落ち着くことのない心

子供の頃、通信簿(今の通知表)の通信欄に、「落ち着きのない子」と書かれていたという話しを時々聞くことがあります。

私自身はそういうことはなかったのですが、でも間違いなく子供の頃というのは大人のようには落ち着いてはいなかったはずですね。

子供は、長い間じっとしていることが苦手なのです。それが徐々に、学校の授業などで鍛えられていくうちに、気づくと1時間くらいは何かに集中することができるようになるものです。

けれども、たとえ大人になったとしても、姿形、立ち振る舞いは落ち着いているようにすることはできても、実際心の中はというと、どうだか怪しくなります。

実は人間というのは、元々が落ち着くということが苦手な存在だと思うのです。心がざわつくことが多ければ、落ち着きたいなと思うものです。

しかし、いつどんなときにも落ち着いていられる人など、一般的にはいないはずです。よほど、深い瞑想状態にでもならない限りは、常に精神活動をし続けています。

「落ち着く」という日本語は、すばらしいですね。落ちて着くのですから。永続的に精神が落ち着くことができるなら、それはもう覚醒しているということでしょう。

徹底的に落ち着いてしまったら、それは心は生き長らえないで消滅してしまうはずです。だから、自己の存続をかけて落ち着かないように心はするのです。

この落ち着かないというのは、スケールを広げて考えてみると、宇宙のシステムそのものなのかもしれないとも感じてきます。

宇宙は広大で深淵なものと考えることもできますが、ビッグバンが発生して以来、その爆発は今も継続していて、決して宇宙は静寂などではありません。

星雲も太陽系も地球も、あらゆる星々は人と同じように生まれては消えていくということを繰り返しているのですから。

宇宙のどこを見ても、落ち着いているところなどないということです。宇宙の本質は活動なのでしょうね。だから、我々が真に落ち着けないのも当然なのだと思うのです。

その宇宙のシステムに逆らって、徹底的に落ち着こうとすることこそが、この宇宙を越えたところの自分の本質に出会うことへと繋がるのかもしれません。

いやなことから逃げないの真意

セラピストになって、セッションでクライアントさんにお伝えしてきた言葉で、最も繰り返し使った言葉は、きっと「いやなことを我慢してやり続けないことです」だったと思います。

我慢しないというのは、元々自分の生き方の基本だったということもあるのですが、多くの方々がそれと正反対の生き方をされていることに気づいてびっくりしたものです。

日本の文化では、特に「人生は忍耐だ」というようなニュアンスのことが普遍的に浸透しているために、誰もが一応に我慢強くなっているのです。

我慢強ければ、それだけ自己犠牲を続けることができてしまうので、「なるべく我慢弱くなって下さい」ということも言ってきたのです。

自己犠牲を強いてしまう根本的理由とは、自己防衛にほかなりません。自分を護りたい一心で我慢を続けてしまうわけです。

自分に辛い思いをさせる代わりに、自分の命を護ろうとするということです。こうした生き方がいつまでも続くわけもなく、いずれは爆発することになります。

我慢をしないということと一見矛盾するように思えるかもしれませんが、私は同時に「いやなことから逃げないで下さい」ともお伝えしています。

我慢をせずに、嫌なことから逃げないとはどういうことかと思われるかもしれませんが、いやなこと、都合の悪いこと、観たくないこと、痛みや苦しみから逃げないことは、決して我慢することにはならないのです。

いやなことから逃げないといっても、だからといっていやなことに向かってそれと闘ったり、打ち負かしたりして乗り越えようともしないということです。

逃げるのも闘うのも形は違えど全く同じことなのです。ただただ嫌なことの中にいるということです。それは、勿論耐えることとも全く異なるものです。

耐えるとか、我慢するというのは、すでにそこには闘争があるのです。だからそれは逃げることと同じなのです。

勇気はいるかもしれませんが、それは立ち向かっていくということよりも、ただそれを見ているだけでいいのです。そこには、何の自己犠牲もありません。

自己の不在という至福

会社員の頃に、とても精神的にきつい時期がありました。仕事上の責任が重くのしかかってきたりして、なかなかしんどいときがありました。

そんな時には、朝起きるのが本当にいやでしたね。ずっとこのまま寝たままになっていたいと思ったこともあったと思います。

また、それほどに現実が辛くなくとも、私たちは概して寝ることが好きです。暖かくて、柔らかな布団の感触とか、安心感などが好きなのだと思います。

しかし、よく考えてみると、寝ている間というのは意識が途絶えているわけで、つまりその間は自分というものを自覚することができないのです。

それなのに、なぜ寝ることが好きなのでしょうか?これはとても奇異な感じがしませんか?熟睡しているときというのは、自覚がないという点で死の状態と何ら違いがないわけです。

そのくせ、一方では私たちは死をものすごく恐れていて、また一方では寝ることが大好きというのですから、おかしな話しではないでしょうか?

死の状態も熟睡もどちらも、自分というものを意識することができない、つまり自分が不在であるということです。

私たちは、実は誰もがその状態が至福であるということを知っているということです。死を恐れてはいるものの、本当は自己不在こそが至福なのだと分かっているのです。

覚醒とは、肉体的な生が残っている間に、自分の不在に気づくことです。だから、その至福感を求めて覚醒しようとする人たちがいるのです。

ところが、私たちは修行を重ねて覚醒などしなくとも、もうすでに毎晩のように睡眠を通して、自己不在による至福を満喫しているとも言えるのです。

自分が不在となる死をこれほどまでに恐れているというのは、何だか怪しい感じがしてきませんか?死こそが至福だと分かってしまったら、人類はどうなるでしょうか?

至福を求めて自ら死を選ぶ人が大勢出てきてしまうのではないか?という可能性を否定することはできないと思います。

ただし、覚醒した人が自ら肉体の死を選択するということはあり得ないでしょうね。なぜなら、彼らにはすでに死を選択する理由すらなくなってしまっているのですから。

退屈を徹底的に追求する

人は何もすることがなくなると、すぐに手持ち無沙汰というか、退屈な感覚に襲われてしまいます。その退屈って一体なんだろうかと考えたことがありますか?

退屈さを感じてみると、そこにはいろいろな思いや感情が混じっていることに気づかされます。例えば、何もしない自分には価値を見出せないという否定感だったり。

あるいは、少しの時間でも何もしないでいると、過去の思い出したくない事柄が頭に浮かんできてしまって都合が悪い感じがしたり。

また、何もしないでいる自分が、周りから取り残されていくような不安を感じるかもしれません。自分だけが生産的なことを何もしていないとか。

全く進歩をしていない自分への駄目出しだったり。ほんの少しでも時間を無駄にしてしまっているという罪悪感だったり。

こうして書いていて分かったのですが、何もしないでいると自己肯定感を感じにくくなると同時に、自己否定感がヒシヒシとやってくるようです。

つまり、人は自己否定感や罪悪感を隠すために、あるいは紛らすために何かをやっていたいと思っているのかもしれませんね。

表面的には、何か自分の好みの刺激を求める傾向があるということも分かります。これは、味のないものを食べるより、好みの味付けがされた食べ物を食べたいということと同じです。

つまり、快楽を求め続ける人間の習性でもあるわけです。最近、私は何もすることがなくなると、すぐに瞑想を始めるクセが出来上がっています。

本来、瞑想とは何もしない、瞑想している主体がなくなることがその目的なのですが、「瞑想している自分」がしっかりいるので、これも退屈から逃れる術として使っているわけです。

肉体的にはともかく、心理的にあるいは精神的にどんなに退屈でも何もしないでいるということの中にいてみると、どうなるのかなという興味があります。

そうした精神活動の徹底的な停止こそが、今まで自分が一度もやったことのないことなのだろうなと思うからです。

ただし、このことに興味を持っている自分がいる限りは、そこに精神活動が存在してしまうのでそれもやめることになるのですね。

観照することで人生は面白くなる

私が初めて映画館で洋画を観たのは、確か「007」というスパイものでした。ショーン・コネリー扮するジェームズ・ボンドという国家諜報部員が悪の権化と闘うというものでした。

子供心に、特別に改造されたアストン・マーチン(イギリスの高級車)を操ったり、すばらしく綺麗なお姉さんたちと仲良くしたりと、観ていてとてもワクワクさせられたものです。

その頃から映画が好きになり、主には高校生になって、しょっちゅう銀座まで映画を観に行くようになりました。お金がないので、ロードショーはたまにしか観れませんでしたが…。

きっと多くの人が映画鑑賞が好きでしょうし、嫌いという人の方が珍しいのかもしれません。テレビにしても、人は物語を観たり聞いたりするのが本当に好きなのですね。

勿論、本で物語を読むこともそれに含まれます。物語というのは、フィクションであろうとノンフィクションであろうと、自分がその物語の中にいないという安心感で観るものです。

だからこそ、大いに泣いたり笑ったり腹を立てたりして、感動したり、喜んでみたり、場合によっては恐怖映画で怖がったりして楽しむことができるのです。

物語を観たり聞いたり読んだりすることが娯楽として成立するのは、自分がその中にはいないということが前提です。

怖くて夜一人でトイレに行かれなくなっても、わざわざホラー映画を見に行くのは自分には実害がないからです。そこが人生と違うところです。

人生だって、物語であることには違いありません。その物語の中に自分がいるということだけが、映画やテレビの中のものと違うだけです。

けれども、人生の中で活躍している自分を観る側に意識を向け続けることができたら、そのときにはノンフィクション映画でも観るように、自分の人生を観照することができるのです。

その場合に限り、悲しい物語であろうと、感動ドラマであろうと、あるいは恐怖のストーリーであろうと、映画を楽しむのと同様にして、自分の人生を楽しむことができるということです。

それこそが、人生を本当に楽しむ唯一のやり方なのではないかと思うのです。みなさん、自分を日々観照してますか?

事務作業の脳に乗っ取られる

昨日の東京は久しぶりに雪が積もりましたね。瞑想会や個人セッションがあったので、みなさん大丈夫だろうかと心配しましたが、何事もなく無事にいらして下さいました。

大人になると、いろいろ不都合がことが起きる可能性があるために、雪を毛嫌いするようになってしまうのが残念です。

それでも、心のどこかでは雪よどんどん降り積もれって言っている誰かがいるのが分かります。きっと、雪が降るとすごく楽しい気持ちになったあの幼い頃の自分の声なのでしょうね。

ところで、今日から早いもので3月になりました。また、新しく講座を月末から開始するために、HPに記事をアップしたり、お知らせメールをみなさんに一斉送信する作業を夕べしました。

このような事務作業というのか、そのような類のことがとても苦手で、いつも後回しになりがちなのですが、昨日は少し頑張りました。

そのせいなのか、今こうしてブログを書こうとしてパソコンと向き合っていても、いつもと少し頭の回転の仕方が違う感じがします。

早い話がいつものように、自分の書きたいことが浮かんでこなくなってしまうのです。頭が事務作業に乗っ取られてでもいるような気がします。

日々どのようなことに注意を向けて生活しているのかということが、大きく本人の生き方や在り方などにとても強く影響するものなのでしょうね。

きっと、以前のような会社員のときと同じ生活に戻ったとしたら、日頃書いているようなブログを書くことはできなくなってしまうように感じます。

あなたは、いつもどんなことに自分の注意を向けていますか?それに気づけば、それこそがあなたが一番求めていることを現しているはずです。

夢や希望を持たない人生

子供の頃に親や学校の先生、あるいは社会全般などから教えられた事というのは、本当に根深く心の奥に残っているものですね。

その教えにちなんで、誰もが自分の人生をできるだけすばらしいものにしようと頑張るわけです。人から尊敬される人になるとか、前向きに生きるとか。

あるいは、人生に夢や希望を持って、明るい未来に向かって突き進んで行こうと思うのかもしれません。

しかし、私自身はというと、とてもじゃないけれどそういったこととはあまり関係のない人生を生きてきたと思っています。

私には夢を抱くことができませんでした。以前にも書いたことがありましたが、小学生のころの希望は、早く歳をとって楽隠居したいというものでしたから。これは嘘のような本当の話です。

何をやっても達成感がなくて、自分は異常なのかもしれないと考えていた時期もありました。それは今でも変わりません。

勿論何か欲しいものが手に入ったときには、人並みには喜んだり嬉しがったりはしてきたのですが、それでもそうした気持ちはあっという間に沈静化したのです。

そうした経験を繰り返してきて、どんなものを手に入れたとしても、人生が幸せになるということはないと分かりました。

きっとそういうことがあったから、セラピストという仕事をすることになったのかもしれません。しかし、物質的なことから精神的なことへと視点が移ったところで、根本的には変わっていないというのが本音なのです。

それで気づいたのですが、やはり夢や希望を持てば持つほど、つまり人生に期待すればするほど、後悔や落胆も多くやってくるということです。

夢や希望がない人生なんて、つまらないと言われそうですが、自分が成るべきもののために奮闘する代わりに、今あるものに意識を向けることが大切なのだと分かったのです。

自分や物事を改善しようとするよりも、物事がすでにどうなっているかに対して意識を向けることこそが大切だということです。

それが、広い意味での自己探求に繋がるのではないかと思っています。
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魔法の言葉、「ただそれだけ」

すごく嬉しいことや喜ばしいことがあったら、それを誰かに伝えたくなるものです。そしてそれを伝えて、それは本当によかったねえと共感してもらいたいのです。

けれども、よかったねと言ってもらったあとで、でもただそれだけだね、と付け加えられたら、どうでしょう?何だか喜びが削がれてしまうような感じになりますね。

「ただそれだけ」という言葉は、そういう意味からするとかなり否定的な響きを持っていると言えると思います。

何があったとしても、「ただそれだけ」と言われるとしたら、味気ないし感動すらどこかへ吹っ飛んで行ってしまうかもしれません。

あるいは、「ただそれだけ」を連発したら、つまらない奴だなあと思われるかもしれません。人は一緒に感動したいという欲望を持っているのですから。

感動というのは、ある種の興奮です。それは良いことであろうと悪いことであろうと、生きてるという実感を得られるものです。

勿論自分に都合の悪いことで興奮したくなどありませんが、それでもそうした辛いことでもそれを乗り越えることができたときには、今度は嬉しい興奮が待っててくれるのです。

人は興奮が好きなのです。戦いに勝つことも、何かを達成することも、夢を叶えることも、形は違えどみな興奮がそこにはあります。

しかし、「ただそれだけ」をいつどんな状況においても、心の中で唱えることを続けていくと、興奮はすぐさま収まり、逆に平安な状態へと戻されるのです。

こんないやなことがあったけど、でもただそれだけ。身体をぶつけて痛い!でもただそれだけ。大切なものを失った喪失感に耐えられない、でもただそれだけ。

ただそれだけなどと済ますことなど絶対にできない、でもそれもただそれだけ。つまり、最終的にはあらゆることは、ただそれだけに帰結させることができるのです。

この方法は、あらゆる種類の興奮が短時間になくなってしまいますので、興奮し続けたい人には不向きなことは間違いありません。

しかし、平安を愛する人にはお勧めの言葉なのです。試しに、今日から何かある度に「ただそれだけ」とつぶやいてみて下さい。

ただし、この言葉は、痛みや苦しみから遠ざかろうとして使うということのないようにする必要があります。強がって見たり、感じないようにするために使ってはなりません。本当は、その真逆なのです。

何ものからも逃れようとせずに、充分にただそれを見ることによって、「ただそれだけ」がひとりでに出てくるようになるのが理想です。

でも決して、他人に向かってその言葉を言わないように注意して下さいね。

好き嫌いは思考が作り出している

私たちは、生きて生き延びるという生存(防衛)本能を、他のあらゆる生物が持っているのと同じように持ち合わせています。

それは一生物の種として当然のことであり、それには何の問題もありません。しかし、人間だけが自我を作ったことによって、その本能をありうる限りに拡張してしまったのです。

それは思考による自己防衛を作り出したということです。そして、残念なことにそれが必要以上の苦悩を作り出す結果となってしまっているのです。

例えば、私たちには好みというのがありますね。あの人はいいけど、あの人はどうも馬が合わないとか、フィーリングが違うというようなことをよく言います。

そしてそれは、感性によるものだから仕方のないことだとして選り好みというものを正当化しようとするわけです。

けれども、その多くが実は思考によって拡大されてしまっていることに気づかないでいるのです。生まれ持った気質による志向の何倍もの大きさにして、新たな好き嫌いを付加しているのです。

私は子供の頃に異常なほどの偏食をしていました。食べるものといえば、玉子焼きとヨーグルトくらいだったと記憶しています。

それにはいろいろの理由が考えられるのですが、偏食のほとんどはいわゆる食べず嫌いというものだったと思います。

つまり、もう自分には大好きな食べ物があるので、それ以外のものを冒険して食べて、いやな思いをしたくないという思考によって、偏食を続けていたということです。

幼い子供が苦味のあるものを食べないのは、多分に本能的な拒絶によるもので、これこそ正当なものだと言ってもいいのです。

しかし、人間とは食に対する貪欲さが強いために、大人になると珍味などの苦味も好物になったりするのです。これは、思考によって好みを反対方向に変えていった例だといえます。

また、ゴキブリが怖いのは仕方のないことだと思っているかもしれませんが、あれこそ思考による恐怖を作り出しているいい事例なのです。

その恐怖は動物的な本能が生み出す生まれながらの怖さというよりも、思考によって作り出された後天的なニセモノの恐怖なのだということに気づくことです。

人間だけが思考を利用して、こんな余分な苦しみを味わう始末になってしまったのですが、一方で思考を使って自己防衛とは反対方向に意識を向けるというすばらしい面も持ち合わせているのです。

それは、生物としての本能には逆らうようなことになるのですが、それこそが死の恐怖から逃げずに、それを最も身近に感じるということを通して気づくことのできる、本当の安らぎなのです。

死を覚悟して生きる

今日のブログは、何だか分からないのですが題名だけがふと頭に浮かんだので、特別何を書こうという意思もなく書き始めています…。

最近よく思うことなのですが、生きることと死ぬことというのはちょうど50対50の割合で意識されているときに、うまく行くのかなと思うのです。

なぜなら、私たちの人生の本質とは、突き詰めて見れば分かることですが、死なずに生き続けることにあるからです。

つまり、常に死なないようにということが生きる上での大前提になっているのです。だから、死についてほとんど考えないというのは、自分を欺いていることになるのです。

死は誰がどんなにいやがったところで、厳然と誰のところにも確実にやってくるのです。それもいつやってくるかは予想もできないというやり方で…。

これほど身近なことをなるべく取り上げないようにするというのは一体どういうことなのでしょうか?それは、敵国が攻めてきてもどこかの国が護ってくれるから、そんなこと考えなくていいと言っているのと同じことです。

生死というのは、ちょうどコインの裏表くらいに対をなしている、互いに切っても切れないものなのです。もう、ごまかす必要はありません。

私たちの苦悩の根本は死にたくないという欲望です。なぜなら、必ず死が迎えに来るという事実を知っているからです。

この葛藤をエゴは餌にして、人生を翻弄させ続けているとも言えます。したがって、誰もが死を覚悟するということを一度きっちりとやることができるなら、人生の苦悩は大幅に減ってしまうはずなのです。

死を覚悟するのに最も都合のいいこととは、本当の自己の存在は決して死なないということに気づくことしかありません。

もしも徹底的にそのことに気づくことができたなら、死を覚悟するというよりも、死を前提として生を生きるということができるのではないかと思うのです。