自己イメージを護らない

誰でも、もっとマシな自分になりたいと思っているものです。そういう思いを向上心と言うのだとしたら、それはこの世界では最も認められているものの一つだと言えますね。

自分が今のままでいいと感じている人は少ないと思います。私たちは常に、より良くなろうと思って、目標を設定したりするわけです。

けれども、そうした目標というのはただ向上するというのではなくて、実は巧妙に自分の都合のいい向上の仕方だけを求めているのです。

今まで作り上げてきた自分像、自己イメージはそのままにしておいて、邪魔だなと思うような部分だけを削り落として行きたいと思っているのです。

そのことに気づくことはなかなかありません。なぜなら、その邪魔な部分というものが自己イメージそのものから作られた結果だということを認めようとしないからです。

都合のいい部分はそのままにして、都合の悪い部分だけを何とかしようとするのです。こんなことは全く不可能なことだと気づかねばなりません。

気づかないからこそ、いつまでも不都合な部分が居残り続けるのです。そうやって、自分に都合のいい向上だけを願っているということに気づくと、本当にバカバカしくなります。

あらゆる苦悩の原因が、自分にとって都合のいい自己イメージそのものにあったという、何とも残念な結果を受け入れる勇気が必要なのです。

一番悲惨なことは、そうした苦悩の原因を外側に探し当てようとし続けることです。もしも、それがやめられないなら、一生涯その苦悩を自らが作り続けてしまうのです。

今自分が苦しんでいる原因を、今の自己像の根っこに見出そうとすることから、目を背けないことです。決して、外側を見てはいけません。

これが自分なのだと思い込んでいる自分、自己イメージに思い切ってメスを入れるのです。そして、その嘘を暴く勇気を持つことです。

それ以外に本当の救いはないとはっきり理解することができたら、あとは時間がかかっても必ず自分の本質を見破るときがやってくるはずです。
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人間関係の悩み

とても多くの人が、人との付き合いがうまく行かないという悩みを抱えています。つまり、人間関係をもっと改善したいと思っているということですね。

人間関係には、何も問題がないと言い放つ人はあまりいないと思います。なぜなら、問題を感じない人は、人間関係などということに注意が向かないからです。

そこに注意を向けだすことこそが、実は人間関係に何らかの問題を抱えるようになる、そしてその問題がいつまでも改善しない、根本原因なのです。

いやあ、そんなはずはない、うまく行かないからこそ人間関係について考察するようになるのだと思っているはずです。

けれども、それは真逆だと言わざるを得ません。人との関係に居心地の悪さや不自由さを感じたとしても、それを何とかしようと思わなければ、自然と物事は収まっていくのです。

それを自分の思考を使って、ああでもない、こうでもないと分析したりするために、余計に問題が複雑化していってしまうのです。

そこに気づくのはとても難しいかもしれません。なぜなら、それは勇気がいることだからですね。何とかしようとしなければ、問題はそのまま残ることになると信じています。

しかし、どこかで気づかなければなりません。何とかして解決しようとすればするほど、問題は解決して行ってはくれません。

10年、20年もそうしたことを繰り返していたら、やっぱりそのやり方にこそ問題があるのかもしれないと、勇気を持って気づいていく必要があります。

人間関係に悩んでいる方にとっての究極の解決策はといえば、それは人間関係を改善することに興味をなくしていくことです。

そこに注意を払わなくなれば、それは問題として認識することすらできなくなっていくのです。それは、決して無視するということではありません。

興味のないことが、自分を悩ませることなどできないということです。このことも、そんなことはないと反撃されてしまうかもしれません。

でも本当なのです。そもそもが、問題を問題たらしめているのは、自分自身だということに気づけば、このことは納得できるようになるはずです。

人間関係のことなど忘れて、もっと興味のあることに意識を向けるようにすることの方が、圧倒的に改善しようと努力するよりもいいということです。

昔懐かしいツェッペリンの曲

確か高校生の頃だったと思います。もう恐ろしいことに40年も経ってしまいましたが、その頃大好きなロックバンドがありました。

とても昔なので、みなさんはご存知ないかもしれませんが、レッド・ツェッペリンというバンドなんですが、一度だけ武道館でやった「幻のコンサート」にも行ったほど、大ファンでした。

彼らは、そんな昔から自家用ジェットでやってきて、一回コンサートをやってあっという間にまた飛行機で戻って行くという、過酷な日々を送っていたようです。

初めて彼らを見たのは、小六のころでしたか、あるテレビ番組の中でそれまで見たことも聞いたこともなかったサウンドと映像に、衝撃を受けたのでした。

ヴォーカルを一つの楽器として位置づけているというのか、彼らの演奏はヴォーカルが入っていてもインストルメンタルな感じなのです。

映像もものすごくお洒落で、グループのメンバーをそれぞれ均等に舐めていく感じで、今ではそんなもの何も珍しくはないですね。

その彼らの曲の中で、とてもとても魅力的なのがあって、折に触れて思い出していました。へたすると、瞑想中に浮かんできたりもします。

その曲は、どうしてもリズムをうまくつかむことができなくて、本当に難解な感じなのですが、昨日その理由がはっきり分かりました。

ipad のアプリにこれまた昔懐かしいアナログシンセサイザーがあって、その中にあるシーケンサーで、その曲を作ってみたのですが、な、なんと16分の18拍子だったのです。

つまり、4小節のあとに、1/2分だけ小節がつく感じで、だからいつも足でリズムを取るのが難しかったというわけです。

40年来の謎が明確になった昨日でした。ああ、40年間何の進歩も変化もしてないなあというのが今日の感想です。

明日の日曜日から、また新たに講座がスタートします。参加されるみなさんのおかげで、私は自分を教育することができます。本当に感謝ですね!

何があっても落ち着いていられる意識の在り方

パソコンに向かって、さて今日は何を書こうかなと考えていたら、思考をフル回転させようと思っても、どだい無理なのでただ自分の素直な今の気持ちを書けばいいやと…。

でも近頃自分の気持ちが分からない、ああそうだ、一番よく思うのはまったくもってこの先の人生がどうなるのか分からないということです。

自分の周りでも、今年は目に見えて大きな環境の変化が起きようとしている人が何人もいるのですが、自分はどうなのだろうかと。

自分もきっと何かがある気がしています。それは、あまり気が進まないような、そういうものかもしれないです。

奇跡のコースを読み出して、しばらくしたころに「教師用マニュアル」を読んで、環境の変化を与えられる人がいると知って、これきっと自分のことだと思ったものです。

一口で言えば、自分が所有していると勘違いしているものを、身包み剥がされるという経験になるのかなと…。

その頃から、ある程度の覚悟というか、心の準備みたいなものがもうできていたのかもしれませんが、それがそろそろ始まりつつあるという予感です。

本質的には、変化は決して嫌いではないのですが、快適な生活の一部でも奪われるとなると、ちょっとへこたれてしまいそうです。

でもそれは自分の表面的な意識についての話しですね。全体性を感じている方の自分の意識では、元々が何もないという感覚なので、何でも来いという感じではあります。

そちらに意識をシフトしてしまえば、シーンと静まり返って、まったく活動のない究極の落ち着きがやってきてくれます。

これがあるおかげで、自分は何があっても、へこたれても、苦しくても、痛くても、絶望的になったとしても、別次元で大丈夫というのがあるので、助かります。

窓ガラスに映った己の姿

昨日は久しぶりに電車に乗ったのですが、多分、今年に入って初めてだと思います。ええ?そんなに外出しない人っているんだ、と思われた方もいらっしゃるでしょうね。

でも本当にそうなのです。以前に、年に1、2度しか電車に乗らないというときもありました。で、昨日は夕方から出かけて夜帰ってきたのですが、その時間帯まで考慮すると2年ぶりくらいかもしれません。

何が言いたいのかというと、外が暗くなった帰りの電車の中で、窓ガラスに映った自分の姿を見ていてギョッとしてしまったのです。

ああ、なんて老けたのだろうかと。ドア近くに立って窓ガラス越しに見た己は、こんな疲れたような親父のはずじゃないと思ってたのです。

でも、どうやっても自分の記憶の中にある己の姿とは違ってしまっていました。これはもう、どうしようもないことなんですね。

内面は全く以前と違ってなどないのに、こうも外見というものは残酷に、そして着実に老け込んで行くのですね。

ちょっとした浦島太郎状態だったのかもしれません。そして、今度は電車の中にいる人たちをよ~く観察させてもらったところ、これもまた驚きの現実が待っていました。

自分の記憶では、この人は自分よりも年下、あの人はきっと年上だろう、そういう判断がこれまたアップデートされていないのです。

自分よりも年配だろうと思っていた人をじっくり見直してみたら、もしかしたら自分の方が年上かもしれないということに気づいたのです。

そうしたら、少し前までぼんやりと見ていたときと比べて、自分よりも年下だと思える人が圧倒的に多いということに気づかされてしまいました。

こうやって、人は年をとっていくものなのかもしれません。今まで生きてきて、これほど自分の外見にショックを感じたことはなかったと思います。

窓ガラスに映った自分の姿に向かって、何度も心の中で言いました。あいつは絶対自分じゃないよと。全く内面の自分とそぐわないよと。

そしてそれは、本当のことなのですが、こんなこと誰に言っても、ただの強がっている親父に過ぎないと思われてしまうのでしょうね。

ヨーグルトに対する感謝の気持ち

昔のヨーグルトって、ガラスの容器に入っていましたよね。これが、分かる人はそれなりの年齢かもしれません。

明治製菓のヨーグルトで、それは大切そうに、ガラスの入れ物にフタがされて、そのフタには何かきれいな装飾があったと思います。

今は、そんな無駄なことをせずに、ブラスチックの容器に入って、何個かまとめて包装されてスーパーとかで売られているのが普通ですね。容器が変わっても味が変わるわけではありません。

自分が幼児のころというのは、極度の偏食でして、ヨーグルトというのは唯一食べることができて、しかも美味しい食べ物でした。

それ以外はほとんど食べることができなかったので、今思い返してもみると、ヨーグルトには本当に支えてもらえたなと思うのです。

自分は、幼い頃決して好きでもない食べ物を無理して食べようとすることはなかったので、ヨーグルトはとてもとても大切な食べ物でした。

しかし、大人になるとヨーグルトというのは、あまり食べなくなってしまうものかもしれません。女性はそうでもないのかもしれませんが、男性は食べる機会がなくなってしまいます。

したがって、身体のことを気にかける気持ちが芽生えたときには、意識してヨーグルトを食べるようにまたなるのかもしれません。

乳酸菌は便通にもいいと聞きますし、大人になっても牛乳よりもヨーグルトの方が身体にはいいというように聞いています。

そんなことを考えてみると、ヨーグルトには本当に感謝できるなあと思うのです。ヨーグルトさん、今まで支えてきてもらって本当にありがとう!

これからも、なるべくヨーグルトを食べようと思います!

キーワードは「惨めさ」

数年前に、自分の人生のパターンとなる大元の体験について捜しているときに、そのコツを発見することができました。

それは、「惨めさ」だったのです。誰にでもあるその体験のことを、私は原体験と呼ぶことにしているのですが、その特徴を一言で表わすなら、「惨め」な体験なのです。

勿論原体験ですから、それはとても幼い頃にまで遡らなければなりません。もしかしたら、思い出すことが難しい場合もあるかもしれません。

けれども、私の感覚では記憶のないような幼児のころというよりも、それよりもほんの少し大きくなった頃のはずなので、意外に普通に覚えている可能性が高いのです。

ただし、その体験を思い出したとしても、それが人生のパターンの根源になるようなものだとは、なかなか思えないようなものなのです。

つまり、その場面を思い出しても、大したものでもなく、特別意味もないような感じで見てしまうということです。

なぜなら、それは大人の自分にとっては何でもない場面であるからです。しかし、その当時の幼い自分にとっては、とても大きなインパクトがあるものなのです。

それが「惨め」な体験というわけです。「惨めさ」というのは、怒りとか悲しみというような単一の感情ではなく、それらがミックスされたものです。

例えて言えば、自分の存続が危ぶまれるような感覚であり、尚且つ物理的な危うさではなくて精神的なダメージを伴うものだということです。

突き詰めてしまえば、それは恐怖であるわけですが、けれども「惨めな体験」という切り口で捜すことで、より見付けやすくなるのです。

そして、なぜそれがパターン化されてしまうかといえば、その惨めさを感じることがとても辛いために、それを隠し続けて生きてきてしまうからです。

その結果、その惨めさを本人に知らしめるために、それ以降の人生のあらゆる場面に似たような惨めさを味わわざるを得ない経験をしてしまうということです。

惨めな体験をしたくないなら、その自分の中に隠し持っている過去の惨めさをただただ見てあげることです。

それを繰り返すことで、惨めさを恐れることがなくなってきます。惨めさと闘う必要がなくなったとき、それはもうパターンではなくなるのです。

婚活疲労外来?

あるクライアントさんからお聞きした話しなのですが、どこかのメンタルクリニックで「婚活疲労外来」というものができたそうです。

聴き慣れない言葉なので、勝手に週末に婚活をし過ぎて疲れた人のケアをしてくれるのかなと思っていたら、それだけではないらしいです。

その疲労とは、心の疲労のことだとか。確かにメンタルクリニックですから、忙しすぎるだけの人が行くわけがないですね。

そうではなくて、お見合いパーティのような場所で、相手から指名されなかったり、交際を断られたりといったことが重なって、精神的に参ってしまうということらしいです。

つまり、自分の存在価値を否定されたように感じてしまうのでしょうね。分からなくもないですが、かなり気持ち的に切羽詰った状態なのかもしれません。

元々が、結婚しなければという焦りから婚活をするようになるのでしょうから、そのような余裕のない心では、そうしたダメージを受け止めることができなくなるのだと思います。

まだまだ人間としては若い年齢なのに、そういうことで毎日をウツウツとした気持ちで過ごすのかと思うと、何だか勿体無い気がしてしまいます。

女性によっては、一日でも早く結婚しないと、自分の価値が下がってしまうと思っている人もいるかもしれません。

また、結婚はしたいけど、子供はいらないという人もいれば、結婚して子供を産まなければ一人前の女性にはなれないと思い込んでいる人もいます。

あるいは、結婚はしたくないけれど、子供だけは欲しいなどと思っている女性もいるようですね。いずれの場合も、自分の外側に希望を見出そうとすることだと言えます。

でもこの問題は、なかなかデリケートな問題ですし、男性には分からない部分も確かにあるように感じます。

婚活疲労でうつ状態にまでなってしまうような場合には、一度本当に結婚したいのかを自分の心に正直に聞いてみる必要がありそうですね。

とことん人の幸せのために生きている人

ある人がネット上で、視聴者の質問に答えるという番組をやっていて、それを一年前くらいから見出したのですが、今もそれは続いています。

その人物は、たまに地上波のテレビにも顔を出すような人なのですが、正直な物言いをするので発言した内容を使ってもらえないことが多いらしいのです。

そのため、すべてを包み隠さずに話すことができるネットを利用しているわけです。彼は、私よりも2歳ほど年上の男性なのですが、生き方がちょうど私と真反対な感じがして、とてもとても気になる存在なのです。

気になるというよりは、大好きな人物といったほうがいいかもしれませんが、とにかく行動的、活動的な人でいつも限りなく忙しくしているのです。

睡眠時間も2~3時間くらいしかないらしいし、朝から夜中を通り過ぎて明け方まで、実務をされてるということです。

昨年の3月11日以来、背広のときには必ず黒いネクタイを着用しており、ようやく今年の3月11日を過ぎてから、普通のネクタイに替えたようです。

被災された方々が辛く苦しい思いをしているのだからと、彼もまったく同じ気持ちであるということを表わすためなのかもしれません。

昨日の番組の中で、彼が次のように話しているのを聴いて、ショックを受けたのです。それは、「自分は一度も幸福だと感じたことがないし、そんなことは考えたこともない。」というのです。

人間とは社会的な生き物であり、独りでは決して生きていくことができないし、他人の幸せだけを考えて生きることこそが、結果として満たされるのだということです。

彼はそんなことを小学生のころから考えていたそうです。私は今でこそ、その意味が分かるようになったのですが、つい最近まで自分の幸せのことしか、興味がなかったのです。

だからこそ、ショックを受けたのですね。自分が幸せになろうとすると、人は満たされることがないということです。

自分は不幸でなければいいのであって、すべては人の幸せのために生きる、それこそが唯一の満たされる生き方だということです。

集中すると観照しづらくなる

今使っているパソコンはもう10年選手で、メモリもハードディスクも容量が貧弱で、動画もスムーズには見れないのですが、普段はメールを読み書きしたり、こうしてブログを書くだけなので壊れない限りは使うつもりです。

ケータイもほとんど使う場面がないために、すごく古い機種のままなのですが、今年の夏くらいまでに買い換えないと使えなくなるらしいので、スマホにしようかと考え中です。

そんな感じで、最近はこうしたものにあまり食指が動かなかったのですが、ふとしたことがきっかけで、自分としては、久しぶりに電子機器を買いました。

昨日の16日(金)に発売になった、アップルの新しい ipad です。コースの勉強会に持っていって、それでテキストを読もうと思っています。

自分で以前に作った日本語-英語が対で読めるドキュメントを PDF に変換して、電子図書のようにして読もうと目論んでいます。

それともう一つ、ごく少ないのですが気に入っている数冊の本も、何とかして PDF のフォーマットにすることで、ipad で快適に読むことができればと思っています。

それにしても、最近のこうした AV機器というのは、その進歩がすさまじくて付いていくことができなくなりつつありますね。

昨日一日、ああでもない、こうでもないといじくりまわしていたら、過去に意識が向くことはなかったのですが、それに意識が集中してしまい、それはそれで今にいられなくなっていたと感じています。

何かに集中するというのは、いいようでいて、あまり観照することができなくなるということがあるようです。

寝る前に少しだけでも意識をリセットするために、瞑想しようと思います。