未来のスーパーコンピューター

先ほど、久しぶりにNHKの番組を観たのですが、それは最先端のスーパーコンピュータについての内容でした。

日本が誇る「京」というスーパーコンピューターは、例の悪名高い民主党がやった事業仕分けで「二番ではいけないんですか?」で有名になった奴です。

現在残念ながら、米国で「京」の倍の処理速度を誇るコンピューターが開発されたそうですが、両国の戦いはこれからも続くものでしょうね。

ところで、コンピューターが今後益々進歩することで、今まで想像上の産物でしかなかったような高度な地震予測などが現実のものとなっていくようです。

さらに、これまで絶対に人間にしかできないと思われていたような知的な仕事もこなせるようになるかもしれないということでした。

日本では、数年後までに東大の入試をコンピューターに受験させる計画があるそうです。米国では、テレビのクイズ番組にコンピューターを出演させて、そのクイズに見事優勝したそうです。

私は何年か前まで、どれほどコンピューターが進化したとしても、人間のような知性を身につけることなど決してできないと断言していました。

それは実は知性というよりも、意識を持つということは不可能だろうと思っていたということです。そのことについては、今も変わりは在りません。

けれども、思考と意識というものは根本的に違うものだということが分かった今、コンピューターの進化によって、人間の「ように」活動することは不可能ではないと思うようになりました。

それは充分に考えられることだと思うのです。なぜなら、それは人間自体がすでにコンピューターのようなものに違いないと思えるようになったからです。

そうなると、人間とコンピューターの本質的な違いはなくなります。コンピューターに人間と同じ生活をさせることは可能かもしれませんし、コンピューターが「私」という自覚を持つようになるかもしれません。

それでもいいと思っています。なぜなら、本質の自己とはそのどちらでもないと分かるからです。知らない間に、自分がこんなふうに変化していたとはちょっと驚きです。

意味付けに意味はない

私たちは何に対しても、尤もらしい意味を付けたがります。この話題は、このブログでも過去に何度も繰り返してきました。

意味づけとは、ただ起きていることに対する思考です。また、何も起きていなくても、思考によってその内容に意味づけすることさえできます。

例えば、数字というものはこの世に実在するものではありませんね。それは単なる思考の産物であり、そういうものを概念とか観念と呼びます。

そうしてできた架空の数字を使って計算するという、これまた思考を働かせることができます。そして、その計算結果が正しいとか間違っているという具合に、思考が連鎖していきます。

私たちが何か外側のものを認識するときには、知覚を用いますが、それは単に外界からの情報取得だけではなく、そこに意味づけする思考が後に続きます。

したがって、知覚するということの中に決まって思考も含まれてしまっているということです。そのために、あるがままを見るということができなくなっているのです。

「目の前にコップがある」というとき、これは事実だと感じてしまいますが、それは知覚からやってくるものであり、それは思考です。

目の前にあるものをコップだと判断するのは、思考によってしかできないからです。このことから類推できることですが、思考が停止すると通常の知覚ができなくなります。

だからこそ、深い瞑想のあいだにすべてのことが分からなくなり、上下左右前後が不覚になるのもうなづけるというものです。

そこにコップがある、は思考であり、「ただ在る」が真実です。でも、もしも「ただ在る」という言葉の中に入ってしまえば、それはすぐに思考になってしまいます。

意味を求めることが悪いということではありません。ただ、思考によって意味付けし続けているということに絶えず気づいていることが大切です。

そうすれば、意味付けを否定せずにそれから離れていることができます。意味づけに意味はありません。そこにこそ、真の平和があるのです。

そこにドラマを見るかどうか

先月とうとうスカイツリーがオープンしたそうですね。完成する前に、すぐ近くまで行って、全体を見たことがありました。

でもきっと、この先も当分はエレベーターで上まであがって景色を楽しむことはないだろうと思います。相当人気が高くて混雑するだろうし、また高額なんですよね。

高いところから、地上を見下ろせば走っているクルマがミニチュアカーのように見えるし、人間はほんの豆粒くらいになってしまうのでしょう。

そうなると、上からの眺めにおいては、実際に地上で何が起ころうと、何か平和な感じがするものです。ただあるがままに動いているというのか。

そして高度を少しずつ下げていくと、地上で起きている一つひとつの事象がもっとはっきり見えてきます。そうなると、そこには何らかのドラマのような面がうかがい知れるようになるのです。

たとえば、地上で交通事故が起きたとして、それをスカイツリーの展望所から見るだけだったら、ただ眼下で起きていることが見えているだけです。

けれども、地上にいてそれを身近に目撃したとしたら、それは恐ろしい光景として映るかもしれませんし、何かパニックのような様相を見て取れるかもしれません。

つまり、近くで見れば見るほど、ドラマ性が強くなるということです。私たちは、自分の人生をいつも最も近くで目撃しているので、それを物語として見てしまうのです。

物語になった途端に、起きている現象に対して必ず何らかの意味付けを行うことになります。意味があれば、そこには善悪や正不正、価値などの要素が付加されます。

そうして結果的には、幸不幸を感じるようになるということです。人の幸せや不幸というものは、物語がなければ存在しません。

つまり、起きていることを物語として解釈する代わりに、ただそのままに見るだけであれば、そこには幸不幸が発生することはないということです。

宇宙空間から地球全体を見れば、たとえ地上で殺戮が繰り返されていようと、地球はとても平和に見えることでしょうね。

もしもすべての人が覚醒したら…

すべての動植物の中で、人間が最も進化した生物なのかどうかは知りませんが、少なくともこの地球上では人間だけが「私」という個人であるとの自覚を持っています。

もちろん人間の場合であっても、他の動物のように生まれてからしばらくの間は、「私」はありませんでした。ただ、生物としての反応をしながら生きていただけです。

それなのに、人間だけが次第に「私」という自覚が芽生えてくるのです。これほど、不思議なことは他にはないのではないでしょうか?

UFOに乗ってやってくる宇宙人がいるのなら、彼らもまた我々と同様に「私」という自覚があるのだろうと想定されます。

想定されるだけで、本当のところは分かりませんね。彼らが地球上の動物と同じか、あるいは覚醒している生き物であるなら、「私」はないからです。

仮に、私たちの全員が覚醒したとしたら、この世界はどうなるのかと考えてみたことがあるでしょうか?なかなか興味深いことになるのかもしれません。

例えば優秀な科学者が覚醒したら、科学の探求を突如やめてしまうとは思えません。「私」という我欲がなくなるだけで、そのままの研究は続くはずです。

また、芸術家の人たちだって、彼らの固有の芸術活動が終わってしまうということはないはずです。医学の進歩も停止してしまうということもないでしょう。

もっとも、我欲がなくなってしまうので、現在特に活躍している独裁国家のようなものは消滅してしまうと思われます。

それと、無駄な戦争、残虐な殺し合い、テロ行為なども影を潜めてしまうはずです。政治や経済の世界も大きく様変わりするでしょう。

けれども、ユートピアのような世界になるとは思いません。なぜなら、動植物の生態系は弱肉強食が存続するはずですし、私たちの目で見て残酷と感じるものであっても、自然の計らいとして残るからです。

病気や事故は減るかもしれませんが、根絶することは不可能であることは間違いありません。人の寿命もある程度までは延びるかもしれません。

それは、無用なストレスがきっとなくなるからですが、それでも無限に生きられるわけではないですね。生きているものにはいずれ死が訪れるのです。それは今と変わらないはずです。

そうやってイメージを膨らませると、そんな世界も悪くないなと思うのですが、残念なことにその世界に住んでいる個人が一人もいないのですから、変な感じですね。

興味の対象は何か?

自分以外の誰かのために生きて、不幸になった人を見たことがないのと同様に、自分のためだけに生きて幸福な人も見たことがありません。

そう考えると、私たちは随分と微妙な立場に立たされているんだなと思うのです。自分を幸せにしてあげようと頑張ると、その結果は幸福にはなれなくて、自分に無頓着であると不幸にはならないというのですから。

もっとも、この世的な幸福というのは、人によって違いがあるのでしょうから、画一的には言えないのかもしれませんが…。

表現を変えて言えば、自分のためだけに生きている人は、心が満たされるということがなく、誰か(何か)のために生きている人は、きっと満たされるということです。

前者の人生をひたすら生きてきた私自身を例にとっても、そのことは明らかなように思います。とにもかくにも、自分以外の人やものに殊更の興味が涌かないのです。

だからこそ、何をやっても満たされるという経験をしたことがありません。自分をできるだけ幸せにしようと、思えば思うほど、どうやっても満たされないのです。

つまり、自分の幸不幸を考えている限りは、望みはないということです。この逆説的な事実をそろそろ受け入れなければならないのでしょうね。

しかしながら、私だって自分以外の何かに強く興味を抱くことができたなら、違った人生を生きることができたのかもしれないと思うのです。

それならば、なぜ興味を持つことができないでいるのかについて、見つめる必要がありそうです。それで、今何とも簡単に分かってしまったことがあります。

それは、私の心の根っこの部分に、何がどうなろうとも、それはただそういうことだ、というのがあるようです。それは言い換えれば、ただ真実を知りたいということです。

それ以外のことには、あまり興味を持つことができないということなのかもしれません。こんな人生ですが、残された少ない時間の中でどうなっていくのか、それはちょっと楽しみかもしれません。

「なんちゃって瞑想」による実験

私は人知れず、変てこな実験をするのが好きです。実験といっても、何か努力が必要なことだったり、人に自慢できるようなものではありません。

というより、わざわざ他人に伝えるようなものではありませんし、きっとあまりその意図を理解してはもらえそうにないというのが本当のところです。

さきほど、やっていた実験はそんな中でも、まだまともな方だと思えるので、少しだけお話ししてみようと思います。

いつものように、お手軽で気ままな「なんちゃって瞑想」をやっていたときのことです。この「なんちゃって瞑想」というのは、どんな状況でもできて、時間もかかりません。

したがって、瞑想とは名ばかりですが、それでもちょっとした実験をやるには、利用価値があると自分では思っています。

それをやると、自分は意識だという感覚が強くなり、その意識である自己が突然広がったような感覚になるのです。

その感覚に注意を向けていると、そこには恐怖というものが入り込む余地がないということが分かります。恐怖とは縁がないのです。

先ほど、夜遅く一人で真っ暗な部屋でそんなことをやっていると、ちょっとした変な物音が聞こえてきたのですが、その瞬間に何とも言えない恐怖がやってきました。

それまで、意識には恐怖はないなあなどと思っていたはずなのに、その意識の広がりを見ていながらも、恐怖を感じたのです。

そのことに興味を覚えたので、今度はその恐怖に注意を向けてみたのですが、そうするとその感覚はどうも背中の辺りの感覚とリンクしているようだと分かったのです。

つまり、背中という最も無防備な身体の部分に意識が向いた状態になったということなんでしょうね。恐怖は、身体と一緒にしか湧き上がってくることができないということです。

それを確認してから、もう一度自分の意識に注意を向けていると、やはり恐怖は少しずつ消えていってくれました。世にも恐ろしい怪談話やホラー映画を観たあとでも、この実験が有効かどうかは定かではありませんが…。

いつか、機会があったら試してみようと思っています。

興味を持つだけでは真理の探究は続かない

一般論かも知れませんが、生き生きと生きている人というのは、何かにつけて興味を持って毎日を暮らしているんだろうなと思うのです。

だから、「興味津々」という言葉には、とても魅力的な響きを感じてしまいます。興味を持つということは、その対象となることに並々ならぬ関心を抱くということです。

好きな人ができると、人生が輝きだすのもそういうことなのでしょうね。子犬や子猫のエネルギーが生き生きしているように感じるのも、見るものすべてが新鮮だからなのでしょう。

けれども、単に何かに興味を持つだけであれば、ごく当たり前のことです。それだけではなくて、その興味がどれほど長く続くかということが鍵であり、それは人によって大きく違いが出てくるものです。

例えば、何かの楽器に興味を持って練習し出すことがあっても、いずれは必ず壁のようなものにぶち当たることになります。

初めのうちは練習すればするほど、上達していくことに気をよくして、益々興味が涌いてきたりするのですが、ある程度まで上達すると、それ以上上手にならなくなってしまうといったことが起こってきます。

必ずやってくるそうした壁を、ものともせずに突き進んでいく気概というのか、そういうエネルギーというのはやはり興味の深さによるところが大きいのではないかと思うのです。

「真理の探究」というジャンルがあるのであれば、そうしたことへの興味を継続させるためには、単なる興味を越えた自由への渇望とも言うべきものが、是非とも必要なんだろうと感じます。

なぜなら、普通は興味を失わずに突き進み、あらゆる壁を乗り越えた先には、越えることができた人だけが宝物を手に入れることができると分かっています。それは、言わば一芸に秀でた人になれるわけです。

けれども、真理の探究だけは話しが違うのです。なぜなら、真理の探求が行き着くところ、そこには真理を手に入れられる誰もいないというオチが待っているからです。

興味を持って続けた先には、何の報酬も待っていてはくれないわけです。それが本当に分かったときに、真理への渇望が続くのかは疑問です。

だからこそ、真理を探究している自分がいなくなるという、その恐怖を徹底的に見つめ続けることが必要になるのでしょうね。それはもう、神の恩寵に頼るしかありません。

相手によって態度を変えない

学校を卒業して社会人になったとき、私は自宅から徒歩で通える距離のところにある、某企業に勤めていました。

就職活動をしているときに、自分が希望する業界などはまったくなくて、何をしたいのかも分からないまま曖昧な気持ちで会社選びをしていたのです。

何と驚くことなかれ、就職先の企業の条件として重要だったのは、通いやすいこと。結局、その目論見がうまくいって、そこそこの上場企業でしかも徒歩通勤できるところに入社したのでした。

電車にも乗らずに、しかも設計の仕事だったので、ほとんど社内にいるため、背広を着ることも滅多になくて、会社の作業着を着て、毎日サンダルで家と会社の往復でした。

一般的な若い人たちからしたら、退屈で刺激の少ない毎日というように見えてしまうでしょうね。けれども、自分にとっては、こんな便利な環境はそうそうないだろうと思っていました。

ところが、一つだけちょっと困ったこともあったのです。それが、今日の本題に繋がることなのですが、自宅から会社までは歩いて15分くらいで着いてしまうのです。

その歩いている間に、デレっとした家の顔から、真面目な会社員の顔へと変身しなければならないことに気づいたのです。

何か考え事をしていて、気づいたときにはもう会社に着いていたということがあったのですが、そのときは少し焦りました。気持ちがシャキっとなっていなくて、このままでは仕事ができないと感じたからです。

つまり、自宅にいるときの自由気ままな自分と、職場で挨拶したり、仕事をするときのキリっとした自分とを明確に使い分けていたのです。

そうしないと仕事の効率が悪いということもあるかもしれませんが、本当の理由は人との関わりに支障をきたさないための配慮だったのです。

特に社会人になりたての頃などは、自分が一番年齢が下ですから、すべての職場の人に対して敬語で接しなければならなかったのです。

これに気づいたときには、一度電車などに乗って、自然と気分を変えられるほうがいいということもあるんだなと思ったのです。

いずれにしても、自分は相手によって、意識的に自分の態度を変えていたということですね。そのとき、何だかすごくつまらない人生のように感じたのを覚えています。

最低限度のルールやマナーを守るのは、いたって当然のことと思うのですが、本質的には誰が相手であろうと自分のままで向き合うことができたら、気持ちいいはずです。

年齢を重ねてくると、確かに少しずつそのようになってくるものです。それでも、相手によって自分の態度を必要以上に変化させていると気づいたときには、なるべくこのままの普段の自分に戻るように心がけています。

いつも、誰が相手であっても自然体で、自分らしく接することができるといいのでしょうね。

対象と一つになれば、それは消滅する

私たちが認識できるものとは、何らかの対象物なのです。つまり、認識する主体としての自分があり、その向こうに認識されるべき対象があるということです。

認識するとは、対象物そのものを真に知る代わりに、その対象物に関する属性や何らかの情報を手に入れるということです。

その対象物は、自分の外側にある物理的な何かであるかもしれませんし、内面にある思考や感情である場合もあるかもしれません。

いずれにしても、知覚したり味わったりする対象であれば、それらに関して認識することが可能となるのです。

それでは、主体である自分と対象物の距離が近づいて、とうとう一つになってしまったとしたら、一体どういうことになるでしょうか?

それは明らかに、主体である自分にとっての対象物は消滅してしまうことを意味します。あるいは、消滅しないまでも、その存在を認識することはできなくなるということです。

なぜなら、それはもう対象ではなくなってしまうからですね。ただ、自分の外側にある対象物と一つになることは原理的に不可能ですね。

けれども、内面にあるものとは究極的には一つになってしまうことが可能なのです。そのいい例として、感情を見てみることにします。

たとえば、心の中に怒りという感情があるとして、それを一つの感情という対象として認識するのが普通です。

しかし、その怒りの元となる物語(ストーリー)を脇に置いて、ただただその怒りと共に在るようにすることで、その怒りの中に入っていくことが可能です。

そうすると、もうその怒りを一つの対象として認識することができなくなり、その怒りは消滅してしまうのです。これこそが、本当の意味での感情の開放なのです。

向き合いたくないと思っているどんな感情であろうとも、それと一つになるまでただ見るということを実践すれば、その感情は必ず消滅します。

悲しみと一つになったとたんに、悲しくなくなってしまうのです。だから、もう涙が出てこなくなってしまうということです。

いやなものを拒絶すればするほど、その対象は自分にとって大きなものとなるのと正反対に、その対象と一つになることができれば、それはもう恐いものではくなくなり、消滅してしまうか、特になんでもないものとなってしまうのです。

是非、試してみることをお勧めします。

私には決して真理は分からない

私は子供のころ、内心で大人たちを馬鹿にしているような、クソ生意気なところのある、そういう意味ではあまり可愛げのない男の子でした。

それでも今思えば、やはり考えていることは単純で幼かったのです。自分があまりにも何も知らないので、何でも知らないことのない自分になれたらいいのにと思ったものでした。

勿論、そんなことは無理に決まっているので、その次に考えたのは何でも知っている存在がどこかに一人でもいてくれたなら、それだけでもいいのにと考えたのです。

それがみんなが神と呼んでいるものなのかもしれないと思っていました。大人になって、少しばかりそうした思いが洗練されていったと思います。

それは、究極の真理を知りたいという欲求に変化したのです。この世の中のどんなことでも知りたいというよりは、真理を知りたいというように変わったのですね。

勿論、実際問題そんな絶対的な真理というものがそもそも実在するのかどうかも分かりません。そのことを含めて知りたいという強い思いが出てきました。

そうこうしているうちに、その真理を知りたがっている「この自分」というのは何なのか、ということについての真理も同様にして知りたいのだと気づきました。

そして、とうとうこの自分とは思考(想念)に違いないということ、そしてそのことすら思考での把握に過ぎないということにも気づきました。

結局、自分が理解できることというのは、どこまでいったところで単に思考のレベルでしかないということだと分かったのです。

これが、思考のできる最大限の理解のレベルなのですね。これは甚だ残念なことですが、それを潔く認めるしかありません。

つまり、この自分は決して究極の真実を知ることはできないということだけが、完全に明確になったということです。長年の夢はついえてしまったということです。

逆に言えば、この自分が消えたあとにこそ、すべてが真理に満たされることになるのだろうということです。それまでの間は、せいぜいこの世界での暮らしを楽しめばいいのでしょうね。