完全さと全体性は真逆

昨日のブログでは、完全になろうとせずに「不完全であれ」というお話をしました。不完全であることが自然だということ。

自我は完全さを追い求める習性があるのです。それこそが不自然だといっているのですね。

完全さを求めるのは神経症のようなもの。絶対に不可能なことに挑戦し続けるのですが、それによって自我は存続するのです。

なぜなら、完全さを求めるということは、今の自分の不完全さと未来の完全さの間で分裂してしまっていて、それこそが自我(思考)の本性だからです。

分裂の反対が全体性です。全体ということはそれが全てでそれ以外はないので、分裂ということが不可能だからです。

全体性あるいは全一性でもいいのですが、自分の中が分裂せずに一つになっている状態。ここに自我が入り込む余地はありません。

あなたが何かに集中している時とか、熱心に脇目も振らずに物事に取り組んでいる状態では、あなたは一つになっているはずです。

全てを忘れて歌ったり、ダンスをしたりして開放されている瞬間があるなら、その時にもあなたは一つになっているのです。

そのような時には自我は落とされている状態なのです。ただし、それはあくまでも一時的なものです。

普段の状態に戻れば、すぐに自我が戻ってきてあなたを分裂の中へと戻してしまうのです。

完全さは全体性とは真逆であるということをしっかり理解することですね。

不完全こそ素晴らしい

この世界には罪というものは存在しないのです。なぜなら、罪は思考が作り出した幻想、イメージだからです。

けれども、敢えて罪があるとした時に、この世で一番罪深いこととは、「あなたのままでは価値がない」という教えだと思っています。

なぜなら、幼い頃に「自分のままでは価値がない」という自己イメージが植え付けられてしまうと、その人は死ぬまでそのイメージの虜になってしまうからです。

ちなみに、どうしてそんな冷酷無比なことを伝える親がいるのかというと、親自身も幼い頃からずっと、「自分のままでは価値がない」という自己イメージを持たされていたからなのです。

もちろん、親自身はそんなことをしているという自覚は全くないにもかかわらずなのです。

人はされたことは仕返しするものです。そうして、知らず知らずのうちに世代を超えてこの劣悪な教えの連鎖が起きるのですね。

子供は、何とかして少しでも価値ある存在になろうとして、あらゆる努力をし続けるのです。それは必ず酷い自己犠牲を伴うことになるはずです。

価値がないという自覚ほど、惨めなことはありません。生きているだけでも罪深く思えてくるのですから。

解決策はたった一つ、価値ある自分になろうとするあらゆる努力をやめること。不完全であることが自然だし、素晴らしいことだと気づくことなのですね。

自己イメージが人生を決める

誰もがうっすらと気づいていることがあります。常識的にはなかなか信じ難いことではあるのですが、それでもきっとそうかもしれないと…。

それは、自分の観念が現実化してしまうということ。もっと簡単に言えば、考えていることがそのまま現実としてやってくるということです。

そういえば、という感じがする人の方が多いと思います。それでも、宝くじに絶対当選するといくら考えても、やはり当たらないじゃないかと思うかもしれません。

実は、表面意識で宝くじが当たると思っていても、その10倍の力で無意識の中で宝くじには当たらないと思っていれば、その力の方が強いので当たらないという現実が起こるのです。

幼い頃、まだ自我が十分に発達していなかった頃から自己イメージが出来上がってしまうのですが、それが一生その人の人生を支配してしまうのです。

自己イメージとはもちろんイメージですので思考なのです。観念、あるいは強い信念といってもいいのです。

私たちはその自己イメージがやっぱり正しかったと確信するような経験を何度もすることになるのです。

自分の人生は何でこんなものなのだろうか?と不満に感じているのでしたら、間違いなく自己イメージが原因となっていると知ることです。

そして人生を変えたいと真に願うのであれば、なんとしてでも自己イメージを変えてしまえばいいのです。

そのためには、自己イメージはそれがどんなものであれ思考でできていることを見抜いて、それが作られた過程を真正面から見てあげること。

勇気を持ってしっかりと見ることができれば、自己イメージは次第に薄れて来るはずです。そうなったら、あなたは自由になりますね。

希望も絶望もない

歳を重ねてみて、分かることがあります。きっと若いうちは頑張っても気づくことができないことがあるのですね。

若い頃というのは、人生はまだまだこれからと思っています。だから、希望があるのです。今はこうでも、きっと未来にはこうなっているに違いない。

希望を信じて、それに向かって生きることは、人生の支えになるのです。私たちの毎日は希望によって下支えされているということです。

ところが、長く生きて人生の終わりが透けて見えるようになってくると、そろそろ希望を持つことが難しくなってきます。

そして、希望を叶えたところで、期待していたようなことにはならないことを知ってしまうのです。

要するに、願いが叶っても結局は満たされることはないということ。この気づきが年齢を重ねてきた今の一番の大切な気づきかもしれません。

希望を持つことができなくなるといっても、若い頃のように希望の反対である絶望がやってくるということとは違うのです。

希望も絶望もどちらもなくなるのです。過去を思い出すことも、未来を思い描くことも無くなるわけではないですが、その頻度が激減します。

今日一日くらいがちょうど自分が生きている視野の範囲になってくるのです。今日に焦点が当たっている感じですね。

それが更に進んで、今この瞬間だけに生きていられるようになれたら、それはもう理想ですね。

自我の孤独を認める

私たちの根っこにある恐怖とは、孤独だということです。人は、独りで生まれてきて、また独りで死んでいくのですから。

その誕生と死の間で、自分は孤独ではないというごまかしをしつつ生きているのが私たちの人生というものです。

だから共に生きるとか、何かを共有する誰かを必要とするのです。ごく普通は家族がその役目を果たし、大人になると恋愛相手がそれに取って変わるのです。

どんな手段を使ってでも、孤独ではないと思いたいのです。孤独ではないと証明しようとして、人生は終わっていくのですね。

ところが残念なことに、自我は原理的に絶対的な孤独であるしかないのです。それを受け入れるしかないのです。

幽霊を怖がるのも、本当は孤独があるからなのです。愛する人にどれほど強く抱き締められたとしても、溶け合うことはできません。

辛いことですが、孤独に直面して、孤独であることを認めること。そこから変容が始まるのですから。

自我の私が孤独そのものであるとしても、自我が架空のものであればそれからやってくる孤独も実在のものではないのです。

そのことを見抜くことができれば、孤独を紛らすあらゆる馬鹿げた人生の浪費から足を洗うことができるはずですね。

非論理は神秘的

今も残っているのかどうかは知りませんが、私が学生の頃は理系と文系というように分かれていました。

人をそんなふうに分けるなんて、あまりにも雑過ぎるとは思ったのですが、世の中がそんな具合だったので、私自身も自分は理系なのだと思っていました。

理系だからなのか、論理的な考え方がやっぱり性に合っていると感じていて、逆に非論理的な事は苦手だったのです。

過去形で書きましたが、当然今もその傾向はしっかりと残っています。けれども、それよりも自分の中で急成長してきてしまったのが、非論理の魅力。

よく見てみればわかることですが、自然というのは非論理的であるし、真理などというのは間違いなく非論理的だと言えるのです。

論理的というのは思考で解釈できることを表し、非論理的とは思考では解釈できないこと、あるいは否定的に捉えると訳の分からないこと、となるのです。

私たちのマインドが思考によるプロセスであるからこそ、論理的なことを好む傾向があるのですね。

科学者は、論理的にこの宇宙の統一理論を見つけようと頑張っています。けれども、私に言わせればそれは所詮無駄なことのように思えるのです。

すでに量子力学の世界では、非論理的だと思われることが多発しています。どう考えても辻褄が合わないのだけれど、宇宙はそんなことはお構いなしなのです。

真理とは決して思考で解釈できるようなものではなく、だからこそ魅力があるのです。それを神秘と呼べばいいのかもしれませんね。

自然→不自然→自然

私たちがこの世界に生まれてきた時には、誰もが自然の一部だったのです。だから自然と調和していたとも言えます。

ところが、しばらくするうちに次第にマインドの発達とともに、不自然さに向かって進んでいってしまうのです。ハートだけは、ずっと自然のままにあるのですが。

そして気がつくと、不自然であることにも全く気づくことができないくらい、マインドは自然から乖離してしまうようになるのです。

この状態こそが、私たちが内側のどこかにずっと感じている、不安や孤独といった苦悩の原因なのです。

大自然の中にいると、塞ぎ込んでいた気持ちが急に柔らかくなって、穏やかな感覚に包まれたりするのは、私たちが自然に回帰したがっている証拠なのです。

自然の中に戻りたいというよりは、自分自身が自然の一部だということに気づきたいのでしょうね。

そのためには、毎日の自分の生き方をよくよく観察してみて、どこが不自然なのかを発見することです。

すると、マインドの働きの全てが不自然さで出来ていると分かります。本能的な防衛は自然の一部ですが、心理的な防衛は不自然さの極みです。

戦いから遠のいて防衛を小さくなるようにして、代わりにハートを目一杯開いて生きることです。

強くなろうとせずに、感じやすく、傷つきやすい状態でいること。自然に近づこうとするのではなく、ただ在るがままであればいいのですね。

夢と現実は同類

小学生のあるとき、昨日までと何かが違う、何かの感覚がなくなってしまったような感じになったことがありました。

もう少し具体的に言えば、視界にモヤのようなものがかかったような感じが、リアルな感じがしなくなったのです。

そしてそれはそれ以来ずっと変わらずに今も続いています。もうあのリアルな感覚を取り戻すことはできないのかと思うと、ちょっと残念な気がします。

ある種夢の中で生きているような、現実感が乏しくなったような、そんなフワッとした感じで生きているのです。

けれども、そのおかげと言ってはなんですが、この世界が夢のようなものに違いないと思うようになったのですね。

夢と現実との違いは何かと考えてみると、究極的には何の違いもないということに気づくことができます。

夢の特徴はと言うと、目が覚めれば跡形もなく消えてしまうもの。であれば、現実も同様に人生が終わってしまえば跡形もなく消えてしまうのです。

夢の中であなたが極悪人で罪深い行いをしたとしても、目覚めた時にはああ夢で良かったとホッとするのです。

一方の現実ではどうなのかというと、あなたがどれほどの罪深い人間であったとしても、人生が終われば消えてしまうはず。

たとえそれを覚えていた人がいたとしても、100年、1000年、100万年経てば、同じことです。数十億年経てば、そもそも太陽系が消滅します。

そして実は、人生が終わらなくても思考から脱出することができたら、人生という物語は消えてしまうのです。

その時には、本当にリアルな実在だけが在るのですね。

自分の本質に戻る

私たちは何も持たずにただ生まれてきます。しかも圧倒的な無意識状態で。無意識というのは、意識が眠った状態という意味です。

生まれてからしばらくすると、ハートが機能するようになるのです。大切な感覚を持たなければならないからです。

閉じていたハートが開くようになるということです。その後に、今度はマインドが作り出されるのです。

マインドとは考えるというプロセスの集まりです。そしてそのうちには、自我が機能するようになるのです。

自我の発達と連動して、意識の一部が覚醒していきます。つまり、自覚というものができるということ。ここで初めて人間が動物と一線を画することになるのです。

ハートとマインドがバランスよく働いているうちはいいのですが、敏感気質と劣悪な環境が揃うと、マインドが強く防衛を始めることで異常に活性化するのです。

そうなると、マインドが一方的に優位になって、ハートは閉じ気味になってしまうのです。ハートが開いていると防衛できないからです。

ここまできたときに、何かが間違っていると気づいた人から順番に、元来た道を帰ろうとするようになるのです。それが癒していくということです。

防衛を小さくしてマインドの働きを非活性化するとともに、閉じ気味になっていたハートを開いていく作業が起こるのです。

その上で、ここからは来た道を戻るだけではなく、意識的に生きる練習を継続することで、無意識に光が当たるようになるのです。

最終的には、意識が完全に覚醒して自分の本質に戻るということです。それは目的地などではなく、ただそれと気づくことでしかないのですね。

アイデンティティに構うな

社会で生活する私たちにとって、自分のアイデンティティを確立することは非常に大切なこととなっています。

アイデンティティとは、たくさんの人々の中で自分の存在をしっかり識別できるものという意味です。

要するに、他人と比べて何か際立ったものを持つことで、大勢の中で埋もれてしまわずに済むものが必要ということです。

なぜなら、自我というのは元々が他人から認識されることで生まれたものだからです。自分独りでは成立しないものなのです。

子供の頃はまだナニモノにもなっていないので、成長するにつれてナニモノかになろうと努力するわけです。

男性の場合には、社会全体から認めてもらえるように頑張るのですが、女性の場合にはごく身近な誰かから認めてもらえればいいのです。

この社会が男性性によって作られ、維持されているからなのでしょうね。男性性は世界一を目指し、女性性は愛する人からの愛があれば足りるのです。

男性だろうが女性だろうが、アイデンティティを必要とする本当の理由は、自分とは一体誰なのか?という切実な疑問を持っているからなのです。

自分の存在が何なのかが分からずにいるため、自分の外側から代わりになるものをもらって、安心しようとしているのです。

もしも本当に自分とは何か?を探究しようとするのであれば、外側からもらったアイデンティティに満足せずに、内側の内奥を見続けるしかありません。

もちろん内側にはアイデンティティなどというものは存在せず、代わりに全体性という表現不可能な何かを見出すことになるはずです。