姿かたちには屈服しない

人はどんなに気をつけていようと、どれほど頑張ろうと、時の流れとともにそれなりに老いていくものです。それを止めることは決してできませんね。

勿論、個人差はあって、いつまでも若々しいと感じさせる人もいれば、病気などを患った後に急に老け込んでしまう人もいます。

とは言うものの、いずれにしても結局は誰もが何をしようとも、たとえ不老長寿?の薬を飲んだとしても、例外なく老いて死んでいくのです。

そのことに逆らうことなど決してできません。けれども、身体の老いは仕方のないことだとしても、自己としての意識はどうでしょうか?

人は自分の年齢とともに、自分の意識においても年老いていくものだと思い込んでいます。しかし、本当は意識には年齢というものがありません。

あるとしたら、それは単なる思考の産物に過ぎないのです。身体の実年齢が○○才だから、内面的にもその年齢になるはずだという思い込みがあるだけなのです。

また、周囲の人たちからその年齢にふさわしい人物として扱われるようになるために、そうした認識に無意識のうちになびいて行ってしまうということもあるはずです。

私は、最近鏡などで自分の姿をまじまじと見ることがなくなったのですが、たまに必要があって鏡に映った自分の姿を見ると、日頃の自分の意識とはそぐわない感じがします。

もっとはっきり言えば、長い人生の時をかけて作り上げてきた人物としての衣の中にいる、裸の自分自身に意識を向けると、そこには子供のころと何も変わっていない自分を見つけることができます。

本当に何一つ変化などしていないのです。だからこの先も決してその自分は老いていくことはないだろうと思っています。

そして肉体が死ぬときまで、意識は意識のままであり続けると思うのです。どれほど肉体的に老いても、そのピカピカの自分はそのままでいるはずです。

そもそも、これはなんなの?

昨日の瞑想会で、みなさんと一緒に瞑想していたときに、子供のときの感覚というか時々感じていたものを思い出しました。

それは、「そもそも、これはなんなの?」というものです。これは、実はあまりいい気持ちのものではないのですが、そのときに感じていたものを結構明確に思い出したのです。

そもそも、何でこの世界はあるの?というような意味のことなのですが、その背後にある気持ちというのは、避けられないところに来ちゃったという感じです。

この世界が楽しくて仕方ないというのとは正反対に、毎日が何の理由もないのにいやで仕方ないというのが根底にあったのだと思います。

喜びに溢れて生活している人は、こんなことを考えることはまずないわけです。ただし、だからといって、毎日が○○な理由で辛いという具体的なものは何もなかったはずなのです。

だから余計に、自分のその沈鬱さが不思議だったのだろうと思います。一体全体、そもそもなぜこの宇宙があって、自分はここで何をしているのだろうか?

その思いは、断続的に繰り返してやってきました。そして、その度にこの世界はまやかしだという感覚になっていたのです。

けれども、そもそもこれはなんなの?と思っている自分とは、そもそも何者なの?ということは、あまり考えてはいなかったと記憶しています。

あれから、長い長い時間が経ち、ようやく今ではあの時に世界や宇宙に対してまやかしだと感じていた、その自分こそが一番のまやかしだったと気づくことができました。

何かを幻想だと言う前に、それを言う己こそが最大の幻想だと言うことにたどり着いたということです。

今なら、「そもそもこれはなんなの?」の「これ」とは、「今」のことだということが分かります。瞑想中であろうと、普段の生活の中でも今に意識を向け続けたことで、子供の頃の感覚が蘇ってきたのだろうと思います。

そうした細かなことを除くと、自分は小学生の頃から何も変わってないんだなということがはっきり分かって、思わず笑えて来ます。

内側のものを所有することはできない

私たちが望んでいることとは、自分が欲しいものを手に入れるということと、その手に入れたもの、つまり所有しているものを奪われないようにするということです。

ということは、望みが叶えば叶うほど、所有しているものが増え続けることになるわけです。俗世的に言えば、沢山所有している人ほど幸せだということになりますね。

10代20代の頃は、欲しいものが沢山ある割りには、経済的なこともあって、なかなか思うようには手に入れることができない時代と言ってもいいかもしれません。

しかし、人生も中盤に差し掛かってくると、若いときと比べれば確かに多くのものを所有するようになります。

結婚して家族が増えたり、金銭的にも余裕ができて、クルマを購入したり、マイホームを建てることができたりするのです。

それでもまだまだ足りないという感覚があるものです。けれども、人生の終盤になってくると、さらにより多くのものを所有することになるのです。

それなのに、完全に満たされたと感じて人生を生きることは難しいのです。その理由は、所有するということに根本的な原因があるからです。

どれほど多くのものを所有することができたとしても、それらはすべて自分の外側に存在するものなのです。

つまり、所有によって自分の外側にあるものを、いくら自分の周りに配置したとしても、自分そのものが変わるわけではありません。

逆に、所有できないものとは何でしょうか?それは、自分の内側にあるものです。自分の内側にあるものを所有することは不可能です。そして、さらにいえば、それを奪われることもありえません。

結局、私たちが心から満たされるためには、何かを所有しようとするのではなくて、あらゆるものが自分の内側にあるということに気づくしかないのです。

自分の本質である純粋な意識が、宇宙を包含しているということに気づくことができたときにこそ、本当に満たされるということになるのでしょうね。

あの頃の無邪気な自分に戻る

私たちは、誰もが幼い頃に、親や周りの大人たちから、自分とは名前がついている誰かであるということを教え込まれてしまいます。

最初のうちはぼんやりとした自覚しかなかったものが、その誰かということが次第に明確になっていくのです。

ゲームのようにして、それを楽しんでいられるうちはよかったのですが、徐々にその誰かとして自分を染めていかざるを得なくなってしまうのです。

気がついたときには、もう自分は小さくて無能なつまらない奴なんだという自覚を持つようになってしまいます。

そのときには、もう時すでに遅しで、元の誰でもない存在に戻ることができなくなってしまうのです。私自身の記憶では、独りで遊んでいるときに、突然誰でもない本当の自分に戻ることもありました。

でも、親などの姿を見つけた途端に、あっという間にその誰か(ある役柄を与えられた子供としての存在)に戻ってしまいました。

その二つの意識には、言葉では言い尽くせないほどの雲泥の差があったと思います。一方は、天国のような陽気な気分であり、もう一方は窮屈でつまらない感覚でした。

意識が入れ替わるときのショックはひどいものです。なんとも自由で開放された心から、一気に縛り付けられたような狭苦しい気持ちになるのですから。

私の記憶では、小学校に入るころまでには、そうした意識の入れ替えもほとんどなくなってしまったようです。

もうそのころには、今と同じ名前のついた一人の人物として、与えられた役柄を一生懸命演じる毎日になっていたのだと思います。

こうして考えてみると、何だか切なくなってきますね。でもこれが本当のことなのです。この年齢になって、ようやくこのことをはっきり自覚できるようになったのです。

残された人生では、是非ともあの清々しい何とも言えない開放的で自由な自分、誰でもない自分に戻ることができたらいいなと思うのです。

それも、ただ戻るのではなくて、自分の本質に気づいたうえでのあの無邪気さに戻るのですから、それがまさに覚醒なのですね。

不幸な動物はいない

セレブな人たちに飼われて、とても裕福な生活をしているペットたちがいます。愛情深い飼い主に大事に育てられて、家族同然として一緒に生活しているペットたちもいます。

彼らを野良犬や野良猫たちと比べたら、何と幸せな毎日を送っているのだろうと感じますね。彼らは生活の心配もする必要がないし、いつも可愛く甘えてればいいのですから。

一方、野良君たちは、毎日自分たちの食べ物は自分たちで探さねばなりません。具合が悪くなっても、病院に連れて行ってくれる人などいないですし、常に身の危険を感じながら生きているわけです。

もしも自分が動物として生まれ変わって来るのなら、それは裕福な境遇のペットのほうがいいと思うに決まっています。

けれども、幸福かどうかというのは自覚の問題だということも明らかです。動物たちには、その自覚はないはずです。なぜなら、彼らには「私」という自覚そのものが元々ないからです。

したがって、幸福感も持ってないばかりか、不幸だという自覚も同様にしてないということです。つまり、動物たちにとっては幸不幸はないということです。

それを自覚できるのは、人間だけなのです。我々人間は、「私」という自覚を持っているために、その「私」が今幸せなのか、それとも不幸なのかという自覚を持つことができるのです。

不幸という自覚は、心理的な苦悩を一定期間以上感じることによって起きるものです。それは、単なる一過性の負の感情というよりも、激しい自己否定感や絶望のようなものです。

そうしたものは動物にはありません。人間だけが自覚することのできる苦悩なのです。つまり、人間だけが不幸になる可能性があるとも言えるのです。

しかし人間として生まれても、動物のように不幸という自覚なしに生きていくことができるのです。それこそが覚醒なのです。

覚醒した賢人たちは、私たちが望んでいるような幸福を手に入れたと思うのは間違いです。幸福とは不幸の反対であるだけで、それも一過性のものにすぎないのです。

彼らの状態とは幸不幸を自覚することのない、まさに動物と同じようなものであると言ってもいいのかもしれません。

もしもそれを至福と呼ぶのでしたら、それは何ら理由のないものでしょうね。なぜなら、それは永続的なものだからです。

動物と賢人との違いは、真の自己の姿に気づいているということです。そして、真の自己に気づく可能性があるのは、動物ではなく人間である我々だということです。

そういう意味では、不幸を知らない動物よりも、不幸を知っている人間に生まれたことは、真に目覚めるためのチャンスがあるということであり、それは本当に感謝すべきことだと思うのです。

平安を求める心

私たちは、自分の心が嵐のように荒れ狂っている状態よりも、穏やかな平安な状態でいることを望んでいるものです。

誰かに酷い言葉をかけられたり、理不尽なことをされたり、身の危険を感じたりすれば、当然心は激しくみだされてしまいます。怒りで身体が震えてしまうかもしれません。

そうしたことは、二度と起きて欲しくないと思うので、できる限り心の平安を願って生活しているわけです。

けれども、この平安というものがなかなかのクセモノなのです。一般的には、平安というよりも安心を求めているといったほうが正確な表現である場合が多いのです。

そうした安心とは、裏を返せば未来に対する不安感を何とかしたいという思いなのです。未来に意識が向いているということは、過去からやってくる思考に巻き込まれているということです。

したがって、思考に目を向けずにいるだけで不安は解消するはずなのですが、それは決してしたくないのです。

つまり、安心したいと思っているといっても、それは単に自分に都合のいい状態を求めているに過ぎないということです。

それは、戦いに勝つこととか、欲しいものが手に入るとか、自分は否定されることはなく、愛されている、認められているということなどです。これは、本当の平安ではありません。

つまり、過去や未来に意識が向いた状態での安心であり、今この瞬間に意識が向くことによる平安ではないということです。

そうした意味で言えば、安心とは一過性のものであるということです。つまり、戦いと戦いの間の休戦状態と同じものです。

一方で、真の平安とは永続的なものであるということです。そこには、時間は入る余地がありません。何も無いということが、時間を排除してしまうのです。

こうした真の平安を求めても、それを求めている間は手に入れることはできません。なぜなら、その求める心が思考から出来上がっているからです。

平安を求める代わりに、ただの存在性と共にくつろぐことによって、それは起きるのだろうと思うのです。

同一視と一つになることの違い

今このブログを読んでいるあなたが何歳であろうと、その年齢分だけ何かと自分を同一視してきたことは間違いありません。

まず初めにやらかした同一視とは、自分とはこの身体であるというものです。実際、そのことによって、「私」という想念が出来上がったのですから。

それからというもの、その「私」が実在しているという証拠を作り続けるために、様々なものと自分を同一視してきたということです。

体験を通して学んでいくことを、「血となり肉となり」という言い方で表現することがありますが、それこそまさしくあらゆる経験を自己と同一視してきたことを物語っているのです。

その記憶の一つひとつが「私」という存在の貴重な肉付けとなっているということですね。そうしてみれば、「私」という人物が全面的に過去から出来上がっているということが分かります。

私たちの歴史とは、自分と何かの同一化の歴史そのものだったのです。それが、「私」という人物の正体です。

けれども、それは自分が何かと一つものになるということとは全く違います。なぜなら、同一視する中心には、主体となる私がいつもそこにいたからです。

こんな経験を乗り越えてきた私、こんな家族を持っている私、年収がこれだけの私、こんな能力がある私、こうしたすべての同一視は自分を肥やして存続させるためのものなのです。

今に耳を澄まして本当の自己の姿と一つになっていくときには、ようやく同一視することをやめて、その自己と一つになっていくことができるのでしょうね。

そのときには、過去を張りくっ付けてでっち上げたこの「私」は、この身体とともに消えていくことになるのです。それを怖いと感じるのか、清々しいと思えるのかはその人の精神状態に左右されることかもしれません。

心理的恐怖を見つめる

心理的恐怖とは何かと言えば、それは自らが作り出した恐怖のことです。自分で恐怖を作り出すなんてあり得ないと思うかもしれませんが、そうでもないのです。

私たちは、実際には在りもしないことを自分ででっちあげて、それに対してまさしく恐怖を抱くということを繰り返しているのです。

その中でも一番単純なのが、予期不安というものです。生物の防衛本能として、一度危険な体験をすると、同様の体験を避けようとする力が働くのです。

そうすると、実際には危険がそこになくても、そこに危険の可能性を検知することで、それを避けようとしてしまうということです。

勿論、それは単なる危険回避の行動ですから、いけないことではないのですが、それが繰り返されてしまうと、過度でしかも不要な自己防衛をし続けることになるのです。

パニック発作などはその典型的なものだと言えます。最初に具合が悪くなったのは、体調不良などが重なったための正当なものだったのが、次からは単なる危険回避による予期不安からの発作が起こるのです。

昔から言われていることですが、暗闇の中でロープを見た時、恐怖の心でそれを見ることで、蛇のように見えてしまうために、その心の通りに恐怖を感じてしまうのです。

動物には、こうした心理的恐怖というのはあまりないのかもしれませんが、人間はこれでもかというくらいに日々の生活の中でありもしない恐怖をでっちあげているのです。

それは本当に大変なエネルギーの浪費です。一度恐れを抱いた対象からは、できるだけ逃れようとしてしまうので、恐怖が自分の中で大きく育ってしまうのです。

逃げれば逃げるほど、恐怖は肥大していき、仕舞いには飽和状態にまで成長した状態で、本人を追いかけてくるのです。

そうなると、その恐怖に向かい合うことは至難の業となってしまいます。それでも方法はあります。つまり、こうした心理的な働きのことを理解した上で、勇気を持ってその恐怖から逃れようとすることをやめるのです。

逃げるのをやめただけで、不思議なことにその恐怖はそれほど大きくはなかったということに気づくことになるのです。

自分で作り上げた恐怖ですから、それに実体などありません。だからこそ、見てしまえばそれは急速に萎んでいってしまうのです。

あなたには、自分が逃げ続けてきた恐怖の本性を見ようとする勇気があるでしょうか?対決姿勢を手放せば、きっと恐怖は影のように消えてしまうはずです。

何があっても楽しむという選択肢

私たちは幼い頃から、例えば幼稚園のかけっこでビリになるよりも一等になるほうがいいと思っていましたし、一等になったら喜ぶのです。

テストで0点取るよりも100点取ったほうが嬉しいし、叱られるよりも褒められたほうがいい気持ちになるし、嫌われるよりも好かれるほうが断然好きなのです。

友達がいなくて孤独であるよりも、仲良しの友達がいたほうが楽しいし、欲しいものが買えないようりも手に入れられたらそれをすごく喜べるのです。

けれども、そうした基本は残るものの、成長するにつれて少しずつ反応が複雑化していきます。子供の頃は決して食べないような珍味を好むようになったりするのです。

腐った雑巾のような匂いのするウォッシュチーズを美味しいと思ったり、見た目は気持ち悪いものでも、それを喜んで食するようになったりします。

あるいは、少し毛色は違いますが、より多くの楽しみを得るために、いやなことでも我慢しつつそれも楽しみに変えてしまうということもできるのです。

例えば、以前毎日スポーツクラブに水泳をしに行っていたときには、必ず100℃のサウナで汗をかくのが楽しみでした。

10分も入っていれば、かなりシンドイ状態になるのですが、それがまた気持ちいいし、そのあとで水風呂に入るのがまた何とも爽快で、それをとても楽しんでいました。

あなたは、たとえどんなことであろうとも、本質的にはそれを楽しむことが可能であるということを認めることができるでしょうか?

何が起ころうとも、それを楽しむという選択肢があるのだということに気づき、それを実践するように仕向けていくことができることを認められるでしょうか?

もしも、人生を何が何でも楽しみたいという意欲があるのであれば、このことをじっくり考えてみることは決して損なことではないはずです。

何でも楽しんでしまいましょう。お金がなくても、楽しむことはできます。どんな経験でも、それを楽しむことができれば、人生は大きく見え方が変わってくると思います。

何も無さを観、静寂を聴く

山や森のような大自然の中に行くと、よくその静けさに耳を澄ましてみる、ということをすると思います。イメージしただけでも、とても気持ちよくなりますね。

しかし、静けさというのは音のないことですから、それに耳を澄ます、あるいは耳を傾けるというのは本来変な話しです。

それでも、私たちはよくそのようなことをするものです。それはきっと、本質的に静寂さというものを求めているからなのかもしれません。

耳で聞けるのは音なのに、その音のない状態である静寂を聴くというのはどういうことでしょうか?勿論、静寂さを自分の耳で聞くことなどできません。

そうではなくて、私たちは静寂さを直接体験しているのです。そしてその静寂さにじっと意識を向け続けていると、ふいにその静寂さこそが自分自身だと気づくのです。

その一瞬の意識の転換をきっと誰もが経験しているはずです。それは決して知覚ではありません。静寂とは、対象ではないからです。

見るということについても同じようなことが言えます。目をつぶるなり、真っ暗な場所にいると、そこには光がないために私たちは何も見えなくなります。

けれども、何も見えないはずなのに、闇を観ているということを知っています。それは暗闇を知覚しているのではありません。

ただ何ものも見えない闇、つまり無を直接体験しているということです。そしてやはり、それは対象ではないので、自己の本質であるという気づきへと移行します。

静寂さであれ、何もなさであれ、どちらもこの世界で起きるすべての現象の土台であり、それこそが自己という純粋な意識なのですね。

それは何とも言いがたい、安らいだ気持ちにさせてくれます。どんな音が聞こえていようと静寂を聴くようにし、何が見えていようとそこに何もなさを観るのです。

そしてそのときに、静寂も無も、今という違う言葉でも言えるということが分かります。今とは、私たちの本質の姿そのものだということです。