理不尽さとの闘い

最近、ipad を購入してからというもの、パソコンと向き合っている時間が減った代わりに、ipad と共にいることが多くなってしまったようです。

昨日も暇に任せて、無料で観ることのできる映画を ipad でずっと観ていました。その中で、何とも一言では表現できないものがあったので、ご紹介させてください。

その映画は、「ファニーゲーム U.S.A」という題名の洋画なのですが、内容はいたってシンプル、避暑地で休暇を楽しむ家族のところへ、犯人たちが侵入してきて、最終的には殺されてしまうという、悲惨な物語。

観ていて、とてもいい気持ちのする映画ではないので、決してお勧めするつもりはありません。けれども、観ながらちょっと気づいたことがありました。

この映画、実に理不尽さの塊のような内容なのです。最初から最後まで、やっぱりそうだろうと納得することがほとんどありませんでした。

ようやく一つだけ、納得できることを見つけたのは、その犯人のうちの一人の生い立ちが、酷いものだったことを知らせる場面があるのです。

でもそれ以外は、どんな原因も提示されないままに、悲惨きわまりない結果だけが起こっていくという映画なのです。

自分の中の正しさが、ずっと不正と闘っていたのを、観ながら何度も感じていました。恐怖映画でもあるのですが、さすがに作り物なので恐怖はほとんど感じることができませんでした。

それは製作側の狙いでもあるんでしょうね。そのせいもあるのか、恐怖が邪魔しない分だけ、理不尽さと闘わねばならないということを思い知らされたわけです。

もしも、自分が殺される家族のうちの一人だとしたら、犯人たちに対して怨念を残さずに死んでいくことができるだろうかと、気づいたら真剣に考えていましたね。

これは単なる映画ですが、こうした理不尽きわまりないことは、人類の歴史上いくらでもあったはずだろうし、今でも、地球上のどこかで起きているかもしれません。

人がカルマを背負ってしまう理由がよく分かりました。でも死ぬときには、一つの物語が終わったくらいの気持ちになれるようにと祈るばかりです。

分からないことを認め、信じることを止めてみる

先日初めての方からお電話がかかってきて、過去世退行催眠を試してみたいのですがということでした。

通常ですと、すぐにそこで予約の日時についてお聞きするのですが、その方は私自身が過去世というものに対してどんな信念を持っているのかということについて、聞いてきたのです。

私はそれについて、正直に答えるしかできないので、普段どおり、輪廻転生というものが本当なのかどうか、私にはわからないし、こうだという信念も持っていないとお伝えしたのです。

ところが、その方は仕事としてやっているのに、そんないい加減な考えでは問題があるということで、繰り返し不満をぶつけてきたのでした。

私の本音は、その人の何らかの問題がそれなりに解決すればそれでいいので、それ以上の思い入れはないときっぱりお伝えしたのですが、何度も食い下がられて結局40分近くも電話を切らせてはもらえませんでした。

久しぶりに珍しい経験をさせてもらったのですが、人は自分が知らないことについて、誰かに確証を与えてもらいたいという気持ちがあるものなのですね。

その方だって、本当のことを言えば、見ず知らずの私が何も真実について、分かるはずもないと知っているはずなのに、それならそれを仕事にするなということなのでした。

私たちが本当に分かっていることは、自分は何も分からないという一点だけなのです。分かっていたい、できるだけ知っていたいと思うのは、人間の持っている欲望なのかもしれません。

それは、自己防衛本能から来ているものとも言えます。でも残念ながら、本当に何一つ私たちには分からないというのが真実なのです。

だからこそ、この世界のあらゆることは信じるか信じないかということで出来上がっているのです。

何も分からないことをしっかりと認めたうえで、信じることと信じないことの両方から離れていること、それこそが生きる極意なのかもしれません。

自分の人格を信じることを、一時的にでもやめてみることによって、見えてくるものがあるのではないかと思います。

思考ワールド内でのお話し

この広大な宇宙の外側がもしもあるとしたら、そこはどうなっているのだろうかという考えを持つことは可能です。

そして思考の中でその答えを見出そうとしても不可能であることも明らかです。なぜなら、その思考は宇宙の中にあるからです。

あるいは宇宙の一員だとしてもいいかもしれません。宇宙そのものが、宇宙の外に出ることは決してできません。

それと同じようにして、私たち自身が私から出ていくということも不可能なことです。私たちが思っている私というのも、単なる思考だからです。

ところが、その私という存在が、心を静かにして、つまり思考をなるべく追わないようにした状態で、今に耳を澄ますことを続けていると、私という思考と思考の隙間に、この私ではない別の自己を感じることができるときが確かにあります。

それは自分の中では、特別な経験ではなくて、不連続なびっくりするような何かでもなく、ごく平凡な体験として感じるものです。

そういう意味からすると、本当の自己とこの私という感覚は、それほどかけ離れたものでもなくて、ある程度連続しているようにも思います。

ただし、こうやって文章にしてしまうと、その途端に違うことを伝えているのに気づきます。なぜなら、思考の中で思考の外側を表現できないからですね。

次から次へと思考がやってきます。そしてそれは別に何も悪いことでもいいことでもありません。その思考をむやみに信じないということだけです。

思考の中で遊んでもいいし、思考から作られる感情に一時翻弄されるのも別に悪いことではありません。でも、そういったすべてが思考ワールド内での話だということです。

私という思考が、本当の自己を捉えようとすることを、完全にあきらめることが一番です。思考は思考を超越できないのですから。

痛みと共にいてみる

久しぶりに左下の奥歯の歯茎が腫れてしまいました。この数日の間、ズキズキと脈打つし、夜はゆっくり眠りたいので痛み止めの薬を飲んでいます。

若い頃は、今よりももっと不摂生をしていたためか、たまに歯茎が腫れて、辛い思いをしたことがあったのですが、この20年間くらいはこれほどの腫れはなかったのです。

左の頬がぷっくりと膨らんで、熱をもっているようです。手のひらを当てて、自己ヒーリングしてみると、ものすごくジンジンします。

腫れる痛みというのも、なかなか鬱陶しいものですね。暇なので、実験をしてみようと思い立って、以下の三つのケースで痛みの感覚が変化するのか、試してみました。

一つ目は、ゲームなどに集中してみるのを試してみたところ、やはりその瞬間はある程度痛みのことを忘れていられるようですが、集中が途切れたときに、前よりももっと痛みが強くなることを発見。

きっと、若干興奮するために、歯茎の血流が盛んになるのでしょう。この方法は、集中がほどけたときに疲れも感じるため、お勧めできないと判断しました。

二つ目は、ごく普通に本を読んだり、メールをチェックしたりという状態。痛みには、波があってそれほどでもないと感じるときと、ああ~またやってきたと感じる辛い時とがあります。

そして三つ目は、他のことは何もせずに、ただひたすらその痛みと共にいるようにしました。そうすると、痛みはなくならないのですが、その質に変化を感じることができました。

何と言うか、苦しみが減って純粋な痛みだけが裸で感じられるというのか。そうすると、不思議なことに、なぜ人は痛みを嫌うんだろうという昔からの疑問がやってきました。

つまり、そんなことを思うくらいに余裕ができるということです。この痛みを自分にはどうすることもできないと観念するとなおいいです。

何とか冷やして痛みを小さくしようとか、気を紛らそうとしないほうが楽になれるということです。楽といっても痛みと一緒にいる楽さというのか。

この際、徹底的にこの痛みと共にいるようにしてみようと思います。でも、寝るときには、痛み止めを飲みま~す。

目覚めはエゴにとっては悲惨

アジャシャンティの「あなたの世界の終わり」という本を読んだのですが、本当にいい時代になったものだと思います。

というのも、この本のサブタイトルは、「目覚めとその”あと”のプロセス」というもので、目覚めを経験した人が読む本だというから驚きです。

「定着しない目覚めから定着する目覚めへ」という文字が帯に書いてあって、少し前だったらこんな本出して、一体誰が読むの?と思ったはずです。

けれども、これは目覚めを体験した人が、陥りやすい罠や気をつけるべき心構えなどについて書いてあって、それだけ目覚め体験者が数多くいるということですね。

目覚め体験の自覚があろうがなかろうが、とても参考になることがぎっしり詰まったいい本だと思います。

例えば、以下のような文章が載っていました。

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目覚めの中にエゴのためになることは、何もありません。目覚めとは、”エゴから”目覚めることです。ですからエゴ的観点では、目覚めには利益がありません。

目覚めとは、”存在の利益”になるのです。それはあなたの本質に利益があるのです。しかし、それはエゴには利益がありません。

実際、エゴの観点から真実を見ることほど、悲惨なことはありません。もしエゴが真実を見れば素晴らしいことだろう、エゴは喜びと幸福に圧倒されるだろうと人は思うかもしれませんが、たいていそうではないのです。

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なかなか面白いです。結局、苦しみから逃れて幸せになりたいという一般的なエゴの願望のためには、目覚めは期待しないほうがいいということになります。

じゃあ、一体何のために目覚めから覚醒あるいは悟りへと向かう必要があるのかということになるのですが、それは結局真実を知りたいという奥深くからやってくる祈りのようなものかもしれませんね。

今更ながらのコーステキストの理解

一昨日の土曜日は、毎月恒例となっているコースの勉強会の日でした。もうすでに40回目を迎えたと思うと、随分と長く続いているなあとやや感慨深いものがあります。

最近では10人集まらないこともあったりして、ちょっと寂しい感じがしないでもないのですが、それでも淡々と続いていくんだなと…。

思えば、2009年の1月から始めた勉強会ですので、あれから3年半が経とうとしています。その間に自分の中で、読み方というか読んでいる自分の反応が何度か変化したのを覚えています。

最近では、少し距離を置いてテキストを読んでいたように思います。それというのも、ワークブックの実践こそが、コースの心臓部だということに気づくようになったからです。

ワークの実践は個人がそれぞれにやっていくしかないものなので、勉強会ではやはりテキストを読んでいくことくらいしかできないのです。

そんな中で、一昨日誰かがテキストを読んでいるのをいつものようにただ聞いていたそのときに、ふと今までとは違った感覚がやってきました。

あれ!?何だか、これまでと違う。何が違うかというと、聞いている自分自身が違っているという表現が一番合っているというのか。

それまでは、私というエゴがコースの内容を理解し、聖霊に委ねることでエゴを弱体化していくのだという内容を聞いていたのです。

それが、気がつくと、どういうわけか、このテキストは神の子に向けて書かれていたものだったのだという当たり前のことに、初めて?気がついたのです。

つまり、その瞬間、聞いていたのは、いつものエゴとしての私ではなくて、神の子としての私だったいう表現をしてもいいのかもしれません。

勿論、エゴはどっしりといつもいるのですが、それでも、ああ神の子に向かって真摯にイエスは語りかけてくれていたんだと、ようやく実感できたということです。

自分の本質に対する信頼がほんの少しだけ、深くなってくれたのかもしれないと思うと、ちょっとだけ嬉しい気がします。他の人が最初から分かっていたことを、実感するのに3年半かかったといえばそれまでですが…。

頭での理解とは、やっぱり違うのですね。そうなると、イエスの言葉の一つひとつに正面から向き合っていなかったことを今更ながら実感しました。

誰の言葉も信じることなかれ

私たちの信念体系というものは、何かを信じることで成り立っています。そして、それを固く固く信じることで、あたかもそれが真実だとして、その上に思考体系が出来上がるのです。

私たちは、自分の思考を信じています。それは例えば自分の正しさというものを信じているということを見れば、すぐにそうだと分かります。

それは生きる拠り所のようなものです。何か、こうだと信じれるものが核としてなければ、不安で仕方なくなってしまうからかもしれません。

自分の思考を信じなくなれば、思考が止まらないなどということは起きなくなります。思考を嫌うのではなく、そのまま信じないという態度です。

もしも、真実を知りたければ、まずは誰のどんな言葉も信じないという態度が必要です。そして、真っ先に自分の思考を信じないとすることです。

自分の正しさを信じなければ、自分や誰かを裁くということが激減するはずです。そして、信じないことから、いい意味での、正当な疑いが発生するのです。

疑ってかかるということは、ともすると否定的な響きがあるように感じますが、疑うことによって相手の言葉をまっすぐに聴くことができるのです。

私のところに来て、私をいとも簡単に信じてしまう人は、概して私の言葉をしっかりと聞いていないということが分かります。

コイツの言うことは疑わしいけれど、それなら自分で体験して検証することだという意識になっていただきたいのです。

信じるとは、信じないことと瓜二つです。それは、相手の言動に対しての自分の信念体系から来る偽りの状態です。

それに対して、信頼は相手の存在に対する気持ちであって、信じることとはまったく別のものだと理解することです。

自分の思考も、誰の言葉も決して信じてはいけません。エゴはエゴ自身を信じさせることによって、苦悩を生み出させてきたのですから。

本当は、信じないということが大切だと言いたかったのではなく、自分が信じているということに気づくことこそが大切なことなのです。目指すは、信じるか信じないか、ということからの脱却です。

乳幼児のような感覚を持った大人になる

かつて、ほんのかすかにしか記憶の残っていない乳幼児のころは、きっと自分の大きさが分かりませんでした。というよりも、私はいませんでした。

それが、2~3歳くらいになると、自分の小ささをもうすでに知るようになったと思います。自分独りでは何もできないということも感じていました。

何よりも、自分の行動範囲は小さな家の中に限られていて、家の外の景色や通る人のことを縁側からじっと見ていたことを覚えています。

安全な家の中から見ているので、特別外が怖いということはなかったのですが、もしも近くのお店にひとりで買い物に行けと言われたら、恐怖だったでしょうね。

自分がこの世界のどこにいるのかという考えも持っていませんでした。それが、しばらくすると急激に知識を獲得しだすのです。

幼い頃に、地球の裏側で暮らしている人たちが、自分とは逆さまな状態にいるということを知って、ものすごく興味を覚えたのです。

そうやって、自分の小ささから始まって、自分のいる位置というものを把握できるようになっていったわけです。

けれども、今になって耳を澄ますという瞑想をしていると、自分の大きさ(小ささ)が曖昧になるだけではなくて、自分の位置というものが分からなくなっていきます。

上下前後左右というものが全く分からなくなっていくのです。それは、あたかもあの記憶が曖昧である乳幼児の頃の感覚と似ています。

おまけに、自分は何も分からないし、何も知らない、という状態まで似てきます。ということは、な~んだ今まで成長するごとに身につけてきたことは、真理に耳を澄ますとたちどころに消えていってしまうものだったんだということです。

それはつまり、獲得してきた知識など、自分が信じて頼りにしてきたあらゆるものは、真理とは共存することができない類のものばかりなのだということです。

ところがまだその先がありそうです。というのは、自分の大きさや方向感覚などが分からないという感覚を持ちながらも、この世界にしっかりいて活躍することもできるからです。

共存しないモノ同士なはずなのに、その両方の感覚を同時に見ていることもできるということです。自分はこれだけ分かっているというパワーは確かに減るのですが、仕事は続けていけるということです。

仮面の告白

私たちは、自分が仮面を被っていると思うのではなくて、仮面そのものを自分自身だと思い込んでしまっていることにまず気づく必要があります。

この両者の違いはとてつもなく大きいです。この勘違いに気づかないからこそ、自分で仮面をはずすことができるというトンチンカンな思い込みをしてしまうのですね。

仮面自体が仮面をはずすなどということは不可能なことです。この私とは、仮面をかぶっている主体なんかではなくて、仮面そのものだったと認めることです。

もしも本当の自己が、仮面をかぶっていることに気づいて、その仮面を投げ捨てたとしたら、その仮面はどうなるでしょうか?

それは簡単です。脱ぎ捨てられた仮面は、そのまま地面に落ちたまま仮面のままであり続けるでしょう。

ただし、仮面を自分だと思い込むという一種の催眠状態からは脱してしまうことになるはずです。

つまり、催眠から解けた自己が、仮面の寿命が尽き果てるまではそれを観続けることになるということです。

本当の自己が仮面を脱ぐこと、これがいわゆる覚醒ってやつだと思えばいいのです。言葉で表現すれば、「私が」覚醒するのではなく、「私から」覚醒するということになります。

覚醒した後も、仮面はそのまま残ります。これが、覚醒した賢者の姿であるわけですね。催眠から解けるということは、仮面という姿はあるけれど、私という認識は消えるということです。

一体いつこの忌まわしい催眠から覚醒することになるのでしょうか?それは、仮面である私が考えるようなことではないということです。仮面に罪はありません、所詮仮面ですから。

観ることと一つになる

私たちは誰もが、丸裸で生まれてきます。何かを持って、手に携えて生まれてくることはできませんね。誰もが無一文でやってくるのです。

だからこそ、成長するにつれて、自分の力で足りないものを手に入れようと奮闘努力するようになるのです。お金にしても、善い評価にしても、車や家や地位や、知識、能力、そして家族だって手に入れるものです。

そして運良く望むものを手に入れられた人だけが、残念ながら恒久的な満足だけは手に入れられなかったということを知るのです。

手に入れられるものといえば、一過性の満足だけであったと気づくことになり、また次の満足を求めて手に入れる努力を続けていくことになるわけです。

そして「はた」と気づくのです。一過性のものをいくら追い求めたところで、結果はもう分かってしまっている。これはとても虚しい繰り返しだと。

それだけではなく、年齢を重ねるにつれて、人生で手に入れたものさえ死ぬことによってすべてが奪われてしまうことになる、その残酷な時期が迫ってくるのです。

そこで、とうとう永遠不滅な何かを求めようという気持ちがやってきます。その最たるものが覚醒なのです。真に覚醒した人だけが永遠の心の平和を得て、至福を手に入れられると錯覚するのです。

そしてまた今までと同じ、手に入れようとする奮闘努力が開始されます。結局、求めるものの趣が変化しただけで、この強烈な「足りないものを手に入れようとする」洗脳が手付かずのまま残っているのです。

この洗脳はそう簡単に取れそうにありませんし、取る必要もないのです。それよりも、覚醒だけは手に入れるということができないと理解すること。

なぜなら、ないものは手に入れることができますが、すでに在るものを手に入れることはできないからです。

真理への探求とはとてもシンプルなものなんですね。手に入れようとするのではなく、ただじっと観ること、ただ深く深く観ること。捜す必要さえない。

それはいずれ、観る主体と観られる対象がなくなり、観ることそれ自体に一つにまとまるのです。そこには覚醒した誰かはいないのです。