イマジネーションから離れる

この宇宙のバックには真理のみがあり、その真理の上にかりそめの現象界が広がっているのです。

かりそめと表現したのは、真理以外のすべては一時的なものでしかないからです。いずれは消失して真理へと戻っていくのです。

広大無辺の真理に想いを馳せてみると、私たちが暮らしているこの現実世界を思考によって作り上げていることがよく分かるのです。

日頃私たちが大切にしているもの、例えば「価値」や「意味」、あるいは「罪」や「正しさ」と言ったものが、すべて思考によるものだからです。

そのことを決して忘れてはならないのです。価値も意味も、罪も正しさもどれもこれも実在しないもの、イマジネーションの世界のものだということ。

それなのに、私たちはそういうものを時には命を賭けても守ろうとするのですから、目を開ける必要がありますね。

目を開けるためには、真理を見ようとすることです。真理を見る目を養うことができたら、イマジネーションを実在とは思わずに済むのです。

思考がない状態では、どんなものであれ価値があるとかないとかが消えてしまうのです。意味も同様にしてあるでもないし、ないでもない。

罪深いなどというイマジネーションにダマされないこと。そして正しさを拠り所にして生きることから離れることですね。

身体の不調は、幼児期の訴えからくる

今から100年以上も前に、フロイトは人の心の中には潜在意識という部分があることを発見しました。そのころの常識からしたら、きっと画期的な発見なのでしょうね。

現代では、自覚できている部分と潜在していて自覚できない心の部分があることくらいは常識的に誰でも知っています。

けれどもどのようにして、自覚しているマインド(表面意識)と自覚していないマインド(潜在意識)とに分裂してしまったのかを詳細に理解している人は少ないのです。

もしも潜伏している部分が小さいのであれば、きっと問題は起きないのですが、マインドの実態はその逆なのです。

つまり、自覚できている部分は、潜伏している部分の1割程度しかないと言われているのです。だから時として、非常に面倒なことが起きてくるのです。

両者が正面切ってガチで綱引きしたら、当然潜伏している側の勝利になるのです。残念ながら、自覚している側は理性と共に負けてしまうのです。

もしもあなたが、自分は何であんなことをしてしまったのだろうと思うことがあったら、その時には潜伏側に負けたのだと理解することです。

しかも、潜伏している部分の最も奥深い部分は、実は身体と密接に繋がっていて、それが自分の身体をコントロールしていると言っても過言ではありません。

だから身体の不調などは全て、非常に幼い頃のマインドが残っていて、それが何らかの満たされない思いを身体を使って表現しているのです。

身体の声を聞くということは、幼い頃の自分の正直な訴えを聞いてあげることに繋がるということを理解することですね。

死は敵ではない

子供の頃や、10代20代の頃は死というのは他人のものでした。いつも誰かが死ぬのですが、それが自分にも該当することだという感覚は少なかったのです。

ところが、年齢を重ねてくると死が身近なものに感じられるようになり、自分の視野の中に入ってくるようになったのです。

身体が比較的健康な時であれ、不健康な時であれ変わることはありません。そしてそのことは、決して悪いことではないと思っています。

逆にとても大切な気づきだなと感じるのです。外側から手に入れたものは、いつか必ず消えていくものです。

それと同じように、自分の命もどこかの時点で消えていくのですが、それは当然のこととして受け入れる必要があるのですね。

無からやってきて幻のような短い人生が起きて、そしてそれは必ずや無の中へと戻っていくのです。

だから無と無の間にあるこの生も本当は無なのです。無の味わいを持って日々を生きるなら、死を歓迎できるような気がします。

そして本当に死を受容した瞬間、死はその効力を失ってしまうのです。あなたの本質である無は死後もずっと無であるからです。

本質への帰還の旅 補足

昨日のブログ記事の補足をしたいので、昨日のブログを読んでいない方はまずそちらの記事を読んでから、こちらを読んでください。

昨日のブログでは人生というのは、自我という不自然な自己を作って本質から離れることで、本質について気づくための旅だというお話しを書きました。

それも本質への帰還の旅の最終章なのです。ここまでやって来るまでにどれほどの章を超えてきたのかは分かりません。

ただ、人間になるまでには鉱物から生物への進化、そして単細胞生物から多細胞生物へと気が遠くなるような時間を費やしてきたのは事実です。

そして複雑な植物や動物へと進化を遂げてきたわけです。ただ人類に到達するまでは、進化は遂げたものの依然として自然のままだったのです。

だから、どれほど知性の高い動物であっても、全体性に気づくことはできないのです。自然のままでは、その中にある限りは気づけないのです。

自然から離れて、不自然の中へと入り込むことができたのは、人間が自我を生み出したおかげなのです。勿論幻想の中でということですが。

だからもう少しで、この旅は終わりを迎えることになるはずです。もう最終章のそのまた終わりに近いような気がします。

誰が旅のどのあたりにいるかなどというレベルではないのです。旅全体を見渡して見たら、誰もが同時に帰還することになるのでしょうね。

本質への帰還の旅

私は高校を卒業するまでの間、ずっと親元で生活を一緒にしていました。家族とはたまには会わない時があるものの、ほとんどは毎日顔を会わす生活でした。

それが大学に入ってすぐに、アパートでの一人暮らしが始まったのです。学校が少し家から遠かったためと、一人暮らしに憧れていたからです。

家族から離れて日々が過ぎて行く時に、何となく家族はどうしてるかな?大丈夫かな?という少し気遣うような感覚がやってきたことがあったのです。

生まれて初めて味わう感覚だったので、少しびっくりしたのを覚えていますが、自分も少しは大人になったのかなと思ったものです。

けれどもそれは大人になった証などではなく、離れたことによって初めて気付く感覚なのだと今なら分かるのです。

「失くして初めて分かる◯◯のありがたさ」のような言葉がある通り、ずっと身近にあるものは、それが当たり前になってしまうということです。

で、ここからが今日の本題になるのですが、私は時々なぜ自我のような面倒臭くて辛く苦しいものと自己同一化してしまったのだろうと考えることがありました。

それは、一旦自我となって自己の本質から離れる(離れたと思い込む)ことで、本質を深く知るためなのではないかということです。

私たちの本質である全体性には、欠けるものがありません。それは全てだからです。そこには孤独も不足も不安も何もないのです。

けれども、そのことを深く知るためには一度本質と対極になったふりをすることが必要なのです。

全体性という自然から離れて、個別性という不自然な体験をすることで、全体性への渇望を通して、帰還しようとする衝動がいずれはやってくるのです。

自我の人生とは不自然なことばかりで成り立っているのです。そして行き着くところまで行った後、今度は自然が恋しくなるのです。

その先には覚醒という本質を思い出す瞬間が必ずやってくることになるのでしょうね。だから、それまでは大いに自我の不自然人生を楽しめばいいのです。

ワガママという自覚は怪しい

クライアントさんの中には、ご自身のことをワガママだと思っている方が時々いらっしゃいます。

それをお聴きするたびに違和感を感じつつ、どういったことでワガママと感じるのかを確認します。

そうすると案の定、これと言って大したこともないのに、ご本人はワガママだと決めつけてしまっているのが分かるのです。

客観的に本当にワガママな人というのは、案外ワガママである自覚を持っていない場合が多いのではないかと思います。

ではなぜ自分のことをワガママだと思い込んでしまうのか?その理由は大きく2つあると思っています。

その一つ目は、親にお前はワガママだと繰り返し言われて育った場合です。子供はそれを真に受けてしまうのです。

それが大人になっても、根強く残ってしまってまるで信念のようになってしまっているということなのです。

そして二つ目の理由は、普段からいい人を演じてしまっている場合、その自己犠牲が裏で怒りを溜めることになるのです。

その結果、怒りに任せた言動を出してしまう事があると、いい人の自分からはワガママであるように感じられると言う事です。

もしもあなたが自分はワガママだと思っているのでしたら、上記のような事に該当しないか、一度しっかりと見つめてみるといいかも知れませんね。

真理は非論理的

よく言われることですが、男性は論理的であって女性は非論理的だと。一般論なので、正確さには欠けるもののそこそこ外れてはいないなと感じます。

だとすると、男性に比べて女性の方が遥かに真理に近いということになるのです。そしてそれは本当なのです。

論理とは思考であり、思考は理解することでそれを支配できたと思い込むのです。論理によって理解してしまえば、怖くなくなるのです。

ところが非論理的な事柄というのは、思考によっては理解することが難しいのです。だから男性は怖がるし、それに対して攻撃的にもなるわけです。

論理は思考の塊であるマインドのものであり、非論理はハートのもの。つまりは、男性よりも女性の方が多くハートを用いて生きているということです。

ハートは全く論理では歯が立ちません。マインドは論理で理解できないものを得体の知れないもの、あるいは神秘的なものと捉えるのです。

女性はハートからやってくる知らせに気づくことができますが、男性はハートからの声を聞くことができないのです。

ハートは静かに囁くだけですが、マインドは暴力的な大声で人を支配しようとするからです。

男性の多くが、女性のようにハート優位に生きるようになれたら、人類の波動が変化することになるでしょうね。

自我と本質は真逆

かつてあるクライアントさんのお子さんが、傍若無人ぶりを発揮して言うことを聞かずに困っているという話をお聞きしたことがありました。

この子(男の子)がある日を境に突然、「恥ずかしい、恥ずかしい‥」を連発するようになり、静かになってしまったということがありました。

ちょっと極端かもしれませんが、要するに自我ができるにつれて自分は見られる存在なんだという思いが強くなったのでしょう。

逆に自我ができるまでは、他人の目というものが分からずにいたために、好きなように生きていたのです。

私自身も記憶のどこかにうっすらとこの感覚がやってきたのを覚えています。人から見られる自分というものに気づいて、ひどく厄介な感じがしたのです。

ところが、自分の本質というのは見られる存在の真逆であって、常に見守る側でしかないということを理解した時に、非常に救われたのです。

自我と本質とは見事なほどに全く真逆の特徴を持っています。自我は個であり、本質は全体。自我は見られる側であり、本質は見守る側。

自我は幻想(分離)であり、本質は真実(不二)なのです。この両者が、私の中で同居しているのですが、いずれは真実に軍配が上がるといいなと思っています。 

動物からの卒業

深い眠りというのは、完全な闇の中に落ちることです。それこそが完全に無意識状態になるということです。

地球上のあらゆる存在は、人類を除いて鉱物も植物も、そして動物も同じ無意識の中にあるのです。

だから人間が深い眠りの中で完全な無意識になるのも当然と言えば当然のことかもしれません。

ただし人間だけが、無意識の対極にある意識的な状態であることができるのです。それはもう奇跡的なことだと言ってもいいくらい。

自我が思考の中で作られたおかげで、少しだけ意識が目覚めることができたのです。とはいうものの、全体の意識のうちのほんの少しだけ。

残りの部分は、まだまだ無意識の中にいるのです。つまりは、動物や植物と変わりないということ。

私自身も含めて、多くの時間を動物のように無意識で生きています。夢の中の自分と同じようなものですね。

ただし、夢の中と違う点は、これは夢なのか現実なのかということを意識することができることです。

その時には意識は目覚めているのです。思い出したらすぐにも、意識的であるのかどうかに意識を向けるようにすればいいのです。

それが動物から卒業して、ニンゲンとしての目覚めた意識で在るようになるということですね。

人生に目標はない

目標に向かって進んでいくもの、それが人生ですね。何の目的も目標もなく、ただその日暮らしが繰り返されているなら、それはつまらない。

「私」という自我にとっては、目標がどうしても必要なのです。それに向かって進んでいるという自覚があれば、生きていけるのです。

ところが、その目標というのが幻想でしかないのです。作り物ですね。そして、その目標があるばっかりに、あらゆる苦しみが起きてくるのです。

目標に少しでも近い人は善人であり、遠い人は罪人なのです。目標があれば、そこに違いが起きてくるのです。

目標に到達できない恐れも生まれます。逆に目標がなければ、人生に失敗というものは無くなってしまうのです。

本当はどこに向かって進んでいるのでもない、ただ今この瞬間があるだけ。他には何もないのです。

自我にとってのこの閉塞感は半端ない。動くスペースとしての未来がどうしても必要なのです。

自我がどれほど幻想の中で生きているのかがはっきりしますね。それをただ静かに見守っていようと思っています。