「ノー」から「イエス」へ

先日、大型のホームセンターに買い物に行ったとき、ついでに一階の奥にあるペットショップを覗いて来た時の話しです。

ちょうど、一匹のかわいらしい子猫がガラス張りの小部屋から外に出してもらって、囲いのある小さなスペースで飼育係の女性と遊んでいるところでした。

私が近寄って行ったのを見たその女性は、商売熱心なのかその子猫をむんずと捕まえて、胸のところで羽交い絞めにして私に抱かせようとするのです。

子猫がすごくそれを嫌がって自由に遊びたがっているのを感じたので、その旨伝えたら、その女性は「全然いやがってないですよ~」と気楽に言ったのです。

しかし、子猫はすごく暴れて嫌がっているのは明白でした。毎日、動物と接しているから慣れてしまってるのは分かるのですが、ちょっと猫がかわいそうな気がしました。

そのことで一つ思い出したことがあるのですが、それはずっと以前にある女性のクライアントさんが退行催眠の中で、幼い頃にお婆ちゃんの家によく連れて行かれていたことを思い出したのです。

彼女は、お婆ちゃんにいつも抱きしめられてしまって、身動きができなくなってしまうのがとても苦痛だったということを、セッションの中でリアルに思い出していました。

お婆ちゃんからしたら、可愛い孫娘を抱っこしていたいだけなのでしょうけれど、彼女はさっきの子猫のように全身でイヤだということを表現できないでいたのですね。

お婆ちゃんに「やめて!」と、直接言うことができたら自由の身になれたかもしれません。このような子供は、大人になってもやはり「ノー」をはっきり表現することができない場合が多いのです。

「ノー」を表現することは、自己防衛の基本ですから、セッションでは出来る限り勇気を持って堂々と「ノー」を言えるようになる必要があるとお伝えします。

しかし、勿論これで癒しの作業が終わるわけではありません。充分に、「ノー」が言えるようになったら、その後は今度は逆に、自己犠牲なしに「イエス」を言えるようになることが理想なのです。

なぜなら、「ノー」は拒絶であり、「イエス」は受容だからです。拒絶の人生よりも、受容を選択することができれば、心はいつも穏やかでいられるはずだからです。

あなたは、日々の生活の中で、「ノー」を言う回数と、自己犠牲なしに「イエス」と応答する回数とどちらが多いでしょうか?

勿論、「イエス」が多ければ多いほど、不満の少ない人生であることは間違いありません。

方向を定めることの大切さ

みなさんもよくご存知の「般若心経」の中の一節に、「色即是空」という言葉がありますね。この色というのは、形あるもの、あらゆる物質のことです。

つまりこの世の森羅万象すべては空(くう)だと言っているのです。空(くう)とは、その言葉どおりに空っぽということです。

何から何まで空っぽであるということを一体どうやって理解することができるのかと疑問視する前に、この「色即是空」と唱えているのは誰かという命題があります。

森羅万象が空(くう)であるなら、そのことを知っているどんなものもいない、空(くう)なはずです。こうした矛盾は、かならず真理の周辺にはついてまわるものなのです。

私たちの誰もが寝ようとすればするほど、寝付けなくなってしまうという経験をしています。それは、寝ようとしている本人の思考が寝入ることを邪魔してしまうからです。

このような矛盾、あるいは逆説的なことはいくらでもあるのです。努力をしないように頑張ってしまったり、緊張しないようにしようと逆に力が入ってしまうなど。

しかし、それでも私たちは努力をしないようにという方向付けを必要としています。緊張しないようにという決意が大切なのです。

寝ようとすればするほど寝付けなくなるのですが、寝る決意をしてパジャマに着替えたり、部屋の電気を暗くして快適な睡眠の準備をすることは大切なことと同じです。

そのことを通して、気持ちを安らかにさせることができ、寝ようとする緊張を解きほぐすことができるわけです。そうやって、知らぬ間に寝なければという思考から開放されるのです。

思考を止めようとすることは、その思考が新たに作られるという矛盾が生じるのですが、それでも思考を止めようとする思考が初めに必要なことは間違いないということです。

そのようにして、いかに矛盾が生じようと、逆説的な事象に出会おうと、方向を定めることがまず必要であることは忘れてはなりません。

自己探求についても同じことが言えます。自己探求の結果は、その自己探求する個人が消滅することであり、これ以上の逆説はないかもしれません。

それでも、その方向性を確定させることがなくてはならないということです。明確な決意をし、その後でその決意した個人が消滅するように導いてもらうということです。

「何とかしなければ」をやめる

最近の私の中でのマイブームというか、しょっちゅう言ってしまう言葉があるのですが、それは「何とかしなければをやめる」というものです。

人によって自覚の差こそあれ、誰でもがこの「何とかしなければ」という原動力によって日々暮らしているといっても過言ではありません。

人生というストーリーのベースにあるものは、快楽への欲望と苦悩への恐れであると以前このブログで書いたことがありますが、これも全く同じことですね。

自分にとって都合のいいものを何とかして手に入れたいという思いが欲望であり、逆に都合の悪いものから何としても逃れたいというのが恐れです。

いずれにしても、何とかしたい、何とかしなければという思い、あるいは想念と常に暮らしているわけです。それを、直ちにやめる!ということです。

よりよいものを目指すこと、もっとましな自分になろうとすること、自己をより深く探求していくこと、目的地に向かって邁進していくこと。

何かにすがりついて安心しようとすること、嫌われないようにいい人でいようとすること、計画通りに物事を進めようとすること、問題を解決しようとすること等々。

こうしたことのすべての底流には、「何とかしなければ」があるのです。これを全部、そして今この瞬間にやめるのです。

なにもかも諦めることは難しいですが、一時的にでもやめることを選んでみるということです。これなら、練習次第ではできるようになるはずです。

「何とかしなければ」をやめることが出来たとき、そこには途方もない平和な心の状態があるはずです。なぜなら、そのときにこそ私たちの中心にある本質に出会うことができるからです。

それは昨日のブログで書いた、「今」に注意を向けるという実践をすることによって、意外に簡単に実現できるのです。

是非試してみて下さい。

一体全体これは何?

当たり前のことですが、私たちは誰も「今」から逃れることはできません。過去や未来に一秒たりとも生きることはできないのですから。

それほど近いところにあるものなのに、私たちは「今」のことをほとんど知らないと言ってもいいのかもしれません。

そもそも、「今」とは一体何なのでしょうか?このように、明確に「今」という言葉を使わないにしても、ずっと昔からここにあるのは何?という思いを持っていたように記憶しています。

ある時突然、これは一体何なんだ?と感じることもありました。それは実は苛立ちのようなものだったかもしれません。

なぜなら、「今」というものの正体が分からないままに、丸ごとどんなときでもそれに包囲されていて、それ以外どうしようもないという感覚があったからです。

「今」の音を聞こうと耳を澄ましてみると、そこにはありえないくらいの途方もない静寂があると分かります。「今」とは静寂であるとも言えるくらいに。

じっとして、耳を傾け続けていると、「今」が全く変化せずに提供されていることに気づくことができます。自分は時間の流れの中にいて、絶えず押し流されていながらも、全く微動だにしない「今」を感じてもいるわけです。

子供の頃にじっとして動かないでいることがよくあった、あのクセの正体は、きっと「今」を感じていたくて、その永遠性の神秘をどこかで思い出そうとしていたのかもしれません。

「今」に注意を向け続けていると、あらゆる精神活動が停止するようで、なんとも不思議な感覚がやってきます。その静寂の中で、自分自身も静寂と一体になれるような。

そして、ここから先は本当に最近気が付いたことなのですが、「今」こそが本当の本当の真実の自分の姿なのだということ。

そういうことだったんですね、一体全体これは何なんだ?という質問は、実は最も身近で最も分かっていたこと、つまり自らが自らに対してお前は誰だと問うていたわけです。

このままで終わりたくないですね。この先の気づきがあるはずだと誰かが言っているような気がします。

孤独よりも内側にあるもの

人は誰でも間違いなく孤独を持っています。それに充分に気づいている人もいれば、気が付かずに暮らしている人もいます。

寂しくて寂しくて仕方ないと感じてる人からしたら、孤独の辛さを知らずに生きている人のことが羨ましく感じてしまうかもしれません。

独りでいると寂しいからと、恋人や友人たちと一緒にいようとするのですが、でもずっと一緒だと今度はゆったりできなくて、独りになりたくなるのです。

そうすると、また寂しさがやってきてしまうので、無理をしてでも誰かと一緒にいようとする。こういうことが繰り返されるうちに、どんなに孤独でも誰にも会いたくなくなってしまうかもしれません。

こうしたことはよくあることです。なぜそれほどまでに孤独なのでしょうか?それは、物心がついたころから誰しも個人として生きるようになったからです。

個人であるということは、どんなことをしても他の人と一つになることができないばかりか、本当には分かりあえないという宿命をもっているからです。

個人として生きている私たちにできることは、何とか工夫をしてその根源的な孤独から目を背けて気づかないようにするだけです。

仕事や趣味に没頭したり、何か他にとても困った事態に巻き込まれたり、そうやって意識を孤独から背けるしか方法はありません。

ところが、孤独を持っているのは個人としての「私」だということに気づき、その「私」よりももっとずっと内側の最も中心に意識を向けることができると、不思議なことにそこには孤独がないと気づくことができるのです。

それは孤独ではなくて、唯一であるという意味での単独というものなのだと分かります。それは決して孤独のような恐怖とは違います。その反対の至福感といってもいいものです。

孤独を癒すために外側に何かを求めることを一旦やめることです。そして勇気をもって、その孤独よりももっと中心にある単独に意識を向け続けることです。

そのときには、孤独というのが「私」という想念のでっち上げたものに過ぎないということに気づくことができるのです。

これが分かれば、孤独を恐れることはなくなるはずです。孤独は過去から忍び寄ってくるものであり、中心まで戻ったところにある単独は今この瞬間にのみ在るのです。

個人と言う着ぐるみには孤独が張り付いているのですが、その着ぐるみの内側に在る本当の本当の自己は、単一のすべてであるということです。

この感覚を何としても取り戻すことです。そして内側だと思っていた本当の自己は、その着ぐるみも含めてこの宇宙のすべてを包含しているものだったと気づくのです。

注意を内側に向ける練習

今年に入ってひと月たった当たりから、自分の本質について意識を向けるようになったのですが、それでも本気でそれをやりだしたのは夏ごろだったと記憶しています。

なぜ、すぐに本気になることができないでいたのかというと、その理由は3.11が起きたことによって、意識がそちらにばかり向くことになったからです。

そこでいやというほど、社会や非常に現実的な部分にばかり目を向かせることになりました。それは、私にとっては必要なことだったのかもしれません。

というのも、自分の本質に意識を向けるということが、現実的に生きることとは真逆の生き方のように思えたからなのです。

2月ごろ、あまりにも衝撃的に自己の本質を見るということに出会ってしまい、意識が現実から乖離してしまいそうになったのです。

そのために、できるだけ現実方向へと一旦意識を向けざるを得ないような事態がやってきてくれて、半年近くも見かけ上の遠回りをしたということなのかもしれません。

でもそれを充分に経験できたおかげで、そのあとはしっかりと腰を据えて、本気になって自己の本質へと意識を向ける練習を始めることができたのです。

初めのうちは、どれだけ頑張って意識を内側に向け続けようとしても、あっという間に外側へと注意が戻されてしまいました。

そのために、いろいろな小道具を手に入れたり製作したりして、徐々に注意を内側に向け続ける生活に馴染んでいくことができたのです。

勿論今でも初心者の域を脱してはいないと感じていますので、これは今後もずっと続けて練習していくことがやはり大切なことだと思うのです。

ただ、それでも少しずつではあるのですが、それなりの効果というものも出だしてくれていて、それはとても嬉しいし、それがまた練習のための励みにもなるのです。

最近は、誰かと対面しているときが一番練習の効果を感じられるのです。いかに、自己の本当の意識がここにないかを感じながら会話をすることを心がけています。

なおかつ、相手の本当の意識もそこにはないということを感じつつ、そしてその場全体を包含するものとしての自己に注目し続けるという練習をやっています。

この練習では、常に意識を今に在りつづけることができるということです。過去や未来から開放されることで、余分な想念からも自由になるのです。

是非みなさんにもこの練習を実践していただきたいと思っています。

個人としての自分を見つけられない

夜寝る前に、心を静かにして今日一日の自分の体験を思い出してみると、とても面白いことに気づくことができます。

それは、どの場面を思い出しても、そこには個人としての自分を発見することができないということです。そんなわけはないと言われるのは分かっているのですが、でもそうなのです。

これを体験するためには、自分が無自覚に作っているイメージを停止させる必要があります。それは、自分という人物があらゆる場面で活動しているというイメージです。

そうです、それは単なるイメージに過ぎないのです。ただただ、自分がその場面で体験したことだけを正直に思い出すことに成功すると、そこにはイメージの中の自分はいないと気づくはずです。

その代わりに、広く開いた一つの大きな視点からこの世界を見ていたということに気づくのです。その視界の中には、入れ替わり立ち代り、様々なものがやってきては去っていく。

時には部屋の景色であり、またあるときは出かけている際の街路だったり、それは忙しく過ぎ去ってはまた新たな事象がやってきます。

自分が個人であるとのイメージをでっち上げない限り、こうした事象は自分の内部で起きていることだと分かるのです。

映画館で映画を観賞しているのとあまり変わらないのです。ただ、映像が写されるスクリーンが外側にあるのと、内面にあるのとの違いがあるだけです。

こうした感覚は、リアルタイムで感じるというよりも、今日のことを思い出しているときの方がより分かりやすいのかもしれません。

すべての場面が私自身であるという表現が近いかもしれません。したがって、どこをどう記憶を戻してみても、個人としての私は出てくることはありません。

これはとても面白いことですので、興味があれば試してみて下さい。そして、望むべくはリアルタイムでそれを直に感じることができるようになることだと思います。

痛みがなくなることはない

心の癒しを進めていくと、いろいろ不自由だなと感じていたことや、苦悩していたことなどが次第に減って行き、徐々に楽になっていきます。

ご本人にとっては、それはとても大きな変化がやってきてくれたなと嬉しく感じるはずですね。あの辛さは一体何だったんだろうと疑問に思うことすらあるかもしれません。

ひどい生理痛だったのがほとんど痛みがなくなったり、人が沢山集まる会合などの席にいるのが怖くて仕方なかったのが、冷静にいられるようになったり。

自己表現や感情表現がうまくできずにいたものが、素直に自分の気持ちを伝えることができるようになったりと、癒しの効果は様々です。

しかし、ここで勘違いしてはいけないことがあります。それは、癒しが進んだことで、いやなことや自分にとって都合の悪いことが確実に起きなくなるということではありません。

そうしたことが減る方向に変化することは充分に考えられることですが、それを期待して人生がよくなるというように思うのは間違いです。

人は生きている限り、いろいろな痛みがやってきます。それは必ず来ます。そのときに、自分がどのようにそれに反応するのかということが大切なことなのです。

確かに癒されていくと、起きることの種類というか傾向が変化していくるということは事実として確かにあるのですが、それでも痛みがやってこなくなるということではないのです。

痛みには、肉体的なものや心理的なものなど、数え上げればきりがないくらいにたくさんあるのですが、それをただ痛みとして受け入れることができるかどうかなのです。

長く生きていれば、大切な人を失うこともあるでしょうし、うまく行っていた仕事が立ち行かなくなってしまうことだってあるかもしれません。

信じていた人に裏切られるかもしれませんし、大病をする可能性もあるわけです。そうした痛みを、どれだけ受容することができるかが鍵なのです。

そこが変化しなければ、癒しが本当に進んだとはいえないということですね。拒絶される痛みと受容される痛みとでは、感じるものが違ってくるのです。

不景気のせいで、日々貯金が目減りしていくことに常に不安を感じる人もいれば、一文無しでも笑って楽しくいられる人だっています。

自分の身に何が起きるかではなくて、どう反応するのかということが最も大切なことだし、人がどれだけ成熟しているかということは、そういうところにこそ見えてくるものだと思います。

人生に回り道はない

最近ますます強く感じるようになってきたことがあるのですが、それは人生は全くの一本道なんだなということです。分岐するような道はないのです。

11年前に会社員を辞めて、セラピストとしてやっていくことになったときに、自分は何と言う回り道をしてきてしまったのだろうとつくづく思ったものでした。

学生から社会人になるときに、すぐにこの仕事を目指していれば、20年以上にも渡る苦しいだけの会社員生活を経験せずに済んだのにと。

それだけではなくて、今頃多くのキャリアを積んだすばらしいセラピストになっていただろうにと真剣に思ったものでした。

それでも少しセッションをするようになって、いやいやこの年齢になった今だからこそ自分はこの仕事をすることができるに違いないと分かるようになったのです。

意味がないと思っていた会社員時代の経験も、セラピストになるためにはそれなりに必要なことだったのだと思えるようになったのです。

しかし、最近ではそうした納得の仕方をする必要さえなくなってしまったのです。なぜなら、人生は一本道だということが分かってきたからです。

人は誰も回り道や寄り道などすることはできないということです。人は何度も人生の分岐点ともいうべき地点に立つと思える経験をします。

でもそれは表面的にそう思えるだけであって、本当は選択肢はないのです。お父さんとお母さんによって原初の受精卵が出来たときに、その人の人生のシナリオは決定しているということです。

先ほどこのブログを書き出す前に、どんなことを書こうかなと考えている自分と、これからどんなことを書くことになっているのかなと思っている自分の二人がいました。

徐々に後者の意識の方がより優勢になってきつつあるのです。これはとても気の休まる思いがします。結果に対する責任を感じることがなくなっていくからです。

過去を悔やむことも、未来を憂うこともどちらもなくなるのです。どれだけジタバタしたところで、すべてはシナリオ通りに推移していくだけなのですから。

だからのん気に、そして悠々と、今を楽しむことです!

時間の不思議

こうして毎日ブログを書いていると、自分のノリのいい時とそうでないときがあって、今日は何だかあまり書きたいと思うことが浮かばないなあという日は、無理せずにそのときに頭に浮かんだことを適当に書いています。

今日はまさしくそんな日です。こういう日は、さすがに書くことが多少億劫に感じられるのですが、それでも書きながらも自分に意識を向ける練習ができるので、こうして書いています。

そういえば、この億劫という単語の由来ですが、「劫」という字の意味はサンスクリット語のカルバから来ているらしいですね。

カルパとは、古代インドにおいての最も長い時間の単位を意味するらしいです。それに、億がつくのですから、ほとんど無限とも言えるくらいに長い時間に感じることの例えとして、億劫ということになったのでしょうね。

嬉しいことはあっという間に終わってしまいますが、面倒なこと、気が進まないこと、あるいは苦しんでいるときというのは、本当に長く感じてしまうものです。

人の一生を約80年と考えて、それを長いとみるのかそれとも短いとみるかは、死ぬ直前になってみないと本当のところは分からないかもしれないですね。

かつて、友人のお婆さんが臨終の床で、自分の人生を「夢のようにあっという間だった」と言ったということを聞いたことがありました。

本当に時間というものは不思議なものですね。私も自分の人生を顧みたときに、いろいろなことがあったなあと思う反面、一瞬にして今に到達したような気もするのです。

今に意識を向け続けていると、過去とのつながりが消えていき、本当は今しかないということが分かります。今とは、時間の範疇ではないもの、時間を越えたもののことです。

そうした永遠から見れば、80年であれ億劫(億カルパ)のような気が遠くなるような長い時間でさえ、何の違いもない、あっという間のことなのでしょうね。