頭の上の強敵

心を静かにしてゆったりとくつろいでいられる時というのは、本当に穏やかで気持ちのいいものですね。瞑想すると、より深くくつろぐことができます。

そうした状態というのは、何か心配事や気になること、不愉快なことや否定的な感情などによって、心が捉われていないわけです。

逆に、ひとたび心がそうした問題に捉われてしまうと、私たちはそのことにいつまでも巻き込まれた状態となったり、グルグルと同じところに思考を固定されてしまうのです。

しかし、そんな状態を歓迎する人など誰もいないはずないのに、なぜそのようなやっかいな心の状態というのはやってくるのでしょうか?

例えば、誰かにひどくイヤなことを言われたとしましょう。そうすると、そのことに対してさまざまな判断が心の中でなされ、それが付加された状態で頭の上に置かれるのです。

そう、まさに頭の上にどしっと置かれる感じになるのです。私たちは、仮にまぶたの裏に小さな出来物ができただけでも気になって仕方なくなりますね。

それと同じように、頭の上に固定されたその事柄が気になって仕方なくなってしまうのです。それが、いわゆる捉われている状態なわけです。

ではなぜ、頭の上なのでしょう?足元に置かれるくらいであれば、それほど気にせずともいられるはずなのに…。

頭の上というのは、そのことが対処するのに強敵であって、それを「何とかしなければ」自分がやられてしまうということを示していると言えます。

ゴキブリを異常なほど恐れる人が、ひとたび部屋にそれを発見したときに、じ~っと見合った状態で何時間も固まってしまうという情況があると聞きます。

それと同じことが起きていると思えばいいのです。目を離せないのは、相手のことを危険きわまりないと感じているからです。これは、手を出さずとも闘っていることを意味します。

頭の上に固定されている問題を「何とかしよう」とすることをやめるのです。そして、どんな反応が心に起ころうとただそれを見るだけにするのです。

ひたすらそれを見ているうちに、それは次第に頭の上から少しずつ下がってきて、気が付いたときには足元の辺りにまで下りてきてくれます。

もうそうなったら、そのことに対して捉われていた心の状態から抜け出すことができるはずです。そもそも、頭の上の問題を作ったのはあなた自身なのです。

あなたが主人であり、その問題に対する思考が従者なのですから、従者が主人の上に君臨するのは間違っています。そんなものに力を与えていてはなりません。

もしも、今あなたの頭の上にそうしたものがあるなら、すぐにでも試してみて下さい。あなたが作った思考にあなたが負けるはずはありません。

真正面から見つめてあげれば、それは必ずあなたの足元にひれ伏すことになるのですから。

すべては与えられ続けている

言葉というものは、どれほどの明晰性があったとしても、それは所詮真理を指し示す程度であって、その言葉から得られるものは心の中の観念でしかありません。

そうしたことを念頭において読んでいただけたらいいなと思いながら、今日のブログを書こうと思います。

日頃、与えることが与え返されることになるということが、この宇宙の真実だと思って生活しているのですが、それを一旦脇に置いて、また違う表現をすることもできます。

それは、あらゆる瞬間に与えられている、与えられ続けているということ。自分が与えていると思う瞬間であっても、それは与えられているのだという認識をすることができます。

以前にもブログかミクシーの日記に書いたことなのですが、ある日クルマを運転してるときに、目の前に繰り広げられる景色やその他のあらゆる現象が自分へのプレゼントなのだという感覚になったことがありました。

その瞬間、自分がクルマを運転しているということすら、自分の独自の行為ではないという感覚になったんですね。

確かに運転するということが起きているというのは分かるのですが、私が主体者として何かをやっているのではなくて、そうした行為がプレゼントとして起きているという感覚です。

何から何まで与えられ続けているのです。それなのに、私たちは勝手にこれは与えられた、これは奪われたなどと自分の観念の中で判別しているのです。

どんな自分の行為であろうと、どんなことが自分の身に起きようと、それはすべて与えられているものだということです。

もしも、この感覚が続くなら、一分一秒ごとに感謝せずにはいられなくなりますね。それは何と言う至福であることかと思います。

そしてそのとき、与えられていると感じるこの私が希薄になっていきます。起きている事実をただ見守っている何かであるという感覚になるのかもしれません。

それを敢えて表現すれば、感謝している私がそこにいるというよりも、私が感謝自体としてあるというような感覚です。

観念による脚色

奇跡のコースでは、この世界はすべて幻想であると説いていますが、そのことと、今日これから書くことはちょっと違うことです。

そのことを一旦脇に置いておいて、つまり幻想だろうがなかろうが、実際に私たちが見ているこの世界というものは、それをあるがままには見ていないということは明らかです。

なぜなら、私たちは何かを見たときに、それに対する自分の心の反応を作り上げて、それを一緒にその対象物とくっつけて見ているからです。

例をあげれば、私の部屋から富士山の姿が見えるのですが、それはとても雄大であって、きっと近くに行ったらとてつもなく大きいのだろうと思いますね。

そして、この季節になるとあっという間に雪によって白く綺麗に色づけされて、何とも美しい姿として目に映ります。

このように、ただ一つの形を見ただけなのに、そこには富士山という名前から始まって、様々な印象が一緒になったものを見ているのです。

これは決して見えているそのものだけを見ているということにはなりませんね。そのものとしての対象物よりも、何倍もの情報を作り上げて、一緒にして見ているのです。

こうしたことは、ありとあらゆることに当てはまります。それが観念と言われるものです。つまり、私たちは自分の心の中にある観念を見ているとさえ言えるのです。

観念はあくまでも心の中で作った想像上のものであり、実物とは全く異なるものです。もっと無機質で、実在しないものである、例えば数字の「1」についても同じです。

「1」に対する観念が心の中に出来上がっているために、個人個人それを心に描いてもらったときには、それぞれに違うイメージが涌いてくるはずです。

心の中は、観念でいっぱいです。それは、過去の体験に基づく膨大な量の印象を使って作り上げられたものであり、何を見るとしてもその観念によって激しく脚色させられてしまうのです。

だからこそ、この世界は一つだけしかないのに、私たちは一人ひとりが独自の世界を見ているということになるのです。

もしも、何かを見た時にその印象を心の中に残さずに、その対象の付属物だとしてしまうことができれば、いつもあるがままを見ることができるはずです。

私たちの本性である、真の自己はそうしたものの見方をするのだろうと思うのです。それには、観念というものがないのですから。

T30-1 「決心するための規則」への考察

久しぶりに、奇跡のコースのテキスト、第三十章第一節「決心するための規則」を読む機会がありました。正直、最近この部分を読んでいませんでしたね。

コースを読み始めた頃に感じていた事と比べて、今日は随分と違った印象を受けたのでそれについて書いて見ようと思います。

簡単に言ってしまえば、毎日どんな些細な選択においても、エゴを選ぶ代わりに聖霊の答えを選ぶことを習慣化しなさいという教えですね。

かつては、聖霊に任せておけば、あらゆる場面において最適な答えをいつでも教えてもらえるというような理解をしていたように覚えています。

実際、コースのワークショップなどを開催されている有名な方においても、聖霊は常にあなたにとって最善の答えを授けてくれるとはっきりおっしゃっています。

私は今このことにとても大きな違和感を感じずにいられません。なぜなら、その教えを真に受けた人は、きっとその最善の答えをもらうために聖霊に選択を委ねようとするだろうと思うからです。

もしもそうなってしまったら、この節の本当の意味が損なわれてしまうかもしれないと感じます。自分にとっての最善の答えをもらうために、聖霊の答えを選択するのではないからです。

そうではなく、ここでの大きな目的とは聖霊への明け渡しの練習なのです。したがって、聖霊がどんな答えをくれるのかが問題なのではなくて、エゴの選択を使わないということが大事なのです。

もう一度言うと、聖霊の答えが最善なのではなくて、私(エゴ)の選択を使わないということこそが、最善なのだということの理解が必要なのです。

本当は、明け渡すターゲットは誰でも良くて、目の前にいる人でもいいわけです。勿論、そこには深い信頼が絶対的に必要ではありますが…。

テキストの中に出てくる「あなた」という単語にも違和感を覚えましたが、「あなた」とはこのテキストを読んでそれを実践しようとする私のことであり、それはエゴなのです。

つまり、私の意志というものをなるべく使わないようにして、聖霊に明け渡す訓練をするということがこの節の目標だということです。

「あなた」というのを、エゴか聖霊を選択する意識だと解釈しても問題はないと思いますが、現実的にはそんな都合のいい中立の意識などありません。

もう一つ、思い出したことがあります。私が以前目標としていた、自分の知覚を正していくということについても、大きな誤りがあると感じるようになりました。

以前は、日々のあらゆる選択を聖霊に委ねるということによって、次第に聖霊の知覚の仕方に変えていく、自分の知覚を正していくということに主眼を置いていたと思います。

こうしたことは、自分を改善していこうとする思いがそこにあるため、いつまでたっても私から抜け出すことができなくなります。

私とは間違いなくエゴであり、それを改善しようとすること自体がエゴの策略であることを見抜くことです。私がエゴではなくなるということは決してないと肝に銘じることです。

私の人生

みなさんにとって、一番大切なものとは何でしょうか?それは何と言っても自分の人生であると言えるのではないでしょうか?

なぜなら、自分の人生がなければ、何が大切かなどという質問にさえ意味がなくなってしまうからです。生きて人生を活動しているからこそ、そこに大切なものがあると思えるわけです。

もしかしたら、自分の人生には大切なものなんて何もないよ、どうせくだらない人生なんだからと投げやりに言う人もいるかもしれません。

しかし、人生そのものに価値があるとかないとかいうのは間違っています。厳密には、その人生でどんな価値あることが起きたのかということですから。

生まれてまもなく物心がついたときから、つまり気が付いたときにはもうすでに自分の人生が開始されていたわけです。

その中でいいことや悪いこと、くだらないことやすばらしいことなどが起きたり起きなかったりして、我々はそれに一喜一憂してきたということです。

勿論その人生で何が起きようと、その中心人物はこの私です。私がいない私の人生というものはナンセンスでしかありません。

私の家族、私の学歴、私の友人関係、私の部屋、私の貯蓄、私の会社、私の経験(体験)、私の成果、すべてが私にまつわる出来事で埋め尽くされています。

ところで、このブログで何度もお伝えしている通り、この私を探求していくとそれが単なる一つの想念に過ぎないということが分かります。

つまり、上記した私の○○を根こそぎ意味のないものにしてしまうように感じますが、私の人生というもの自体が想念に過ぎないのです。

それは架空のものであって、そこにはどんな実体もありません。すべての私の○○も同じように実在ではないということです。私がずっと守ろうとしてきた、私の時間、私の空間も…。

なんたる無駄をしてきたことでしょう。私の人生があると思っていたために、その架空のものにものすごいエネルギーを費やして、投資ししてきたのですから。

しかし、ないものにいくら投資をしても、虚しいばかりです。なぜなら、人生に中心人物はいなかったのですから。

主役のいない人生を人生と呼ぼうが何と呼ぼうが構いませんが、それはただ現象が起きていくだけのものだということです。

本当のあなたは、そんな人生の主役ではなくて、この世界のありとあらゆるものの源泉なのです。無限にあるすべての生の源なのです。

個人としてのあなたが生を生きているのではなく、生があなたを生きているということです。いつもその全体性としての生の源に意識を向け続けることです。

虫の不思議

最近はほとんどテレビを観なくなってしまったのですが、過去にドキュメンタリー的な番組の中で、動物などの生態を見せてくれるものがあって印象に残っています。

その手の番組は、観るとはなしに観ているうちに、ぐいぐい引き込まれていってしまうのです。作り物ではないだけに、興味をそそられるのでしょう。

特に昆虫などの小さな虫たちの生態を至近距離で捉えた映像などは、なかなか面白いですね。子供の頃からそうした映像を観ていて、いつも不思議に思っていたことがあります。

それは、虫たちは誰に教わるわけでもないのに、彼ら特有の生活を営んでいるわけですね。例えば、フンころがしは、どうしたわけかどれも同じように後足で上手にフンを転がしていきます。

あれほどの芸当がなぜ生まれながらに備わっていて、しかも上手にやりこなすことが出来るのかと思うと、自然の神秘を感じずにいられません。

今思い出したのですが、子供のころにみた映像で印象深かったのは、かまきりのオスとメスが交尾を終えて、やれやれ子孫を残す作業を無事やり遂げたと思った矢先、メスがオスを頭から食べ出すんです。

オスは黙ってメスに自分を食べさすんですね。そんなのってあるんだろうかと、残酷なことのように思えて、でもそれがメスの栄養源となって無事に卵を産むことに繋がるんですね。

彼らはなぜ、人間のように自意識があるわけでもないはずなのに、そうしたことを正確にやり遂げることができるのでしょうか?虫たちの行動を見ていると、その必死さが伝わってくるようでとてもいじらしくなります。

こうした疑問とは、我々人間は自分が理性を持って様々な行為をしているという前提に立っているからこそ出るものです。

つまり、人間には理性や意志があって、それが自分をコントロールして行動するのに、虫には理性や意志がないのに、なぜ緻密な行為をやってのけるのかが不思議だということです。

実は、虫も人間も全く違いはないといったら驚くでしょうか?私たちだけが、「私」という想念を持ったがために、自分の意志で行為をしていると錯覚しているということです。

本当は、「私」がいなくても虫と同じように何でも行動できるということです。この宇宙で起きていることは、すべからく大いなる意識の思い通りに起きるということです。

残念ですが、私たち人間もその駒の一部でしかありません。しかし、本当の自分とは、「私」として自覚しているものではなく、その大いなる意識の方なのです。

「私」は想像上のものでしかないと分かれば、誰かと比較して落ち込んだり、罪悪感にさいなまれたりすることなどありえないはずです。

あなたがどんなに頑張っても、また頑張らなくても、すべては純粋な意識である真の自己から流れ出てくる現象だと気づければ、すべての問題は問題ではなくなるでしょうね。

誕生日

今日は、このブログを書き出してから、3回目の誕生日を迎えました。もうこの年齢になると、ほとんど他人事(?)のように感じてしまいます。

肉体的には、確かにあちこちで老化現象をしっかりと感じるようになったのですが、精神的には何の進歩もないなあというのが本音です。

悪く言えば成長がないし、良く言えばいつまでも若い!所詮、人間は社会の中で歳相応の振る舞いをしなければならないと思うだけで、本人としては何も変わってなどいないのでしょう。

私の場合、気が付いたらプライベートでも仕事でも大抵が自分よりも年下の人ばかりになっていたという事情があって、ああ歳を重ねてきたんだなと理解するのみです。

最近では、自分を成長させようとすることから潔く撤退してしまったのです。その代わり、本当の自分を見い出そうとするようになったのは、奇跡的なことかもしれません。

誕生日というのは、「私」という想念(エゴ)が誕生するきっかけとなった、なかなか面倒な日だという認識が自分の中にはあるのです。

生まれたからにはいつか死ななければならないのですが、それまでに神の恩寵によって、そのエゴから脱却したいというのが唯一の期待かもしれません。

by Ramana Maharshi

『エゴの誕生が人の誕生と呼ばれる。

それ以外に誕生というものはない。

何であれ生まれたものは

死ななければならない。

エゴを殺しなさい。

ひとたび死んだものに、

死の恐怖は起こらない。

エゴが終焉した後、

真我が残る。

それが至福である。

それが不死性である。』

今の「私」を探求する

自分の内面を見つめるというときに、内観とか内省と言った言葉で表わされるやり方があると思います。セラピーでもそれが基本です。

それは今まで自分が生きてきたそのストーリー、都合の悪い「私」を無視してきてしまったそのストーリーを見にいくわけです。

みなさんが一生懸命自分の心を癒そうとしてやっていく方法ですね。これは確かに、心の不自由さや苦しみへのパターンなどを少なくしていくためには、とてもいい方法です。

ところで、今日の内容は、それとは根本的に異なるやり方で、「私」を探求しようとすることです。これは、「私」とは誰か?ということに対する探求です。

なぜ、「私」を探求する必要があるかというと、苦しみや不自由さを感じるその根っこには、それを感じている「私」が居るからです。

その「私」を探求することで、あらゆる問題や苦悩から開放されるという期待が少しでもあるなら、それを試してみても決して損はないですね。

やり方はいたって簡単です。過去のストーリーを見る代わりに、今この瞬間の「私」にずっと意識を向け続けていればいいのです。

目をつぶったほうがいいかもしれません。心を静かにして、しばらく「私」を見ていると、過去が追ってくることがなくなってきた段階で、人物としての「私」が薄れていきます。

なぜなら、人物としての「私」はそのすべてが過去からの寄せ集めによって出来上がっているからです。今の「私」はもっと身軽な感じがするはずです。

もっと見つめていると、「私」が所有しているものが消えて行き、さらに「私」の年齢や性別、名前などにも関心がなくなっていく感じがしてきます。

そしてもっともっと意識を向けていると、どうやら何も知らない、何一つ分からない、そして自分のことも分からないという地点にやってきます。

ただ、個としての「私」だけが居続けるという感覚です。しかし、その個という感覚は、それ以外のものとの区別がなくなってしまうので、とてもうっすらとした個でしかありません。

個というのは、別の個との違いによってその存在が明確になるということを考えれば、当たり前のことだと分かります。

そして、個としての「私」はとてもぼんやりとした状態となって、ここが「私」の誕生したところなのかもしれないと分かります。

しばらくすると、個である「私」はそのままに、「全体」としての感覚と重複していることに気づきます。それは、ただ在る、静かに在る、すべてに在る、今に在るであって、そこに「私」はいないのです。

個として局所的な「私」よりも、「全体」としての非局所的な意識の方へと注意が向くといったような感じなのかもしれません。

残念ながら、私の場合には、個としての「私」がうっすらとでも残り続けるので、本当に「私」が消えてしまうわけではありません。

したがって、しばらくすると「私」が「私」を取り戻そうとしてやってきます。「私」はこのままでは消滅してしまうと知って、個人としての自分に戻そうとするのでしょうね。

それでも、「全体」としての在るというあの感覚を忘れることはありません。繰り返し探求することで、いずれは「それ」として在るという気づきへとシフトしていけるかもしれません。

そのときには、苦しみや不自由さから脱却しようとする「私」そのものが消えていくことになるのでしょうね。それは、解決する必要のない意識へと移行することになるはずです。

本当の自由とは?

昨日のブログでは、すべての現象は大いなるシナリオの通りに起きているだけなのだというお話しをしました。

個々人の人生においては、それぞれの自由意志というものがまるであるかのように生活できるのですが、実際にはそのシナリオの上で転がされているようなものだということです。

自由意志がないとしたら、我々の自由はどこにもないということになりそうですね。そんなことは、とても耐えられないと思ってしまうかもしれません。

しかし、本当にそうでしょうか?少し心を落ち着けて、この大切な自由というものについて考えてみる必要がありそうです。

そもそも自由とは何でしょうか?自由の反対は束縛と言ってもいいかもしれません。だとしたら、自由がないということは束縛されているということを意味します。

私たちに自由意志がないということが、果たして束縛を意味するかどうかを検証することが必要だということが分かります。

自分の自由意志に基づいて、あらゆる行為を行ったと信じるならば、我々はその結果に対して全責任を持たねばならないと思っています。

それは確かに正当なことです。つまり何が起きても自業自得ですし、自分の行為が万一他人を傷つけるようなことになったとしても、その責務は負わねばなりません。

これが自由意志を持って行為することの代償ということかもしれません。その責任は時として到底引き受けることができないくらいに重いことがあるかもしれません。

ところが逆にすべてが大いなるシナリオ通りに起きるだけなのだとすると、つまり行為はなされたとしても行為する個々人がいないのですから、全責任はそのシナリオにあるということなります。

それはありとあらゆる責任からの開放を意味します。本当の自由とは束縛されないことだとすれば、この責任からの開放こそが正に束縛されないことなのだと思うのです。

自分の人生もこの地球や人類のことも、すべて大いなるシナリオに委ねられるのであれば、これほど心軽やかになれることはないのではないでしょうか。

これこそが、本当の自由であると思うのです。それならば、できるだけ明るくのん気に、瞬間瞬間を精一杯楽しむことですね!

大いなるシナリオ

みなさんは、ご自分の人生をみずからの力で切り開いてやってきたという自覚をお持ちでしょうか?それとも、何となくこんな風なことになったという感覚が強いでしょうか?

私の場合は完全に後者ですね。人生のどこの時点をとっても、自分が明確に決意して人生の進路を決定したということがないからです。

時々、少しじっくりと時間をかけて、これまでの自分の人生がどのようにして展開してきたのかを振り返ることがあるのですが、そこで驚くべき事実を見つけました。

それは、自分の望むと望まないとにかかわらず、次々とあらゆる事象がやってきて、自分はただそれと共に進んできたという感覚しかないのです。

勿論それぞれの場面で、自分なりの決意、決定をしているはずなのですが、それが今になって思い返してみると、どうもそうならざるを得なかったに違いないと感じるのです。

つまり、選択肢があったように見えているのは表面的なものであって、実はこの道しかなかったのではないかという疑いです。

結局自分はたった一本しかない道をただ歩いてきただけだったのだという思いです。もちろんその道は紆余曲折があったようにも見えますが、でも間違いなく一本道なのです。

私がこのような気質と肉体を持って生まれたことも、自分の両親の元で育ったあの環境にしても自分が選んだわけではありません。

その後も次から次へとやってくる大小さまざまな波にもまれながら、ひたすら一本道を歩き続けてきたとしか考えられないのです。

それはまさしく、大いなるシナリオの元に突き動かされてきただけなのではないかということです。だからこそ、なぜ今このような自分がいるのかは、はっきりと説明ができないのです。

ただここまで流されてきてしまった結果が今あるだけなのです。だとしたら、これから先の未来もこれまで通り、たった一つの道を淡々と歩き続けるだけなのだろうと。

それなら、この自分は一体何の役目があるのだろうかと考えずにいられません。いてもいなくても、同じはずです。

自由意志があると思い込んでいるのは、自分だけであって、真実はそのシナリオに沿って粛々と人生が展開しているだけなのだろうということです。

このことを真剣に突き詰めていくと、この自分と思っている自分は本当はいないのではないかという、昨日のブログの話しに繋がるのです。

仏陀はこう言ったそうです。物事は起き、行為は為されるが、個々の行為者は不在である、と。すべては大いなるシナリオだけが在るということです。