ネガティブさをさらけ出す

元々、決して健康体ではないという自覚があるのですが、最近、身体の調子がいいのか悪いのか、どっちなのかイマイチ分からないような状態になっています。

ある面では、気持ちがとても清々しい感じがすることがあるので、それにつれて身体も具合がいいと錯覚するだけなのかもしれません。

実際に体調がイマイチだと感じるときには、首や肩の痛み、腰痛、腹痛、目、歯、喉、その他もろもろ、何かしら具合が悪いのです。

でも、誰かと一緒にいるときには、意外と元気にしていられます。自分では、無理しているという自覚はないのですが…。

人って意外と、自分の具合の悪さを表現しないものかもしれませんね。いつもニコニコしていて、あの人は健康なんだろうなと思っていたのに、じっくり話し込んでみたら、あれこれ不調を訴えてきたという経験て、ないですか?

私は結構あります。当人は別に普段、わざと隠しているというつもりはないのでしょうけれど、他人に対して具合の悪さをそのまま出す人のほうが少ないのかもしれませんね。

それは、話題として相手を否定的な気持ちにさせてしまわないようにとの気遣いからなのか、あるいは自分のネガティブな部分を見せたくないということなのか。

私自身も、例えば初めて会った人の前で、あまり具合が悪いという話をしようとはしない傾向を持っています。

何だか、相手に失礼な感じがしてしまうのかもしれないですね。実際、身体も心もすごく健康だと誇れる人は少ないのかもしれません。

健康かどうかだけでなく、何か悩みを抱えているといったネガティブなことも、人はあまり話そうとはしないものですね。

見下されたくない、惨めだと思われたくない、可哀想だといわれたくない、こういう気持ちも結構あるのかもしれません。

人は自分を守りたいばっかりに、他人のことを否定的に見れるネタを探そうとする傾向がありますね。けれども、他人の不幸に本当には興味を持ち続けることはしないものです。

だから、構うことはありません。何でも言って楽になってしまうことだと思います。所詮、身体だって思考だって感情だって、どれも本当の自分ではないのですから。

シナリオ通りの自己探求

自分の中にマイナーなものを好む傾向というのがあります。つまり、体制側ではなく、どちらかといえば反逆児的な要素に興味が向いているということです。

それはもしかしたら、幼い頃にもうすでに出来上がっていたかもしれません。というのも、大人を小ばかにするようなところが多々あったからです。

両親や学校の先生など、身の回りにいる大人たちに対して、彼らが主張する正しさや価値観などに、異を唱えていたように思うのです。

表面上は優等生的な子供だったので、あまり大人や先生たちから嫌われるようなことはなかったのですが、心の中で物知り顔をした大人を見下していたんですね。

それが成長するに連れて、いわゆる反体制という生き方、考え方へと発展していったことは間違いありません。

そのくせ、つつがないごく平凡な人生を目指していたところは、どこかにまだ優等生的ないやらしさが残っていたということです。

セラピストになったのも、もしかしたらそういうところが原動力となっているのかもしれないと思っています。ヒプノセラピストなどという、いかにも怪しい反社会的?な仕事ですから。

いまだに多くの人からすれば、どこかの怪しい宗教と同じように見られていることもあるでしょうし、結局病気になったらお医者さんに助けを求めるわけですし。

精神的な反逆児というのは、とにかく何かにつけ文句を言いたい精神性なわけです。だからこそ、本当は我々は人間なんかじゃないなどということを聞けば、飛びつくことになるのです。

それが、もしかしたら本当の自己探求の原動力なのかもしれません。少数派であることを善しとする気質には、ちょうどいい題材だと言えるのです。

だから、誰もが覚醒していく時代と言われれば、確かにワクワクもするのですが、実際に本当にそうなったとしたら、自分が目指している道が途端に色褪せて感じられるのかもしれません。

というわけで、今日はできるだけ自分の否定的な部分をえぐって見ました。でも大したことはなかったようです。

原動力がどうであろうと、この人生において自分が自己探求をするということは、ただシナリオに沿って起きているだけですから。

八方塞がり感を観る

そもそも自己探求を始めた理由とは何だったんだっけ?という声が聞こえるようです。それは、勿論真実を知りたいという欲求だったはず。

それと、ホンモノの自由というものを知りたいということでした。けれども、残念なことに探求が進むごとに、その両方とも不可能だとわかったのです。

不可能というのは、この自分にとっては不可能だということです。なぜなら、自己探求の邪魔をしているたった一人の張本人は自分だったからです。

そのことが頭の理解だけでなくて、感覚でやってきてしまったので、何だか今までのような探求のエネルギーが萎んでしまいそうです。

後は何と言うか、それが方向付けられてしまったので、惰性を利用してこのまま探求し続けるという感じになっていくのかもしれません。

ワクワク感はまるで消えうせた感があります。でもほかには、全く持って何の興味も最初から持ってなかったし。

本当に覚醒しても、幸せになることはない。それは、幸不幸がなくなるということ。幸不幸を感じる自分がいなくなってしまうからですね。

かといって、いいことばかりが起きて、悪いことが起きなくなるなどという都合のいいことも決してないわけで。

生きていることにまだ未練が残っているとしたら、探求することがあったからなのですが、探求する本人がいなくならなければ探求は終わらないし。

意外と八方塞がりな感じがしないでもありません。この八方塞がり感をゆっくりと時間をかけて、観ることにでもしてみたいと思います。

すべてはプログラミング通りに処理されるだけ

昨日の土曜日は、二回目になるアウェイクニング・ワークショップの日でした。4時間弱くらいの時間でしたが、お伝えした内容が参加されたみなさんにどのような印象を持たれることになったのか、分かりません。

というのも、一回目もそうでしたら、とてもエゴにとっては抵抗を感じる内容だからです。はっきりと抵抗感があると伝えてくださった方もいらっしゃいました。

それは当然のことだと思いますし、もしも何も抵抗がないとしたら、それが小さいかあるいはどこかに隠し持っているということかもしれません。

このワークショップをやって、一つ確実に言えることは、ものすごく自分のためになっているということです。

独りよがりの典型かもしれませんが、普段自分が頭で理解し、それの検証を続けていることをみなさんに伝えることは、その何倍も自分の中に深く浸透させることができるのです。

これは本当にやったことのある人でないと分からないことだと思いますし、それだけにみなさんに心からの感謝も感じています。

話しているのは確かに自分なのですが、実はその言葉の一つひとつはきっとどこかからやってきたものだと分かります。

そして、ワークショップでお伝えしたことも、そうした内容でした。私たちの行為、考えたり感じたり、話したり動いたりといったすべては、源泉からの入力への対応としての出力でしかないということです。

私の口が動いて言葉を紡ぎ出したように見えて、それはすべてがインプットに対するアウトプットでしかないということです。

この自分には、コントロールできる何ものもないということ。そして、その起きた行為の結果が善いことなのか、悪いことなのかも自動的に起きるということです。

次回は、7月8日(日)の予定ですが、それが予定通りにやることになるのかどうか、そしてやるとしたらどんな内容になるのか、それはインプットされる通りにしかならないのですね。

やはり自分は消えるのか?

今まで、頭ではこの自分が一番邪魔なのだということを理解していたつもりだったのですが、それはただの考えだったということが分かりました。

それというのも、いざ本当にその感覚がやってきたら、何だかものすごい行き詰まり感を感じてしまったからです。

そんなことは、自己探求の最も初期の段階から分かりきっていた事だったはずなのに、やはり気づくということは理解とは違うもののようです。

自分が自分であると認識している、気づいているこの私を弱体化していくことでしか、覚醒することはできないとは、何たる自己矛盾なのか。

明け渡すとはそういうことだったのかと、納得するというのか。自分でも今更だなあとつくづく思うのですが…。

明け渡しているということが、その状態にあるということを卒業するときにこそ、本当の明け渡しがやってきて、そして明け渡している主体は消滅するということです。

従って、それはもう明け渡しではなくなるのです。明け渡す瞬間とは、自分はいつ死んでもいいと思えるようになるということかもしれません。

それは、もう少しだけこの世界を楽しんでからとか、やり残したことを終わりにしてからとか、そういうことを一切なくした状態なわけです。

「私」は今この瞬間をまったく知らないとしか言えないし、自分が過去と未来にのみ生きてきたということも認めざるを得ないのは、何とも残念なのです。

こういった感傷的な気分は、純粋な意識に注意を向けるとあっという間に消えてしまいますが、それでもやはりまたしぶとくやってきます。

「私」が完全に満たされることはないと分かっても、やはりこの「私」はこの「私」のままで存続していたいと素直に思っているようです。

エゴと共にいる

外側の世界とは分離した、肉体を持った個人としての自覚を持っている「私」のことをエゴと呼ぶことに異論はないはずです。

そして、ここに「私」がいるということこそが、苦しみの根本だということも分かっています。苦しみだけではなくて、快不快、幸不幸を感じるのも、「私」というエゴがいるからです。

そのために、多くの宗教はこぞって、そのエゴを消滅させることを目指したのです。その点においては、どんな宗教もある意味共通しているのです。

「私」というエゴを野放しにしておいて、真理を見出すことなどできないというのが、本質的な教えであるわけです。

けれども、ではそのエゴを作ったのは一体何者なのかという点については、いろいろな説明があるようですね。

例えば、奇跡のコースにおいては、神はエゴも含めてこの幻想の世界のことをご存知ないと断言しています。

これほどの苦しみの多い世界を神が作ったとしたら、神は何と無慈悲なお方なのだろうと言わざるを得ないとまで言っています。

つまり、エゴと神とは無関係であるということ。結局、エゴを作ったのは神の子である我々であり、それは神の知らないところで勝手な妄想によって作ったということです。

それに対して、現象界であるこの世界も、そしてエゴもすべては源泉から湧き出てくるものだという考え方もあります。

源泉というのは、神というのと同じと考えられますので、あらゆる一切合財は神である源泉から生み出されるということです。

つまり、「私」というエゴについても同じです。それぞれの教えによって、これほどの違いがあるわけですが、それでも私はどちらの説も否定せずにいるようにしています。

なぜなら、どちらを正しいとしても、それ自体が単なる自分の観念へのすり替えでしかないからです。真実は、私の理性を超えているということだけはわかっています。

いま、あらためて思うのは、常にエゴと共にいるということを心がけるようにしているということです。それが、エゴを否定せず、エゴと闘わず、エゴを乗り越えようとせず、エゴを手放そうともしないということです。

エゴに対して何もしないということこそが、エゴを弱体化する唯一の方法だと分かったからです。ただ、エゴを見ていればいいのです。

アウェイクニング・ワークショップ(2回目)開催

今週末の土曜日に、またアウェイクニング・ワークショップを開催します。前回、二月に行なったときには、想定を越える人数の方々が参加して下さいました。

残念ながら、今回はその半分くらいの人数になりそうです。本当はもっと沢山の方にいらして欲しいのですが、これも起きることがただ起きているということですね。

今回は、このブログでも何度も書いている、「私たちには自由意志がない」ということについて、徹底的にお伝えするつもりです。

科学的な根拠も動因します。なんていうと、ちょっとオーバーに聞こえるかもしれませんが、でもまずは理解するということが大切なのです。

受け入れるかどうかはともかくとして、事実を理解するということです。そして、後は各自でじっくり腰を据えてできる限りの検証をしていくということ。

その検証の方法についても、私なりのやり方をお伝えするつもりです。繰り返しになりますが、「自由意志はない」ということが検証から明確になれば、途方もなく大きな変化が生まれます。

その変化とは、罪悪感や不安感、憎しみや嫉妬、プライドや執着などからの自由を手に入れることになるということです。

これが本当の自由です。そのことについて、じっくりみなさんと一緒に考えて行きたいと思っています。

そして、自由意志を持たない「私」とは一体なんだろうか?という疑問が必ずやってきます。それはもう、私たちが信じている個人としての「私」ではなくなってしまうはずですね。

検証すればするほど、「私」というエゴは弱くなっていきます。ワークショップの一つの大きな目的はそれなのです。

みなさんとまた、楽しい時間をシェアできることに感謝です。

罪悪感から逃れるためにルールを守る

同性か異性かに関わらず、友人関係の場合には、頻繁に会ったりあるいは会わなくなったりといった変化があってもそれほど不思議なことではありません。

というよりも、互いのブームみたいなもので、しょっちゅう一緒にいる時期というものがあったりするわけです。

従って、なぜかブームが去って会わなくなっても、特別二人の仲が悪くなったというわけでもありませんね。

けれども、これが付き合っている二人となると、そう簡単には済まされなくなるのです。それは、付き合っているか別れたかの二者択一になるからです。

付き合っている状態であれば、当然二人は頻繁に会うだろうし、会わなくなるということは別れたということを意味するからです。

なぜそうなるかというと、付き合うということの中に一つのルールが暗黙のうちに内在しているのです。二人は付き合っているという契約のさなかにあるのです。

特に大人のお付き合いともなれば、性的な関係というものが入り込んでくるのが普通ですので、そうなるとどうしてもそこには何らかの制限というものが必要となるわけです。

つまり排他的な人間関係というものが、そこには必要になってくるのです。よほど、ぶっ飛んだ考えの持ち主でもない限りは、ここまでは了承していただけるはずです。

しかし、そのルールをあまりにも重視し過ぎると、互いの関係のなかに重苦しさというものが入り込んできてしまうのです。

その重苦しさとは、そのルールを守るための我慢だったり、責任感のようなものからやってくるのです。違反すれば、それなりの罪悪感が待っています。

確かに、相手を思いやる程度のルールは必要なのでしょうけれど、二人の関係を壊さないようにするため、あるいは罪悪感から逃れるために過度の責任を背負い込むと、返って望ましくない結果になってしまうかもしれません。

結局、ルールとはそれを守ることで罪悪感から逃れることができるためのものであるということができます。

罪悪感を恐れなければ、適度のレベルでルールを守るというスタンスを取れるはずなのです。それが、二人の関係をうまく続けるコツかもしれません。

関係がうまくいってもいかなくても、そこには必ず大きな気づきのチャンスがあります。一人でいるときよりも、何倍もの気づきを、お付き合いした人からもらえるのですから、ありがたいことですね。

何もしようとしなければ、一つになる

宇宙は、私たちを決して落ち着かせないようにと強いているのだと言われたら、それを本当だと思えるでしょうか?

理由は定かではありませんが、きっとこれは事実です。落ち着くということが、精神衛生上とても大切なことだと知りつつも、できずにいるのはそういうことです。

完全に落ち着く状態とは、落ちて落ちて落ちて、また落ちて、もう落ちることができないというところまで落ちて、そこで着地することを指します。

そう考えたら、それがどれほど普段の我々にとって難しいことなのか、容易に分かっていただけると思います。

落ち着くとは、あらゆる精神活動を停止してしまうということでもありますが、落ち着きにくいように、私たちは作られてしまったのだと思ってもいいかもしれません。

一つだけ思い当たる理由として考えられるのは、充分に落ち着いてしまうと、個人ではいられなくなるからだと思います。

私たちが個人としての自覚を持ちながら、人生を生きるには、決して落ち着いてはならないのです。私たちは走り続けるしかできません。

立ち止まったら最後、個人としてのこの「私」の化けの皮が剥がれてしまい、その瞬間に全体性へと戻ってしまうはずです。

精神活動は、そうならないためには是非とも必要なものなのです。その精神活動のほとんどは、自己防衛のために使われています。

精神活動をやめて、自己防衛をなくしていくことで、この世界には敵がいないということに気づくことになるのでしょう。

それでは、何かを恐れ続けたり、憎しみ続けることが不可能になってしまいます。その結果、他者との距離がなくなっていくことになります。

最後に残るのは、この現象界を生み出し続けている源泉としての自己です。もしも、私たちの三分の一くらいの人が落ち着くことができたら、この世界はどうなるのか、楽しみですね。

あらゆる質問がなくなる

それほど多くはないのですが、クライアントさんの中には、ご自身の生まれてきた目的を知りたいと思って、セッションに来られる方もいらっしゃるのです。

今回の人生の目的、あるいは今回自分は何を目指してこの世界にやってきたのか、何をするべきなのか、そういったことを是非とも知りたいということです。

こうした疑問というものは、確かに誰でも多かれ少なかれ持っているものだと思います。けれども、現状に強い不満がなければ、あまり真剣に考えたりすることもないはずです。

つまり、明確な自覚があろうとなかろうと、とにかく満たされていないという感覚や、生きるのが不自由だったり、大きな苦しみを抱えているからこそ、そうした疑問を持つことになるのです。

屈託なく、自由奔放に生きて、毎日を楽しんでいるような人が、真剣に人生の目的について考え続けるということはないのでしょうね。

私は、苦しみの中からこそ、大切な気づきというものがやってくると思っています。特に、人生に絶望することは、とても重要な経験だと思うのです。

そして、それ以上に大切なことは、この人生に何らかの期待をしている限り、決して心から満たされるということはやってこないということに気づくことです。

自分が生まれてきた目的、この人生で自分は一体何をするためにやってきたのかということを考える代わりに、この人生とは何だろうとということを考えるべきです。

人生とは価値ある自分を作り上げるためにあるのではなく、自分とは何かということに気づくためにあるということです。

人生に我々が期待しているような目的など、初めからありません。この世界の何かに価値があるのではなくて、この世界が現象として起きる源にこそ価値があると考えられます。

自分は何のために生まれてきたのかと質問するのではなく、自分とは何か?という質問をすることです。

その質問には答える必要もなくて、ただその質問をしている自己を見続けることです。そうすると、不思議なことが起こります。それは、一切の質問がなくなるのです。

この人生の目的や、生まれてきた理由などのような、どんな本質的な質問でさえ、消えうせてしまうことに気づくはずです。

なぜなら、質問をしている私(エゴ)を見続けていれば、その存在の危うさに気づき、そのうちには「私」が消えてしまうからです。