共有幻想としての死

数日前に、高校生の時のクラスメートの一人が急死したという訃報メールが届きました。

それほど親しかったわけではないのですが、数年前のクラス会で会って取り止めのない会話を楽しんだばかりなので、ちょっとしたショックを感じたのです。

その後、クラスの仲間から様々な心情を訴えるメールがしばらくの間飛び交っていて、みんなそれぞれに少なからずショックを受けているんだなぁと。

その時に感じたことですが、死というのは本人のものではなくて残された側にとってのものでしかないのだろうということです。

私たちは誰もが未知の世界からやってきて、かりそめの人生を生きた後またその未知の世界へと戻っていくのです。ただそれだけなのです。

けれども、残された側からすると旅立っていった人とは、もはや触れ合えず語り合えずとなるため、死とは残酷なものだと思い込むのです。

実際亡くなった彼に起きていることは、私たちが知っているような死ではなく、ただの帰還なのだろうと思うのです。

私は昔から、死によって目覚めることができるのではないかと思っていました。人生物語から目覚めて、あ、こんな夢を見ていたんだ、チャンチャンっていう具合に。

我々はこの社会で様々な幻想をみんなで共有しているのですが、死もその一つに過ぎないのだろうなと、また思いを新たにしたのです。皆さんはどう感じますか?

全体が在るのみ

全体だけが在る。個人というあなたを創造したのも全体であり、あなたの中で生きているのも全体なのです。

ということは、あらゆる責任は全体にあることになります。あなたは確かにいるようには感じられるのですが、それは表層の飾りのようなもの。

この世界、この宇宙は、全てが〜のように見える、〜のように思える、それだけで真実は全体でしかないのです。

この気楽さ、この清々しさを一度味わってしまったら、もう決してなくなることはありません。

何も間違ってはいないし、何も罪深くもないのです。ただ全体がそのように仕組んでいるだけで、それだけが実在するということ。

この感覚を言葉で説明するとしたら、きっと一番近いのは「信頼」だと思いますね。もしくは「受容」かもしれません。

日常的に生活している普通の感覚からはあまりにも遠過ぎて、ピンとは来ないかもしれませんが、誰の内側にもそれはあるはずです。

少しの時間の余裕がある時にでも、静かに座っている時間を作ってみることです。この感覚がいずれはやってきてくれるはずだからです。

この自我の行く末

人生に行き詰まって落ち込んでいる時に、あの曲を何度も聞いて励まされて、もう一度頑張ってみようという気持ちになったんです、というようなことを聞くことがありますね。

あるいは、誰かの不屈の物語を聞いて感銘を受けて、自分もまた明日から頑張ろうという気になった、そんな話しもよく聞きます。

多くの人にとっては、そういった経験というのはごく普通にあるのかもしれませんが、私はいつもそれを聞くたびに違和感しかなかったのです。

明日からまた頑張ろう、が皆無なのです。どの記憶を辿ってもそんなことを思ったことが一度もないのがはっきりしているのです。

だから生きづらさのようなものをいつも抱えていたんだなと、最近分かるようになりました。

たとえば、たとえ頑張っている状態になったとしても、それは成り行きでしかなくて、自分が決意してそうしているのではないのです。

このような人生を続けてきてどうなったかというと、「つまらない」という思いだけが残ったように思います。

年齢を重ねてきたおかげで、それもさらに加速してきていて、何を手に入れても満たされない、つまらないからは逃れられないという感覚。

益々内側にいる自我は、困っているのです。何か楽しいことはないかなあ?という子供のようなため息をついたりしています。

人生は壮大な実験だという観点からして、今後この自我はどうなっていくのかということを、折に触れて皆さんにお伝えしていこうと思っています。

真実は内側にある

osho から教わったのですが、オリジナルは誰の言葉だったかは忘れてしまったのですが、すごく印象深い言葉があります。

それは、「真実を知るのに外に出かける必要はない。目を開ける必要すらない」というものです。

つまりは、外側の世界をどれほど見つめたところで真実には気づき難いということです。ストレートに自分の内側深くに入っていくことだといっているのです。

私にとってこの生に目的があるとするなら、それはただ自分が何者なのかに気づくこと。それしかないのです。

ただ自分の内に誰が隠れているのかを知ること。だからこそ、目を閉じて内側深くに入っていくしかないと言っているのですね。

外側の世界で起きていることに翻弄される自我が自分の中にいるのですが、それをそのままにしておくこと。

そこになんらかの対処を持ち込んで仕舞えば、それこそ自我の世界に引き摺り込まれてしまいます。

自我は自分を活性化しておくために、あらゆる手段を使って外側の世界に様々な出来事を引っ張ってくるのです。

その自作自演さ加減に気付きながらも、それはそのままにして見守ることです。真実はそこにはないのですから。

要らぬ老婆心

何事もバランスが大事だと思うのですが、それで言うと「石橋を叩いて渡る」というのはいかにも極端な事ですね。

慎重には慎重を期してという事でしょうけれど、普通石橋は叩いたくらいではびくともしないのです。

とは言え、その石橋が何百年も前のものなのかも知れないのなら、叩いて確かめて置いた方がいいのも事実です。

要するにケースバイケースだという事ですね。私はどちらかと言うと、じっくり吟味せずに見切り発車してしまうタイプのようで。

誰にも相談せずに会社を辞めたり、大きな買い物をしてしまうと言った事が多いのです。慎重派の人から見れば、少し危なっかしいと見えるかも知れません。

ただ自分なりの言い訳もあって、走り出してみないことには、気づくことも限られてしまうと言うのがあるのです。

少なくとも、自分以外の誰かの計画を聞いたときには、そこに老婆心を挟まずにいるようにはしています。

というのも要らぬ心配心は、ただの防衛だと分かっているからです。それが相手の余計なブレーキになってはいけないと強く思うからですね。 

人体デブリを取り去る

皆さんは、「デブリ」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?その意味は、「破片」や「残骸」、「堆積物」などといったものらしいです。
 
元々は、原発における溶け落ちた核燃料が堆積したものを指しているのだそうですが、それが一般的に使われるようになったのですね。

よく言われる「宇宙ごみ」というのがありますが、地球の周りを回り続けているロケットの破片や故障した諸々の部品などのことです。

あれのことをスペースデブリ(space debris)と呼んだりするらしいです。全てが人工物なので、人類が置き去りにしている文字通りのゴミですね。

これは私の勝手な感覚なのですが、私たち人間も「人体デブリ」のようなエネルギーのゴミを身体の周囲に付着させて生きているように感じます。

人体の周囲には、普通の人には見えないオーラと呼ばれるエネルギーの層があると言われていますが、体内から出てきたゴミのようなエネルギーがそこに沈澱しているように感じるのです。

ヒーリングをし終わった後に、部屋の景色が明るく見えるように感じるクライアントさんがいたりします。

あれはきっと人体デブリに厚く覆われていたものが少し晴れたことで、周囲を明るく感じるのではないかと密かに思っています。

ヒーリングは誰にでもできるし、誰に頼む必要もなく自己ヒーリングをすることでも、それなりの効果が期待できるのです。

オーラの色をくすんだ色にさせている人体デブリを取りましょう。ただ、取っても取っても体内から滲み出てくる場合には、内面の癒しが必要ということですね。

「つまらない」を見つめる

今から遡ること20年以上前、サラリーマン時代の末期の頃、とにかく多忙で土日も出勤が当たり前の日々。

それプラス多大なストレスと相まって、とにかくやるべき事が一つもないという状態にならないものかと夢想していました。

思うに今それが全て叶ってしまっているのです。やらなきゃいけない事が一つもない毎日が実現してしまったのです。

でどうなったかというと、自分の中の誰かが「あゝつまらない!」と叫んでいるのが分かるのです。ずいぶん勝手だなと思うのですが…。

こうなると、時々あれこれとちょっとした気晴らしになるような事をするのですが、それもとうとうネタが尽きてきてしまったようで。

それで筋トレをしてちょっとした目標を与えて、少しは励みになったりもしたのですが、遅々として進歩しないとなると、また「つまらない!」がやってくる。

そしてとうとうスマホのフィッシング詐欺に遭うという事態を引き起こし、それがひと段落したと思った瞬間に、腰痛を起こすという流れ。

その「つまらない!」君としっかり向き合ってみると、何やら恐怖にも似た閉塞感のようなものを持っているらしいのです。

それに加えて、「毎日を漫然と過ごすのではなく、何か価値ある事をしろよ!」と言ってる輩もいるようで。

こうした自我の仕組みというのは、とても根深いものがあるのです。自我から従事するものを取り上げると、こうなるのですね。 

期待が不満を生む

私たちが自分に対して、あるいは他人に対して不満を感じる時には、必ずある期待値と比較しているのです。

その期待値に達していないと判断すると、そこに不満の感覚が発生するわけです。100点取れると思っていたのに80点であれば、不満になるのです。

他人に対する不満の場合には、その期待値というのは自分を比較の対象にしている場合が多いかもしれません。

たとえば、自分は迷惑だと思うので夜遅くには電話をしたりしないという場合、誰かから夜遅く電話がかかってきたら、嫌な感じがするのです。

けれども、自分も結構平気で夜遅く友人知人に電話をしている場合には、夜遅く誰かから電話がかかってきても不平を言わないものです。

私の場合ですが、狭い道を歩いている時には、後ろからくるクルマを優先させたいので、率先して避けるのです。

だからこそ、自分がクルマを運転している場合には、狭い道で歩行者にクルマの存在を気にして欲しいと思ってしまうのです。

その期待値に対して、我が道のように歩いている人がいると、イラッとしてしまうわけですね。

無自覚のレベルであっても、そこになんらかの期待値があれば、そこには必ず不満がやってくることになるということです。

もしも色々なことに不満を感じることが多いなと自覚があるなら、こうした期待値についてじっくり見つめてみることをお勧めします。

期待がなければ、決してそこに不満が起きることはないのですから。

生は奇跡の連続

マインドというのは、あらゆるところに問題を見出しては、それを解決するということをずっと繰り返しているのです。

それがあるからこそ、人類は文明を進化させてくることができたし、日々進化することこそ価値があると思っているのです。

ところが生は実のところ無目的なのです。あるがままの生は、何か解決されるべきものではないのです。

それはただ楽しまれるもの、ただその瞬間瞬間を生きられるものなのです。そこにはどんな意味も価値もありません。

解決指向のマインド(自我)にとって、あるがままの生をただ楽しむことには魅力を感じないのです。

このミスマッチにまずはしっかり気づくことです。解決指向のままでは、生の素晴らしさを知らずに死んでいくことになってしまいます。

マインドが走らせている人生というのは、どこかに向かって突き進んでいるように感じますが、本当はどこにも向かってはいないということ。

無目的になった時に、初めてこの瞬間が宝物のように見えるようになるのだと思います。まさに生は奇跡の連続で出来ているのですね。

内側外側という幻想

私たちは心のことを自分の内面という言い方をしますね。つまり自分の精神的な領域は内側にあると感じているのです。

内側というのは、自分の身体を基準にしてその内側ということです。その反対に外側というのは、身体の外側に広がっているこの世界のことです。

ちょうど身体を境にして内側と外側に分かれているわけです。ここまではいたって当たり前のことです。

そこで、自分自身を意味する自分の内側を満足させるためには、どうしたらいいのかを考えてみるのです。

はじめから内側が満足している状態であれば、そこには何の問題もないのですが、誰の内側も満足などしていません。

そのため、私たちはその不足感をなんとかするために、外側の世界のものを内側に取り込むことで、満たそうとするのです。

ところが外側から何かを入手できたとしても、それは内側にまで入ってくることはありません。内側は元のままなのです。

外側のどんなものを所有できたとしても、それは内側には届かないと知ることです。考えてみれば当然のことですね。

外側と内側は別世界なのですから。であるなら、内側を満たすためには内側だけでなんとかしなければならないということです。

内側にある不足感、欠乏感は思考(幻想)に過ぎないと気づくしかないのです。しかもその幻想は内側と外側とに分離しているという思考(幻想)が元になっています。

その分離が幻想だと見抜くことによって、ようやくしつこい欠乏感からも解放されることになるのでしょうね。

それ以外には、内側に対するどんな救いもないのだと理解することですね。これを見抜くためには、やはり瞑想が一番いいのかもしれません。