女性性が有利

私のところにセッションを受けにいらっしゃるクライアントさんの、約7〜8割が女性なのです。開業してから、かれこれ20年経った今でも変わっていません。

この一定の割合がずっと維持されているには、それなりの理由があるのだと思います。簡単に言えば、女性性と男性性の違いなのでしょう。

かつて仏陀の弟子は5万人いたと言われていて、そのうちの実に4万人は女性だったということです。

名のある弟子の多くが男性だったので、弟子の8割が女性だったと聞くと、かなり意外な感じがしてしまうかもしれませんが…。

シンプルに表現すれば、男性性というのは提供者なのです。一方の女性性は受容者であるため、セッションで受け取りやすいということがあるのでしょうね。

ということは、男性のクライアントさんは、平均的な一般男性に比べて女性性を多く持っているということなのです。

実際それははっきりと体感することができます。私自身が企業で働いていたときの記憶では、活躍していた人の多くは男性性を潤沢に持っていた感じがします。

男性性と女性性を比べて優劣をつけるつもりはありませんが、真理を探究するのであれば、どちらが有利なのかは自ずと決まってしまうでしょうね。

元々自我なんてない

osho は21歳で覚醒してしまった特異な人物ですが、59歳で亡くなるまでの間に沢山の講話を行ない、それが全世界で数百冊の本となって出版されているのです。

正確な数字ではないと思いますので、興味があれば調べていただきたいのですが、その数の多さもさることながら、考えなくてはならないことがあるのです。

それは、膨大な量の非常に貴重な講話をした本人がいないということです。講話を始めた時にはもうすでに覚醒してしまっていたので、彼の自我は消えていたわけです。

では一体全体誰があの素晴らしい講話をし続けたのか?勿論誰でもありません。ただそういうことが起きたのです。

これこそが、この世界が全自動で動いているという証拠です。自然というのは全自動のことを指すのです。

自然が誰かの意思に基づいて起きているわけではなく、ただそのように何の理由もどんな目的もなく、自動的に起き続けているのです。

私たちの自我の立場からすると、到底理解することができないのですが、自我の理解などは非常にちっぽけなものなので、わからなくて当然なのです。

自我の理解を超えた事柄を、そのままに受け入れることができるなら、自我はいずれ崩壊していくことになるでしょうね。

あなたという自我がいなくても、あなたは生き続けるのです。それだけは間違いないことです。なぜなら、自我はもともと幻想の産物だからです。

覚醒したくない理由

多くの人々が、毎晩のように眠っている間に夢を見ます。夢の記憶がなくても、夢は見ているらしいですね。

その夢の中で、私たちは本当に様々な体験をします。楽しい夢もあれば、辛い夢もあり、感動的な夢があれば恐ろしい夢もあるのです。

ただ、夢の中でどれほどの特別な体験をしたとしても、その夢から覚醒する体験にはかないません。

夢の中での体験と、夢から覚める体験では、そもそも次元が違うからですね。夢から覚める体験が起きれば、それまで夢の中で体験した全てが消えていくからです。

たくさんのものを手にすることができた夢から覚めてしまうと、それを全て失うことになるため、そこには痛みが伴うことになるはずです。

夢と言えどもかけがえのない人と一緒にいられたのなら、その夢から覚めることは苦しみをもたらすことになるでしょう。

夢の中がたとえ辛かろうが、その体験に執着していれば、夢から覚めたくないと思うのは当然のことです。

私たちが何度も何度も人生を生きて、一向に覚醒することができないのは、そうした理由があるのではないかと思います。

「ノー」が自我を育てる

セッションで様々なクライアントさんと向き合っていると、幼い頃からしっかりと自己表現をしてこなかったという方が少なくないのです。

自己表現というのは、「イエス」ではなくて、「ノー」を言うということです。それが言えなければその都度、自己犠牲を招いてしまいます。

その結果は明らかで、マインドはどんどん病んでいくことになるのです。だからシンプルに、そうしたクライアントさんには「ノー」を言えるようになって下さいと激励します。

ところが、「イエス」を言うことが美しいし、人としては素晴らしい生き方だというような知識があって、それが邪魔をすることがあるのです。

どんな時でも「イエス」を言うことが、究極的には明け渡しの状態をイメージするので、それは確かに一理あることは分かっています。

ただそのショートカットは非常に危険だし、ほとんど逆効果だと言っても間違いではありません。

赤ちゃんは純粋無垢の状態で生まれてくるので、心理的「ノー」がないのです。ところが、「ノー」を言い出すことで自我が生まれるようになるのです。

つまり、「ノー」が自我の生みの親であり、育ての親なのです。私たちは「ノー」を繰り返すことによって、1人の人間(自我)として成長することができるのです。

「ノー」が健康な自我を育むわけです。ところが、成長過程の大切な時期に「ノー」を言うのをやめてしまう子供がいるのです。

つまり、この状態というのは「ノー」によって作られた自我が、自分を守るために今度は「ノー」を禁止してしまうのです。

ここをしっかり理解することができれば、まずは「ノー」を取り戻して健康な自我となる必要があると分かるはずです。

どんな時であれ「イエス」を言う明け渡し状態とは、決して強いられたものではないということ。

そしてそれは、健康な自我を取り戻した後、そのずっとずっと先に待っているものだということを忘れないことですね。

要点を見抜く

人は自分がこれまでに投資してきたものを、簡単には諦めきれないのです。努力が無駄になる時、その努力が大きければそれだけ受け入れ難くなるものです。

10年、20年、あるいは30年以上もの長い間、自分をなんとかして守ろうと死に物狂いで頑張ってきた人がいたとします。

その人がセッションの中で、自分のことを何も知らない赤の他人のセラピストから、あなたのこれまでの努力はすべて間違いでしたと告げられたとしたら…。

にわかには信じたくないし、あまりのショックに怒りが湧いてきても不思議ではありませんし、絶望するかもしれません。

けれどもそれがセラピストの仕事なのです。クライアントさんがセラピストの言葉を素直に受け入れることは稀かもしれません。

要点を見抜いて、「よし、間違っていたので落とす。私のこれまでの生き方は誤りだったので新しくやり直す」と言える人がどれだけいるか。

実はごく稀にですが、それができる人がいるのです。たった一回のセッションを受けただけで、パラダイムチェンジしてしまうのです。

そういう人たちは、きっともうすでに自らの中にそれと気づかぬうちに準備ができていて、ちょっと背中を押されただけで視界が開けてくるのでしょうね。

観念にまみれてる

osho の逸話でちょっと面白いものがあったので紹介したいと思います。

ある人が、osho が腕時計を何度も頻繁に見て時間を確認している姿を見たらしいのです。

その人は、osho が本当に覚醒しているのなら、時間なんて時計を見るまでもなく、分かるはずだと思ったのです。

だから osho は覚醒などしてないのではないかと疑ったということでした。

それに対して、osho は次のように言ったのです。自我が落ちて覚醒すると、時間という概念が消えてしまう。

常に今この瞬間に在るので、腕時計で確認しなければ、見せかけの時間が分からなくなると。

確かに私自身短い間ですが、自我が傍へ追いやられていた時に、時間は思考が作るイマジネーションだと分かっていました。

osho がこの逸話で伝えたい事は、誰もが観念を総動員して物事を見てしまっているということ。

覚醒した人は、きっとこうに違いないという勝手な思い込み、観念が働いてしまうのです。

ジャイナ教のマハヴィーラという覚者は、常に全裸で過ごし、床を転げ回って大笑いしていたそうです。

自我が落ちれば、私たちのような道徳心や恥の概念も持ち合わせていないということです。

ジャイナ教の信者には、覚醒者は全裸でいるものという観念があるため、osho が素晴らしい優雅な服をきているので、やはり覚醒していないと見るのです。

観念を捨てられないまでも、観念にまみれて生きていることには気づいていたいものですね。

ただ気づくこと

この世界にはきっと二種類の人しかいないのです。男性と女性ということではありません。健康な人と不健康な人でもありません。

お金持ちと貧乏人でもありません。私の勝手な分け方なので、そのつもりで読んで欲しいのですが、それは物語にどっぷり浸かっている人とそうでない人です。

他の表現を使うと、自分の人生を真実だと思っている人と、物語として見ることができる人ということです。

前者の方は、自分が思考まみれになっていることに気づかないのです。思考と自分自身の存在を切り分けることができない人。

後者は、思考の海の中で生活していることに気づいていて、それは本質ではないと分かっている人です。

この違いは、前者の人たちからは認識することができません。自分が見ているもの、体験することがすべて真実だと思い込んでいるからです。

一方の後者の人たちは、思考の外に出た瞬間、意識だけになることを知っているのです。その時には、どんな物語も消えてしまうし、罪深さも惨めさも丸ごと幻想だったと気づくのです。

本当の救いとは、前者であった人たちが後者になること。そして、後者の生活をさらに進めていって、ただあるがままの自分でいることができるようになること。

これは進歩するということではありません。何かができるようになるとか、知識を増やすとか、改善ということでもなく、ただ気づくことなのですね。

他人の気持ちが分かるって本当?

敏感な人というのは、そうでない人に比べて、他人の気持ちが手にとるように分かってしまうと言うことが多いのです。

場合によっては、その人が気づかないようにしている裏の気持ちすら分かってしまうこともあるかもしれません。

だからこそ、他人のことを気にするあまりに自己犠牲がやってくるハメになったりもするわけです。

ここではっきりさせておいた方がいいのは、他人の気持ちが分かってしまうという感覚は、確かにそうなのでしょうね。

そして実際に当たっているかもしれません。けれども、違っている可能性も否定はできないということです。

なぜなら分かったつもりでも現実に相手に気持ちを確認したわけではないからです。つまりは、分かった気になっているだけの場合もあるかもしれないのです。

その可能性を否定するのはおかしなことです。だから一番現実的なのは、私はこのように感じているけれども、本当のところはどうだか分からない。これです。

なぜ分かった気になってしまうのかにも、理由はあるはずですね。それはきっと、他人の気持ちを分かることでリスクを回避できると思い込んでいるのでしょう。

分かればそれなりの対処をすることができるからです。分からないでいるなら、突然相手の気持ちをぶつけられて、ショックを受けることにもなりかねません。

つまりは、他人の気持ちが分かってしまうというのも、一つの自己防衛に過ぎないと言えるのです。

分かったとしても、それをなるべくそのままにしておくという方法を身につけることも、敏感さんが上手に生きるには必要なことだと思いますね。

思考に彩られた世界

私たちが暮らしているこの世界は、確かに存在はしているのですが、私たちが見て認識しているようには存在していないのです。

なぜなら、私たちの認識というのは基本的には思考を介在させているからです。思考があまりにも自然に溶け込んでしまっているので、それと気づかないだけ。

例えば、背の高い人がいれば低い人もいて、太っている人もいれば痩せている人もいる。これは事実ではなく、そのように見ているだけなのです。

どんな姿をした人も、ただそのように在るだけなのです。そこにどんな説明を加えたとしても、それは思考の世界なのです。思考が判断を生み出すのです。

私たちは一見何かの目的を持って生きているように感じていますが、それも思考によるもの、ただのイマジネーションに過ぎません。

思考の外には、どんな目的も意味も価値もありません。正確には、あることもないこともどちらもないのです。

思考の世界に棲んでいる私たちからしたら、思考のないあるがままの世界なんてあまりにも無味乾燥でつまらない。そう感じるはずです。

けれども、それは思考にまみれた自我の想いにすぎません。自我のない思考のない世界では、それがあるようにあるだけ。

その時には自他の区別すら消えてしまうことになるでしょう。なぜなら自他の区別も思考によるものだからです。

ただ在ること

科学というのは客観的な事実に基づくものです。理論を打ち出すだけでなく、それを様々な実験を通して客観的データに落とし込むのです。

それができて初めて、その理論が証明されたことになるわけです。それに対して、哲学というのは主観的なものです。

どんな実験も必要ではなく、すべてはマインドの思索によって証明しようとするものですね。

では、客観的なものと主観的なものを超えるものはあるのでしょうか?実はそれこそが真の宗教です。

間違って欲しくないのは、私たちが日常的に知っている身近な宗教はその限りではありません。

正しさを教えたり、倫理観や道徳観などを教義としているものは、残念ながら自我により作られたものです。

真の宗教には、教えと称するものはありません。それはただ在ることを標榜するのみだからです。

ただ自然であることで、私たちの本来の姿に戻るだけでいいと理解させてくれるのです。何も否定しないし、何も肯定もしません。

あらゆる思考から離れられた時に、それは自ずとやってきてくれるのです。いつかは誰もがそれを思い出すことになるでしょうね。