正しさとはただの思考であり、真実ではない

私たちが常日頃、ごく当たり前だと思っていること、たとえば自分は今ここに居るとか、自分は日本人であるなどは、事実そのものだとしています。

しかし、それは一つの思考であるのです。自分がここに居るとか歩いているというのは厳密に言えば、事実というよりも認識です。

その認識は勿論知覚が基になっているのですが、それは必ず情報の解釈というものが行われて、ああ確かに歩いているという認識を得るのです。

その解釈のときに使うのが思考なわけです。その思考はあまりにも瞬間的に為されるために、自覚すらできないほどなのです。

また、自分は日本人であるというのも事実であると思いがちですが、突き詰めれば思考によって過去に得た情報を判断しているに過ぎません。

つまりここで言いたいことは、明示的に何かを今考えていると思っているとき以外でも、実は思考を使い続けているということです。

私たちは、それと気づかずに、多大な権限を思考に与えてしまっているのです。突発的なごく一部の感情を除いて、ほとんどの感情の作り手も思考であると言えます。

思考の伴わない感情が、あっという間に消えうせてしまうのはそのためです。また、物事の正しさというものに価値がないというのも、それは単なる思考であるからです。

ものごとの正不正、善悪などはすべて思考の産物です。したがって、思考の停止状態ではそんなものは消えうせてしまうのです。

それなのに、正しさとか善とかいうものを、真理と勘違いしてしまって、そこに大きな意味をくっつけてしまうことが多いものです。

私たちが後生大事に保っている自分の正しさというのは、100%思考による一過性の作り物に過ぎないと理解することです。

思考は決して悪者ではないですが、思考が何をしているのか知らずにいることで、とても重大な勘違いをしてしまう場合があるのです。

思考が停止すると、この世界で自分が知っていることは何一つないということに気づきます。何一つ分からないということに気づいてしまいます。

そのときにこそ、思考のトリックに毎瞬乗っ取られているのだということにも気づきます。思考をちょっと脇に置いただけでも、自分は何者でもないという感覚がやってきます。

「私は人である」というのは真実でもなければ、事実でもないのです。それは、ただの思考の産物であるということです。

人生に意味を見出そうとするのは馬鹿げている その2

昨日のブログでは、「人生に意味を見出そうとするのは馬鹿げている」ということについて書きました。自分で書いておいて自分で言うのもなんですが、えらそうに!と突っ込みを入れたくなります。

というのも、もしも人生には何も意味などないということを本当に受け入れるとしたら、エゴはどうしたらいいのか途方にくれるはずだからです。

意味のない人生の中で、自分にだけは意味があるなどと思うことはほとんど不可能なことです。それがエゴには困るわけです。

エゴは、どのような方法を使ってでも、自分の価値、あるいは存在する意味を見出して、それをできる限り高めようと常に狙っているからです。

したがって、それには価値ある自分が生きる人生にも、価値を見出せなければならないのです。だからこそ、人生の意味を見出す必要があるのです。

生まれてきた目的や、この人生で与えられたはずの大切な役割などが欲しくて仕方ないのは、そういう事情があるということです。

実際、多くの人の心の奥に巣食っている苦悩の種とは、自分の存在価値を感じることができないというものです。

けれども、そうした苦しみの理由とは、価値ある自分でいたいという強烈な願望があるためです。いてもいなくてもいいというのが、エゴにとっては最も辛いことなのですから。

なぜそれほどまでに、自分の価値や存在の意味付けをしたがるのかと言えば、それは自分という存在の曖昧さを隠し持っているからに違いありません。

つまり、自分とは本当にいるんだろうかという疑念を何とか払拭したいという思いが根底にあるということです。

それは、結局自分などいないということを証明しているように感じます。どうやってももう隠し通せるものではないのでしょう。

自分はいないんだということにとことん絶望することで、本当の自分の姿に気づくときがやってきてくれるのではないかと思うのです。

人生に意味を見出そうとするのは馬鹿げている

最近、「神の恩寵」という言葉をよく使うようになったのですが、これほど便利な言葉はありませんね。なぜなら、説明はできないけれど嬉しいことが起きた時はすべてこの言葉を当てはめればいいのですから。

けれども、私の個人的な感覚においては、神の恩寵などというものが本当にあるとは思えません。それには、あまりにも人間的な匂いがするからです。

例えば、起きることだけが起き、起きないことは起きないというのが神のシナリオであるとすれば、覚醒できるシナリオを持っている人だけが覚醒できることになります。

そうした星の元に生まれてきた人は、間違いなく神の恩寵があるということになるわけです。なぜその人が覚醒することになったのかを説明できないので、恩寵によるとして済ますのです。

こうしたことは、私たちの理性があらゆる物事に理由を求めるという性質から来ているのではないかと思うのです。

我々の思考は、すべてに原因とその結果があることを要求します。しかし、真実はどんな思考にも届かないところにあるので、原因や結果という概念をそもそも持ちません。

したがって、神が何らかの理由によって、恩寵を与えるということは、原因を常に探してしまう思考が作り出したものだと言えます。

意思、意図、そして選択ということにはそもそも時間を必要とするのですから、真実の中ではありません。つまり、神には意思も意図も選択もないのです。

自分の本質である純粋な意識に注意を向けていると、そこにも何の意思もないということがはっきりと分かります。

大海原があって、その海面に無数の波がそのシナリオ通りに起きては消えていきますが、そこにどんな理由があるのでしょうか?あるはずもありません。

それと同じことです。私たちが生まれて死んでいくこの人生についても、目的もなければ、それに付随する原因と結果もないと思うのです。

だったら、人生に意味を見出そうとなどするのは、笑えてくるというものです。ただ、唄って踊って、この現象世界を楽しめばいいのではないかと思います。

何ものにも邪魔されない本当の自分

瞑想中に周りの騒音に邪魔されたなあと感じることがあります。そして一度それを感じてしまうと、その思考に巻き込まれていってしまいますね。

邪魔をされたという考えが、自分を被害者の位置にしっかりと据えるために、そこが居心地がいいとばかりになかなかその立ち位置から降りたがらない自分がいます。

そうなってしまうと、そうした自分を観照することを忘れさせられてしまうのです。したがって、その場合には再度やり直しを自分の中でします。

けれども、同じような騒音があったとしても、まったく邪魔されないときもあります。そのときには、騒音が自分の外側にあるという感覚ではなくなっていると気づきました。

自己のスペースの中で、あらゆることが自動的に起きている、すべての騒音もスペースの内側で起きているという感覚であると、まったく邪魔されることがないのです。

この両者の反応の違いには本当に驚かされます。一旦、自分が静寂だという感覚になると、あらゆる音がその静寂さから起きて来て、そしてその静寂の中へと消えていくだけなのです。

したがって、静寂である自己が邪魔されるということは、ありえないことなわけですね。これがいつでも体感できるといいのですが、そうはなかなかいかないようです。

心を静かにしているときには、うまく行くときと行かないときのこの差がとても明確に感じられるのですが、普段の生活の場ではなかなかそうはいかないようです。

しかし、どんなときでもこれができるようになったら、自分は傷つかないということがもっとはっきり分かるようになるはずです。

人物としての自分が傷つけられても、痛みや苦しみを感じたとしても、それを観照している自己は決して被害者にはならないのですから。

不思議なことに痛みは感じるのですが、傷つかないということだけははっきりと言えるのです。観照している意識への注意が継続すればするほど、傷ついてもいいという感覚が人としての自分にも伝染していくのではないかと思うのです。

すべてのことは自動的に起きている

先ほどまで今年の確定申告の書類を作るという、この世でもっとも嫌いな仕事をしていました。それでも、以前よりは拒絶反応が少なくなってきたように思います。

それはともかくとして、今年も昨年に続いて悲しいことに税金を納めることができる程度の収入を得られなかったのです。

そればかりか、この仕事を始めて納税するようになって、昨年は最低の収入でした。収入から経費を引いた所得が、もうすでにマイナスになるという前代未聞の状態でした。

本来でしたら、当然この先の不安をヒシヒシと感じなければならないはずなのですが、どうしたことかそうした不安を感じることがほとんどないのです。

客観的に見ると、これはどう考えても由々しき事態なはずなのに、何とも感じる心がないのですから仕方ありません。

自分でも不思議なくらいに、大丈夫だという理由のない安心感があるのです。それはきっと、何であれシナリオ通りだという感覚が自分の中で育ってきたからなのだと思います。

金銭的な不安感というものは、ずっと自分の心の奥に継続的にあるものだったのですが、いつしかそれは小さいものへと変わってしまったようです。

仏陀の残した言葉どおり、「すべての行為はなされるが、そこに行為者はいない」とすれば、自分がいくら不安になってあがいたところで、起きることがただ起きるだけなのだということです。

これは本当に気持ちをリラックスさせてくれる言葉ですね。私はこのことを信頼するようになって、とても救われたように思っています。

物理的に困窮していることには変わりないのですが、それでも今日生きるうえでは支障がないということに満足してるということです。

もしも、もうすぐなくなる貯金が完全に底を突き、家賃の支払いがままならなくなったら、そのときはまた何か別のことが起きてくるのだろうと思っています。

明日、また何が起こるのかを見ることが楽しみです。そして、それを体験する自分を観照するということに、意識を向け続けることができればいいのかなと。

絶望こそ自己探求の原動力

『絶望』という言葉を聴くと、自分はそんなものとは縁がないからと思っている人が大部分なのかもしれませんね。

あるいは中には、大人になってから一度以上人生に絶望した経験を持っている人もいるかも知れません。

しかし、幼い子供の頃に大人びた絶望を味わうなどということはきっとないはずと考えている人がほとんどだろうと思います。

けれども、本当は子供の頃ほど、実は絶望したことのある人が沢山いるはずなのです。なぜなら、子供は大人ほど選択肢を豊富に持ってはいないからです。

つまり、これが絶望的になったけど、でも私にはこちらの道が残っているので何とかできるというものがほとんどないということです。

その理由は、子供は周りにいる大人、そのほとんどは両親ということになりますが、親に否定されたり見捨てられたりしたら、到底生きてはいけないからです。

他の誰かを探そうにも、そんな人はいるわけもなく、結局生き延びる選択肢がないために否応なく絶望感を味わうことになるのです。

私は大人の目線で見たら、全く何不自由なく育てられたという印象を持っていますし、それは事実なのですが、しかし自分の中に何らかの絶望を持っていることを知っています。

それは間違いなく、幼い頃に受けた傷が原因だと思われます。この絶望感があるからこそ、人生の表舞台でどんな成果を残そうと駄目なのです。

絶望の上に立っている自分は、何を武器に持って闘って勝ったところで、所詮は絶望しているわけですから。

でもそれがあったからこそ、その絶望を正直に見ることができたからこそ、今の仕事をするようにもなったし、自己探求へと突き動かされてきたのだと思うのです。

言ってみれば、人生に絶望することはとても大きな自己探求への原動力になっているということです。これは間違いなく言えますね。

みなさんは絶望をどこかに隠し持ってはいませんか?一度じっくりと内奥をのぞいて見ることをお勧めします。

そしてそこに絶望らしきものがあると気づいたら、絶対的なチャンスがやってきたと思えばいいのです。人はそこから初めてホンモノの探求をスタートするのですから。

アウェイクニング・ワークショップ

昨日の土曜日に、アウェイクニング・ワークショップを開催しました。アウェイクニング(awakening)とは文字通り、目覚めを意味します。

ごく普通の暮らしをしている、ごく当たり前の私たちが、本質の自己に目覚めていく時代がとうとうやってきたのだと本当に感じるようになりました。

その大きなうねりに乗っていくための、何かのきっかけになればいいという程度の感覚で、このワークショップを開きました。

かつては、選ばれたごくごく小数の特別な人だけに与えられた覚醒という宝物、一般人はそうした賢人たちに教えを請う以外にはなすすべもなかったわけです。

それは場合によっては、とてつもなく苦しい難行苦行を強いられたり、世間から逸脱した人生を選ばねばならないことだったかもしれません。

けれども、時代が変わったのですね。本当に、誰でもがごく普通の社会的な生活をしながらも、自己探求をすることができるのです。

自己探求というと何だか堅苦しい感じがしますが、実はとても簡単なことを練習することで気づきはやってくるのです。

昨日のワークショップに参加して下さった16名のみなさんが、どんな印象を持たれたのか、そして何かの気づきを感じることができたのかは分かりません。

しかし、お話しをさせていただいたり、ワークをみなさんと実践したりしている中で、確かな手ごたえも感じることができました。

それは、何か今まで理性で捉えようとしていたものが、するっと力が抜けていく感覚とでもいったようなものを、参加された誰もが、自分なりの感覚の中で感じられたのではないかということです。

また、きっと何らかの反発を感じられた方もいらっしゃったはずです。それは当然のことで、「私」という想念が危機感を募らせる内容だったからです。

長いことセラピストの仕事をしてきて、自分が最も素直にお話しすることができた時間だったし、本当にこの探求のための時間をみなさんとシェアできることの喜びを感じることができました。

次回は、4月21日(土)に予定していますので、もしもご興味があればこのワークショップで目覚めを促すワークをご一緒に実践して行きましょう。ご参加、お待ちしております!

真実を探すことをやめなければならない

真実の周りはいつも矛盾に満ちているように感じます。言葉で表現すれば、大抵は逆説的な言い回しになったりするものです。

例えば、瞑想中に何となく自分が何者でもないという感覚になったときに、ああ、この感覚をもっと知りたいと思った途端に、ニセモノの何かを与えられてしまった感じがしたことがあります。

つまり、思考によってでっち上げられた「何者でもない感」というのを味わうようにさせられてしまったのではないかということです。

自己探求と言っておきながらも、実際には探求しようという意欲に任せていると、それが思考を生んでかえって邪魔をしてしまうのです。

結局、究極の自己探求とは何も探さないということでしかないのです。何も探そうとしないし、何も遠ざけようともしないということです。

なぜなら、私たちが欲しいものを常に求めてきた結果が、この世界の現在の姿なわけですから、どうみたってうまく行ってるとは思えません。

理性は矛盾することや、理解不能なことを極力嫌う性質を持っています。理性の力ですべてを把握できると信じていたいからです。

けれども、真実に近づくにつれて、あらゆるものに矛盾の匂いが漂ってくるのを感じます。それは、もしかすると理性がそれ以上近寄らせないようにするための作戦なのかもしれません。

探そうとすればするほど、探そうとしているものを見失うという決定的な矛盾に、私たちは本当に気づかなければならないのでしょう。

私たちが探そうとしている方向には決して真実はなく、また遠ざけようとしているもののど真ん中にこそ、真実は隠されているのですから。

思考や感情と自己を同一視する罠

今に生きるということが大切なんだということを人生のどこかで聞くようになって、もう随分と時が経ったように記憶しています。

そして勿論いまだにそうした言葉を聴くことがあるし、私自身もそういった類のことを人に話すことがあります。

けれども、よく考えて見るまでもなく、私たちは誰しも当然今に生きているのです。過去や未来に生きている人がいたら、出てきて教えて欲しいです。

私たちは思考の中で、過去を思い出すことや未来を予測することがあります。というよりも、思考のほとんどは過去か未来にまつわることです。

しかし、そうした思考が起きるのはまさしく今この瞬間なわけですから、誰もが今以外のところで生きられるはずはありません。

ただし、そういった過去や未来にまつわる内容の思考そのものと、自分自身を同一視してしまうとどうなるでしょうか。

自分は今この瞬間にその思考に取り込まれている、という事実を意識できなくなり、代わりにその思考の中味である過去か未来へと意識が飛んでしまうのです。

その状態こそが、今に生きていないという言い方で表現されることなわけです。この状態になってしまう本当の理由、そしてその原動力は自己防衛です。

私たちの思考の使い道のほとんどが自己防衛であるということに気づくことです。自己防衛するためには、過去の経験を利用しなければなりません。

だからこそ、思考とは過去がベースになっているというわけです。いやいや、今この瞬間に目の前にいる人の理不尽さを考えているのは過去ではないと言うかもしれません。

しかし、その理不尽さをそれと理解するためには必ず過去が必要になるのです。そして未来に関する思考も、全面的に過去がベースになっています。

思考を悪者にする必要はまったくありません。思考を止めて、ただ感じなさいという必要も私はないと思っています。

しかし、自分の中に立ち上がってくる思考やそれが作り出す感情と自分を同一視していることに気づき、そしてその同一視こそをやめる必要があるということです。

感情は思考がなければ存続できませんし、思考は意識の上で起きては消えていくものです。そして、本当の自分とはその意識そのものなのですね。

意識に個別性はありませんので、もしも自分は個人としての意識を持っていると感じるのなら、それは思考と意識を混同していることになります。

思考や感情のような生まれては去っていくような一過性のものを自分自身と勘違いしてしまうこそが、あらゆる苦悩の根源なのです。

苦しみを乗り越えないこと

幼いときに、ころんだりして足を擦りむいて泣いていると、お母さんが「痛いの痛いの飛んでけ~!」と言ってくれて、それで不思議と痛くなくなることがありました。

ところが、この心温まる母親のおまじないの威力も、そう長くは続かなかったと思います。すぐに、「そう言われたって痛いものは痛いんだ!」となったはずです。

そうなってくると、今度は別の戦略を使って何とか痛みを遠ざけようとするようになります。例えば、この痛みを誰かのせいにするとか…。

私なんかは、今だに身体のどこかを家具などにぶつけると、その家具のせいにしたりします。その家具がここにあることが悪いと思ってみたり…(笑)。

あるいは、誰かがそれをここに置いたからこういうことになったのだと他人のせいにするのです。そうしたところで、痛みそのものがなくなるわけではないのですが、ほんの少し気が紛れるのです。

ほんの一ミリでも効果があれば、私たちは貪欲に戦略を使うものです。それほど、痛みや苦しみを敵対視しているということです。

人生とはそうしたことの繰り返しです。気持ちよくなるものや欲しいものを求めて、苦痛や都合の悪いものを遠ざけることの繰り返しです。

苦しみや痛みを遠ざけようとするだけではなく、それを乗り越えようとすることも戦略として持っています。

それが成功すると、遠ざけることでは決して得られなかった充実感や達成感、それに自己評価が高くなるというおいしい思いを手に入れられるからです。

しかしそれは、都合のいいものを手に入れたいという願望と何ら違いはありません。その証拠に、しばらくするとまた苦悩は訪れてきます。

苦しみを遠ざけようとせず、さりとて乗り越えようともしないでいるという選択肢があるということに気づくと、人生は違ったものに見えてきます。

それは何事とも闘わないということです。その苦痛をただそのまま見るということです。どんな戦略も使わないということです。

何であれ、それを乗り越えるということは闘いであり、乗り越えた喜びに浸っている間は、これが幸せだと錯覚すらできますが、しばらくすると化けの皮が剥がれてくるのです。

そうすると、またあの喜びを手に入れようとして無意識的に苦しみをでっち上げることになり、そうやって次の戦いにまた巻き込まれて行くのです。

この終わりのない戦いが、外側に投影されたものが人類の戦争に違いありません。戦争をやめるためにも、一人ひとりが苦しみを乗り越えるのをやめることが必要なのです。