かれるのです。

そしてもう一つ、私たちが知っている原因と結果の因果律以外にも、ただ向こうからやってくることがあります。それはまったく予想することが不可能なことです。

それは知性では理解することのできないもの、真理という源泉からやってくるものです。この世界は、その二つの要素によって推移しているのです。

物語に興味を持つのは、思考の特徴なのだと思います。物語は理解の対象として思考にとってはとても大切なものなのでしょう。

そのことをしっかりと認めつつ、それでも物語から離れているところに意識を向けていることができることにも気づいていること、それを忘れてはいけません。そこにのみ、真理があるからです。

ただ現象が起きているだけ

この宇宙の正体とは、単に現象が起きているだけの世界であって、それ以外の何ものでもありません。

常に何かが起きている、起き続けているのが世界の実体です。「私」が居るという想いが在る、あるいは起きているとは言えますが、「私」が居るという事実はありません。

物事がただ起きているのであって、そこには誰もいないし、したがってどんな経験もないということです。

この、「ただ起きている」という事実と「誰かがいて、何かを経験している」ということとは全く異なることであって、後者は真実ではないということです。

私たちの地球には、無数の種類の生物が棲息していて、それぞれの種が生まれては死ぬということを繰り返している、確かにそう見えますね。

けれども、本当はそのように見えるということが起きているだけで、それは真実ではありません。この世界には、私やあなたを含めて、誰も居ないということです。

残念ながら、こうした真実を思考で捉えようとしても無駄なことです。なぜなら、思考はただ起きているだけだからです。

私たちは、自分の思考の中味に真実を含めることができると信じていますので、無駄だと聞いても簡単には納得したくないという想いを持っています。

思考がただ起きているということは、思考の立場を貶めることではありません。何かに価値があるとか意味があると思いたいという思考が、ただ起きているだけです。

私たちの本質とは、現象として起きているどんなものとも異なります。それは現象ではないからです。現象が起きては消えていく場のようなものです。

それだけが、ただ在るのです。