沈黙の重要性

若いときのデートの定番と言えば、映画鑑賞というのが一つあげられると思います。自分の場合には、どちらかというと一人で映画を見に行くことが多かったと思いますが。

なぜなら、映画を観ている間は、基本的には二人で話すこともできないわけだし、また話しかけられたくもないというのがあって、わざわざ二人で見に行く必要性を感じなかったからです。

それと同じとは言わないまでも、瞑想も基本的には独りでするものだと勝手に思っていたのです。なぜなら、沈黙の状態で過ごすわけですから。

理屈はそうなのですが、人によっては自分独りでは邪念が沢山出てきてしまって、うまく集中することができないという場合がどうやらあるらしいことを知りました。

瞑想に慣れている人と一緒の方がやり易いというようなことなのかもしれませんね。勿論そうしたことは充分に考えられることだと思います。

また、自宅では家族がいて、なかなか落ち着いて瞑想する環境を作ることが難しいという場合もあるかもしれません。

そんなことを考えていたら、時々はこのセッションルームを使って、みんなで瞑想する時間というのを作ってもいいのかなあと思いつきました。

そうしたことを思いつく引き金になったことがあって、それは言葉で何かを伝えようとすれば必ず本質からずれてしまうというジレンマを感じるようになったというのがあるのです。

本当は沈黙していることが、最も真理を感じることができるはずなのです。それなのに、私は誰かと対面するとすぐに何かを伝えたくなる性質があり、言葉が多めになってしまうのです。

そういった反省もしつつ、瞑想の時間と空間というのが用意できたらいいかもしれないと思うようになったのです。

めっきり、クライアントさんからのご予約が減ってしまって、部屋が空いているというのも理由の一つではあるのですが。独りで瞑想しているだけでは勿体無いかなと…。

来年あたりから実施してみようかなと思っています。もしも、参加してみたいと思われる場合には、ご連絡下さい。希望される方が多ければ、いろいろ具体的に考えられますので。

山口百恵は菩薩である

とても古い話しになってしまうのですが、私が若い頃に山口百恵という歌手がいて、ちょうど私が大学を卒業した年に、彼女は電撃引退したのでした。

したがって、このブログを読んでいるみなさんの多くはリアルタイムで彼女の唄を聴いたことがないかもしれませんね。

その頃は、というか今でもそうかもしれませんが、アイドルの女の子は笑顔で踊りながら歌うのが常識だったのですが、彼女は微動だにせずに、そして笑顔一つ見せずに歌うという異色のアイドルだったのです。

笑顔を見せないだけでなく、何と言うか物憂げなというのか、悲しみを抑えたようなそんな表情で歌う不思議な魅力があったので、「山口百恵は菩薩である。」と誰かが評したのでしょう。

今日はこれが書きたいのではなくて、「菩薩」についていろいろ思いをめぐらしていたら、昔ファンだった彼女のことを思い出したのでした。

子供のころから、菩薩とか如来という言葉を何となく知ってはいたものの、あらゆる宗教とは縁遠くして育ったために、ほとんど興味もなく今まで過ごしてきました。

ちなみに仏教では、菩薩というのは、悟りを目指して修行しているものをさし、如来とはすでに悟りに達したものを指すらしいです。

宗教がらみでたった一つ覚えているのが、子供のころに母親が「南無妙法蓮華経」というお題目でお経をあげていたのを身近で聞いていたことです。

それは今思えば、日蓮宗の「法華経」というお経だったわけですが、私の親は一切そうしたことを教えてくれようとしなかったので、私もただそばで聞いていたという記憶しかないのです。

学校で空海とか最澄というお坊さんについて習ったことはあったかもしれませんが、何せ神と仏の違いすら知らない状態ですから、無宗教というのもここまでくるとすごいと思います。

私は今も無宗教主義者であり、世界中にあるあらゆる宗教やその教えには、基本的に大した興味を持っていませんし、実際ほとんど無知に近い状態です。

でもきっと、セッションでお話ししたりこのブログで書いていることは、人によっては宗教臭い匂いがすると思われてしまうかもしれませんね。

それでも、何でもいいのです。私はただ自分が気に入ったことを検証しながら、人生というストーリーから断固として自由になると個人的に決めただけですので。ただ、気づいたことをこれからも書いていくつもりです。

知覚は非対称 その2

一昨日、知覚は非対称だということについて書きました。知覚が起きると、その主体は消えてなくなってしまうということでした。

このことについて、もう少し違う表現で書いてみようと思います。例えば、部屋で一人カーテンを眺めているとします。そのときに、「見る」という行為が起きているという事実があります。

ところが、そこに「私」が「カーテン」を「見ている」というように、主体と客体(対象)を追加してしまいます。そうなると、見るという単なる行為があるだけではなくなってしまいます。

あくまでも、「私」という主体が主体性を持ってカーテンを見ているということになり、これはまさしく観念として作られたものなのです。

観念がいいとか悪いとかということではなくて、それは事実ではなくて、ただそう思っているということだということに気づく必要があるということです。

私たちはその観念を強く信じる習慣が出来てしまっているために、それを事実として何の疑いもなく受け入れてしまうのです。

これを暴くのは大変なことかもしれませんが、一度分かってしまえばどうということはありません。直接体験として、カーテンを見ている私をどこにも見い出すことができないと気づくことができます。

私は確かに消えています。鏡に映して見た時のあの自分の顔や頭はありません。その代わり、顔や頭があると想定していたところに、目一杯のカーテンや部屋の景色が詰まっていることに気づきます。

それはまるで、自分の頭がすっかり部屋の景色と入れ替わってしまったかのようです。いいえ、これはそう感じるのではなくて、これこそが直接体験なのですね。

結局、見るという行為が起きるとは、主体が消えてその代わりに見られる対象をまとうと表現してもいいかもしれません。

もしも、目の前に誰かがいたとしたら、私は自分を消滅させてその人をまとう、その人になるということです。つまりこれこそが、「私はあなた!」という直接体験に他なりません。

もっと正確に言えば、「ここに在るそれはあなただ。」ということで、個人としての「私」があなたになると言う意味ではありません。

この非対称性を常に意識し続けることができたら、きっと私たちはもっと自由に伸び伸びとした気楽な毎日を生きることができるはずです。

癒しの「標準コース」と「最短コース」

癒しには大きく二種類のものがあると考えられます。一つ目は、一般的に知られている標準的なものであり、簡単に言えば人生というストーリーの中での方法です。

私がセッションで行っている催眠療法などは、その典型的なものと言っていいかもしれません。心の中に燻っている過去の傷(と本人が思っているもの)を洗い出して、開放するのです。

そうした過去の傷を隠していると、その傷が現在にまで当人を追いかけてきて、何らかの方法で毎日の生活を妨害することになるのです。

本人はなぜ自分の人生がこうなってしまうのか、どうしてこんなに不自由さを感じてしまうのか、その理由が分からずにいるため、その本当の原因に気づくまでは苦悩が続きます。

過去から追いかけてくるそうした痛みや苦しみは、そこでしっかりと受け止めてあげることができれば、日々の生活への影響を少なくしていくことが可能です。

こうした標準的な癒しの方法によって、それなりに快適な人生へと向きを変えていくことは確かに可能です。しかし、それでも心の奥底に潜む得体の知れない苦悩が、今度は目だってきてしまうのです。

したがって、癒しはこの「標準コース」で終わるわけではなく、次の段階へと進む必要があるのです。それが、冒頭お話ししたもう一つの癒しの方法です。

それは、端的に言えば、「私」というものへの見方を変えていくことにより、真理へと向かうことによって根本的な苦悩からの開放に至る方法です。

私は個人的には、さきほどの標準コースをショートカットして、いきなりこの二つ目の方法、つまり「最短コース」をやっていくことも可能だと思っています。

ですから、セッションにいらしてくださったクライアントさんには、本心としてはこちらを是非ともお勧めしたいのです。

しかし、即効性があるというわけでもないという点と、それ以外の大きな欠点があるのです。それは、クライアントさんにとってきっと受け入れがたいということです。

なぜなら、クライアントさんの常識や信念、あるいは長年培ってきた自己像などを根底から見直すことになってしまうからです。

そうしたことを受容していただくことさえできたら、そして表面的な効果をすぐに求めずに進めていくことができるなら、この「最短コース」が本質的な癒しであることは間違いありません。

残念なことに、私自身もこの「最短コース」を現在進行中ですので、「標準コース」のように理解できているものではないということも、もう一つの弱点となるかもしれません。

癒しのスタートの時点でどちらを選ぶかは、クライアントさん本人にお任せするしかありませんが、二種類の癒しの方法があるということだけでも、お伝えさせていただけるようになったらいいなという願いを持っています。

また、両方の癒しを同時進行させることも勿論可能です。これが可能であれば、もっとも早期に様々な効果を期待できるかもしれません。

知覚は非対称

私たちは、通常知覚する側と知覚される側は対称を成していると信じています。AさんがBさんを見ている時、Aさんの姿とBさんの姿は基本的には人として同じ、対称を成しています。

それと同様にして、私がCさんを見るときにも、私とCさんとは対称的だと信じているわけです。しかし、よくよく考えてみれば分かることですが、非対称なのです。

私という一人称が何かの対象物を見るとき、私自身は消えてなくなります。見ている私自身が見えてしまったとしたら、対象物が正当には見えなくなってしまうからです。

私が何かの音を聞いているとき、私自身は静寂になっているということです。つまり私自身に音はないということです。そうでなければ、外の音を妨害してしまうからです。

また、何かを手で掴むとき、私たちはそのものの感触を感じることができますが、掴んでいる手そのものの感触はないのです。

つまり、何かの対象を知覚するとき、知覚する主体は消えてなくなるということなのです。これは、驚くべき発見だと思いませんか?

もしもこのことを、いつも忘れずにいることができたら、人生が大きく変わってしまうという予感がしてきます。

それはなぜかといえば、知覚する主体が消えるということは、決して自分は傷つくような存在ではないということを示しているからです。

私たちの毎日の生活の中で、何かを知覚しないことはないわけで、常に何らかの対象物を知覚し続けているのです。

そのときには、私は消えてなくなるのですから、これは真実の愛の前提であると言えますね。本当の愛とは無私と言われるように、自分がいなくなることを伴うことであるからです。

自分を一人称として見ないときにのみ、私は存在しているのです。それは鏡に映った姿を見たり、写真その他で、対象として客観的に自分を見るときに限って自分は存在するのです。

一人称としての私は、知覚するとともに消えうせてしまうということです。このことを認めることができたら、愛が育つことは疑いようがありません。

思い出はいらない

私たちの心の中には、今までに経験してきたさまざまな思い出が沢山残っています。何か印象に残る体験、あるいは大切な出来事の記憶など、それこそ数え切れないくらいのものがありますね。

例えば、卒業旅行のような特別なイベント事の経験などは、楽しい記憶でしょうし、そこで見た自然の美しい景色や風の香りなどはしっかりと心に刻まれることになったはずです。

勿論記念写真を気に入った仲間と撮ってみたりして、あっちからもこっちからも様々な方法を駆使して、忘れえぬ思い出作りをするわけです。

そうやって、後になって思い出すたびに、いい旅だったなあ、もう一度行きたいなあなどと感慨に耽ったりするのです。

ところで、ここで一つ考えてみて欲しいことがあるのですが、私たちが見ているこの世界というのは、そうした心の中に印象として残してきたものと深く関連しているということ。

まったくまっさらな心の状態で世界を見ているようにみえて、実は沢山の色メガネによって見てしまっているということです。

だからこそ、同じ風景を見たとしても見る人によってその印象はまちまちなのは当然のことなのです。つまり、その人がどんな印象を心に溜め込んできたかによって、反応が異なるということです。

もしも、心の中に蓄えてきた印象がとても少ない人がいたとして、その人はどんな物事の見方をすると思いますか?

それは間違いなく、欲望の発生の少ない見方、不満をあまり感じない見方をするはずです。なぜなら、その人が今体験していることが、過去の何かと比較されることが少ないからです。

そこに不平不満が発生する可能性はとても低いのです。その人は、いつも新しい気持ちで自分の体験をすることになるので、もっといい景色を求めたりといった、「もっともっと…」という反応をしないのです。

印象を沢山留めてきた人と、そうした印象を対象へとその都度返してしまえる人とで、どちらが心の不満が少なくて済むかを考えれば、どちらが快適な人生かはおのずと分かります。

いろいろな過去の記録というものが、その人の人生の厚みを物語っているという見方もできなくはないですが、心は空っぽであるほうがいいのです。

何を経験しても、そのときの印象を自分の心に留める代わりに、その対象へと返してあげるのです。その印象を自分の個人のものとするのではなく、あるべきところへと戻すのです。

そうすれば、いつでも心は空っぽであるため、過去からの不満に巻き込まれてしまうことがなくなり、常に今に意識を向け続けていることができます。

それはとても自由で軽やかな気持ちで生きることを約束してくれるはずです。「思い出作り」などという発想を手放して、今を満喫することですね。

同一化によって人物が作られる

昨日のブログで、「私」という想念は、幼少期にあなたは身体だという押し付けを聞き入れてしまったことから発生することになってしまったのだというお話しをしました。

つまり、「私」とは、この身体なんだという思い込みによって作られた、一つの想念なのです。それは、純粋な意識が自らを一つの身体と同一視することによって、でっち上げられたものです。

一度出来上がった「私」という想念は、その後もそれ自身を存続させるために、あらゆるものを同一化し続けてきたとも言えるのです。

例えば、私たちは気軽に「私は女性です。」ということができますね。これは、「私」と「女性」という性別を同一視したことになるのです。

本来であれば、「私の性別は女性です。」と言わねばならないことは明白でしょう。なぜなら、私自身は性別ではないのですから。

他にも、「私は30歳です。」というのは、「私」を現在の年齢と同一視していることになりますね。本当は、「私の年齢は30(歳)です。」が正しい表現方法です。

こうしたことを挙げたらきりがありません。「私は日本人です。」→「私の国籍は日本(人)です。」ですし、「私は人間です。」→「私の生命体としての分類は人間です。」となるでしょう。

このように、「私」というのは実に巧妙にあらゆるものを同一視することによって、それ自体が断固として実体のあるものだとの証明をしようとし続けているのです。

過去に体験した様々な事柄でさえも、「私」はそれを自分と同一視することに余念がないのです。「私は金メダリストです。」とか、「私は大卒です。」など、あらゆる経験を自分と同一視してきたのです。

そうやって、肥えて太らせて出来上がったものが「私」という人物ということなのです。ですから、一個人としての人物である「私」というのは、同一化したものの寄せ集めに過ぎないのです。

もしもあなたが自分でしてきた同一化をすべて脇に置いて、これだけは自分自身に違いないというものを見い出したとして、それは一体何なのでしょうか?

それこそが本当の自分自身であるわけですね。是非一度試してみて下さい。本当の私とは何ものなのか、そのことを知らずに生きて死んでいくなんて勿体無いことです。

自分はどこにもいない?

今この瞬間、自分はどこにいると感じるかということについて、今年1年は本当に多くの人たちにお聞きしてきました。

そして分かったことは、それぞれがバラバラな印象を持っているということです。ある人は、頭の中にいると言うし、またある人はハートの中だと言い、またはお腹の奥にいると言います。

肉体のあらゆる部分の隅々にまで自分は行き渡っていると答えた人もいましたが、多くの人は身体の中のある特定の部位を示しました。

また、身体の外に浮いていると言った人たちもいました。後頭部の近くだと言った人、顔のあたりとか、胸の前辺りなどが多かったですね。

身体の外側にいると答えた人には、形や大きさについてもお聞きしましたが、それもまちまちであって、野球ボールくらいと感じる人や、もっと大きくてフワフワしていると答えた人もいます。

つまり、どういうことかというと、誰にも明確にこれが自分だと答えることができないということなのです。誰もが、こんな感じだとかここにいるような気がするということなのです。

それは個人的な感覚であり、個人的な印象に過ぎないということです。なぜ、最も身近な、これ以上身近なものはない、自分自身のことなのにこうした曖昧なことになるのでしょうか?

その答えは簡単です。それは、私たちが2~3歳くらいのときに、あなたは身体だという教えを受けてしまったからなのです。

もっと丁寧に、詳細な説明を与えられていたら、例えばハートのこの位置にこんな形でこれくらいの大きさのものだと教えられていたら、誰もがそれを信じていたはずなのです。

しかし、事実はといえばただあなたは身体だと教えられただけであったため、私たちはそれぞれがそれはこういうことなのだとの印象を勝手に作って、大切に持ち続けているということです。

つまりはすべてが思い込みの産物に過ぎないのです。私はこの身体を所有しているというならいいのですが、私は身体だという思いが信念のようになってしまっているのです。

したがって、何となくこの身体の近くに自分はいるという感覚を誰もが持っているのです。しかしながら、そうした思い込みを一旦脇に置いて、今この瞬間に本当に分かることだけで答えてもらうと、自分はどこにもいないということがはっきりします。

ところがこの結論に異常なほど異議を申し立てる気持ちがあるのも事実です。その理由も明白です。それは、もしも私が身体ではなくてどこにもいないとなると、「私」の存在が怪しくなってしまうからです。

そして、もう少し正確に言えば、自分は身体だとの思い込みをさせられてしまう前までは、「私」という想念がありませんでした。動物や赤ちゃんの状態と同じです。

「私」とは、身体との同一化と共に生まれた想念だからです。だからこそ、私は身体ではないということが明確になると、「私」はただの想念であるということが赤裸々になってしまうのです。

「私」には何の実体もないということほど、不安に感じることはないのかもしれません。しかし、ここで止まる話ではないということを知る必要もあります。

身体ではなくて、どこにも自分を見つけることができないけれど、私たちは「在る」という感覚を誰も否定することができないはずです。

この「在る」に意識をじっと向け続けてみれば、偏在している感覚へと向かってくれます。これはきっと自分自身への直接体験なのだと思うのです。

昨日と一昨日のブログにも書きました通り、私たちは自分の肉体のことすら直接認識することはできません。それはすべて知覚に頼っている間接認識なのです。

でも上記のとおり、「ただ在る」というものへの注意は、本当の自己への直接認識を可能にするものであると言えるのです。

そして、そのことに対する信頼を深めていくことによって、人は本当の意味で人生という苦悩のストーリーから開放されるのです。

直接知るとは? その2

昨日の続きです。

私たちが何かを知っているというときには、すべてが知覚と思考によって間接的に知っているということに過ぎないのだというお話しを昨日しました。

自分以外のことについては仕方ないとしても、自分自身についてはどうなのかと言えば、残念ながら自分自身のことについても、客観的に見ることができるだけです。

主体がそれ自体を知るという直接的な意味での知るということはできないのではないかということです。これはとても不思議なことです。

一番知っているはずの自分のことも結局他人が自分を知っているようにしか、自分のことを分からないというのですから。

しかし、たった一つだけ私たちは自分自身についての直接体験をすることができるのです。それは、直接認識といってもいいかもしれません。

それは知覚も思考も何も使わずに、直接「見る」ということです。それを教えてくれたのは、ダグラス・ハーディングという人です。

彼のやり方を使うと、誰もが本当の自分自身を直接体験することが可能です。それは、他人から見て顔があると思われる場所を指で指し示して、そこに何があるかを見るのです。

外側を指さして、そこを見れば部屋の壁やカーテンや、そのほか何でも自分の外側にあるものを見ることができます。

それと同じようにして、自分の顔があると想定される場所を内側から見るのです。そうすると、そこには外側の世界(物質)とは異なるものが見えてきます。

それは、透明な何もないものであって、でもその透明さの中に外側にあると思っていたすべての物質もそこにあると分かります。

つまり、外側の世界と内側の世界とは同じだったということに気づくことになるのです。個人としての私が外側の世界を見てそれを認識することは、間接的に知ることです。

そして、内側からそれを見るのは知覚でもなければ思考でもない、ただ直接見ているのです。これが、自分自身を直接知る唯一の方法かもしれません。

それを見ているのは、もう一個人としての私でないことは明白です。なぜなら、そうやって直接認識する自己とは、とても個人とは思えない無限の広がりがあると分かるからです。

これを本当の意味で言葉で表現することは不可能なことです。言葉とは観念を意味するだけだからです。この直接体験は理解するようなことではありません。

誰にとっても同様に提示されている直接認識できる自己を無視するかどうかは、あなた次第なのです。そして、それはいついかなる時でも認識できるものでもあるのです。

直接知るとは?

私たちはこの世界の物事のことをどうやって知るのでしょうか?私はあなたの名前を知っているというような表面的なことだけを話題にしようとしているのではありません。

もっと本質的なことです。例えば、「水」についていろいろな知識を持っていますね。しかし、それはあくまでも知覚によって体験したり、学習した結果として知ることになっただけです。

それは、水とはこういうものだとして概念化することによって知るということであり、またそれを基にして今手に触れているのは水だと認識するわけです。

ですが、本当にそれが水を知っていることになるのでしょうか?それは、厳密に言えば、知覚によって、そして思考による概念化、観念化によってただ情報として知っているに過ぎません。

それは私という主体が水というものを対象として知っている、分かっているということを指します。あるいは、他のものと水とを見分けることができるという程度のことです。

それは残念ながら間接的に知っているということを意味します。私たちが沢山の事柄について知っている、分かっていると思っていることとは、実はすべて間接的なことであり、それは信じているということと同義語なのです。

信じるとは、本質的には知らないことをそうに違いないとして、知っているということにしてしまう心の行為のことを指します。

もう少し詳しく言えば、信じるとは、一般的にはその裏に疑いの意識が残っている場合に使われる言葉ですが、疑う余地がない、あるいは疑う必要性がないときには、信じていることが知っているということに摩り替わるのです。

本質的には、自分自身が水そのものにならない限りは直接知るということは不可能なことなのです。では、主体である私は私自身のことを直接知ることができているのでしょうか?

そもそも直接知るということとは、主体がそれ自身を客体としてではなく知るということです。だとすれば、ほとんど何も自分自身について知らないということになってしまいます。

私が私自身のことを直接的には知らないとは、一体どういうことでしょうか?何とも奇妙なことだとは思いませんか?

結果として、私たちは自分以外のことも間接的にしか知りようがなく、そして私自身についても同様にして直接的には何も知らないのです。何一つ、知らない、分からない、これが真実なのです。

それはなぜかと言うと、直接的に知ろうにもその実体が何一つないからなのではないかと思うのです。だとしたら、この私とは一体何なのでしょう?