何も分からない

昨日少しだけ瞑想しているときに、想念を止めるとてもいい方法を思いつきました。これが他の人にどれだけ効果があるのかは分かりませんが…。

それは、やや心が静まってきたときに、「分からない」という想念を作ってその中に没入するのです。そうすると、あっという間に心はもっと静まり返るのです。

これは頭で考えてやってみたというよりも、静寂に入っていくと、元々そんな感覚がやってくるのを逆利用したに過ぎません。

過去から追ってくる想念のほとんどが、「私には分かっている」という想いがベースになっているからなんですね。

私たちは人生を、何も分からないところからスタートさせました。分からないこと自体には、問題はないのですが、周囲から分かるようにならなければならないと教え込まれます。

それを信じたばっかりに、すべての苦悩が発生するようになったのですね。そこから、分からないままではいけないのだとの強い思い込みをすることになったのです。

そうして、努力をしつつ、分からなかったものを分かるようにしていくのです。私には、あなたの本当の気持ちが分かる、この世界で大切なことを知っている、そう信じ込むのです。

それが、次なる想念を生み出して、いつものストーリーを続けることになるのです。そこで、「何一つ分からない」ということを見つけるのです。

実際、今この瞬間だけを見つめていると、確かに何一つ分からないという状態がやってきます。それは、不安というよりも逆に肩の荷が降りるような、そんな感じすらします。

分からない、何一つ分からない、何も知らない、ただ在るだけ。こんな感じになると、とてもリラックスして、分からないことをそのまま認める状態になれるのです。

私たちが分かっていると信じているものは、すべて自分の心が作り出した幻想の中でのことなのですから、真理については本当は何も分かってなどいないのです。

そのことを素直に全面的に認めてしまうと、そこには何もない空虚な状態が見えてきます。それが、今であり、静寂である「それ」を見ていることなのかもしれません。

ストップボタンを押す その2

昨日の続きです。

単に苦悩を乗り越えても幸せにはなれない、それは苦悩と快楽の繰り返しというストーリーを続けることになってしまうというお話しをしました。

苦悩を乗り越えるのではなく、それも含めたストーリー全体を停止させることだけが、苦悩と快楽の繰り返しから逃れることになるのです。

そのためには、再生ボタンではなくて停止ボタンを押すのです。そうすれば、ストーリーが停止し、その瞬間に自分はそのストーリーの中の単なる登場人物ではなかったと気づくことになるのです。

ではストップボタンを押すとは、具体的にどうすればいいのでしょうか?それには、次から次へと浮かんでくる想念を停止させる必要があるのです。

あらゆる想念は、過去から現在の自分を追ってやってくるのです。そうして、その想念の中に含まれる快楽への欲望と苦悩への恐怖を見せ付けるのです。

そして、新たなストーリーの中へと自らをいざなうということです。想念を停止させることができれば、こうした過去からやってくる魔の手から逃れることができます。

想念を停止させるもっとも効果的な方法とは、その想念が発生する元をじっと見続けることです。想念そのものには目もくれず、ひたすらその源を調査するのです。

つまり、想念の大元である「私」を捕まえようとすることによって、そのことに意識が向けられるために、自然と想念が止まってくるのです。

そのときに、想念とは来ては去っていく幻のようなものだと分かるだけではなくて、その発生源である「私」も実在ではないと感じることができます。

そうやって、もっともっと「私」という想念のもっと奥まで注意を向け続けるのです。そこにこそ、決して変わらない何かを見いだすことができます。

「それ」はストーリーの登場人物とはまったく異なる次元の何かであり、そこは全くの静寂と無が支配している理解不能のどこかです。

そして、ひとたびその感覚を掴むことができたら、また再生ボタンが押されて、ストーリーが展開されだしたとしても、何かが変わるのです。

今までの苦悩は、種類の違う苦悩になります。苦悩がなくなるわけではないのですが、苦悩を安心して見ることができるようになるのです。

自分の呼吸よりももっと近いところに、「それ」は在り続けます。ただ、在るのです。

ストップボタンを押す

人生は短いようで長いようで、生きていればいろいろな事がありますね。苦悩することがあれば、楽になることもあり、正に山あれば谷ありのようです。

険しい山を登っているときには、ヘトヘトになって自暴自棄になってしまうことだってあるかもしれません。でも人は、そうした苦しさを何とか乗り越えて先へと進んでいくのです。

ところが、ここで勘違いしてしまうことがよくあります。それは、苦しみを乗り越えたら幸せになれるとの思い込みです。

確かに今までドツボに嵌ってもがき苦しんでいた人が、やっと平坦な楽な道に出られたとすれば、そこが天国のように感じてしまうかもしれません。

それは当然のことです。しかし、先ほども言ったとおり、その平坦な安楽な道は、またいつのまにか崖になったり、谷底になったりするのです。

そうやって、苦悩と安楽(快楽)は延々と繰り返すことになるということです。もう一度言いますが、「苦しみを乗り越えても幸せはやってこない」ということです。

一時の休戦状態を平和がやってきたと勘違いしているに過ぎないのです。本当に、こうした苦悩と安楽の繰り返しから抜け出すためには、苦しみを乗り越えるのではなくて、それを止めることです。

苦しみを止めるとはどういうことでしょうか?実は、苦しみに限らず、平坦な道やもっと気持ちのいい道でさえ、それを止めるという気持ちにならなければ、繰り返しからは抜け出せません。

その繰り返しとは、自分が作っているストーリーなのです。そのストーリーが再生状態である限りは、苦悩もいつかやってきます。

再生状態において、ストップボタンを押す必要があるということです。そのことに気づかなければ、エンドレスのストーリーが続くだけです。

もしも、ストーリーをストップすることができたら、自分がそのストーリーの中の演技者ではなかったということに気づくことになります。

今この瞬間にそれをすることが誰にでもできるのです。本当の自己は、そのストーリーのプロデューサーとして、それを観照していたのだと気づくのです。

つづく

記憶と期待を手放す

昨日のブログでは、誰もが未来の自分に多大な期待を寄せているというお話しをしました。一般常識的には、期待するということは別に悪いことではないと考えられていますね。

しかし、期待というのは今を否定しつつ、もっといいものを手に入れようという欲望であると捉えれば、期待しない生き方がどれほど心が平安でいられるか分かります。

期待というのは、過去の記憶から生まれるものです。未来に何かを期待して、それによって何らかの行動をするのです。

すると、それが体験を生み、その体験の中から印象に残るものを記憶として蓄積するのです。その記憶には、満たされない否定的な想いなどが詰まっています。

それを原動力として、ある想念が起きてくることになり、その想念の中味として未来に対する期待、あるいは欲望がやってくるのです。

そうして、その期待を実現しようとして、また何らかの行動を起こすことになり、それが本人の体験となって残ることになるのです。

こうした、期待と記憶の連鎖、あるいは循環が延々と続くことになるのです。したがって、期待と記憶というものは、どちらかが単独であるものではなくて、互いに依存しあっているのです。

どちらが欠けてももう片方が残ることはできません。記憶がなければ、あるいは記憶を使わなければ何の期待も生まれることはできないのです。

また、期待をできるだけしないようにすれば、どんな体験をしようとも、そこには特別に印象に残るようなことがなくなってしまい、結果として記憶には刻まれなくなるのです。

過去の記憶を使わないようにするには、起きてくる無数の想念に巻き込まれることがないように気をつけて、日々の生活をすることです。

それが今に生きるということです。それができれば、期待も同時に起きなくなってきます。記憶と期待を手放すことができたら、完全に今このときだけに意識を向けることができるようになりますね。

それはきっと充実した時間を過ごすことが出来るようになるはずです。いいも悪いもないと思い込んでいた、記憶と期待、どちらも必ず自分を苦悩へと運んでいくということをしっかりと認識すべきだと思います。

明日への期待

誰もがこの先の未来に何かしらの期待を持って暮らしています。明日は、もっといいことがあるかもしれない、素敵な人との出会いもあるかもしれない。

一ヶ月後には、もっとましな自分になっているかもしれないし、一年後には希望の仕事に就いているかもしれないと。

もしも未来には、何もいいことは起きないと分かってしまったら、人生を生きていく気力すら失ってしまうかもしれません。

それくらい、未来への期待は大きなものなのです。私自身についても、これと言って何の用事も計画もないその日暮らしの人生なのに、もっと気づきがやってくるかもと期待したりします。

そのことに気づいては、ああ、また未来に何がしかの期待をしてるんだなと思ったりしています。それは、実は過去との繋がりにおいて、そうした期待が発生するのです。

簡単に言ってしまえば、過去に残してきた不満を未来に満たそうとする想いなわけです。過去が満ち足りていなかったからこそ、それを現在をすっ飛ばして未来で何とかしようとするのです。

これでは、大切な今を充実して生きることができなくなってしまいます。なぜ今が大切なのかというと、今に意識が向いている限り、過去の不満を見ることがなくなるからです。

ひとたび過去へ意識が戻れば、それが必ず未来への期待、あるいは不安へと変化していくのです。これではいつまでたっても、今を生きることができなくなってしまいます。

今、手にしてないものが、未来に手に入れられたとしても、それはいずれはまた失ってしまうものだということに気づくことです。

手に入れられるものとは、すべてそうした一過性のものなのです。本当に大切なものとは、永遠にあるもの、それは今あるものに違いありません。

それを見いだすことです。決して失うことのないものとは、一体何でしょうか?それこそが、昨日のブログで書いた「私で在るもの」です。それはいついかなるときにも「在る」のですから。

それは失うことができないものです。そこに、意識をいつも向けていることです。それは、過去を悔やんだり未来に期待することとは違って、永遠の心の平安の場所なのです。

私は私で在るもの その2

昨日の続きというか、もう少しだけ掘り下げてみたいと思ったことがありましたので、書いて見ることにします。

私たちは、私の○○、というものを無数に持っています。私の指、私の腕、私の胴体、私の顔、これらはすべて私の身体についてのものです。

また、私の感情、私の想い、私の考え、私の信念、私の気持ち、これらはみな私の心についてのことだとも言えます。

それ以外にも、私の性別、私の国、私の家族、私のお金、私の家、私のクルマ、私の学校、私の部屋など、実際に私の所有物であるものもあるし、そうでないものも含んでいます。

こうした、「私の○○」は決して私自身ではないので、それらを全部私から除外して残るものこそが、私で在るものと言えるかもしれません。

しかし、そうやって除外していって一体何が残るでしょうか?私自身の感覚では、何も残るものがないというのが正直なところです。

そうです、私で在るものとは、何もないのです。この世界のどこにも、私で在るものを見つけ出すことができないということに気づきます。

もしかしたら、このことはとても不安に感じてしまう場合があるかもしれません。でも、安心して下さい。どこにも見出せないとしても、確かに「私は在る」は残るのです。

これは誰にとっても必ず該当しないということはありません。したがって、「私は在る」こそが、本当の私なのかもしれません。

これはちょうど、あなたが寝ているときに見ている夢の中にあなた自身を見つけることができないのと同じことなのです。

これが自分だという存在が夢の中で活躍することは勿論できますが、その自分は決して夢を見ているあなた自身ではありません。

夢の中の登場人物としての自分がそこにいるだけですね。この世界のどこにも私で在るものが見つけられないのは、この現実という夢を見ているのが本当の私だからかもしれません。

そうだとすると、この世界のすべては本当の私が想像の中で創造したものだということができ、本当の私はあらゆるものの中に在る(偏在している)とも言えるのです。

私は私で在るもの

「私とは私で在るものである。」このように表現すると、当たり前であることのように聞こえてしまうかもしれませんが、実はそうでもないのです。

実際には、我々は自分のことを、「私は身体である」とか、「私は心である」のように思い込んでいるからです。

こうしたことが単なる思い込みなのだということは、このブログで今までに何度となく書いてきたことなのですが、その信じ込みを断ち切ることができないのです。

しかし、真実は「私とは私で在るもの」という以外に表現することができないのです。そして、本当の私は決してこれだとか、あれだというように示すことのできないものです。

私は身体だという思い込み、つまり私と身体との同一視を継続させている要因とは一体何なのでしょうか?それを暴いていきたいと思います。

そのためには、自分が今までに詰め込んできた既成概念、学習してきてしまった常識などを一旦脇へ追いやって使わないようにしておく必要があります。

その上で、私が身体であるということをどうやって信じ続けているのかを見てみると、その一つには一生自分の身体と一緒だからというのがあるかもしれません。

しかし、今自分の身体という言い方をしましたが、これは自分の所有物と考えることも可能ですね。ずっとパンツを穿いているというのと全く同じです。

パンツを自分だと思っている人は誰もいないように、自分の所有物でありずっと一緒であるものを自分自身と勘違いするということは馬鹿げた話しです。

だとすると、もう一つの要因と考えられるのは、身体からやってくる無数の感覚と自分が繋がっているということかもしれません。

でもそれも、感覚は私の感覚であって、私自身であるとは言えないはずです。こうして見て見ると、私たちは自分は身体だと単に思い込まされてきただけだということがはっきりします。

あらゆる苦悩の根本原因である、自分は身体であるとの思い込みをどうにかして、その嘘を暴いて「私は私で在るもの」に立ち返りたいと思います。

知覚の停止

最近、一般的なセラピーに関連したことをあまり書かなくなったなあと思って、たまには書いて見ようかとも思うのですが、そうするとなかなか筆が進まなくて…。

それはきっと、自分が日頃意識している事柄の方に目が向いてしまっているからなのでしょうね。本当はいくらでもネタはあるはずなのですが。

というわけで、今日もことによるとちょっと理解しづらいような内容になってしまうかもしれませんが、とても大切なことだと思うことを書いてみます。

この「私」を存続させているのは、我々がそれに頼りきってしまっている知覚であることは疑いようのない事実ですね。

もしも今この瞬間に知覚が途絶えてしまったらどうなってしまうのか、想像することすらできません。ところが一つだけ、その体験を誰でもがしています。

それは、眠っているときです。夢を見ることもなく、熟睡しているときというのは、完全に知覚が停止状態になっています。だからこそ、その間は、「私」も不在となるのです。

知覚することが、知覚する人と知覚されるものを同時に生み出すのです。このことは、意外と理解されていません。

知覚することがない状態においては、知覚する人もされるものもどちらも存在することができないということです。

だからこそ、熟睡している間は、知覚されるものであるこの世界全体も不在となっているということです。このことは、よくよく理解しておく必要があります。

この「私」も、この世界も、知覚するという行為なしには存在しないということです。ということは、この「私」も、この世界も本当には実在するものではないということになります。

つまり、それが幻想だということです。実在とは、永遠に在り続けるものでなければならないからです。来ては去っていくようなものは、それが何であれ時間の束縛のなかにあるものです。

知覚を完全に停止した状態においても、純粋な意識としての気づきだけが残るということを体験することができたら、それこそが実在としての本当の自分であるということです。

「私」という人物

私たちは誰もが気が付くと、一人の人物として生きています。それほど自覚がないままに、気づくと他人からも一人の人物として認められるようになっています。

この人物というのは、一体どのようにして出来上がるものなのかということについて、少し考えて見たいと思います。

まず、生きていれば毎日が様々な体験の連続であって、その体験の中から印象に残るものだけをピックアップして記憶の中に溜め込んでいくのです。

その一つひとつの記憶を、地道に積み上げていくことで全体として人物が出来上がるわけですね。したがって、どんな体験を印象的に記憶してきたかということが、どんな人物になるかということと深く関係があるということになります。

体験は、本人に起こる外的な事象だけではなくて、そのことに対する本人の反応も含めて大切に保管されていくのです。

そのすべてが知覚に全面的に委ねられているということが分かります。我々はあらゆる体験を知覚を通して経験するからです。

そして、知覚の中には、判断や反応も含まれるのです。そうした、判断や反応も、それまでの体験が元となってどのような反応をするかが決定されるのです。

しかも、知覚というのは私たちがでっち上げたものであって、事実をあるがままに知覚するということはほとんどありません。

自分に都合のいいように捏造することがほとんどだということを考えると、結局、作り出された人物というのは、見えない計画に沿ってただ出来上がっていくものだということが見えてきます。

つまり、人物の出来上がりというのは、決して偶然に任されているわけではないということです。あなたがどんな人物なのかということは、あなたが生まれたときから決まっていたとも言えるのです。

このことが分かったら、もう自分を何とかしようともがいたりして、余計な努力やエネルギーを費やすことが無意味だと分かります。

ただ、自分に与えられたものをすべてそのままに受け入れて、淡々と過ごすことができたら、それが結果として最も穏やかで気持ちのいい人生になるはずです。

自由への欲望

昨日のブログでは、私たちの生活のほとんどすべてが、快楽への飽くなき欲望と、苦悩を排除しようとする恐怖で成り立っているということをお話ししました。

そして欲望そのものが決して悪いことではなく、いたって正当なことだということについてもお伝えしました。欲望は決してなくならないものです。

あらゆる欲望は、一口で表現すれば、足りないものを手に入れたいという欲求であることが分かります。その欠乏感にはきりがなく、完全に満たされるということはないのです。

したがって、欲望のエネルギーが尽きることもないというわけです。健康な身体を持ちたい、人から高い評価を得たい、何かを成し遂げたい、欲しいものを手に入れたい、好きな人と一緒にいたい等々、挙げればきりがありませんね。

でもそれらを求めるあまりに、その反対方向である苦悩がやってくることになるということを私たちは決して忘れるべきではありません。

欲望(快楽)と恐怖(苦悩)とは、必ずコインの裏表のように一対になっているのです。その往復運動から抜け出すために、一つだけ特別な欲望があります。

それは、真の自由への欲望です。このいつ果てるともなく続く往復運動から、開放されるということ以外に真の自由はありません。

したがって、それを求めることが、自由への欲望であると言えるのです。これは、他のあらゆる欲望と違って、最終的には苦悩から脱出することを可能にするのです。

なぜなら、何が自分の自由を奪っているのかということについて、探求することになるからです。そしてその結果は、欲望と恐怖の往復運動を強いているものの正体を突き止めることになります。

それが、「私」という想念です。この「私」がここにいるということこそが、あらゆる束縛の大元であるのです。

「私」が人生の中心人物であるということこそが、「私」という名の牢獄に閉じ込めている張本人であるということです。

もしも、その架空の牢獄から脱出することができたとしたら、その瞬間に「私」そのものが単なる想念であったということに気づくことになるのです。

そして、後に残るものは、永遠の中で実在する真の自己としての気づき、それを何と呼ぼうがそれこそが、本当の本当の自己であり、生まれることも死ぬこともない真実の私たちの姿なのです。