真の静寂さこそが真の自己

昨日のブログでは、真の静寂について書きました。この静寂というのは、音のない静かな状態のことを言っているのではありません。

静寂さとは、思考から離れたところ、あるいは思考を超えたところのことを指しています。したがって、そこにはどんな言葉も表れることができません。

静寂さとは、何かを認識する主体がいないということでもあります。なぜなら、主体が自らを主体と認識するのは思考だからです。

思考が停止するか、あるいは思考を超越してしまえば、主体は消えてしまいます。それは、この宇宙は幻想だということとも違います。

この世界、宇宙が幻想だというのも当然のことながら思考だからです。何から何までが思考で成り立っているということです。

けれども、その「何から何まで」という思考を超えてしまえば、それを「無」と言おうが「空(くう)」と呼ぼうが、どうでもいいのです。

そのことを、真の静寂と言っていたのです。私たちは自分固有の心を持っていると信じていますし、その心の中で思考したり感情を感じたりしていると考えています。

それこそが信念体系の根っこであり、それが思考なのです。その思考群が拠り所としている場こそが「意識」なのです。

純粋な意識を説明することは不可能なことです。決して描写することのできないもの、それが本当の真の私たちの姿なのですね。

それは誰もが感じることができます。何をしているときでも、何もしていないときでも、私の表現方法では、それを真の静寂と呼びます。

知覚ではないところ、認識することのできないところ、そのくせ最も自分と近くにあるもの、それが真の静寂さです。誰でもそれを知っています。

立ち止まって、そこに意識を向けていれば、静寂さに気づくはずです。

瞑想とは真の静寂さに気づいていること

昨日のブログで瞑想について書いたのですが、正直に言って私は瞑想の専門家(それがどういう人を指すのかは分かりませんが)から、それを習った経験がありません。

特別な教えを受けたこともないし、必要な訓練を積んだわけでもありません。したがって、瞑想の何たるかを人に伝えるような知識も経験も持っているわけではありません。

それに、特定の時間を使って瞑想に明け暮れている毎日を過ごしているわけでもないのです。なので、自分なりの解釈でしか書くことができません。

そういうことなので、もしかしたら間違った情報になってしまうかもしれませんが、でもそれを恐れずに敢えて書いてみたいと思うことがあります。

それは瞑想は誰でもできるということです。なぜなら、私たちは常に瞑想状態にいると言ってもいいからです。ただし、そのことに気づいているかどうかは別です。

私なりに思う瞑想とは、何も一人静かにして、じっとして目を閉じて無念無想を心がけるということではないと感じるからです。

そうではなくて、実はいついかなるときでも自分が瞑想状態にあるということに気づけばいいだけだということです。

それは、どんな物語の中で自分が活躍していようと、幸せをかみ締めていても、悲しみの中で涙にくれていようと、そんなことは構いません。

いかなる場合においても、静寂さがあるということに気づいていればいいのです。実はそのことこそが瞑想と言えるのだと思います。

その静寂さとは、単なる心の穏やかさではありません。だから、ただ静かにして心が波立たない状態であることでもありません。

静かな状態の心でも、ひとたび石が投げ込まれたなら、静かだった水面には波紋が広がります。ここで言っている静寂さとは、決して変化しないもの、変化を支えているものです。

朝目覚めてから、夜寝るまでの一日の生活のうちのどんなときでも、その静寂さに意識を向けることができるなら、それこそが瞑想なのだと思うのです。

すべての学校で瞑想の時間を作って欲しい

確かアメリカのどこかの小学校での話しだったと思うのですが、生徒たちに毎日瞑想をするように仕向けたところ、彼らの生活態度や学力にいい変化が見られるようになったらしいです。

瞑想と言ってもそれほど長い時間をかけるのではなくて、昼休みなどの時間を使って気軽にみんなで行うもののようでした。

それは当然、大人よりも概して落ち着きのない子供たちだからこそ、余計に効果が上がったのではないかと思うのです。

勿論、定着するまでにも、そして目に見えるような効果が出てくるまでにも、それなりの時間がかかったはずですが、いずれは確実に心に影響が現れるはずです。

けれども、みんなで瞑想をしようと初めに提案した教師によると、父兄の多くの人たちから猛烈に反発されたのだと言っていました。

それは、ただ「瞑想」というだけで、もう何か怪しい宗教でも始めるのではないか、子供たちが危険な洗脳をされてしまうのではないかといった、歪んだ誤解をされたのです。

それくらい、精神的なことというのは微妙な要素を含んでいるのですね。そうした父兄の反対を押し切っても、実現してしまえば結果がすべてを物語っています。

勿論、もう誰も反対などを唱える人はいなくなったのでしょう。私は大人でも瞑想が苦手という人を沢山知っています。

そういう人でも、子供のころから瞑想に慣れ親しむような生活習慣があったとしたら、きっと違っていたのではないかと思うのです。

日本は勿論のこと、世界中のすべての小中高の学校で数学や国語を勉強するのと同じように、あるいは体育の授業があるのと同様に「瞑想」を義務付けて欲しいと願います。

何もお坊さんや修行僧のように長い時間をかける必要などないのですから。瞑想をして毎日の物語から少しの時間でも離れていることができたら、国家レベルで何かが変わっていくのではないかと思っています。

それは勿論国民が国を作るからですね。国が繁栄して経済大国になるということに直接繋がることはないかもしれませんが、他の国が手本にしたいと思うような国になるのではないかと思います。

物語から離れる時間を作ることが大切

毎晩、日付が変わる時刻の少し前になると、今日もブログを書かないとなあと思って、今やっているようにパソコンに向き合うことになります。

少々面倒な気もしますが、その反面何かを書くことが好きなんだろうということも、気づいているので、まだまだ続いていくんだろうなと。

このブログを書く直前だったり、あるいは書いている最中というのは、ある種瞑想しているような気分に近いものがあって、それがとても心地いいのです。

一日を過ごして、自分の人生には大きな変化など何もないのですが、それでも仕事を立て続けにやった日があれば、まったくボーっとしていたような日もあります。

どんな一日を過ごしたとしても、こうしてブログに意識を向けていると、何となくとても気持ちがスーッとして清々しい気持ちになれるのです。

人は物語が大好きなのですね。だから、テレビドラマや映画などを観ることがこの世界から廃(すた)れることはないのでしょう。

夢中になって、その物語に入り込んでしまうことができます。自分の人生にそれほどのドラマ性を求めないにしても、やはり退屈しない物語を好むのです。

そして、その物語が作り物であろうと現実のものであろうと、人はいつだってそこから離れようとはしません。

けれども、ブログを書いているときには、あらゆる物語から離れている感覚が常にあるのです。私にはその感覚がとても大切なのだと思うのです。

物語から離れていると、思考が停止しないまでも、自分が思考よりも意識だという感覚を取り戻すことができるからなのでしょう。

ということで、もうしばらくはこうしていつも通りに意味のないブログを書き続けることになるんだろうなと思っています。

物語から離れていると、時間と空間の感覚からも離れてしまうような気がします。そこには、何とも言えない平和があると分かります。

逃亡生活にピリオドを打つ

またまた、元オーム真理教の指名手配犯人が捕まりましたね。昨年末から、こうも続けて逮捕されるというのには、どうも裏がありそうです。

それは、死刑が確定した麻原彰晃の死刑執行を先延ばしにするための見え透いた信者たちの作戦のように感じるのは私だけでしょうか。

それはともかくとして、長い間の逃亡生活はさぞ心が休まることもなくて、辛く苦しい不自由な生活だったろうと思うのです。

それに比べたら、捕まって初めて分かる心の平安を手にすることができたのではないかと推測することができます。

刑務所に留置されて自由を得たなどというのは、確かにおかしなことと感じますが、でも逃亡生活の方が遥かに精神的には拘束されていたわけですから。

そして、実は私たちの誰もが多かれ少なかれ逃亡生活を送っています。一体何から逃げ回っているのかというと、それは自分の「惨めさ」からです。

しかもその惨めさは、遥か昔の幼い頃に作られたものなので、年を重ねるごとにその逃亡生活は年季が入ってくるというわけです。

自分の惨めさを何事もなく、素直に観れる人はあまりいないでしょうね。それを見ないようにするために、ひどい恐怖でフタをしているのですから。

したがって、その恐怖をまず見る覚悟がなければ、惨めさのレベルまで入っていくこともできないということです。

でも、自分の不自由さを感じることができる人は、逃亡生活をやめるための選択肢を見出すチャンスを持っています。

自分の惨めさという追手から、遥か遠くに逃げているつもりでいても、その実すぐ後ろに影のようにピタッとくっついていることに気づくことができるからです。

そうしたら、もう逃げないことです。立ち止まり、静かに振り向くことです。あらゆる物語を脇に置いて、恐怖でフタをされていた「惨めさ」そのものと共にいることです。

その結果、初めて惨めさとは自分がこしらえた幻想だったんだと気づくことができます。「惨めさ」とは、「私」という思考の上に作られた更なる思考です。ただそれだけだったんですね。

あらかじめ真実を知ることはできない

科学者、特に物理学者というのは、この宇宙の根底には単純な法則があるはずだという信念に突き動かされて、それを何とか証明しようと躍起になっている人たちです。

そのレベルでは、人類は今までにもすばらしい業績をあげてきました。アインシュタインが発見した、E=mc2 というあまりにもシンプルで美しい公式がその筆頭かもしれません。

けれども、真理というのはそうした宇宙法則を遥かに超えています。それは、こういうものだという具合に、表現することさえできません。

私たちの本音とは、宇宙法則のように、これが正真正銘の真実だというものがあって欲しいと願っているのです。

それは、理性によって理解したいという本能的な欲求があるからです。ところが、残念なことに真理はこうした理性を超越しているので、把握する対象とはなりえないのです。

真理は我々の思考の外側にあるので、決して言葉や空想する力を使って近づこうとしてもどだい無理なのです。

それなら、真理とは一体どこにあるのか、それはこの宇宙のすべてを現象化している源であるし、それこそが真の私たちの姿なのでしょう。

それは決まったものではありません。だから、私たちから見ると、一瞬一瞬変わるもののように思えるかもしれません。

例えば、自分は瞑想をしたほうがいいと感じるときがあります。そのときには瞑想すべきです。場合によっては、努力が必要になるかもしれません。

けれども、瞑想が必要ないと感じることもあります。すべては神の恩寵によってシナリオ通りに推移しているということがクローズアップされるとき、努力よりも耳を澄ますことが適しています。

こうしたことは、あらかじめ答えが与えられるものではないのです。その瞬間瞬間にこそ、適切な答えが導かれるということです。

真理とはそういうものです。それは、自分に徹底的に正直に、そして誠実になるその瞬間にのみ、やってくるものだと言えます。

本当は何も見てはいない

人は自分の意見を主張するときには、それが正しいと信じているはずです。そうした正しさの基準がなければ、意見など言うことはできなくなってしまいます。

けれども最近は、自分はこう思うということを相手に伝えるときに、それは本当にそう思っているからこそ、そう言うのですが、その正しさを本当には信じていないと感じます。

信じていないというよりも、それが正しいと感じているというその想いをただ観ている心の部分があるということです。

その部分とは、信じるとか信じないという範疇から離れている心の領域なのだと思います。それはただ静観しているだけなんでしょうね。

それと同じようにして、自分の感覚でさえもそのように観ていることに気づきました。例えば、自分の視覚についてです。

何かを見ているのに、何だかちゃんと見てはいない、あるいは実は何も見ていないのではないかという感覚があるということです。

それ以外の知覚である聴覚や触覚についても、同じような感じがしています。何かの音を聞いているのに、何も聞いていないような感覚。

以前は、より自分の深い部分に落ちていきたくて、そのためには知覚が邪魔になる、知覚を遮断したくてアイソレーション・タンクに浸かったこともありました。

でも今は、必要ないと思えるようになったのかもしれません。知覚を遮断する必要はなかったということです。

あまりに強烈な刺激の知覚はともかくとして、ごく普通の知覚はそれを遮らなくても、その知覚からくる感覚とは別次元の自分と繋がれている感覚というのがあるのです。

だからこそ、何かを見ていても、何も見ていないという感じがするのかもしれません。この感覚は確実に自分の中で増えてきています。

これについての努力は必要ないですが、忘れないでいる時間を増やすということと、関係があるのは間違いないですね。

「私」という自己防衛の方法

「私」という思考が作られるようになった理由とは、それがあることで最大の自己防衛ができるということなんだろうと分かりました。

どんな動物であろうと、個体として生き延びていくための自己防衛機能が必要なのですが、人間だけが最も効果的な自己防衛の作戦として、「私」という自覚を生み出したのでしょう。

最近、思考には目的として大きく二つの側面があると思うようになっていました。一つは、便利なツールとしての思考です。

そして、もう一つが自己防衛のための思考です。この二種類の思考において、それぞれ特徴的なことがあります。

それは、ツールとしての思考に対しては、私たちはそれを能動的に利用しようとする姿勢を伴うということです。勿論ツールですから、それがどれほど便利なものであれ、当たり前のことですね。

けれども、自己防衛としての思考の場合には、主従逆転してしまっているのです。つまり、私たちはその思考に対して受動的になってしまうのです。

そしてその受動的な状態があまりにも深く組み込まれてしまうと、無自覚にその思考に支配されてしまうということが起こるのです。

ところが、残念なことにこの思考による自己防衛のやり方で、本当に自分を守ることができるのかと言えば、そうではありません。

その防衛方法の特徴は、ほとんど一過性のものであるために、来る日も来る日もその防衛方法に頼り、結果として自己犠牲を積んでいってしまうことになるのです。

人間的な自己犠牲の原点は、「私」という思考が元となった自己防衛のやり方にあるということです。これは他の動物が本能的に行う自己犠牲的行動とは異なるものです。

私たちが幼い頃に作った信念体系の中には、この自己防衛と自己犠牲のトレードの方法が書いてあるというわけです。

どんな自己防衛の方法を使っているのかを、よくよく見ることです。そして、都合の悪いものから逃げようとしたその瞬間に、そのことに気づくようになることが大切なのです。

そうして初めて、逃げずに闘わずにただいるということができるのです。その地点で待っていてくれるもの、それこそが、広大な真の自己なのです。

理性の限界を理性が知る

人間には、未来を100%正確に予想することは不可能です。これは、どれほど科学が進歩発展してもそうなのです。

そのことは、「カオス理論」というもので明らかにされつつあるようです。カオス理論というのは、「バタフライ効果」とも呼ばれています。

それは、蝶々が羽ばたくと、その地球の反対側で台風が起こる、と言ったような例えで表現されるので、そういう呼ばれ方をするのです。

つまり、全体としては実に取るに足りないようなほんのちょっとした事が、後々まったく異なる未来を作り出すことになるということ。

これは、「初期値鋭敏性」という言い方がされているのですが、簡単に言えば、一番初めのほんの些細な違いによって、大きく結果が変わってしまう可能性があるということです。

仮に、無限に高速なコンピューターを誰かが開発したとして、そのコンピューターにあらゆるデータをインプットして、適切なアルゴリズムにより演算することで、結果を正確に出せるものとします。

ところが、私たちが初期値としてインプットするデータとは、観測によるものです。それはどれほど正確にしたところで、100%の精度というのは不可能なのです。

したがって、どこまで進歩したとしても、未来を予想することはできない、だから「カオス」だということなのですね。

私たちの科学が知覚を前提としているということが、残念なことに致命傷となっているということです。

やはり、この宇宙の正確な未来は神のみぞ知るということなのでしょう。でも人類が、自分たちの理性によって、理性の限界を理解するということはすばらしいことだと思います。

人間とコンピューターは同じ

昨日のブログの内容について、少し補足しようと思います。

以前、私がコンピューターがどれほど進化しても、決して人間のような知性を持つようになることはないと断言していた本当の理由は、ただ人間はコンピューターとは違うと思いたかったからだと分かります。

自分という存在が、いくら高度な処理能力を持つようになったとしても、所詮は演算しかできない「でくの坊」であるコンピュータと一緒にされては困ると感じていたのです。

人間の持つ知性、特に自由意志というものをコンピューターが獲得するようになるとは、どうしても思えなかったのです。そしてそれは今でも変わりません。

今、私がもしかしたらコンピューターは人間のようになることが可能かもしれないと思うようになってしまった本当の理由は、コンピューターに対する考え方が変わったからではありません。

そうではなくて、私たち人間に対する見方が根幹から変わってしまったからなのです。将来コンピューターがどんな進化を遂げようと、それとは無関係に人間こそコンピューターそのものだということに気づいたのです。

これもきっと、冗談言うなという反論をされるかもしれません。コンピューターの定義というのは、何らかの入力を受け取って、プログラミング通りにそれを処理して、その結果を出力するもの、と言うことができます。

その定義からすると、私たち人間は何の入力がなくても、自由意志によって独自の出力を作り出すことができると思われているので、確かにコンピューターではないという結論になります。

けれども、本当に何の入力も与えられていないと本当に言い切れるのか、というところに大切な要点があるのです。

私が今感じているのは、あらゆる入力が源泉からやってくるということ。その入力とは、知覚を通して外界から入ってくる情報かもしれないし、思考かもしれません。思考の中には、決意も含まれます。

私たちは、生まれながらに与えられたDNAと体験によって蓄積されたプログラミングによって、正確に処理を行い、結果を出力しているのです。

それはただそのように起きているのです。そこには、「私」という特別な存在がいるわけではありません。「私」という思考も源泉から与えられたものだということです。

ここまできて初めて、コンピューターの行く末がどうなろうと、そこへのこだわりが全くなくなってしまい、こうに違いないという想いがなくなってしまったということです。

でもはっきり言えることは、コンピューターが自由意志を持つことはないということです。そしてそれは、人間である私たちにも同様に言えることなのです。

この文章を数年前の自分が読んだら、猛反発することは間違いないと思います。そういう意味では、人は変わるものなのですね。